キスリート襲撃戦(7)/ユウタVSトオル
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春風が運ぶ山の空気は、神樹の森に桜を咲かせる兆しとなっていた。山より流れる渓流すら凍てつかせる厳寒の気候に明るみが宿り、花が芽吹く前の蕾が顔を覗かせる。風雪に晒されようとも、神樹は青々とした枝葉を枯らさずに屹立し、なおそれがこの森を神秘の秘境とする噂の信憑性を強くしていく。
春は訪れと共に、すぐ過ぎ去って夏を連れてくる。その証拠に淡い桃色の花弁はすぐに舞い落ちて、葉桜が萌えて彩りを一変させてしまう。名残惜しく散った桜の欠片を拾い集めながら、今年の夏に備える者の憂いも募る時期。
神樹の根本に位置する村、その外れに潜む一軒の家の中は、絢爛と桜が咲き乱れるのを待たずして去ろうとする一つの命が在った。人の世に生きない獣であろうとも、生物に定められた条理である。人間は粛々と終焉を受け、次の青葉へと繋げるべく命を尽くすことを太古から続けていた。
焚かれた炎が揺らめく囲炉裏の傍で、床に敷かれた布団に横たわる老人。死の間際にありながら、その瞳の鋭さは失われておらず、厳格な雰囲気を帯びて横に座して見守る少年を見ている。
少年は堪えてはいるが滲んだ涙に同色の瞳を潤ませ、音も立てず洟をすする。送別の刻も安らかに、静かに行いたいという老人の意を知って、今にも溢れようとする慟哭を胸の内で押し殺す。
その健気な姿勢に何を思ったか、普段は無表情な老人も可笑しそうにして、震える手を伸ばして頭を撫でてやる。自分とは違い、まだ生命の強さを灯した艶のある黒髪を指で梳いた。
少年にとっては親代わりの人物で、最も時を長く共にした家族である。その存在がいま、天寿を全うして旅立とうとする人を制止したい想いだけが強さを増していく。絶対にこの別れをいつまでも忘れないだろう、恐らく生涯を通じて自分を決定付ける一つの記憶になると達観した。
『わしは死ぬ。前に言った通り、墓は要らない……適当に傍の土にでも葬っておけば良い』
それだけは聞けない、と沈黙する少年。尊敬する師の遺体、杜撰には済ませない。ここぞというところで頑固さを発揮する幼さが、年に似合わぬ大人びた性格の少年に残された幼稚な意地であった。
老人もそれを追及せず、何を言っても無駄だと諦念に手を離した。屋内を吹き抜けた暖かい陽気を含んだ風すら、もう遠く肌を微かに撫でるようにしか感じない。薄れる感覚が終わりを告げていた。悔いは無いとでもいう爽やかな老人の面影、だが彼にも唯一思い残すことがある。惜しむらくは、もう少し少年の成長を見守りたかったという余念。
『ユウタ、右腕の包帯は必ずしなさい』
『はい、一日も欠かしません』
『……その黒い刻印が何故、わしとお前にあるのか、理由はいずれ知ることとなろう。だが惑わされるな、それは呪いではなく、愛の形だということに気付く』
少年は黙って頷いた。声に出して答えれば、声音が震えて堪え切れない感情を露にしてしまう。今は右腕の包帯を外しているが、これを巻き直す時分には、もう大好きな師は眠っている。もう言葉を交わすことも叶わない。
床に落ちた筈の老人の手が再び挙げられ、少年の目元の涙を隈を撫でるように拭った。
少年は離れようとする手を掴み、自分の頬に寄せた。
『僕は確り強く生きます。師匠が付けてくれた、この名前の通りに』
もう堰を切ったように、涙が止まらなかった。この悲哀を胸の内だけに留めることなど、唯一の家族を失う残酷な今を前に守れる筈がなかった。森の中で育んだ感覚も、叩き込まれた技術も、余さず総て余さず師の愛情なのだと識っていたからこそ、死別を惜しむ純粋な涙だった。
老人は今度は濡れた少年の顔を拭わずに撫でて、瞼を下ろして静かに囁いた。風の音や鳥の声が消え去り、少年の耳にその声だけが強い響きを伴って届く。
