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森出身で世間知らずな少年の世界革命  作者: スタミナ0
二章:幹太と審美眼の虎
144/302

ようこそ温泉郷へ



 均一に均したように竹が並び重なることで、上空から伺えば乾いた緑の床が形成されている。関所を越えた先にも、開拓された路の脇に佇んで壁を作り出していた。樹間の奥から聞こえるのは(しし)の声だろうか、低い唸り声を樹影から滲ませる。

 雑嚢の紐を堅く結んで調整し、中から綺麗な手拭いを取り出して祐輔の鱗から、汚れを取り除く。普段は空中を活動域とし、滅多なことでは地面に足を付けて降りないが、道中の食料を拵えるべく仁那を待機させ、兎がいなかったのか猪を連れて来た時に、運ぶのに難儀したのか体が汚れていた。

 自分を想って普段よりも手間の掛かる獲物に対する苦労も惜しまず献身した行動に、仁那は感謝して丁寧に土を落とす。不用意に撫でたり、体毛を弄ろうとすれば、それは祐輔の逆鱗に直結するのだが、今回ばかりは仁那の謝意を無碍にもできず黙っている。

 二人は懈くて今にも萎えそうな足で地面を踏み進む。長く続いた野営は旅人としては何度も経験済みであるから、雨を凌ぐ天幕を張ったり、一晩の竈を誂えるのは特に苦役ではないが、戦場の傍を通過し追手に怯えて警戒を絶やさぬ辛労に、もう限界はすぐそこまで迫っていた。

 顔を上げれば重くなって肺に貯まった空気が溜め息となって疲労を表し、わずかに隆起した地面を察知して少し足を上げる動作だけで枷が一つ増えたように重く感じる。

 横を並び歩く鈴音は、仁那の顔色や足先の運びを窺って補助が必要かを見計らっていた。その気遣う姿勢が見えて、相手が依存してはならないと気を奮い立たせる要因であるとは自覚しておらず、邪気の無い金色の瞳は見守る。

 祐輔は首を擡げて先方に目を眇めて、町の入口であろう端正に積まれた石の市壁を認めた。仁那が求める旅人の宿舎はあと少し、既に視認可能な距離まで近付いている。

 さすがに今回の仁那の損耗は重度なもので、ここまで体力を失っている状態は初めてだった。かつてない危機の到来、まさか睡眠時間を削って西部からの離脱を図った方針は、予想より多大な労苦が伴った。だがそれも、もうすぐ報われる。

 半ば涙目に見据えた先で市壁が建つのを目にした時、安心感に仁那は震えた声で叫ぶ。


「遂に来たんだね……!」


「うん、後少し頑張ろう」


 鈴音が見えた希望に顔を輝かせた仁那を後押しする。いま彼女に必要なのは、充分な睡眠と腹を満たす暖かい食事のみ。それらが充実した理想郷は、目の前で新たな旅人を迎え入れようとしている。

 疲労を忘れてか、或いは体内に残された力を振り絞った最後の運動――もはや鈴音も眼中に無いかのごもく猛然と力走する。慣れた調子だと祐輔は激しく揺れる肩の上で欠伸をした。

 この突然の迫力には、基本的に表情が乏しい鈴音も微かに目を瞠って背中を見送った。胸に抱かれた白猫の弁覩は、呆れを通り越し憐憫の眼差しを投げ掛けている。それほどに、道程は厳しかったのか……。

 入り口の脇を固める二人の番兵が、何事かと喫驚する横を過ぎて、町の中へと入った。

 『やっと着いたな』盛大に砂塵を巻き上げながら急停止を決めた相棒に小さく呟く。両手を挙げて欣然とその場で回り始めた少女に視線が募り、奇妙な襟巻きもまた注目の的とされた。人の目が多くなったと、祐輔も首を仁那の首筋に埋めて襟巻きに変化する。

 後を追って駆けた鈴音が追い付く。何かの箍が外れてしまったように、目尻に涙を浮かべて踊る仁那を窘めた。


「遂に来たんだ……温泉郷は(はく)(ごう)に!」


「仁那、落ち着いて」


『この娘、何だか可哀想に思えて来たニャ……』






  ×       ×       ×





 知荻縄の騒動より、その旅足で着いたのは、東国では有名な温泉郷と謳われる土地。疲れを癒し、憩いを求める旅人の精神を万全以上に仕上げるとして、長らく東国の高官も休暇を見付けては隠れて出入する。


