裏切り者のマコト
更新しました、男の娘が登場です。
お約束の更新日を守れず、申し訳ありません……。
ベリオン歴二〇五八年――冬。
かの大戦を彷彿とさせる霙混じりの雪が首都で降った。二つの国の境で生じた戦火は、遠い町まで火薬や骸の放つ異臭が今にも鼻先に漂うよう気配がする。二〇年もの間、互いが厳守してきた平和は意図も容易く小さな諍いで瓦解した。敵意は刃に、害意は砲弾に、戦意は兵士となって敵の屍を積み重ね続ける。やがて生まれる遺骸の山を見て、人々は後退が許されないと悔恨と闘志に震える。
国の騒乱の発端とされ、様々な町で事件を発生させながら一月前に忽然と姿を消した国賊――梟と呼ばれる少年は、「白き魔女」と共に今も何処かに潜んでいる。享楽の町ラングルスにて、数多の刺客を屠った戦力は計り知れず、もはや単騎でありながら国の敵として絶大な恐怖を王の胸裏に刻み付けた。
そして冬の訪れと共に、街道から進軍して来た反乱軍と王国直属騎士団の戦端が開かれる。命に貴賤は無く、ただ討つか討たれるかの関係でしかない内乱。
国境の余波を受け、反逆者の胸に火が点いた。剣戟の音が雪を宙で四散させ、放たれた砲弾や魔法が寒気を熱風で巻き上げる。
そして、凶刃が閃き血煙が舞う戦場を馳せる梟の姿が目撃された。道を阻もうとする者を斬らずに稠密な槍衾を掻い潜り、全方位から迫る刃を躱している。誰一人として殺めぬ行動は、噂に違いながらも、その実力を垣間見せた。国内が安穏な時代から殺伐とした荒野へと変遷する中で、果たして何を意図してこの国賊の少年・梟は進むのだろうか。余人には知られぬ目的を胸に秘めて、羽音も無く飛翔する。
それと同時に起きていたのは、長期間姿を眩ませている冒険者ガフマンの噂、そして東国へ使節団を組織したカルデラ一族の行動は、また大きな衝撃を国中に伝播させる。
前者は未知を求めた冒険を求めて進んだ先、何者かに追われて常に身を狙われているという。彼に知られてはならない事項がある故に嗾けられた東国の刺客か、或いは暗躍する白い烙印の武装集団か。どちらにせよ、ガフマンは踏み入ってはならない事態に拘っている。
後者について、国王はその洞察力と知力により先んじて戦乱を予測し、東国との交渉に出たのかもしれないと推察し、敢えて止めようとはせずに促した。力なき人々は救いを求めて祈り、ある者は名を上げるため家族を守るため武器を手に取る。既に万人が我関せずと無知や平穏を盾に、戦争を免れることの出来ない状況へと突入していた。自らで行動し、その最善を尽くさなくては守れない。
東国でも変化はあった。
国境から侵攻するのは、不満を抱いた農民だけではなく、これに乗じて国境を拡げんとする反乱者も参入している。間諜などが既に侵入した国内では、総督アカヒゲによる冷酷なる政策が示された。「西人狩り」と呼ばれる排斥運動で、間諜と思しき人間――特徴としては西の出身、黒や茶以外の頭髪、または西国の装束を着た人間を無差別に処刑する。これが西国との溝を深め、更なる敵愾心を助長することとなった。
その中に、西と東の国王が思慮するのは、かの大陸同盟戦争以前に大陸を統治した皇帝の末裔である見目麗しい娘の存在。情報源は、突如として首都に現れ、皇帝の血族が実在するとだけ示唆して消えた氣術師。それを信じ、その娘求めて互いに国家戦力の一端を放つこととした。この戦争を機に、大陸を一つに束ね、そしてその王としての証を示す為に必要なのは、主神と魔王のように普く総てを治めた血が形式上で必要となる。