『愛している』
彼の体から力が消えた。
ユウタは事実を飲み込めず、否定するように頭を振る。語り掛ければまた答えてくれる、掌を触れば握ってくれる、そう信じるほどに自身の行為が空虚に思えた。
自分はかつて、師に一度でも口にしただろうか。「愛している」と、一言でも言ったことがあっただろうか。
少年は老人の胸に額を付けて嗚咽を漏らし、その場から動けなかった。
× × ×
闇色の流星が迸り、それを追随する青色の猛炎。衝突を繰り返し、時に上へと二色の線で螺旋を描きながら上昇すれば、天井に激突する間近で交わり、離れていく。人の為せる体術を逸脱した動作を可能とする人影は、対象を視線のみで射竦める大蛇の眼差しにも怯懦せず、敢然と自ら立ち向かう。
漆黒の刃は太刀筋を中空に黒々と残し、振り払った方向へと音もなく猛進する。接触した大蛇はその部位から、膨大で緻密な氣で構成された体を霧散させた。食い破ったその黒氣は急激に成長し、巨大な三日月となると爆風を周囲一帯に巻き起こして崩壊する。さながら底を知らず貪欲に捕食を繰り返し内から崩壊する肉食獣。
原型を失った黒氣は主の下へと粒子になって帰る。大蛇はたった一閃で甚大な損害を受け、破壊と再生を繰り返していた。双頭の胴が交わる中間点に立つ男は、修復作業と攻撃に意識を大きく削いでいる。ここで不意打ちに出る者が現れたのなら、確実に斃されてしまうだろう。
だが、この戦闘に無粋にも介入して来ようという蛮勇に出るならば、それは真の勇者と形容して遜色無い。だが幾ら称賛されるといえど、瞬く間に二人の攻撃に呑まれ、二度と帰ることは許されない。
黒氣で形成した翼で空中を滑翔し、大蛇による突進を躱わした。空気を叩くその両翼は、しかし無音の羽ばたきでユウタの行動圏を大きく広げた。無論、黒氣によって掴まれた大気中の氣を叩いて上昇しているだけであり、本来の鳥獣とは異なる。
だが、瓦礫によって複雑となったこの王宮の足場では、追走する双頭蛇をいなしてトオルに一撃を加える為に、やはり陸地のみでは限界があった。想像力によって黒氣は自在に変形し、望むままの結果を与える。体内に過剰充填される外部からの氣のみが代償ではあるが、今のユウタには然したる問題ではない。
少なくとも、半身のみに抑制した「黒貌」の力によって、行動の加速を頻繁に使用しても吸収速度が以前よりも低減し持続時間が長い。強力な力であり、その分反動も大きいが「隈取」がユウタの肉体と黒氣の均衡を保っていた。
“――ただ愚直に進んじゃ駄目、残り時間はあと二分程度だよ。必ず隙を見付けて、その一点を狙いなさい!”
「師匠には、その点に特化するよう鍛えられましたから」
トオルは嗟嘆と慄きを同時に感じていた。
感情や本能のままに突き進んでいた獣が理性を得て、着実に強敵を追い詰める。復活と共に新たな能力を発現した成長力は目を瞠る。こちらは接近する隙を与えぬように細心の注意を払いながら、連続で攻撃を繰り出していた。大蛇の体を障壁にし、ユウタを弱点から突き放す。あたかも、トオルに差し向けやられた不浄の悪意を焼き付くす劫火である。
だが、トオルを覆い隠す霧すらも払うかの如く剣閃で放たれた黒氣の力が無効化し、膨張しては限界に達すると取り込んだ魔力を拡散して炸裂する。被害規模は実質的に火薬を詰めた爆弾と差異が無い。
ヤミビトの不安や畏れの象徴とされる力が、意志を以て統御されると如何なる氣術師をも脅かす大敵。自由に本人の想像に従って変貌を遂げ、あらゆる効果を見せる。倒す度に進化する屈強な生物、或いは倒しても立ち上がる幽鬼かと思わせる。
防御をひたすら続けば、あの奇怪な「黒貌」も解除され、また振り出しに戻る。この状況さえ維持すれば勝利は確約されるのだ。しかし、己にそう言い聞かせるほど、未来は不穏な影が射す。果たして、その未来が本当にあるのだろうか。
