ジャンヌの旅立ち
身体中に包帯を巻いた戦士たちが、ゴブリンの死体を抱えて里の外へと歩いていく。
基本的に、戦場に死体を放置しておくのは好ましい事ではない。その死体から流れる血の臭いが魔物たちを刺激したり、呼び寄せてしまう恐れがあるからである。だから大国の騎士団たちは自分たちの拠点の周囲に転がっている死体を迅速に回収し、魔物が寄ってくる前に火葬しなければならなかった。
数分前まで殺し合っていた憎たらしい敵国の騎士や、一緒に訓練を受けたかけがえのない戦友であろうと、生き残った仲間を魔物から守るために火葬しなければならなかったのである。
そうしなければならないのは、魔物の死体も同じだった。
魔物の死体から流れる血も、他の魔物を呼び寄せてしまう。それゆえに仕留めた魔物の死体も大急ぎで里の外へと運び出さなければならない。そうしなければ、また魔物の群れが疲弊したアネモスの里に牙を剥くだろう。
中には、この戦いで命を落とした戦士の死体を背負い、涙を流しながら里の外へと向かう男たちもいた。背中に背負っている戦友の死体は襲撃してきた魔物たちに食われたのか、頭はまるで食べかけのビスケットのように欠けていて、頭蓋骨の断面と脳味噌があらわになっている。
彼らは、これから戦死した戦友たちを炎の中に放り込まなければならないのだ。
自分が討伐したトロールの肉を切っていたジノヴィは、巨大な肉に食い込んでいた鉈の柄から手を離し、唇を噛み締めた。
幼少の頃の彼も、あのように泣きながら同胞たちの亡骸を運んだことがあった。
彼の一族の力を恐れた大国が派遣した精鋭部隊によって、殺されていったかけがえのない同胞たち。まだ幼かったジノヴィは、憧れていた一族の傭兵たちの亡骸を背負って炎の中へと放り込み、彼らの亡骸を灰へと変えていったのである。
その時の事を思い出したジノヴィは、思い切り拳を握り締めた。
「ここにいたのか」
昔の事を思い出していると、近くを通りかかったハーフエルフの戦士に声をかけられた。
彼も死体を片付けている最中だったのか、身に着けている服には血やゴブリンの皮膚の一部などがこびりついており、禍々しさと猛烈な血の臭いを放っている。剣や槍で敵兵を殺すのが当たり前な戦場の臭いとそっくりだ、と思いつつ、ジノヴィは「ああ」と返事をしながら再び鉈へと手を伸ばした。
当たり前だが、里のど真ん中で倒れているこの3体のゴブリンの死体も処分しなければならない。しかし、10mの巨体をそのまま里の外へと運んでいくのは不可能なので、里の中で肉を切って巨体を解体し、有効活用できそうな骨などの素材だけは里の保管庫へと保管して、不要な肉や内臓だけを焼くのだ。
肉屋にでもなった気分だ、と思いつつ、ジノヴィは引き抜いたばかりの鉈を再び振り下ろし、太い骨に絡みついていた筋肉繊維を寸断する。ぼろり、と外れた巨大な肉の塊を皮膚ごと後ろにある荷馬車の荷台へと放り投げて汗を拭い去った彼は、鉈をトロールの肩の肉に突き立ててから問いかける。
「何の用だ?」
「長老から話があるらしい。報酬の件と新しい依頼だそうだ」
もしこのような惨劇が無ければ、顔をしかめていただろう。
アートルム帝国の軍勢を退け、無数のゴブリンとトロールの襲撃を撃退した直後だというのに、もう新しい依頼があるというのである。
しかし、里がこれほど大きな損害を被る羽目になった原因の1つは、ジノヴィが里の外へと偵察に向かっていたからでもある。もし仮に里に留まって戦闘態勢を整えていれば、正門の前に魔物の死体がいくつも転がっていた事だろう。
顔をしかめずに頷いたジノヴィは、鉈から手を離し、長老の家へと案内を始めたそのハーフエルフの戦士の後についていった。
ゴブリンの死体を荷台に乗せ、里の外へと運んでいく男性の戦士たち。中には倒壊した建物の瓦礫を必死に退け、中から出てきた女性の亡骸を抱きしめながら叫ぶ戦士もいる。彼女は彼の妻なのだろうか。