だが、その娘もまた所在をくらませていた。神樹の村の跡地、及びその後生活していたとされる田舎町リュクリルにも不在であった。匿っていたとされる二人の夫婦は殺害されている……
号外の記事が掲載された紙を展げて、屋根もなく干し草や墫を載せた粗末な荷馬車の上に座る人物は、ふと紙面に落ちた雪がじんわりと溶けて染みを広げるのを眺めた。冬空から舞う白い綿のような雪を見上げる。
荷馬車の先頭で馬の手綱を握る農夫――首都に向かうその男は、荷台に乗った黒外套を盗み見た。顔は窺えず、ただ数時間も黙然としている様子を訝っている。こんな騒がしい時期に、首都に向かう人間の中には、反乱軍の一員も居る。故に、様々な場所では疑わしい人物を密告する動きが起きている。
農夫はそれを知って、不審者には敏感になっていた。
「首都には何をしに?」
「……知人が居るんです。その人と、待ち合わせがあって」
声は少し低く、だが澄んだ声だった。年端もいかぬ、敵意を微塵も感じさせない少年の声音。それに虚を突かれたように暫く言葉を失って、慌ててまた農夫は質問をした。
「その人とは、長く会ってないの?」
「半年です。ただ、長いような、短いような。少し複雑ですね、それに最近は何処を歩いても怖いので」
少しおどけたような口調の少年……かもしれない黒外套に、警戒を解いて笑った農夫は安心して手綱を撓らせ、少し馬車の速度を上げた。
「それじゃあ、知人と会うのも楽しみだな」
「……ええ、待ち望んだ事なので」
農夫はふと、黒外套の傍に立て掛けられた杖を見た。楕円の断面を持つ紫檀、表面は艶に濡れていて、全体は三尺ほどの微かに湾曲した杖だ。ふと、記憶に思い当たる何かがあるような気がして、農夫は唸った。何だろう、何か重要な見落としがあるような……
しかし、幾ら考えても彼の脳内で、その疑問の正体に辿り着く事は出来なかった。諦念に思考を打ち切り、前を見据えて馬車を進める。
その様子を静かに窺っていた黒外套の中で、琥珀色の瞳が妖しく光った。
× × ×
首都――キスリート。
主神ケルトテウスを信仰する国の中心であり、最も栄えた都市である。そ国中でも広大な面積を持つという町を複数纏めても足りない広さを有する。王が座を据え、神の加護を持つ『御三家』の砦があり、神殿の如し優美な家屋が立ち並ぶ様相は、まさに神を信奉する国の象徴として遜色無い景観を呈していた。
国の広い中央道は精緻な女神や妖精の絵が刻印された石畳が続き、その終わりには洗練された純白の階段が聳え、上ればそこに王が住まう城がある。路傍には壺を両手に抱える女神の像があり、壺の中より円弧を描いて両者を繋げる虹を模した形の岩。入り口は支柱が何本も林立し、その前には豪奢な白銀の鎧を纏う兵士が睨みを効かせている。堅牢な守りを表す兵士は、また王への畏敬を集めるものであった。
首都の入り口は、見上げなくては頂を拝めない厳然とした山の如き城壁が立ち、入り口の門は五丈に及ぶ鉄扉。開閉が難しいのか、それは常時開放されたまま、行商人などが出入している。最近の世情に恐怖で警戒心を鋭く研ぎ澄まされている兵士の厳重な検問を経て、中へと入ることが出来る。
黒外套を載せた荷馬車が進んだ。それを番兵が目敏く見咎めると、直ぐ様駆け寄って来て、荷物を検める。一人ひとりが帯刀しており剣幕から今にも把に手が掛かりそうな気迫を放っていた。農夫はぎこちない笑みを浮かべつつ、荷馬車の先頭から降りた。黒外套も続いて降車すると、農夫の傍に立って検問の調査を見る。
首都は如何なる怪物の侵攻も阻むような強固な防壁で囲まれながら、入り口まで厳戒態勢でいるとなれば、不審な人物の侵入は至難の技となるだろう。無論、害意や企み、反乱軍の一員でも無い農夫が武器や火薬を載せている筈もなく、安心した様子で傍観していた。