ユウタが半身だけを向け、前に一歩を踏みしめながら、後ろへと小太刀を引き絞る。刀身が帯びていた黒氣が肥大化し、巨大な刃を形成した。大蛇の胴を一閃で寸断する刃渡りは、トオルに防御に徹した策を無為だと思わせる。
腰を駆動させ、空気を劈く凶刃が禍々しい剣筋を暗黒の残像を作って振り抜かれた。一陣の風を吹かせたその斬撃が発射され、高速で標的の氣の怪物へと馳せる。ユウタが全力の黒氣を消尽した一撃、その証拠に彼の右半身を包んでいたそれは消失していた。いかに強大な術でも容易く飲み込む。人体に直撃すれば生命活動を停止させるほどの体内の氣を収奪する。
トオルは右の掌を前方へと突き向け、自身を守る二頭の蛇に全神経を傾注する。唸り声を上げたそれらが、螺旋を描いて互いに辛み合い、轟然と迫る黒氣に牙を突き立てる。それと同時に蛇はその総体を青から白に変え、神々しい姿容に変化した。
「黒貌――氣巧剣・黒薙ッ!」
「氣巧法――氣巧牙・白印の双頭蛇!!」
噛み合う異色の氣が噛み合い、暴力的な光の渦と貫通せんとする影。中間地点で爆ぜる力の拮抗に生まれる颶風に耐え、双方は一歩も退かない。空間を圧縮する氣の奔流は空振となって王宮を震動させ、周囲に積み重なっていた死体の一つが怨嗟の声を上げたかのように共鳴していた。
牙と刃が鎬を削り合い、火花が狂い咲く。
遂に蛇体と太刀筋はお互いを飲み込んで混じり、澱んだ鈍色の水を孕んだかの如き球体へと変形する。凌いだと安堵したトオル、破れなかったと舌打ちしたユウタ――二人の眼前で爆裂した。先程とは比較にならない強風が瓦礫のみならず、空間に存在していたすべてを斥ける。
死体に絡まれて後方へと転倒を続けたトオルは、途中手に掴んだ短剣を床に突き立てて静止する。体を押していた風は礫を乗せ、失明していた右目の上の皮膚を切り裂いた。
流血も意に介さず、風が止むと体勢を直して前を見据える。濛々と立ち上る土煙は火山のように、遅れて頭上から砂塵を降らせた。豆を巻いた音に似た砂の落下が、天候が変わったと思わず錯覚してしまう。
視界は壁際へと爆風で瓦礫が退けられて良好、あとは土煙さえ晴れてくれれば、漸く視界は晴れたと言える。ユウタは黒氣を使い果たすほどの一撃を放ったことを顧みると、恐らく状態維持も限界を迎えたのが自然。今はこの視界が困難な状況を利用し、姿を晦ませたか。だがしかし、逃走は考えられない。
たとえ力をすべて消耗しようとも、四肢を切断されても、少年は必ずゼーダを求め、この自分を倒して救いだす筈だ。氣術で索敵する必要もないだろう。
一向に止まない砂の放擲の中、眼前で薄く広がり始めた土煙を切り裂いて複数の影が飛来する。それが何であるか、戦場を経験したトオルなら即座に判った。
ユウタの氣術で槍と剣、盾と物に拘らない投擲が襲い掛かる。トオルも同じ手法で背後にあった瓦礫や死体、存在する物体を連投する。
凶刃の応酬、空中で毀損し相殺される凶悪無比な連続砲撃。掻い潜って来たものは弾き、傍の地面に突き刺さっていくことを繰り返して数を増す。火薬は無い、数多の武器を手繰り、相手を討滅しようとする原始的な戦争を再現するのは、たった二人であった。
既に相手を匿していた煙幕は消え、その姿を見据えながら正確に武器を投じる。交錯する金属が打ち鳴らす甲高い悲鳴が耳朶を打ち、しかし極限まで集中力を高めた人間には何も感じられない。
両者は同時に投擲を止めて、前に飛び出した。ユウタは小太刀を、トオルは長槍と短剣を執り、最後の武闘に血の一滴まで捧げる決意で向かう。
トオルが小太刀の刃先が届かぬ間合いで足を止め、槍で連続の刺突を繰り出す。鮮やかな技で後ろへと引き戻す動作すら視認できぬほど仮借ない槍撃。
それらを左右へと撃墜して一歩ずつ、確かに前進するユウタ。攻撃に専念していたトオルは、彼の体に瞠目した。幾度も掠り浅い傷を作り血塗れとなった皮膚は、黒氣を纏っていない。ここまでは予想通りだったが、手元へと視線を巡らせれば、まだ刃は漆黒に染色されていた。
