惨劇の乙女
血の臭いとは無縁な筈の貴族の屋敷の廊下が、強烈な血の臭いで満たされていた。
勇ましいドラゴンの絵画や進軍する騎士たちの絵画が飾られた廊下を埋め尽くす”無縁な筈の臭い”を吸いながら、走って行く騎士たちはぞくりとする。もしも主君の寝室から絶叫が聞こえてこなければ、今日も決まった時間まで屋敷の中や周囲を巡回して不審者がいないか確認し、夜間の警備を担当する班と後退して宿舎で就寝できる筈だった。
不審者の侵入や魔物の襲撃で就寝時間がお預けになるのであれば、顔をしかめながら剣を抜くだけで済む。だが、今回は顔をしかめながら渋々対応できる状況ではない。
主君の寝室から、断末魔が聞こえてきたのだから。
「旦那様、何事ですか!?」
中年の騎士が叫ぶが――――――やはり、返事は帰ってこない。
貴族たちが彼らを恨む者たちに雇われた傭兵や暗殺者に殺されるのは珍しい事ではない。この屋敷の主人である男も、自分の利益のために税金を増やして住民たちを苦しめているのだから、住民たちに恨まれていてもおかしくはなかった。
この扉の向こうにあるのは、間違いなく主君の亡骸だろう。そしてその亡骸の傍らで待ち構えているのは、主君を消した殺し屋に違いない。
騎士たちは剣を抜く準備を整えつつ、突入するためにドアノブへと手を近づける。
だが―――――――手を伸ばした騎士の手がドアノブを捻るよりも先に、豪華な黄金のドアノブがゆっくりと回り始めた。
部屋の中にいる何者かが、ドアを開けようとしているのだ。
普通の暗殺者や殺し屋ならば、このドアを開けて騎士たちの目の前を堂々と逃げるような事はしないだろう。窓を開けてそこから飛び降り、一刻も早く屋敷から離れるのが当たり前である。窓がない部屋だったのならば仕方のないことかもしれないが、この部屋の中にはしっかりと窓があり、周囲に広がる街を見渡せるようになっていた筈である。
今の時刻は午前2時15分。外の道を歩く人はいないのだから、目撃者を恐れる必要は無い筈だ。
辛うじて生きていた主君が最後の力を振り絞ってドアを開けようとしているのだろうかと騎士たちは思ったが―――――――ゆっくりと開いたドアの向こうから姿を現した人物を目にした瞬間、全員絶句する羽目になった。
部屋の中から姿を現したのは、美しい1人の女性だった。肌の色は真っ白で、長い金髪を百合の花を模した純白の髪飾で彩っている。清楚で優しそうな美女だったが、彼女の姿を目にした騎士たちは1人も彼女の事を”美しい”とは思っていなかった。
彼女の身に纏う純白のワンピースに付着しているものと、華奢な左手が握っている物体を目にしてしまった衝撃が、彼女の美貌をショックで上書きしてしまったのである。
百合の花を模した髪飾りと共に彼女を彩る筈の純白のワンピースには、まるで迷彩模様のように鮮血が付着しており、部屋から出てきた彼女から美しさを根こそぎ奪い去ってしまっていたのである。そしてその美しさの代わりに放たれているのは、禍々しさと恐怖である。
そして彼女の華奢な手が掴んでいるのは、金色の頭髪が伸びた中年の男性の”頭”だった。その頭髪にもいくらか鮮血が付着しており、まるで長い間外に置かれていた鉄板の錆のようになってしまっている。
女性の華奢な腕力で、太り気味の中年男性を引きずり回せるのだろうかという疑問を、その中年男性の首の下から微かに覗く白い物体が薙ぎ払う。
そこから伸びているのは―――――――人間の首の骨であった。本来ならば首の下に繋がっている筈の胴体は存在せず、その胴体のとは比べ物にならないほど細くて短い首の骨の切れ端が、未だに鮮血が滴り落ちる断面から微かに覗いていたのだ。
華奢な女性の手に頭を鷲掴みにされているのは、間違いなく騎士たちの主君であった。
「ひぃっ!?」
「ぴ、ピエール様っ!?」
「きっ、き、貴様…………!」
華奢な女性に主君を惨殺された騎士たちが、ついに鞘の中の剣を引き抜き、それを構えながら女性を睨みつける。領内に住む住民たちを虐げていた貴族の家臣とはいえ、この屋敷を警備している騎士たちは各地の戦場に派遣されていた騎士たちの中からスカウトされてきた猛者ばかりである。毎日のように鍛錬を繰り返した彼らの剣術ならば、全く体を鍛えていない華奢な女性を無力化するには十分だろう。
しかし、熟練の騎士たちに睨みつけられているにもかかわらず―――――――その女性は、笑っていた。