「何だか面倒臭いねぇ」
「そうですね。すんなり入れてくれれば、先に準備して迎えが出来るのに」
「ははっ、お前さんも気の毒だな。ところで兄ちゃん、何処から来たの?」
「リュクリルです。旅人なので、転々とはしていますが」
「ああ……災難だな。何処も物騒で安心も出来ん」
黒外套は肩を竦めて小さく笑っていた。実際に笑顔だったかは、農夫よりも小柄なために見る事は出来なかったが、小さく漏れた吐息から笑っていると思った。穏やかな少年だ、外套を外さないのは事情あってのことだろう。人目に晒すのを躊躇う傷痕か、或いは……東国の血筋なのか。後者ならば、検問もさぞ厳しいだろう。恐らく別の場所へと誘導され、尋問を受けて無実が証明できれば入れる。
荷馬車を調べていた番兵が戻ると、農夫は先にと手を振りながら馬車へ飛び乗り、手綱を撓らせて馬を叱咤する。緩慢な足取りで動き出した馬に合わせ、轍が跡を残しながら進んでいく。
黒外套は躊躇わずに農夫の背中へ手を振って見送った。
「お前、所持している物を調べさせて貰う」
「はい。ですが、先に申しますとこの杖は仕込み刀です……護身用なので」
「ああ、そうか。では、それら以外の物を拝見させて貰う。……一応、その杖もな」
黒外套は黙って頷くと、杖を縦に両手で持ち上半の部分に小さく撚りを加えて上に引き上げると、二尺を少し下回る刃渡りの刀身が現れた。それは西国が重用する剣ではなく、東国製の刀である。鎬地は鮮やかな黒、刃は磨かれており、番兵の顔を映していた。
思わず息を呑んで身を固めていた番兵の前で、かちりと杖に姿を戻す刀に空気が弛緩した。慌てて他に携帯している持ち物を確認する。外套の下から覗いたのは、黒のズボンと麻の肌着。刀とは違い、こちらは西国の物である。
「念の為だが、外套を脱いでは貰えないか?」
「いえ、火傷が酷いので……少し勘弁して下さい。人の視線に敏感で、疼いて苦しくなるんです」
「……そうか」
消え入るような声の黒外套に、番兵達もしぜんと声を潜ませてしまった。同情心を見せぬように努めて、番兵は彼の背を首都の中へと軽く押しやった。これ以上の検問は、神を信仰する者としても人の傷を抉るような言動は控えなくてはならない。本人からは演技と思われる不自然な挙動はまったく見られなかった。首都で騒乱を起こそうなどと企む不敬の輩ではあるまい。
黒外套は一度振り返り、彼らに一礼して革靴の底を鳴らしながら進んでいく。行商人達の波に紛れながら、自分を迎え入れた首都の景色を見回して、思わず賛嘆の念にため息をつく。それと同時に、此所は息苦しさを感じた。あたかも神に造られた牢獄のようである。あまりに神を信ずる余り、人としての自由や営みさえも制限されている。
黒外套は途中で人の流動から逸れて、路地裏へと入る。入ってすぐの教会と居住区の境目に位置する狭く薄暗い路地には人は居らず、そこには襤褸布や藁屑が散乱している。外貌だけは美麗極まる都市にも、やはり醜い影が存在する。黒外套からすれば、寧ろこちらの方が居心地が良い。
さっと外套の釦を取って脱ぐと、丁寧に縦に畳んで地面に置いた。背嚢から彼の平生の衣服と草履を取り出してから、早速着替える。その所作は正確であり、袖に指先が詰まる事もなく身なりを変えた。青鈍の袷、黒の袴の腰紐を堅く締め、把のみの小太刀を斜に差した。
水で満たされた竹筒の栓を抜いて、手元へ微量を垂らすとそれで手先を湿らせてから、紙を指で癖があり所々で跳ねている黒髪を梳く。その後、襟髪を軽く結わえてから、背嚢を担いで畳んでいた外套をもう一度ひろげて羽織直す。壁に立て掛けていた杖を手に握ると、雪の降る空を見上げて微かに口角を上げた。