 千極東部の白壕――「()()(まち)」、または「薬草庫」と渾名を付けられるほど周知されている。一年を通して冷たく、その気候を好んだ魔物は大抵が地下に潜み、冷気を吸収して熱へと変換する生態があり、その影響あって地下水の源泉からは暖かく、これが温泉に用いられた。

 また、周辺の山岳部の麓には薬草なる種類の草木が多く存在し、それらを使用した薬膳などが町の特徴にも上げられる程になる。旅人や冒険者、どんな職能を持つ人間にも疲労を癒すことに適応した環境が作られ、白壕が誕生する。

 家屋の敷地を区切っているのは、此処までの道中にあった竹林を利用した竹の四つ目垣。肝心の建物は合掌造となっており、積雪に備えた佇まいであるが、先端が直角に傾く煙突からは既に中で漢方料理が作られているのか薬味が漂わせる芳香が鼻腔に絡み付き、脳内でその画を想像させられ、空腹の仁那を苦しめた。祐輔は獣肉を好むため、これには両手で鼻を塞いでいる。

 町の奥では湯気が上がり、早くも行く手で心地よい熱気が歓迎の意を示す。山に面する北部分が銭湯が密集している地域であり、宿屋なども軒を連ねる。白壕の俯瞰図は鍵穴に似ており、入口から長方形に伸びた住宅街、北の円形部分が宿屋と花街。

 仁那が旅というものに苦痛しか感じられず、また飽いてきた時に、選択の岐路に立たされる際に後悔無く決断が下せると考える場所こそ白壕。無論、仁那のような旅人が集合する傾向の町でもある。

 実質、今は特に仁那も旅というものに辟易した訳でもなく、前回の事件で俄然その心意気に火が点いたというところ。しかし、一区切り、再出発を決めるならばと、以前から念頭に置いていた白壕の訪問を今回決行する考えに至った。最初に祐輔が反対した(その理由は未だ不明)が、仁那の疲労困憊状態、そして彼本人もまた知荻縄にてやや憩が欲しいと、これを渋々了承する。

 基本的な方針は無い旅だが、今回は仁那の熱望あって白壕の温泉でその身を快癒させんと一考したのだ。

 凝った体を伸ばすように体操を始めた仁那を催促し、前へと進ませる祐輔は、あまり北に行く事を良しとせず、愁眉を開かない。仲間が待つとされる北まで案内して貰うべく、鈴音の背から離れぬよう後続した。いずれ訪れると予て地図を取り寄せていた仁那であるが、鈴音の方が地理に認識が深いとなれば、その先導に逆らわずに付いて行くのが利口だと周囲の景色に目を向けつつ、鈴音の後ろ姿を意識する。

 町に入ってから、鈴音は単衣に自身で縫い付けたと思われる被り(フード)で角を隠した。確かに詮索の的になるであろう一対のそれは、魔物に似たものを感じる。魔族との戦闘を体験した仁那としては、折角この温泉郷を訪れた日に再び思い起こしてしまうことが残念であったが、鈴音に罪は無いと頭を振って邪念を払う。

 肩に鎮座する祐輔が体を丸め、首に圧力が掛かる。苦しくは無いが、言葉もなく首筋に埋められた彼の表情も見えないため、真意が読み取れない。この地に何らかの因果があるのかもしれない。

 足許の弁覩は、何らかを悟ってか襟巻きの龍に向けて憐憫の目を向けている。仁那はそれを見て、彼等の間に縁のある場所なのだと漠然と認識した。思えば祐輔の正体、その経歴――何処で生まれ、どの様な旅をして仁那と出会ったのか、その経緯も含めて知りたくなる。左腕の『刻印』に関する情報も聴取したいが、本人の機嫌を損ねかねない案件であり、質問することで逆鱗に触れるだろう。共有した時間の中で、彼の性格を把握した仁那が出せた解答は、機を見てそれとなく訊ねれば良いということ。

 そんな彼女の憂慮を察して、祐輔が首筋で溜め息をついた。生暖かい吐息を背筋に感じ、思わず奇声を上げて跳ねる相棒に驚き、顔を上げた。仁那が羞恥と怒気に赤くした面を振り向かせ、厳しく睨み付けてくる。これには自身の非行であると断じ、狼狽えながら素直に詫びる。

 足許の弁覩は下卑た笑みを浮かべ、「次はニャーも試してみるニャかね」と呟いたのを聞き咎めたことで、龍と猫の戦闘が再び勃発しようとするのを飼い主が諌める。

 鈴音は無表情で抱き上げた弁覩に両の頬をつねるというお仕置きをし、仁那を北へと導く。襟巻きの龍に関しては、何かを言う前に仁那の耳許に顔が来るよう体位を変える。視界の隅に窺える祐輔の顔が可笑しく、口許は耐えられなかったが必死に隠しつつ、頭を撫でて風に戦ぐ髪の感触を楽しむ。流石にまだ反省しているのか、抵抗はなく嫌そうに鼻を鳴らすだけであった。