何度かの打ち合いで、槍が切断された。穂先を失った長柄を投げ棄て、少年の頭上から短剣を振り翳す。槍を叩き斬ることに相当の腕力を要したのか、体勢が低くまだ立て直されていない。必勝を確信して凶器を握る腕を下ろす。
だが、頭上で金属がわずかに鳴らした音を聞き咎めていたユウタは、すぐに跳ね起きるとその勢いを利用し返す刃の逆袈裟斬りで迎撃した。小太刀を介して得た氣を体内で身体能力の強化へと変換し、神経伝達速度を加速させる。全身を焼かれた痛みに一瞬襲われ、骨が軋みを上げたが、それでも構わず腕を振り抜く。
ユウタの小太刀は短剣と共に破砕した。折れた刀身が頭上に跳ね上がったのを見逃さず、その場で前に上体を倒して跳躍し、空中で前転して振り上げた踵で刃を蹴り下ろす。
先んじて危機を察知したトオルが横へと飛び退くと、ユウタの攻撃が頬を切り裂いて床に突き刺さる。
着地したユウタと体を戻したトオルは、体勢を整え――同時に、まるで互いを引き寄せるようにユウタは右手を、トオルは左手を突き出す。二つの掌は触れ合わずに止まると、その間隙にある空気を歪ませた。
至近距離で展開された氣術、どちらも相手を後退させようとする斥力を全開で発動した。床が激しく震撼し、大気で散らされた火花は物理法則の苦鳴。風はなく、ただ純然と対象を押し飛ばそうと増幅する力の運動が王宮正門に在る物体を締め付ける。
二人の間の地面に亀裂が走り、傍に落下していた刀剣の破片が独りでに爆発したのを合図に、ユウタの体が後方へと大きく飛んだ。粉塵舞う中を滑空して床に倒れ込む。血痕を残しながら猛然と転がった先で岩石に激突して止まった。
トオルは左手を押さえ、その場に膝を屈する。彼の掌の皮膚は捲れ上がり、夥しい出血に床を汚す。腕の筋肉が萎縮して痙攣を起こし、痛みすら感じない。氣術師同士の氣をぶつけ合った勝負は、僅差で苦しくもトオルが勝利を奪い取った。しかし、無事とまでは行かずその場に留まる為に踏ん張った矢先、前腕の神経と皮膚を引き裂かれたのである。
正面衝突は回避出来なかった、然るべき結果である。しかし何たる強さ、ただ剣術と経験を磨いただけでなく、複数の物質を操る手練、そして純粋な氣の果たし合い、これらを統計してユウタは氣術師として成長していた。
いや、実力だけではない。トオルの知っている森に居た頃の彼の精神力ならば、恐らく「黒貌」を返り討ちにして一度気絶させた時点で、この戦いは終わっていた。再び立ってみせたその勇猛な闘志と決断力、今は一人の戦士としての深甚なる敬意を懐く。
横臥したまま、ユウタは視線だけを上げて敵を探した。
「見事だった」
× × ×
「……ぅ……まだ……!」
全身に力を入れて立とうとする。
ユウタの面に広がっていた紋様が蠢き、微弱な赤い光を帯びて収斂すると、普段の「隈」へと戻った。もうヒビキの声も聞こえず、全身は脱力感に萎えて命令を拒否している。トオルも疲弊している状態で、今畳み込まなくてはここまでの努力が意味を成さない。
トオルは一度、称賛の声を送ってから黙然と苦辛に呻くユウタを見詰めている。黒い瞳は凪いで、彼の心情がひどく冷静であることを語っていた。外傷は顔面にある二つの切創、左腕には先程の氣術の対決による反動と思しき皮膚の剥落、痙攣からは神経断裂と推察。
敵の手の内は、隻腕での格闘か武器。氣術はまだ行使可能と見ても相違無い。だが得物も無い上に、体力を消費し重傷な右腕を抱えたままで氣術師の戦闘が続行できるとは思えない。
だがユウタも、体力の損耗が激しい。寧ろ、体の具合ならば相手よりも大いに甚大な被害がある。「黒貌」の濫用によるダメージは覚悟していたが、やはり甘かったのか想像を絶する反動。動かずに立つのも無理な体……これでは、僕の方が敗北者の様相じゃないか!
