最も残酷な事
トロールは、ゴブリンたちとは比べ物にならないほど危険な魔物と言われている。
平均的な身長は10m以上と言われており、極めて強靭な骨格を分厚い筋肉と脂肪が覆っている。その気になればその剛腕で要塞の門を木っ端微塵にしてしまうほどの攻撃力を誇っており、場合によっては獰猛なドラゴンですら一撃で殴り殺し、そのまま捕食してしまうこともあるという。
大半のトロールは素手で攻撃してくるのだが、中には木製の棍棒―――――――棍棒とはいっても太い木の幹である―――――――を装備している個体もいる。ドラゴンを殴り殺すほどの腕力で棍棒を振るうのだから、その破壊力とリーチが騎士たちに猛威を振るうのは想像に難くない。
防御力も非常に高いため、当たり前だが剣で斬りつけた程度で討伐するのは不可能である。木製の矢どころか鋼鉄製の矢を何万本放っても、屈強なトロールたちは進撃を続け、人類を蹂躙し続けるだろう。
それゆえに、彼らを討伐するには虎の子の魔術師を投入するしかないのだ。
魔力を消費するものの、剣よりもはるかに強烈な一撃を、弓矢よりも遠くから放つことができるのである。しかし魔術師は非常に貴重な戦力であり、その魔術師の実力によっては大国への抑止力としても機能するため、トロールの討伐のために魔術師を派遣する国はそれほど多くはない。
要するに、剣や槍で武装した戦士だけでトロールに挑むのは自殺行為でしかないのだ。
どれだけ剣で斬りつけても、意に介さずに前進してくるトロールの剛腕の餌食になるのが関の山である。
里に入ってきたトロールが1体だけだったのであれば、ジャンヌたちにも勝機はあった。ジャンヌは槍を扱うことを得意としている戦士の1人だが、風属性の魔術も得意としているため、トロールの剛腕を回避して懐へと飛び込む事さえできれば、トロールを討伐することはできただろう。
だが―――――――里の中に入ってきたのは、1体だけではない。
何も手にしていないトロールが2体と、巨大な樹の幹を棍棒代わりに持っているトロールが1体である。
「そ、そんな…………」
「群れで入ってくるなんて…………ッ!」
「どうするの…………? あんなのに勝てるわけないじゃない!!」
「諦めんな! いいから矢をつがえるんだ!」
里の戦士たちが戻ってきてくれれば勝てるだろうか、と思いつつ、ジャンヌは槍を構え直す。里の中には何名か優秀な魔術師がいるが、その魔術師たちは正門の外の魔物たちを迎撃するために正門へと向かっていた筈である。
その正門はもう既にあのトロールたちに粉砕されているのだから―――――――魔術師たちが生き残っている可能性は、極めて低い。
少数の戦士と効果の薄い攻撃で、トロールたちに立ち向かわなければならないのだ。
しかも外で戦っていた戦士たちが、ジャンヌたちに加勢しにやってくる可能性もかなり低い。まだ辛うじて防壁の外からは戦士たちの雄叫びが聞こえて来るものの、彼らの声は戦意の高い戦士たちの雄叫びというよりは、絶望に士気を破壊されないように耐えているかのような、頼りない声であった。
外の戦士たちの状況も絶望的であるのは、火を見るよりも明らかである。
今すぐに魔力の加圧と詠唱を始めれば、少なくとも里の中へと入ってきたトロールのうちの1体に先制攻撃を叩き込むことはできるだろう。その一撃で倒す事ができれば、残った2体のトロールも魔術による不意打ちで致命傷を与えることはできるかもしれない。
大きな足音を響かせながら近づいてくるトロールを睨みつけつつ、ジャンヌが作戦を立てた次の瞬間だった。
先頭のトロールが地面から何かを拾い上げたかと思うと、それを正面へと向けて放り投げてきたのである。
自分たちがトロールの正面に立っているとはいえ、まだ弓矢の射程距離外である。それだけ距離があればトロールも身体の小さいジャンヌたちを視認できないだろうと高を括っていたジャンヌたちは、ぎょっとしながら姿勢を低くした。
巨大な塊が、土と血の混じった臭いをまき散らしながら、まるで隕石のようにジャンヌの頭上を通過していく。
トロールが投擲したのは、里の中にあった岩であった。里に住んでいる戦士たちからすれば人間を容易く押し潰してしまうような大きさの岩だが、ドラゴンを殴り殺す事ができるほどの筋力を持つ巨大なトロールたちからすれば、その大きな岩は小石のようなものなのだろう。