「首都潜入は、これで一先ず成功かな。呉服屋で西国の装束を調達するのは、中々骨が折れる作業だったなぁ」
微笑して、上げていた面を路地の闇へと戻した少年――ユウタは、再びフードを被って顔を隠し、中央道へと戻る。彼こそ、今まさに国中に【梟】の名で恐れられる若き反逆者。尤も、本人にはまったくその意思がない。首都に潜入したのも、王の暗殺を企てているのでもなく、諜報に訪れたのでもない。ただ、会うべき人物が居る、その目的の為に自身と敵対する国勢の本格へと忍び込んだのである。そこまでしなくてはならない理由が、もうすぐ現れる。
少年の杖を握る手に力が籠った。最後に神樹の村で顔を合わせてから半年、そしてリィテルでの再会より数ヶ月の月日を隔てて、遂に終止符を打てる。強い感情の矛先――憎悪の対象にして、村人と守護者、そして獣人族を根絶やしにした仇。彼等の犯行から、春より不吉な事件が連続した。誰かが止めなくては、誰かが切らなくてはならない。その重役を己に課した少年は、危険を顧みずに首都の内部へと潜り込んだ。
相手の到着は、早くも二日後――その昼には、この首都が戦場へと変貌するのだ。もはや予断を許さない事態である。復讐に燃えるのは敵も同じ、だがあの二人の敵意は少年ではなく、もっと大きなモノに向けられていた。生じた齟齬も、だが関係ない。ユウタはただ彼等の抹殺を意図するのみ。
ふと、縦一筋に切り取ったような路地裏の空から鳥が少年の肩に留まる。否、それは鳥の形を模した紙であった。粉雪が地に落ちたように緩やかに折り目が解れて、紙面が広がる。その内容を読むと、指で細切れに千切って捨てた。どうやら、相棒も到着したらしい。これで、迎撃態勢は整った。
再び歩を進めると、前方の角から怒声が聞こえる。忙しない足音、谺するのは何かを追う人の声に相違無い。それを聞き咎めて、ユウタは路地裏を奔走する音源を求めて、その正体を確かめるべく道を辿る。壁で反響する険しい声音、時折躓く靴が石畳を打つ。一つ一つの情報を的確に、冷静に処理しながら接近していく。
ユウタは音の進行方向へと先回りして、角から躍り出た。目前に一本の道が現れ、その途上でこちらを見て硬直する人物が居た。
黒髪が耳まで掛かり、白い肌に黒い瞳、整っている精悍な顔立ち。東国の装束……歳は自分と同じ程だ。
ユウタから見て、少年を挟んだ向こう側に数人の大人が現れた。全員が斧や短剣、そして革鎧で武装した男達。その視線は真っ直ぐ少年を射ている。ユウタは得心した――これが「東人狩り」か。
一月前から、国内では滞在している東国出身の人間を無差別に糾弾し、あわよくば処刑する動きがある。恐らく東での「西人狩り」が発端だろう。ユウタが首都への検問で、本来の格好を控えたのは、それが理由である。国によって唆されているのか、害意の無い者と敵すらも見分けの付かなくなった西の人々は、混乱のままに狂気と踊る。また、敵対する東国の人間を討ち取れば褒賞金が出る始末であった。……たとえ無罪の人間を殺めようと、後で擬装と取り繕った事情を説明して金を得るのが常套手段と化してきている。
自分もその血筋であるため、ユウタはやにわに顔を顰めながら、少年へじりじりと迫る大人達に向かって走った。少年の背に手をついて彼を飛び越えると、杖の両端で二人の首筋を殴打した。奇襲に対応できず意識を失う仲間に、一人が抜剣の把を握りしめたが、鳩尾を杖の石突きで衝かれ、痛みに踞ると煤汚れた地面に反吐を漏らした。