もっと早く里に戻っていれば、あの戦士の妻も救う事ができたかもしれない。そう思いつつ泣き叫ぶ戦士を一瞥して歩いているうちに、強烈な血の臭いが花の香りで消え去り始めていた。
惨劇があったというのに、辛うじて生き延びていた本来の里の香り。広大な森の中に囲まれた里を満たしていた甘い香りを放っているのは、木造の家の周囲に植えられた様々な色の花たち。先ほどまで強烈な血の臭いの中にいたからなのか、花壇の花が発する甘い香りはやけに濃密に思えた。
長老がいる家は、他の家よりもやや大きい程度だ。豊富な木材で建てられた2階建ての家で、やはり家の周囲は花壇で取り囲まれている。窓の中にも小さな植木鉢が並んでおり、その中には小さな花がいくつか植えられているのが見える。
ここへとやってくるのは何回目だっただろうかと思いつつ、槍を持った門番を一瞥して、案内してくれた戦士と共に敷地の中へと足を踏み入れる。この周囲はトロールの攻撃に巻き込まれずに済んだたらしく、周囲の建物は無傷だった。
入り口のドアの向こうへと進む前に、ジノヴィはちらりと自分の両手を見下ろした。先ほどまで鉈を使ってトロールの肉を切り、それを荷台へと放り投げる作業をしていたのだから、彼の両手は真っ赤に染まった挙句、小さな肉片やトロールの血がこびりつき、血の臭いを放ち続けている。
手を洗ってくるべきだったと後悔しつつ、ポケットの中にある薄汚れた布でその血を拭い去ってから、ジノヴィは長老の家へと足を踏み入れた。
長老の家の中も、アネモスの後の一般的な家とあまり変わらない。他の家よりも少し広めのリビングがあり、ど真ん中には森から採取できる木材で作られた大きなテーブルが居座っている。ここは応接室も兼ねているのか、テーブルの周囲にはこの家に住む長老の家族の人数よりも多めの椅子が用意されている。
その椅子に腰を下ろしている人物は、2人だった。
片方はこの里を統治する、アネモスの里の長老である。長い白髪の中から真っ白な長い耳が突き出たハイエルフで、口の周囲は白いひげで覆われている。顔にも皺があり、寿命が長いハイエルフの中でも大昔から生きている人物であることが分かる。
その長老の向かいの席に座っているのは―――――――トロールとの戦いの際に、ジノヴィを援護しようとしていたハーフエルフの小娘だった。
ジノヴィがここへとやってくる事を知らなかったのか、ちらりと入口の方を見た金髪のハーフエルフの少女が目を丸くする。
「遅かったのう、傭兵よ。…………まあ、座ってくれ。報酬を渡そう」
「で、次の仕事は?」
腰を下ろす前に、ジノヴィは問いかけた。しかし長老はその質問に答えるよりも先に足元に置いていた袋を拾い上げると、中に銀貨がどっさりと入ったその袋をテーブルの真ん中に置き、中身が見えるように紐を解く。
この世界では、金貨、銀貨、銅貨の3つが通貨として使われている。国によって物価は異なるものの、一般的な騎士の年収が金貨一枚と言われており、銀貨1000枚分の価値があるという。
袋の中に入っていたのは銀貨300枚。森の奥にある里の住民たちから見れば、かなりの金額と言えるだろう。
座らなければ答えてくれないだろうなと思ったジノヴィは、大人しく長老の向かいに座っている少女の隣に腰を下ろし、その銀貨へと手を伸ばして本物かどうか確認する。中には偽物の金貨や銀貨を払おうとするクライアントもいるため、ジノヴィは報酬を受け取る前にそれが本物かどうかチェックするようにしていた。
もちろん、偽物の報酬を払うクライアントからもしっかりと本物の報酬を受け取るようにしている。
貧しい里とは思えないほどの金額だったため、偽物なのではないだろうかと思って警戒したジノヴィであったが、その中に入っていた銀貨は本物だった。
気は済んだかと言わんばかりに彼を見つめる長老。溜息をついてから銀貨を袋の中へと戻すと、長老は話を始めた。