ジャンヌの頭上を通過した血まみれの岩―――――――ゴブリンたちの返り血だろう―――――――はジャンヌの後ろで地面に着弾してバウンドすると、土と肉片をまき散らしながら一瞬だけ上昇して再び地面に激突し、そのままゴロゴロと後ろへと転がっていった。
「お、おい、エンシオ…………ティアナ…………!」
頭上を通過した岩が自分に当たらなくてよかった、と安心していたジャンヌの心に、絶望に侵食された仲間の悲鳴が杭を突き立てる。
ぎょっとしながら後ろを振り向いたジャンヌは、目を見開いた。
トロールの腕力によって放り投げられた岩が穿った場所の上に―――――――土まみれになった2つの死体が、転がっていたのである。
「―――――――!」
さきほどジャンヌと共にゴブリンたちを迎え撃った3人の戦士たちの内の2人だということを察したジャンヌは、唇を噛み締めながら槍の柄を握り締めた。
岩はジャンヌの頭上を通過したため、ジャンヌは全くダメージを受けなかった。しかしジャンヌを掩護するために彼女の後ろに陣取って矢を構えていた哀れな2人は、トロールの放り投げた岩の餌食になってしまったのである。
強靭な腕力によって放り投げられた岩の破壊力は、ちょっとした艦砲射撃に匹敵することだろう。砲弾のように爆発はしないものの、岩の重量とトロールの腕力によって産声を上げた運動エネルギーに、人類の防御力が太刀打ちできるわけがなかった。
落下してきた岩に磨り潰される羽目になったエンシオとティアナはあっという間に身体中の骨と内臓を潰された挙句、全身の筋肉繊維をズタズタにされ、即死する羽目になったのである。
「くそ…………何なんだよ…………ッ! あの傭兵は何をやってんだ!」
「ヨハン、落ち着いてください」
土まみれにされた挙句、身体中から剥離した肉片や内臓で抉れた地面を真っ赤に染めているエンシオとティアナの死体を見下ろしていたヨハンが、拳を2人の血で湿っている地面に叩きつけた。
仲間を殺された絶望と怒りは、ジャンヌも感じている。しかしヨハンはジャンヌのように矛先をトロールだけに向けているわけではないということを悟ったジャンヌは、彼を制止しようとした。
ヨハンの怒りは、トロールだけでなくあの傭兵にも牙を剥こうとしていたのである。
「あいつがちゃんと里を守ってれば、この2人は死なずに済んだんだ! なのに…………くそっ、エンシオの野郎は来週に結婚する予定だったんだぞ…………ッ!」
「ヨハン、あの傭兵は偵察に行っているだけです。里を見捨てたわけがないではないですか」
「そんなわけあるか! 逃げたんだよ、あの傭兵は!」
「―――――――そんなわけあるか、大馬鹿野郎」
仲間たちの死体から飛び散った鮮血で濡れた土を握り締めていたヨハンの怒りを、2人の後ろから響いてきた低い男性の声が弾き飛ばす。
ジャンヌ以外の仲間に制止されたことに驚いたヨハンは、ぎょっとしながら顔を上げた。
「お、おっさん………?」
「おじさん…………」
2人の後ろから姿を現したのは、棘のついた金属製の棍棒を肩に担いだ鍛冶屋の店主であった。アートルム帝国の騎士が装備していた棍棒やメイスを鹵獲して改造し、槍の先端部に装着した代物らしく、彼が担いでいる棍棒の柄の長さはジャンヌの持つ槍に匹敵するほど長い。
鍛冶で鍛え上げた剛腕でそれを叩きつけられれば、どんなに巨大な魔物の骨でもあっという間に粉砕されてしまうだろう。
荒々しい棍棒を肩に担いだ鍛冶屋の店主は、ゆっくりと接近してくるトロールを睨みつける。
「…………ヨハン、俺の店の地下室に住民を避難させろ」
「え?」
「工房の角にある棚をずらせば、下に降りれる階段がある筈だ。素材の保管に使ってる部屋だからそれなりにスペースはある。20人くらいなら問題ねえだろ」
「ま、待てよおっさん…………立て籠もれってか?」
店主は黙ったまま、棍棒を構えた。
3体もトロールが里に入ってきているというのに、それを迎え撃つ戦力がほとんど残っていないのである。1体のトロールを討伐するためには虎の子の魔術師を投入しなければならないと言われているのだから、正気がないのは火を見るよりも明らかである。
だから店主は、あのトロールを返り討ちにすることを諦めたのだ。ここでトロールたちと戦って玉砕するよりも、自分が戦って時間を稼いでいる間に生き残った住民たちを避難させ、トロールたちがこの里に住み着かずに去っていくのを祈りながら生き延びさせようとしているのである。
彼の作戦を悟ったエンシオは、顔を青くしながら首を横に振った。
「な、何言ってんだよ…………おっさんも逃げようぜ?」