虚ろな瞳で騎士たちを見つめながら、後ろに隠していた右手をゆっくりと振りかざす女性。首を切断した際に付着した鮮血で彩られたその手が持っていたのは、持ち主と同じく血まみれになったナイフであった。
騎士たちの持つロングソードよりもはるかに小柄なナイフだけで、彼らに勝てるわけがない。
しかし剣を向けている騎士たちは―――――――その女性が発する異様さを感じ取り、もしかしたら応援を呼ぶべきなのではないか、と考えていた。
女性が放つ禍々しさを目の当たりにして恐れたわけではない。目の前にいる異様な女性が、ただの女ではないという事を感じ取っていたのである。
最後尾にいた騎士に隊長が目配せし、応援を呼びに行かせようとした次の瞬間―――――――何の前触れもなく狂ったように笑い始めた女性がナイフを振り下ろし、美しい屋敷の壁が真っ赤に染まった。
「や、野蛮です…………」
里から持ってきたパンを食料の入っているポーチの中から取り出しつつ、ジャンヌは隣で鼻歌を歌いながら巨大な肉を焼く傭兵を見つめた。
彼が焼いているのは、数分ほど前に襲い掛かってきたゴブリンの肉である。人間よりも小柄な魔物の首と手足を切り落とし、胴体の皮を全て剥ぎ取ってから、焚火の火を使ってそのまま焼いているのだ。しかも串に使っているのは近くで拾ってきた樹の枝や金属製の串ではなく、そのゴブリンに止めを刺した彼の得物である。
敵を切り裂くだけでなく、剣を調理に使っているのを始めて目の当たりにしたジャンヌは、火を刺激するかのように肉汁を垂らすゴブリンの肉を見つめてから、千切ったパンを口へと運んだ。
「何がだ?」
「獲物を斬った剣を串の代わりにするなんて、信じられません」
「何言ってんだ、俺の同胞たちもよくやってたぜ」
「流行ってたんですかっ!?」
「だって串なんて持ってきてねえだろうが。売店もねえし丁度良さそうな枝も手に入ってないんだから、持っているものだけで何とかするしかねえだろ」
確かに、串がないのであればそれ以外のもので代用するしかない。アネモスの里の周囲には大量の木材があったが、仕留めた獲物をこのように丸焼きにするのは想定していなかったため、焚火に使えそうな少量の木材しか持って来ていなかったのである。
準備不足だったことを反省し始めたジャンヌだったが、串がないのであれば串焼きにしなければいいのではないだろうかと思った彼女は、首を傾げてからジノヴィの顔を見上げた。
たった2人だけで魔物が徘徊する草原を越えなければならないというのに、まったく心細さを感じない。隣にいるジノヴィが、里を襲撃してきた魔物たちを殲滅したのを目の当たりにしたからなのだろうか。
(どうすればこの人みたいに強くなれるんでしょう…………)
里の戦士たちと共に訓練を受けていたが、ジャンヌはまだ未熟である。槍の使い方や魔術は優秀と言えるが、まだ実戦の経験が浅いせいで正確な判断をする事ができないのだ。
そのような判断力は経験した量に左右される。何度も実戦を経験しているからこそ、ベテランの騎士や傭兵は正確に判断し、仲間に指示を出す事ができるのである。
その経験不足のせいでジノヴィの足を引っ張ってしまう事にならないだろうか、と里の惨劇の事を思い出していたジャンヌは、溜息をつきながら水筒を取り出す。
すると、とんとん、とやけに大きな手がジャンヌの華奢な肩を軽く叩いた。
「?」
「食うか?」
里の事を思い出している彼女を励ましてくれるのだろうか、と期待したジャンヌだったが、隣に立つ巨漢はただ単にゴブリンの肉を分けてくれるだけだったらしい。
戦いに関しては一流と言えるかもしれないが、彼女を気遣ってくれる気配は全くない。
少しばかりがっかりしながら、ジャンヌは首を横に振る。
「いりません。…………というか、ゴブリンって食用の魔物ではありませんよね?」
「そうだったのか? みんなはいっつも丸焼きにして食ってたぞ?」
「えぇっ!? あ、あり得ません! どんな仲間だったんですか!?」
魔物の中にも食べる事ができる魔物はいるが、間違いなくゴブリンは食用の魔物ではないだろう。肉が硬くて非常に食べ辛いため、ゴブリン以外に食料を確保できない場合はやむを得ず食べることもあるが、食料に余裕がある状態でゴブリンの肉を食べる者はいないのだ。
それに、姿が人間に近い魔物であるため、ゴブリンの肉を食べることを忌避するケースも多い。