「鈴音、そのお仲間さんって何人?」


「白猫と、巨人と、……(かん)()


「こ、個性が豊かだね……幹太さん以外」


「幹太は個性的だよ。優しいし、美味しいご飯が作れるし、笑顔が可愛いし、でも真面目な時は格好いいし、頼れるし、でも弱くなって甘えてくる時もあるし、寝顔も無防備なところが愛らしい、体型は肥満体でもなければ丁度良い筋肉の付き方、あと手入れもしてないのに黒髪が綺麗、眠い時に膝を出すと凄く喜んで飛び込んで使ってくれるし、抱き締めて欲しい時には」


『この娘、ヤベェな……』


「ひゃうっ!!」


『すまん』


 幹太という人物に対する解説をする鈴音の異常さを指摘した祐輔の声が耳朶を擽り、くすぐったさに再び高い声が出る。祐輔は彼女が感じる筈の含羞に顔を外側へと逸らして、ひたすら謝罪した。既に襟巻きの形ではなく、言葉を不自由なく使う場面を町人に見られて注目される。弁覩も鈴音の肩越しに状況を楽しむように顔を卑屈に歪ませていた。

 仁那は彼等の感情の意味がいつまでも悟れず、悶々とした疑問を抱えながら鈴音に視線を戻す。祐輔の一声で止めた筈だが、耳に入ってすらいないのか、独自の空間を築いて一人熱弁している。余程、その幹太に入り込んでいるらしい。

 仁那はこの一見美しくも無愛想な少女を虜にした男性の人物像を想像する。


「取り敢えず、幹太さんは鈴音にとって何?」


「?大好きな家族」


 鈴音の姿が父親に甘える娘に見え、幹太に対する熱の強さに得心した。


「そっか、お父さんなんだ」


 「……うん、今はまだ」鈴音は小さく呟く。その背中が加速し、前方へと闊歩を始めた。露店が建ち並ぶ道は湯気が低く滞留し、全方位から躙り寄る甘い誘惑の香りに堪えて、仁那も前進する足を早めた。

 鈴音が一番に向かったのは、暖簾が掛かっている店であり、中は壁がなく外に椅子と机を並べた簡素な様相であった。その中の一つ、向かい合う男性二名のいる場所へと惑わずに突き進んで、彼女は片方の男性の首筋に抱き着く。衝撃を受けて呻き、暫くして震える手でその背を叩いた。


「す、鈴音……遅かったな……、調子はどうだった?」


「うん、駄目だった」


「そっか、白猫一匹じゃ飯にもならんな。でも鈴音はよく頑張った!」


『え゛、ニャーって獲物だったニャか?』


「今晩は大人しく鍋に入れ」


『ニャんですと!?』


 愉快に笑いながら、鈴音の抱く弁覩を弄りつつ迎えた相手は、その背後で呆然と立つ仁那に気付いた。


「んお?誰だ、この可愛い子は?」


「……仁那、外で会って仲良くなった」


「そうなのか、友達できたのか、良かったな鈴音」


「仁那と鈴音、どちらが可愛い?」


「馬ッ鹿野郎、鈴音に決まってんだろ。脊髄反射で答えちゃえね、「Q.可愛いと思うものは?」に対して「A.鈴音!」って即答しちゃうから」


『愛娘に対する情が微妙に気持ち悪いニャ』


「んじゃ早速、この猫の皮を剥いでくぞ」


『んニャ!?』


 依然取り残されたままの仁那が一人立っている。

 鈴音の頭を撫でるのは、黒の総髪を後ろで結い、額を晒した男性。わずかに鳶色の差した瞳には愛娘しか映っておらず、仁那の存在は意識していない。腕を露出した麻衣と赤い腰帯、裾を紐で絞った灰色の山袴を着ている姿は、山中に暮らす人間の出で立ち。腰に佩く山刀と鉈が革の鞘に納められている。

 鈴音が喜色を顔に浮かべて対することから、恐らく彼が件の愛する人――幹太であると容易に察した。

 幹太の正面に座るもう一人――戦場を迸る炎を連想させるほど荒々しく逆立った赤髪と無精髭。顔面から指先に至るまで、体は巌のごとく隆々としており、硬質な岩石で体を構成しているとしか思えぬ屈強な巨漢。内側から漲る闘志に膨れ上がる体を抑えんとする黒鎧は草摺と胴、そして佩楯のみ。袴は内側にある樫の木の幹かと見紛う足に内側から押し上げられ、もはや余裕というものがなかった。足の裏が厚過ぎる雪駄、紐も革に変えられている。