「バーカ。時間稼がなきゃ追いつかれるだろうが。…………ジャンヌ、お前もヨハンと行け。経験の浅いお前らじゃ時間稼ぎは重荷だ」
「ですが…………」
ジャンヌは反論しようとしたが、自分の経験の浅さが原因で足手まといになってしまうかもしれないという不安が、反論しようとしていた言葉たちを消滅させてしまう。
使命を与えられていた彼女は、仲間たちにずっと守られ続けてきた。そのため魔物の討伐や里の防衛戦に参加させてもらったことは殆どない。今回の防衛戦が初陣と言っても過言ではないのである。
しかもトロールと戦った経験もないのだ。冒険者が出版した魔物の図鑑を取り寄せて何度も読んでいたおかげで習性や特徴は把握していたが、実際にその分厚い肉を斬りつけたことはない。ドラゴンを殴り殺す剛腕の破壊力を目にしたのは、数秒前が初めてなのだ。
あまりにも経験が浅すぎたのである。
鍛冶屋の店主は肉刺だらけの手をジャンヌの頭の上にそっと置くと、まるで叱りつけられた愛娘を慰める父親のように、優しい声で言った。
「それに、お前には使命もある。…………お前を死なせるわけにはいかねえんだよ、ジャンヌ」
「おじさん………」
「だからよ…………生きて使命を果たしてくれ。頼んだぜ」
そう告げると同時にジャンヌの頭から手を離し、店主は金属製の棍棒を構えながら走り出した。ジャンヌは慌てて彼を呼び止めようとして手を伸ばしたが、彼女も走り出すよりも先にヨハンがジャンヌの腕を掴み、店主を追いかけようとするジャンヌを制止する。
放せと言わんばかりにジャンヌは彼の腕を振り払おうとしたが、悔しそうに槍の柄を思い切り握りしめた彼女は、諦めてトロールに突撃していく店主を見守った。
自分たちへと突っ込んでくる店主を見つけた3体のトロールが、咆哮を発してから剛腕を振り下ろす。いくら屈強な騎士でもドラゴンを殴り殺すほどの破壊力を持つ拳で叩き潰されれば、あっさりとミンチにされてしまうのは想像に難くない。それにそのパンチが地面に激突すれば、人間の身体を呆気なく吹き飛ばしてしまうほどのちょっとした衝撃波も産声を上げる。
しかしトロールへと突撃していった店主は、その拳が”着弾”する場所と衝撃波が猛威を振るう範囲を熟知していたかのように、すぐに右へと思い切りジャンプした。傍らに転がっていたゴブリンの死体を直撃した拳を無事に回避した店主は、姿勢を低くしつつ棍棒を振り上げ、引き戻され始めたトロールの剛腕を鉄製の棍棒で殴りつける。
まるでメイスにスパイクを取り付けたかのような荒々しい先端部が、ぐしゃ、とトロールの皮膚の一部を抉る。モスグリーンの皮膚が剥がれて肉があらわになり、傷口から噴き出た鮮血が棍棒のスパイクを赤く染める。
だが、人類よりもはるかに巨大な身体を持つトロールたちには、その一撃は無意味であった。
意に介さずに腕を引き戻しつつ、反対の腕を薙ぎ払うトロール。店主は更に距離を詰めて剛腕の一撃を回避しつつ、今度は血まみれの棍棒を思い切りトロールの爪先へと振り下ろす。
「うおぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
鋼鉄製の棍棒が、今度はトロールの爪先にめり込んだ。先ほどと同じくトロールに致命傷を負わせることはできなかったものの、トロールたちの注意を引くことには成功したらしく、他のトロールたちまで奮戦する店主へと拳や棍棒を振り下ろし始める。
トロールたちの攻撃をひたすら回避しつつ、攻撃を叩き込めるタイミングを逃さずに反撃。トロールたちの剛腕や巨大な脚に棍棒で傷をつけながら、巨大な怪物たちの足元を走り回る。
怪物たちを圧倒しているわけではなかったが、店主はたった1人でトロールたちと奮戦しているのである。
もしかしたら今すぐ援護すれば勝てるのではないか、と思ったジャンヌは、顔を上げてヨハンの顔を見上げた。店主の戦いを目にしていたヨハンも同じことを考えていたらしく、ジャンヌを見下ろしながら頷くと、背負っていた木製の弓を取り出しつつ矢筒から矢を引き抜く。
攻撃を回避しつつ反撃している店主をトロールが集中攻撃している隙に、ジャンヌが魔術を詠唱して強烈な一撃を叩き込み、トロールたちを各個撃破していけばいいのだ。あのトロールたちさえいなければ魔物たちを撃退することはできる筈である。
だが―――――――奮戦するハーフエルフの店主を見つめていた2人は、たった1人でトロールたちと死闘を繰り広げている彼の戦い方を見てしまったせいで、魔物と人類の筋力以外の差”を見落としていた。