「ユウタ、お前と私の勝敗がどちらであっても、知っておくべき事柄がある」
前屈みにだが震える膝で立ったユウタを見上げて、トオルは落ち着いた声色で言った。
「魔王の継承者、東国総督の改心、それだけでは足りない。矛剴の真の目的、それを果たす道具はもう一つある。
呪いを消滅させるには、神を殺す必要がある。つまり、今神の座に居るモノを引き摺り下ろし、成り代わることが必要」
「え……?」
「神は世界と同調し、この世を形作っている者――万物を統率する神族の長。神は不確定な存在なのだ、三人の子を設けてから力を分散させたがために肉体と膨大な魔力を残して脱け殻となった。
神は存在するだけで世界を保つ者。故に、神の座に居る間だけしか、神として存在できない。呪いを掛けた張本人を殺すための手段は、矛剴当主を神格化すること」
神については、ムスビから説明を受けた。氣術師の祖、魔術師の祖、魔王の祖を生み出し、この世の因果の起点である。ユウタの旅にも運命として幾度も関わっていた。
矛剴は一族を追放した神を怨んでいる、その復讐の為に二度に亘る戦乱の裏に潜んでいた。だが理由が判らない、一族の怨恨を晴らす為に何世紀も永く感情が絶えないのは、明らかに異質であった。矛剴の里で何らか神の不遇を受けたのか、その所為で憎しみは消えないとでもいうのか。
ユウタは不意に違和感に浮上したかつての疑問を想起した。タクマが愛していたカルデラ一族の抹殺を図ったこと、マコトやアカリが矛剴を脱した理由、ヒビキの話にあった師が仄めかした白印の呪い――今ならば解答があるのではないかと、ユウタは身を乗り出してトオルに問う。
「一つ訊く、白印の呪い……それが矛剴の怒りに関連してるのか?」
「……そうだ。
黒印は主を定めなくては、徒に周囲の命を奪うという呪いがある。それが“ヤミビト”という鎖、お前が抗うべき敵だ。白印はただ罪人として、魔術師殺害を企図した故に刻まれた烙印ではない」
「じゃあ……何なんだ」
「白印は……『神を恨み続ける呪い』だ」
その言葉に合点するしかなかった。
タクマがカルデラを障害と見なしたのも、神への復讐を阻害するからだと。マコトやアカリが脱走したのは、立派な動機も無い筈の人間が神への憎悪を掻き立てる異様な状況を見たからなのである。シンが突然、ヒビキを裏切ったのも神に従事するヤミビトを忌避した理由も感情も。
「アカリ様も、あとは……お前の仲間の一人も一つな例だが、白印の呪いの影響を受けない者が時折存在する。
私とビューダ……いやトオル、そしてカオリ様もそうだった」
「呪いの影響を受けなかった?」
「私は神なんぞ知らん。矛剴の目的も、我々には詮無い子供の戯言も同然だ。構っているのが鬱陶しい。実際、神が何故こんな呪いを残したかは概ね予想が付くが……」
「待って。何で僕と戦う?国を襲う?」
「……話の途中だったな。
神はいま無防備な肉体を傷付けぬよう、魔力も同時に四つの魂に分離した。
お前の師匠の武勇伝の一つにあった『四聖獣』、それが神の肉体と魔力。
氣術師、魔術師、魔王は神の業。
これらを総て一人の存在に集中させれば、新たな神の誕生だ。矛剴は本家の人間を、その役に選ぶ。本家末裔の血は三人……お前もその一人だ、ユウタ。」
質問には答えて貰えず、ユウタは釈然としないまま耳を傾ける。矛剴の目的はひどく滑稽で陳腐な夢見物語に感じた。彼等は神に成り代わろうとしている、それが如何に至難であるかを誰もが弁えている。常識が無いと揶揄されたユウタやムスビですら、当然の摂理として受け止められるのだ。
「神になる権利を手にしている、黒印を解いてからでも、ハナエとは暮らせるだろう?」
「嫌だね」
ユウタは否定する。この黒印を消滅させることを絶対に良しとしない。
「この黒印が、今まで沢山の仲間や友達を引き付けてくれたんだ。悪いものばかりじゃない、寧ろ師匠とハナエ以外に何もなかった僕に、誰かに認められる嬉しさと世界の悲惨さ、美しさを教えてくれた大事な証なんだ。
これが、きっとみんなを守る力になる!」
一息で思いの丈を言葉にして言い放つユウタを、愕然と見詰めるトオルは、自分の額のそれを少し撫でた後に笑声を上げた。神殿の中に重く低く響いて空気に浸透していく声は、まったく邪気のないものである。