 飄然とした幹太と対を成すような巨躯を席から立たせ、仁那の下へと歩み寄って来る。圧倒され、その場に身を竦めて固まった少女の頭頂部に掌を振り下ろして鷲掴みにすると、首を千切らんばかりに掻き回す。楽しそうに哄笑しているが、仁那は余裕がなく顔に留まらず全身から血の気が失せて蒼白になり、祐輔は大男によって忙しなく動く首に何度もぶつかり、沸点まで高まって行く。

 幹太が仁那を赤い男から引き剥がした。


「おっさん、怖がってるだろ」


「魔娘の友とあっては、それ相応の態度で遇せねばならんと思ったのだが、些か以上に脅かしてしまったか!笑顔で接すれば、幾分か緊張感が解けるとは誤りだったとはな……また一つ、学んだぞ、これぞ冒険だ!」


「何しても凄みがあるからだよ、あんたの変な探求心の所為で何回要らん死線を潜ったか……」


「むぅ?我の顔、自分で言うのもなんだが愛嬌があると思わんか?」


「俺達からしたら獣が牙剥き出しにして食い物見付けた顔にしか感じ取れん」


 髭を指で擦りながら唸る大男。

 仁那は呆気に取られていたが、相手の磊落な態度と邪気の無い言動に心を開く。一つひとつの動作からは突風が生まれるほどの迫力が仁那を苛むが、幹太と鈴音はどこ吹く風とばかりに流している。この三人は長く時間を共にした仲であり、慣れているのだろう。


「鈴音の友達なら自己紹介だな。

 俺は幹太、鈴音の保護者であり、この一行の中では一番“まとも”だ」


『じ、自分で言うニャか……。

 ニャーは弁覩、見極める者の意を持つ名の虎ニャ!』


「見た目は猫だけど。

 改めて鈴音、幹太の……その……うん、何でもない、よろしく」


「もっと堂々と言ってかんと、気付かんぞこの愚鈍は。

 我はガフマン、更なる未知を求め、世界を考覈する者なり!職業は冒険者だが、時代が時代でな、今は迷宮探索も打ち切って別件に当たっとる!」


 祐輔は、個性的な四人の自己紹介を受けて記憶しようとする仁那の頬を叩いた。自身も相手に返すよう催促している。

 気付いて仁那は背筋を伸ばした。


「わっせは仁那、侠客をやってるよ!鈴音には恩があるから、何かあれば手伝うし、力になります!」


『祐輔、助け合う者の意だ。一応、こいつの管理をしてる』


「あ、あれ?わっせは祐輔の管理下にあったの?」


 やや語調を強めて問う仁那を直視せず、空を儚げに見上げる祐輔。


「うむ!では改めて宜しくな、侠客の仁那!」






  ×        ×        ×





 夕刻になるまで、幹太の一行に加わった仁那は、ガフマンの純粋な好奇心によって突如発生した質問の嵐に襲われた。内容としては、一体旅の中で何を経験し学んだか、価値観が変わったと思われる瞬間、人生で最も苦しかったとされる場面。最初は自分の旅がどのように相手に映るのか、また称賛されるのではないかと期待を込めて真摯に答えていたが、質問の質と量は返答する度に増してしまい、町に到着してすぐに休息をとる予定だった仁那の精神を結果的には余計に追い詰めてしまう。

 最後は意を察した幹太が制止し、まだ足りないと不平声を溢しつつ身を引いたガフマンと、机に突っ伏して生気のない乾いた笑声を小さく上げる仁那。『ガフマンの好奇心は時に人を殺す』、と後になって仁那は幹太から注意を受け、身を以て学び滞在中は一定の距離を保とうと決めた。

 鈴音はいつもの光景だとし、餡蜜の掛けられた団子を串に刺した物を食し、時に幹太の口許へ運んでは味の感想を共有する。彼女と彼の間のみ安穏な空気が流れていた。

 一方で祐輔はというと、質問に応対する仁那に背後から悪戯を仕掛けんと迫る弁覩を退けるべく、彼女の死角で戦闘を繰り広げていた。尤も、知荻縄で発揮した落雷などではなく、体当たりやその長い肢体を巻き付けての緊縛を繰り出し、応戦する弁覩は跳躍と隙を見ての引っ掻き攻撃。傍から見れば、小動物の戯れにしか思われない。何か互いに最低限の原則を設けているのか、或いは知人に対する配慮なのか、牙を立てることはしない。