瞬く間に三人の男を倒したユウタに、少年は目を見開いて、依然として立ち尽くしていた。
「大丈夫?」
「……もしかして、ヤミビトか?」
「……何だって?」
少年の言葉に、ユウタは視線を鋭くした。視認できてしまうような強い殺気が路地裏の陰気に充溢した。ユウタにとって、自分の素性を知る人間など知れている。神族の関係者で、その中でも東国の出身ともなれな限定できる。
少年の左手の甲に、白い蛇の紋様――それを認めて、ユウタは杖に手を添える。すると、彼は手を大袈裟に目の前で振ると慌てて捲し立てた。
「ち、違う違う!オレは敵じゃない、信じてくれよぅ!」
「……矛剴と僕が対立してるのは、知ってるだろ?」
「そ、そりゃ勿論既知事項だろ!だけどオレは違う!」
真意の読めない少年に、ユウタが片方の眦を上げて訝ると、彼は呼吸を整えて言った。
「オレは脱走兵……矛剴の裏切り者だ」
× × ×
首都にあるとは思えない、小さく素朴な家屋。四本の支柱が矩形に一丈ほどの間隔で並び、屋根は藁を葺いた簡素な造り。扉は蝶番の部分が錆びれ、開閉の度に軋りを上げる。路地裏の深く、少年が襲われていた場所よりも少し離れた所に佇立するそれに、ユウタの胸に懐旧の念が密かに湧いた。シェイサイトに住む兄弟も、こんな粗末な家に住んでいたのである。
少年に催促されて中に入り、その場に腰を下ろす。正面に彼が座った。
「それで……自己紹介して」
「オレはマコト。矛剴の分家リンドウの出だ」
「確か……『酉』のタイガが居る?」
「そうそう」
「一応聞くけど、男だよね?」
「男だよっ!」
ロブディで交戦した強力な氣術師と同じ家系に属する者――マコトと名告る少年に警戒心を解かず、ユウタは品定めをするように目を細めて観察していた。敵意は感じないが、あの<印>の仲間となれば油断は出来ない。相棒が交戦した氣術師には、容姿と魔力まで偽装してみせた手練れが居る。それがこの少年に使えないという可能性は否定できないのだ。
しかし、神を崇める者たちが集まり常に信仰心に一切の邪念は無いと体現するような町の一劃にも、やはりこうした影は存在する。云わば太陽に月、魔術師にヤミビト……というところだろう。
仮にこのマコトに邪な目的がなければ、彼もまた戦士として教育され、戦地へと出動する武術の一族である矛剴の教えや態勢、本来ならその血族の中ではそれこそが正義だと潜在意識に定着させる彼等へ違和感を懐いて脱走したのか。つまり、彼は矛剴の闇を見たのだ。そうでなくては、あの中から脱走者が現れるはずもない。
中性的な面差しは、女性と勘違いされやすい。先程襲ってきた男達の表情は、敵国の兵を見つけ討ち取ろうと息巻く排除の意ではなく、取り押さえて嗜もうという獣だった。身なりさえ整えれば、東国の高貴な家柄の娘にも見えるほど。狙われる理由として、二つあるのは東国出身の黒髪などの特徴に該当する容貌、そして一見は愛らしい少女にも見える。その二点が、好意と敵意を綯い交ぜにした注目を集めるのだろう。
こうして矛剴と至近距離で、それも刃を交えずに冷静な会話が出来たのは、これが初めてである。不思議な感慨に眉根を寄せて唸るユウタに、マコトは顔を強張らせた。
「どうして、<印>を抜けたの?」
「簡単に言うと、オレ氣巧法が使えるくらい氣術が出来るだけで、武術とかからっきしなんだ、笑ってくれ」
「いや、氣巧法が使えるだけでも充分でしょう。あとは容姿を使った詐術」
「ごめん、死んでも後者は使いたくない……」
「出来ない、とは否定しないのか……」
「だって、それで食い繋いで来たんだ」