「最後のは、お前の言葉か?」
「……ハナエがそう言ってくれたんだ。僕だけの問題じゃない、彼女の為にも僕は黒印を背負ってやるんだ」
くつくつと笑いを堪えながら、徐に取り出した包帯で止血するトオル。器用に端を口と右手で扱いながら施していく様子を、ユウタもまじまじと見詰めた。
血の滲む処置を済ませた腕を見せて、トオルは不敵に笑う。
「お前とは逆側になってしまったな」
「喧嘩を売ってるんですか?」
「私はお前の母に恩があり、彼女を守れなかった責任がある。その子供であるお前を、だが我々は敵として戦う。お前の為でなく、これはカオリ様の為にやるのだ……先程の質問は、これで良いか?」
飄々とした態度のトオル。
彼がユウタの母を敬愛している、言葉ではにわかに信じ難いが、この勝負に付き合った不可解な行動を見る限り、恐らく事実を語っている。既に死人であるカオリに対し、義理を欠かず子息と正面から向き直る精神は、本当に彼女を想っての献身だった。
「ユウタ、今さら剣を鞘に収めるな。我々の意志に応えるべく、お前も剣を執ってゼーダを救え」
「……判った」
満身創痍の体を前に出し、歩を進めて開いてしまった距離を縮める。途中、中程で刀身が破損した剣を拾い上げた。最後を飾るにはやや不格好ではあるが、今の遣い手を的確に表現しているかのように思え、ユウタはそれを眺めて自嘲する。
「ユウタぁ!!」
強い誰何に顔を上げると、天井に穿たれた孔――そこから窺える二階から、マコトが杖を片手に掲げて呼んでいた。その背後から衛兵とニーナまでもが顔を出し、ユウタの様子を心配そうに見下ろす。如何に道程を急いだか、肩で息をする彼らの様子を見て悟る。
するとトオルが右手を頭上に伸ばし、視線は上の一座を捉えていた。
「借りるぞ」
マコトのベルトに差されていた刀身の無い小太刀――ユウタが旅の始めから愛用していたそれが、彼の元を離れて中空を一直線に飛んで血濡れの手に収まった。把を掴み取った瞬間、藍色の刀身が輝く。ここまで消耗して、まだ氣巧剣を発動する余力があったことに、ユウタは慄然として身を固めた。
今の折れた剣では勝てない。
マコトが紫檀の杖を投擲する。弧を描いて主へと飛び、悠然と手を伸ばしたユウタの手まで吸い込まれる。――が、彼に届く前に空中で凝然と停止した。落下の中途で何が起こったか、氣術師であるユウタとマコトには容易に察しが付く。
氣巧剣を握りながら、トオルが氣術で杖を引き寄せていた。慌ててユウタ、そして二階のマコトが抵抗し、三つの力の狭間にある杖がその場で狂った方位磁針のごとく旋回する。今はまだ戦闘中、易々と相手に武器を渡させるほど甘くはないのだ。
ユウタは片手の折れた剣を投げ、トオルの左腕に命中させた。呻いて身を屈め、彼の意識が杖から途切れた瞬間、強引に自分の方へと引き寄せる。
細身の杖を握り締め、馴染み深い感触にユウタの心が澄んでいく。わずかに目元の「隈」が疼く感覚に我知らず口許が緩む。今まで次代を介して、師はいま己の愛用した武器を手に戦っていたのだと。それを運命の皮肉と嘲らず、この奇跡を十全に表す言葉があるのなら、それ自身の宿運に抗う二代目ヤミビトが持つ剣。
既にユウタを所有者として新たに鍛え直した物ならば、ユウタ専用の武器。人の命を殺め続けた遍歴を持つ杖は、それでもこの絶望的な状況下で所有者を奮起させたのだ。体を苛む戦闘の疲労や負傷が掛けていた負荷は嘘のように消えた。
王宮正門に設けられた闘技場を俯瞰するニーナと近衛は、悴む手に息を一つ吐きかけた。急ぎ足で向かう最中は感じなかった冷気が、急激に体温を奪っていく感覚に身震いする。今は腰を下ろして休憩するのも厭うほど、床も冷たくなっていた。
対峙する二人を、熱心に瞬きもせず凝視するマコト。自分を導いてくれた氣術師の少年と、その旅の目標として聳え立っていた仇敵の氣術師。自分が駆け付ける前に、熾烈な氣術による戦闘が繰り広げられていたのだろう。荒れ果てた現場の景観がそれを証明していた。見逃してしまった事をつい悔やむが、今はもう氣術師同士の闘争からはかけ離れたものに変化した。