「里の防衛はご苦労じゃった」
「…………申し訳ない、かなり被害を出してしまった」
「いやいや、あんな大規模な群れに襲撃されたのに壊滅せずに済んだのじゃ。…………多くの若者が死んでしまったのは本当に残念じゃが、里が滅びずに済んだのは傭兵のおかげじゃよ」
「…………」
確かに、アネモスの里の規模ならばあれほどの魔物の襲撃を受ければ壊滅していただろう。だから壊滅せずに済んだのは幸運と言えるのかもしれない。だが、ジノヴィが偵察に向かっていなければもっと小さな被害で済んだかもしれないし、上手くいけば無傷で魔物の群れを撃退することもできたかもしれない。
それゆえにジノヴィは、この報酬を受け取る事を躊躇していた。
「…………それで、新しい依頼をお願いしたい」
「ああ」
もしかしたら、その依頼を終えた後にもまた別の依頼を頼まれるかもしれない。この長老が老衰で死ぬまでは失業することはないだろうなと思いつつ、彼は顔を上げた。
既に魔物と帝国は撃退しているため、この里で依頼されそうなのはあの死体の処分くらいだろう。しかしその最中に呼び出してきたという事は、別の依頼があるという事だ。もしあの死体の処分を依頼するのであれば作業が終わってから彼を呼び、死体の処分をさせた分を増額させれば済む話である。
すると長老は、ジノヴィの隣に座っている金髪の少女を指差した。
「彼女の護衛を依頼したい」
「この小娘をか?」
そう言いながら隣を見たジノヴィは、少女の美しい金色の髪の両脇から長い耳が突き出ているのを見て、小娘と呼んでしまったことを公開した。エルフやハーフエルフの寿命は人間よりも非常に長いため、傍から見れば小娘にしか見えない容姿でも60歳を超えていることは珍しくないのである。
しかし、隣に座る少女は本当にまだ若いハーフエルフだったらしく、小娘と呼ばれたことに怒っている様子はなかった。
「彼女の名はジャンヌ・ダルク。”世界を浄化する”という特別な使命を与えられた少女じゃ」
「浄化? 戦争だらけのこの世界をか?」
「その通りじゃ。彼女は人間の魂を転生させ、欲望を浄化させる特別な力を持っておる」
「転生…………」
大昔から、そのような特別な力を持つ者たちが、戦場を徘徊する戦死者たちの魂が憎しみに汚染される前にその魂を別の世界へと転生させ、救ってきたという。
幼い頃に憧れていた同胞が誕生日にプレゼントしてくれた御伽噺の本の事を思い出し、ジノヴィは目を細めた。その本の内容は、特別な力を持つ巫女と彼女を護衛する騎士が世界中を旅するという内容であり、ジノヴィがこれから引き受けることになる依頼とそっくりだったのである。
確かに隣に座る凛とした少女は巫女と言えるかもしれないが、ジノヴィは血まみれになりながら戦う野蛮な男である。甲冑に身を包んだ凛々しい騎士とは呼べない。
「これからこの里を旅立ち、世界を浄化する旅を始めてもらう予定なのじゃ。じゃが、今回の戦いで大勢の戦士たちが命を落としてしまった。…………彼女の護衛を任せられるのは、お主しかおらん」
「…………里はいいのか」
この依頼を引き受ける前に、ジノヴィは長老に尋ねた。
あの魔物の死体を処分すれば、魔物たちも寄ってくる事はないだろう。とはいえアートルム帝国は未だにアネモスの里の侵略を目論んでおり、再び襲撃してきてもおかしくない状態だ。魔物の襲撃で半数の戦士が戦死した挙句、ジノヴィまで不在の状態のアネモスの里では、アートルム帝国を迎え撃つことは不可能だろう。
それに里の攻略に失敗しているのだから、今度は以前よりも多くの兵力を派遣するに違いない。もしそんなことになれば、確実にアネモスの里はこの森から消滅してしまう。
だからこそジノヴィは、首を縦に振る前に確認した。本当に自分が里を後にしてもいいのか、と。