苦々しく言うマコトの表情に、これ以上は名誉を毀損する行為だと察し、疼く嗜虐心と可笑しさに笑いを堪えて顔に渋面を作って自粛する。彼が抱える苦悩に対してひどく下らない葛藤に苛まれるユウタを怪訝に覗いている。
白々しく咳払いをして誤魔化すと、ユウタは路地の方向へと顔を向けた。
「じゃあ、最近は大変だよね。「西人狩り」が激しいし」
「そっちも苦労してないか?だって、指名手配者だろ、オレに比べたら凄いよ」
「道中、何度か砲弾に当たりそうになって、氣術を使ってしまった。それで衆目を集めてしまって、かなり追われたけどね」
「……何人殺した?」
「反乱軍と騎士団は些かも。切るのは明確な殺意を以て迫る刺客のみ」
マコトは畏敬に後頭部を掻いてやや仰け反った。
首都への最短を進むには戦場を通過しなくてはならない時もあった。それも、王国直属騎士団と反乱軍が衝突する鮮血の源泉が如し苛烈な地、足を踏み入れば全方位が敵の刃圏、負傷は必至かつ死は隣人となる地獄を、この少年はぬけぬけと通り、あまつさえ五体満足で飄然と首都に侵入してみせた。恐らくこの都市の中、いや或いは国の中で最も剣呑きわまりない者は、彼の他にいないだろう。
ユウタは杖を右の脇に抱えるように寄せて、路地の方へと耳を澄ます。精緻な絵が刻印された石畳を打つ雑踏、その中に紛れ込む音の律動で歩調を読む――往来の中に、異彩を放つのは鋭く音を小さく慎んだ足運び。聞き慣れたそれに、ユウタは腰を上げて嘆息をつきながら路地へと出る。付いて行こうとするマコトを制止し、背を向けたまま撞木足で立っていた。
少年の頼りない小さな背は、マコトからも半身しか見えない。だというのに、泰然とした岩山のような威容に錯覚してしまう。目を閉じて動かなかったユウタがマコトに振り仰ぐ。
「ど、どうした?」
「……マコト、走れ!」
ユウタがマコトの腕を掴んで立ち上がらせると、強引に路地の中を導く。路地を進んですぐ、放置された墫や木材が積み重なり形成された障害物を飛び越え、物陰に転がった。遽然駆け出したユウタに戸惑い、疑問の尽きないマコトの認識の埒外では既に戦闘が始まっていた。まだ攻撃は無い、だがユウタの耳が敵の気配を知覚したのだ。
刀身の無い小太刀をマコトに渡し、自分はゆっくりと立ち上がり、丁寧に整えて積み重ねた長方形の型に切り揃えた木材から顔を晒し、路地の様子を窺う。
「な、何さ……?」
「マコト、氣巧法は使えるって言ってたよね?」
「それが何だよ、一応は“剣”、“拳”、“服”……ついでに、タイガ様に伝授してもらった“目”を使える」
「護身用だよ、氣巧剣の媒体にするんだ。もしもの場合、それで凌いでくれ。僕は出来る範囲で、速やかに敵を斬る」
「てっ、敵は何だ?」
「この路地裏の様相にお似合いの連中だよ」
ユウタの皮肉は正鵠を射ていた。
木材に隠れる彼等の対角線上に位置する建物の上で、ゆっくりと構える人影がいる。
その手に握られているのは、胡桃材の湾曲した柄、鉛色の金属が象の鼻のように伸びて長い筒状になっていた部位はおよそ三尺。長剣にも等しい長さを有するそれは打撃や切断を目的とした形状ではない。吹き矢が一番近いだろう。筒の奥、胴体となる「象の頭部」の中には火薬を積めた尖状の鉄塊、それを叩き着火する針は後頭部の辺りにある。そして、顎の下に据えられた半円の取手は指で引き絞れば、鉄塊を放つ合図となる。
構造を知らないユウタとマコトが慎重に物陰で覗く姿を観察している。そこから出れば、間違いなく狙い撃てる。
「こちらに近付くと思えば、遠距離で発揮する得物。でも……あれは、何だ?」