愛用の剣に串刺しにされている肉を引っこ抜き、「勿体ねえなぁ」と言いながらゴブリンの肉に躊躇なく齧り付いたジノヴィを見たジャンヌは、ぎょっとしつつパンを千切って口へと運んだ。
「ところでジャンヌ、一番近い街はあとどれくらいで着く?」
「えっ? ええと、ちょっと待ってください」
既に、アネモスの里を取り囲む”アネモスの森”を抜けている。森の外に広がるのは広大な草原で、その草原の向こうに街があるのだ。
そこを素通りしても問題はないが、ジャンヌが旅に出た目的は”世界の浄化”である。目的地がある旅ではなく、世界中を旅しながら彼女の力を使って各地を浄化していかなければならない。それゆえに、街があるのであればそこに立ち寄ることが望ましい。
それに、野宿をするのであればどちらかが魔物が寄って来ないように周囲を見張っておく必要がある。野宿の方が費用は掛からないが、その分ジャンヌかジノヴィ―――――――経験を考慮するのであれば見張りはジノヴィの役目となる―――――――の負担が増えてしまう。
現時点では所持している資金に余裕もあるため、街に寄って宿で休息しつつ情報を集めることになったのである。
ランタンを拾い上げたジャンヌは、持っていた地図を広げて確認する。
「ええと、”ロイデンバルク”まではあと4時間ほどですね。馬車に乗せてもらえればもっと早く着くのですが…………」
「そりゃ難しいだろうな」
まず、この草原は魔物がよく出没するため、傭兵を護衛として雇えるほどの余裕がある商人でない限り通らない。仮に商人が通ったとしても、ジノヴィと一緒にいるのは奴隷にされることが多く、世界中で差別されているハーフエルフのジャンヌである。
耳を隠せば何とかなるが、一流の魔術師であれば体内の魔力の属性で種族を見破ることは容易いだろう。
それに、当たり前の話だが、商人たちが”タダで”馬車に乗せてくれる可能性は低い。彼らは商人なのだから、必ず報酬を要求する筈だ。
地図を見下ろしながら「そうですよね…………」と呟くジャンヌ。金色の頭髪から突き出ている耳に触れながら、彼女は溜息をついた。
「安心しろ、”中間地帯”の街にはハーフエルフだって住んでるし、そういう場所の連中は相手を差別しない。中立だからな」
中間地帯とは、この世界に存在するどの国の領土にも属さない地域の事である。その中間地帯に住む住民たちと条約を結び、大国の介入を拒んでいるのだ。
そんな条約を大国が認めてくれているのは、その代わりに中間地帯で採掘される金属などの資源を大国に納品するという条件があるからである。いくら広大な国土を持つ大国とはいえ、そのような資源がある中間地帯の街を自慢の騎士団に損害を出してまで支配するよりも、そういった条約を結んで済ませた方が効率的なのだ。
しかし、残念ながらアネモスの里で採れる木材には、中間地帯として大国からの干渉を防げるほどの魅力がないのである。
木材の品質は高いのだが、どの国も武器の素材を木材から金属へと切り替えつつある。そのためアネモスの里は帝国と取引をすることが許されていないのだ。
「それに帝国の騎士もいねえはずだ。条約にもよるが、基本的に中間地帯の街への騎士の駐留は認められてねえ。面倒なトラブルは起きねえだろ」
「詳しいのですね、ジノヴィ」
「当たり前だ。こう見えても世界中で戦ってきた傭兵だからな」
そう言うと、ジノヴィは焼けたゴブリンの肉から覗く骨盤を鷲掴みにし、そのまま一気に脇腹や胸板に残っていた肉を食い尽くし、残った骨を焚火の中へと放り込んだ。
「今夜は俺が見張るから、お前は寝とけ」
「…………申し訳ないです」
ジノヴィの方が何度も戦いを経験している。魔物が接近してくる足音や呼吸の音を瞬時に察知し、確実に彼女の身を守ってくれるだろう。
彼に負担をかけてしまうのは申し訳なかったが、ジャンヌはまだ魔物の足音を聞き分けることはできないし、その足音でどのような魔物なのか判断する事ができない。索敵の精度が劣るジャンヌよりも、ジノヴィの方が適任なのは火を見るよりも明らかであった。
ポーチの中から布を取り出したジャンヌは、自分のポーチを枕代わりにして横になる前に、それをジノヴィに手渡す。
「ん? なんだ?」
「油まみれの剣で戦うつもりですか?」
「んっ? …………おお、ありがとよ」
焼けたゴブリンの肉汁が付着しているツヴァイヘンダーを見たジノヴィは、苦笑いしてから布を受け取り、汚れた自分の剣の刀身を拭き始める。
素早く刀身を磨くジノヴィを見つめてから、ジャンヌは瞼を閉じて眠る事にした。