ユウタの放つ雰囲気は、穏やかなものではなく布間を刺す針のごとく鋭利な剣になり、遠目で見守る一座は喉元に凶器を突き立てられていると錯覚して、喉を駆け上がった悲鳴を飲み込む。
上体を低く、腰を少し落として半身を向けて足を揃えず撞木足のまま、静かに佇んでいた。後ろに引いた仕込の柄を右手が逆手に持って、鞘を握る左手がわずかに捻られた。鞘走りを防ぐ為にただでは抜けぬように設計された杖なのだ。
トオルは氣巧剣を中段に構え、先端で円を描く緩慢な動作を行っている。相手に手を読ませぬ工夫なのか、円弧は収斂と拡大を繰り返す。その隻眼は、少年の手元と足許を忙しなく視線を往復させている。あたかも薬に脳を冒され異常を来した重症患者の狂乱状態に似ていた。
ユウタは感覚器官を総動員して微かな挙止すらも逃さないと、己自身を全景を映し出す鏡とする。トオルは初手を読んでそれをいなし、同時に屠ることだけを考え、行動の始点たる足許と手を細かく確認しているのだ。
対照的な両者は、まだ動く気配を見せなかった。だが、市街から王宮へと吹いた風が沈黙を浚って図らずも合図となる。
風に髪が戦ぐ――トオルの右手が素早く動いた。ニーナには初動すら見えない。マコトが水平に引き絞ったその氣巧剣が巨大化した姿を視認した時は、トオルはもう攻撃を出せる体勢に突入している。氣術で全身の反射速度を増幅させての力業だ。
ユウタは一歩前に踏み込む。たが出だしが遅い、既にトオルの剣が空気を切り裂いて、敵の胴をその空間もろとも薙ぎ払おうという勢いで加速の途中にある。命脈を断つ滅びを告げる終焉の光を集束させた刃が少年を無慈悲に両断する情景を思い浮かべ、ニーナが顔を手で覆った。マコトも落ちることも構わないと、身を前に乗り出したのを近衛が引いて止める。仲間の死を目の当たりにする恐怖に震える一座。
だが、マコトは知らない――実際に彼の前で、ユウタが剣を抜く機会は無かった。別行動の最中に襲撃があり、合流した時分には刺客の亡骸が地面に伏している。つまり、ユウタという人間の能力を――その真価をその目で見た事がない。
トオルの氣巧剣が辺りを焼き払って振り抜かれた。蒸気を立てる地面の焦げ目に、近衛が目を固く閉じる。肩を震わせているニーナを沈痛な面持ちで見ていた近衛の一人オーガンが、ふと奇妙な点に気付いて目を凝らす。
確かに氣巧剣が切った場所に痕跡がある。ちらちらと炎が躍り、振り抜いたトオルはその姿勢で止まっていた。何かが……何かがおかしい。さらに注意して目を細くした時、違和感の正体を知って思わず声を上げた。
無い……そこにユウタの死体が無い!
幾ら絶大な威力を誇る氣巧剣を数倍以上も大きくさせたとはいえ、肉片一つ残さずに斬れるだろうか。隻腕に疲労困憊の氣術師が強力な武器を手にしたとて、不可能であるということはニーナでも解ることだ。
オーガンが全員の肩を叩いて、階下の景色を指差す。仲間の死を見て、何を呑気にいられるのかと怪訝な顔で彼を見た一座が、恐る恐る下に視線を向けた。
「……この勝負、お前の勝ちだ――ユウタ」
トオルの手から把が落ちた。地面に硬質な音を立てて転がったその物体の傍には、包帯を巻いた左腕が断面から血を広げている。
かちり、と納刀する音が鳴る。
肘よりやや上の辺りで腕を断ち切られたトオルの体が前に頽れた。その背後で杖を握り、超然と背を伸ばして直立するユウタ。歓声が頭上から響き、マコトは忘我と興奮にその場から跳躍して傍に降り立った。
ユウタは一撃が自身に到達する刹那、トオルの左脇を通過すると同時に抜き放った仕込の刃を趨らせ、腕を断ったのである。屠殺される恐怖、寸前にある死の未来に凍てつかず、過たず狙い通りに斬った。胴の前で留めつつトオルに重傷を与え、尚且つ沈黙させる剣閃。
ユウタの肩を掴んで揺らす。死を覚悟したマコトは、予想と反した現実に驚喜で労りを忘れ、戦闘で憔悴している仲間の体を激しく動かしという蛮行に、まだ気付いていない。血の気のぬけた顔で笑いながら、ユウタは膝の力が抜けてその場に座り込んだ。
漸く気付いたマコトだったが、まだ収まらない昂りに腕を振っている。
「喜んで貰っているところ、悪いんだけど……この人の止血をお願い」
「え゛ぇ……!?いや、でも敵だろコイツ」