「別の傭兵を雇えば大丈夫じゃろう。あのトロールの素材を売れば、傭兵を雇うための資金にもなるしのう」
「…………分かった」
トロールは危険な魔物であるため、討伐するには虎の子の魔術師を投入しなければならないと言われている。そんな魔物の素材を売ればかなりの金額になる事だろう。上手くいけば、10人くらいの傭兵を雇うのも難しくないかもしれない。
傭兵の実力にもよるが、それならばアネモスの里は安全だ。
自分がいなくても大丈夫そうだと判断したジノヴィは、首を縦に振った。
「――――――――その依頼、引き受けさせてもらう」
愛用の槍を背負い、薬草の入った瓶をポーチの中へと詰め込んでから、ジャンヌは住んでいた家を後にした。旅を終えて里に戻ってくるのはかなり後になるため、新しい家が建てられるまで住む家のない住民たちに彼女の家を利用してもらうことになっている。だから玄関に鍵はかけずに、そのまま里の正門へと向かって歩き出した。
今の時刻は午前5時30分。周囲を大きな樹たちに囲まれているため、アネモスの里に朝日が流れ込む時間は遅い。そのため周囲は未だに薄暗く、建物の窓際や花壇の縁に置かれた小さなランタンたちが、弱々しい光で里の中を一生懸命に照らしている。
昨日の死体の処分で住民たちは疲れてしまったのか、外を出歩いたり作業をしている者たちは見当たらない。見送ってくれる人はいるだろうか、と思っていたジャンヌは、寂しさを感じながら歩き続けた。
ジャンヌがジノヴィと共に旅に出るという事は、まだ住民たちには話されていない。だから住民たちがジャンヌを見送りに来ないのも仕方のない事だろう。
「おう、結構早いな」
既に、正門には彼女の護衛を担当する傭兵が待っていた。
狼の毛皮を素材にして作られた服を身に纏い、背中に巨大な大剣を背負った荒々しい男である。首には狼の牙を素材に使ったと思われる首飾りを付けており、その首飾りの下から覗くのは鍛え上げられた胸筋であった。
正門のすぐ近くには焚火をした跡があり、彼が昨晩からここで待っていたという事を告げている。
「…………長老が与えた家は使わなかったのですか?」
「家を失った奴らがいっぱいいるのに、俺だけ立派な家でくつろぐわけにもいかねえだろ」
彼は自分のために用意された家を魔物の襲撃で家を失った人々に使わせ、ここで魔物がまた襲って来ないか警備をしていたのである。偵察に向かっている最中だったとはいえ、里への攻撃を許してしまったことの罪滅ぼしなのだろうと察したジャンヌは、目を細めながらジノヴィを見つめた。
「で、忘れ物はねえな?」
「ええ。回復アイテムはちゃんと持ちましたし、食料もあります。お金も持ってきたので足りない物は売店で購入すれば問題ないかと」
「よし、なら大丈夫だ。それじゃあ出発するか」
「はい」
正門に寄り掛かっていたジノヴィが、がっちりとした筋肉で覆われた両腕で正門を開けていく。
正門の向こうには、未だに焼け野原と化した森が広がっていた。奥の方には辛うじて燃えずに残った樹も見受けられるが、正門のすぐ前の大地は黒焦げになった倒木たちのせいで真っ黒に染まっており、その黒い大地のいたるところに灰がばら撒かれているのが見える。
昨日すぐに処分した、魔物たちの死体を焼いた灰だ。戦士たちの遺体を焼いた灰はもう既に里の中の墓地に埋葬されているため、地面にばら撒かれているのは魔物を焼いた灰なのだろう。
出発する前に仲の良かった戦士たちに挨拶したかったな、と思いつつ、ジャンヌはジノヴィと共に里の外へと歩いていく。
彼女に与えられた使命は、世界の浄化。
憎しみや欲望で侵食されつつあるこの世界を、救わなければならないのだ。
(行ってきます、みんな…………)
世界を浄化する力を持った少女は、まだ家の中で眠っている仲間たちに別れを告げると、傭兵と共に焼け野原と化した大地へと向かって歩いていった。
第一章 完
第二章へ続く