―――――――スタミナである。
「!」
攻撃を回避しようとしていた店主の肩を、トロールの指が掠める。人間の腕よりも太い指が凄まじい腕力で当たるだけでも、まるで金属の棍棒で殴打されているかのような衝撃である。その衝撃で体勢を崩してしまった店主は慌ててジャンプして攻撃を回避しようとするが、体勢を立て直していた最中に飛来した強烈な一撃が、店主のすぐ近くに着弾し、店主の身体を吹き飛ばしてしまう。
「お、おじさんッ!」
当たり前だが、人間と魔物のスタミナの差はかなり大きい。店主のようにひたすら攻撃を回避しつつ反撃していたとしても、相手は重い剛腕を自由自在に振り回し続ける事ができるほどのスタミナを持っているのだから、先にスタミナを使い果たしてしまうのは人類の方である。
だからこそ店主は、2人に逃げろと言ったのだ。
店主がスタミナを使い果たし、攻撃を回避できなくなる前に。
しかし2人は店主が奮戦しているのを見て、人類と魔物のスタミナの差を見落としてしまっていたのである。
吹き飛ばされた店主が、棍棒を掴みながら立ち上がろうとする。しかし先ほど吹き飛ばされた際に身体の骨が折れたらしく、店主の動きはかなり鈍くなっていた。
まだ抵抗しようとする小さな男を見下ろしながら、トロールたちは無慈悲に拳を振り上げる。隣に立っているヨハンが「逃げろ」と叫んだが―――――――店主がそれを聞き取るよりも先に、巨大な怪物の振り下ろした一撃が、致命傷を負っていたハーフエルフの店主の肉体を押し潰していた。
拳が肉体もろとも地面を押し潰す音と、抵抗しようとしていた店主の骨が潰れる音。人類の骨が潰れる音は予想よりも湿った音なのだということを理解した瞬間、ジャンヌは絶叫する。
「―――――――嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
店主の指示通りに逃げていれば、彼は無駄死にせずに済んだ筈だ。
彼がせっかく覚悟を決めてくれたというのに、ヨハンとジャンヌは店主を無駄死にさせてしまったのである。彼の肉体を押し潰したトロールよりもはるかに残酷なことをしてしまったと悟ったジャンヌは、唇を噛み締めつつ、ゆっくりと地面から血まみれの拳を引き抜くトロールを睨みつける。
ぼとん、と拳にへばり付いていた死体の一部が、血で湿った地面の上に転がる。まだ抵抗しようとしていたかのようにへばりついていたのは、先ほどまで戦っていた店主の頭であった。
地面の上に転がり、割れていた頭からピンク色の脳味噌をまき散らす店主の頭。どうして逃げなかったんだと言わんばかりにヨハンとジャンヌを見つめる店主の頭を一瞥したジャンヌは、槍の柄を思い切り握りながら先端部をトロールへと向ける。
(ごめんなさい…………ごめんなさい…………ッ!)
あの世に行ったら、店主に叱りつけられるに違いない。
覚悟を決めた戦士を無駄死にさせることは、最も残酷な事なのだから。
「―――――――うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
槍を構え、店主を潰したトロールへと突撃していくジャンヌ。店主のように回避しながら戦えば少しはダメージを与えられるだろうと考えていたが、彼女のスタミナがトロールを上回っているわけがない。持久戦になればどちらが有利なのかは火を見るよりも明らかであった。
不利な戦いを挑もうとした、その時だった。
『ギッ―――――――』
ずしん、と、落下してきたトロールの頭が大きな音を奏でたのである。
「え―――――――」
まるで、突撃しようとするジャンヌを止めようとするかのように目の前に落下してきたのは、切断されたトロールの頭であった。これから少しでもダメージを与えようとしていた怨敵の顔を見つめていたジャンヌは、呆然としながら顔を上げる。
彼女の目の前に立ちはだかっていたのは―――――――何者かに首を切断された、”頭のないトロール”であった。
断面から鮮血を噴き上げ、後ろへと崩れ落ちていくトロール。
当たり前だが、ジャンヌが放った一撃が原因ではない。第一、ジャンヌはまだトロールへと攻撃すら放っていないのだ。
トロールを一撃で討伐したのは、別の人物である。
「―――――――下がってろ、女」
「あなたは―――――――」
立ち止まったジャンヌに告げながら彼女の目の前に降り立ったのは―――――――狼の毛皮で作った荒々しい服に身を包んだ、1人の傭兵であった。