「まだ話したい事があるんだ」
ユウタは今にも消えかかりそうな意識で頼む。「黒貌」の過剰に取り込んだ魔力を持て余した体が痛みに震え、心臓が鼓動する都度息苦しさを感じていた。あの状態で剣が振るえたのは、自分でも奇跡と呼べる。
倒れたトオルを暫し見詰めて、不満に片方の眦をつり上げていたが、渋々と地面から小太刀の把を拾い、氣巧剣を発動させる。燦然と熱を放射する刃先を左の断面に翳した。
「本当に良いのか?しかも、これだけの傷……出血もあるし、体力が保つかどうか……」
「そこは安心して。君はただ、傷口から壊死しないように焼いてくれ、僕が何とかする」
余計な口は挟まず、素直に頷いて従う。
マコトが傷口を光の刃で撫でる中、ユウタはトオルの背に触れて氣術を使う。
左腕を切り落とした際、血と共に体内の氣を多く喪失した筈だ。出血はすぐに止めれば間に合うが、氣も命に関わる重要な生命器官といっても過言ではない。損失した部分を補う為に、トオルに魔力を供給する必要性がある。
ヤミビトの特殊能力は、一般的な氣術師と違い、人体の氣の流動を自在に操り、また氣の与奪を可能とする。今まで奪うことばかりしか用途を見出だせなかったが、逆の方法が可能であることを思い出した。ユウタは戦闘で有り余る氣を体内に貯蔵しているため、好都合でもある。
傷口を燃やされる痛みに痙攣するトオルの体を押さえ、自身の体から氣を流し込む。本来ある体内の流れを妨げずに調和させ、供給の量と速度を按配した。止血が終わったマコトに離れるよう催促し、ユウタは必要な分を与えて自身も手を離す。
「ぐ……う……」
「どうですか、もう大丈夫でしょう?」
「まだ、左腕に疼痛がある」
「安静にしていて下さい」
ユウタは微笑みかけながら言った。まるで友人を相手に話すような態度に、マコトは小首を傾ぐ。
「マコト、悪いけど君は矛剴の残党の殲滅……それとムスビの加勢をお願い。もし、ビュー……ダイゴが生きていたら、生け捕りにすること。それも完了したら、町の救援に急いで」
「ゆ、ユウタはどうするんだ?」
「僕は動けないから、暫く此所で待機してるよ。大丈夫、大方は凌げる程度に余力はあるからさ」
目に見えた嘘である。
その場から一歩も動けない気配を見せながら、気丈に振る舞う。その姿に、先程の強さを重ねたマコトは何も思考せずに従い、二階へと飛んで戻る。その単純さが、神樹の守護者ゴウセンに似ていて、ユウタは笑った。
転がり仰臥すると、同感だったのかトオルも腹から声を出して大笑する。
「成る程……良い仲間を見付けたな」
「ええ、信頼できる人です。……あとは彼等と協力して、首都の動乱を治めなくてはいけない。氣術師トオルも討ち滅ぼしたので、もう僕はあと休憩だけだ」
「強かったか、その氣術師」
「今までで一番……でも師匠の方が凄い」
肩を竦める男に、少年は躄って寄る。
「色々落ち着いたら、まず事情聴取だね」
「やれやれ、その前に私を厚遇してくれる奴がいるのか?牢獄で、という事になるかもしれないが」
「そこは言いくるめますよ」
「お前は大人に対しても、土壇場の演技は役者顔負けだからな」
男の横に四肢を投げ出して寝転ぶ。体が幾分か軽くなり、心臓の痛みも無い。漸く肌寒さを感じ始め、思わずくしゃみをひとつすると洟を吸った。ついでにマコトに火を焚いて行くように頼む事を失念していたと考える。
だが、今はまだムスビの安否も判らない。氣術師ダイゴも、市街の魔物の様子も気になる。動けない少年には、何を考えても仕方がないことであった。
今は勝利の実感を噛み締めながら、取り戻したモノに満足している。振り向いて、少年はその顔を無邪気に綻ばせた。
「お帰り、ゼーダ」
「……ああ、ただいまユウタ」
守護者ゼーダの帰還を祝福して、少年の意識はそこで途切れた。
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
これにて復讐者VS裏切者は完結です。ご都合主義だな、と鼻で嗤う人もいるかもしれません。……その人には不快にさせたようですみません……。
それでも、楽しんで頂けるよう頑張ります!
次回も宜しくお願い致します。