 解放された仁那は店を出て、鈴音と共に旅館で一泊する。謝罪として、ガフマンが一行の宿泊費を奢り、仁那は侠客の務めとして次の質問会(ガフマンによるガフマンの為の会)に参加せざるを得なくなった。幹太は気の毒に思ったのか、売店で今しがた買ったと思われる串団子を差し出す。

 この旅館『(しき)()』は白壕でも人気の高い施設であり、合掌造ではなく瓦を葺いた屋敷である。「口」の字を作る形状で中心に庭がある北棟と南棟の二つに分かれた構造、それぞれが三階建であり、それぞれを繋いだ廊下によって「呂」の字の形。廊下に面した西には、垣で隔たれた二つの空間があり、それぞれが露天風呂の様相。

 鈴音と同室になった仁那は北棟の階段を上がり、「口」の第一角目の始めにある部屋を目指す。もう少しで荷物を下ろせると思えば、疲労に硬直してしまいそうな脚部も気概を見せ、部屋まで急ぐ。

 渡された鍵を錠に挿し、捻ると小気味良い音とともに抵抗感なく扉が微かに開く。木扉を押して中へと進む前に靴を揃えて紫檀の下駄箱に隅に容れ、足を軽く拭って汚れを落としてから入室する。

 二人を迎えたのは、藺草を編んだ畳の敷き詰められた床。二人で一泊するには些か広い空間であり、北側にある障子を開ければ北の山岳部を眺められる。運が良いのか、仁那の一室からは観光名所とされる『(りゅう)()(だき)』が窺えた。

 荷を解いて、仁那は床の上に仰臥する。床に背を付けた時に鼻を掠める乾いた臭いに、仁那は安らぎを覚えて深呼吸した。祐輔が障子を閉めると、仁那の目を塞ぐように体を伸ばして乗り掛かると寝りに付く。

 鈴音が布を厚い二枚、襖から取り出して仁那を起こす。


「早く湯に浸かって、体を癒してからにしよう」


「えー、もう少し……祐輔もそうでしょ?」


『……そういや失念してたが、オレ様はどっちに入りゃ良いんだ?』


 祐輔の質問に、二人が小首を傾げる。


「?何が?」


『オレ様は女湯じゃなく、あのうるせぇ連中と一緒になりゃ良いとかだよ』


「体もわっせが洗うんだから。意外と自分が美人だって祐輔は自覚して、しっかり手入れもしないと駄目だよ」


『あ、そう、んじゃ任せる。今さら小娘の裸なんか見て動揺してられっかよ』


 半ば諦めたような弱々しい語調で祐輔が呟くが、二人の耳には届いていない。祐輔は今まで仁那と共に宿泊施設を利用する事はあったが、体を清める際には極力別々にしている。理由としては至極簡潔で、祐輔の性別が雄であり、また知性が高く人間社会に深く触れたこともあって、異性に対する配慮や様々な感情まで備わってしまった。無論、仁那はそれを把握している訳もなく、祐輔の鱗を磨かんと誘ってくるのを固辞している。

 しかし、今回はあのガフマンに加え、弁覩までがあちらにいる。静かに疲れを解したい祐輔とすれば、慣れ親しんだ仁那と共に入る方を選ぶ。しかし、現場で待ち構える苦難に堪えられるかは想像が不可能であった。

 祐輔からすれば、別の戦場とも思えており、気軽に誘う仁那を恨めしく思う。

 入浴の準備を始める姿を尻目に、祐輔は畳の上で再び一眠りしようとして、障子の向こう側を見詰めた。


『そういやアイツは……宿なんて使わなかったな……』


「ん?どうしたの祐輔」


『いや、今晩の飯は何かって考えてただけだ。オレ様の独り言に一々反応すんじゃねぇ』


「えぇ……」


 仁那は祐輔の分も道具と布を用意し、それらを胸に抱えて立ち上がった。鈴音は既に扉前で待機しており、あまり待たせてはならないと祐輔を片手で摘まみ上げる。


「ほら、祐輔いくよー」


『はー……腹括るしかねぇか』


 意気揚々と歩く仁那と、眥を決した祐輔は部屋を出た。












アクセスして頂き、誠に有り難うございます。


ムスビ達ではやり損ねた「今さら温泉」であります。ですが休暇ではありません、今回も物語は動きます。仁那に一息つく余裕は与える氣は毛頭ありません。


次回も宜しくお願い致します。



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