少し頭を出し、その方角を氣巧眼で遠くに潜む敵影を発見し、逆探知をするマコト。正確にその正体を捉え、さらに目を凝らす。外貌の特徴を聞いたユウタにも理解出来ない。奇形の武器から放たれるのは、一体何なのか。どちらにせよ、虎視眈々とこちらが出てくる隙を狙い澄ましているのは明確である。遠距離からの狙撃……ユウタの間合いの外だ。
「一か八か、だな」
ユウタは握った手の人差し指だけを伸ばし、その指先を敵の位置に翳した。重なる二つの照準、互いの脳天に定められた敵意を犇々と感じながら、二人は引き金を引き絞る。
轟くのは空を鈍く叩く音。ユウタ達の横にある壁に穴が生まれると同時に、武器を構えていた刺客のいる屋上の塀にも同様の空洞が生まれた。それを見た相手が引いて行くのを見ながら、ユウタは頬に伝った汗を拭う。
紙一重だった。あの筒状の鉄から猛烈な勢いで姿を表したのは、尖状の小さな凶器である。されど、空中でユウタの放った氣巧弾と衝突すると潰れず、さらには方向を変えてまで進み壁を穿った。威力は瞭然としている。
「取り逃した。あの様子だと……また来る」
「す、凄い!今の何さ!?」
「僕が編み出した氣巧法――氣巧弾だよ。速度も威力も、砲弾並みだ」
「噂に聞いてたけど、やっぱ凄いなー」
感嘆に笑うマコトとは違い、ユウタは未だ警戒に険しい面差し。敵が居た建物の屋上を睨め上げていた。どんな機構かは判らないが、あれは今まで遭遇した事のない未知の脅威だった。氣巧弾のように氣を充填する時間も集中力も不要。ただ照準を合わせ、あの小さな取手を引くだけ。射程圏は長く、火力は強烈。
「厄介だね、忘れかけた時に出てこなければ良いけど」
「あんなのがずっと襲ってくると思ったら、堪ったもんじゃない」
マコトが肩を竦めると、ユウタはそのまま背を向けて歩き出した。
「聞きたい事がまだある。マコト、また来るよ」
「待って、オレも行く」
颯爽とその場を去ろうとするユウタは、手首を掴んだ細い指の感触に振り返る。そこに、強い眼差しのマコトが隠しきれない不安を口許に湛えながらも、決然とした声色で言う。
ユウタに同道すれば、それは命を危険に晒すということ。そうまでして付いてくるのは、見付けたユウタを仲間へと密告する積もりか。
「何故?」
「この町の事、まだあんまり知らないだろ?オレが案内するよ」
「……確かに首都は初めてだけどさ……」
無知であることは否定しない。マコトの提案は魅力的である。人に追われながらも生き延びてきた彼は、恐らく逃走する最中で首都の地理を隅々まで把握している。彼の手を借りれば、敵を撒くのに有効だ。
「信じられないのは判る、オレが<印>の手先だって。証拠は無いけど誓う、オレは断じて奴等の仲間じゃない」
「……無償では無いんだろう?」
「オレに武術と、そしてさっきの氣巧弾を伝授してくれ」
ユウタは顔を顰めた。交換条件に金品ではなく、武術と氣術の応用、その一種でユウタが独自に開発した技の教えを乞う姿は、確かに虚飾無い気迫の強さが伝わってくる。だが、人に教えた経験の無い彼に、マコトが満足しうる教えが授けられるのか。
だが、何も試さなくては始まらない。今はこの道案内を手に入れることが先決である。まさか自分が敵対する矛剴の者と組むとは思いもしなかった。奇妙な巡り合わせにわずかな悲嘆と、そして本人も自覚しない希望を胸に握手を交わす。
「判った、よろしく頼むよマコト」
「うん、よろしくユウタ」
本作にアクセスして頂き、誠に有り難うございます。第六章を無事に開幕できて、とても嬉しいです。
次回もよろしくお願い致します。




