怪物たちの襲来
巨大な樹たちを素材にして作られた正門が砕け散る音が、アネモスの里の中を突き抜けた。正門の方向で生れ落ちたその轟音たちは、数多の残響を従えながら里の中を疾駆し、魔物たちを迎え撃つために戦いに行った戦士たちが無事に帰ってきますようにと祈り続けている住民たちに絶望を与えた。
その轟音は、里の入り口に鎮座する分厚い正門が突き破られたことを意味しているのだから。
素材は周囲の樹から採れる木材とはいえ、普通の魔物が体当たりした程度ではびくともしない。さすがに帝国の要塞に鎮座する鋼鉄の正門と比べると防御力は低いものの、いくら無数の魔物たちが攻め込んできたとはいえ、体当たりで突き破ったり、強引によじ登って突破するのは至難の業である。
更にアネモスの里は、今回の襲撃では傭兵に頼ってしまうことになったとはいえ、屈強な戦士たちに守られた強靭な里である。分厚い正門と熟練の戦士たちに守られているのだから、いくら魔物が攻め込んできたとしてもその正門が突破されることはない。
しかしその正門が突き破られた轟音が、里の住民たちへと絶望を与える。
正門が突き破られたということは、防壁の外にいる魔物の群れが里の中へと入り込んでくるということを意味する。そして正門の突破を許してしまったということは、防壁の外へと飛び出していった戦士たちが魔物の群れに蹂躙されてしまったということを意味していた。
「せ、正門が…………!」
正門のある方向で、これ見よがしに噴き上がる土埃。里を彩っていた植物たちや土と一緒に舞い上がるのは、運悪くその正門を破壊した魔物の攻撃に巻き込まれて木っ端微塵にされてしまった戦士の肉片と、今まで里を守り抜いてきた堅牢な正門の残骸。
魔物の攻撃によって一時的に与えられた運動エネルギーを使い切り、段々と大地へ引き返していたその残骸を見上げたジャンヌは、目を見開きながら槍の柄をぎゅっと握りしめた。
―――――――正門が突破されたということは、魔物たちが里の中へと入ってくる。
アーシャには「里の中で待っていなさい」と言われたが、もう彼女の言う事を聞いているわけにはいかない。ジャンヌも使い慣れた槍や得意な風属性の魔術で戦う事ができるのだから、戦士の1人として里の防衛戦に参加しなければならない。
「ッ!」
唇を噛み締めながら、ジャンヌは走り出す。
正門が突破されてしまったとはいえ、辛うじてまだ防壁の外では戦士たちの雄叫びが聞こえてくる。ということは、少なくとも外に出撃していった戦士たちは”全滅”したわけではない。彼らが正門が突破されたことに気付き、里の中での防衛戦に参加してくれるまで持ちこたえれば、この理不尽な魔物たちの襲撃に勝利する事ができるのだ。
「早く里の奥へ!」
まだ家の中にいる住民たちに避難するように指示を出しながら、ジャンヌは槍を装備したまま正門へと突っ走る。
里の奥とは言っても、中へと入り込んだ魔物たちが臨時の”最終防衛ライン”を突破すればもう終わりだ。戦うための訓練を受けていない哀れな戦士たちの家族は魔物たちに食い殺され、植物の代わりに食べ残された肉片や鮮血でこの里の残骸を彩ることになるだろう。
魔物に蹂躙されて廃墟と化した里の中に、親友のアリーシャやお世話になっている鍛冶屋のおじさんの死体が転がっている光景を想像してしまったジャンヌは、歯を食いしばりながら、そんな光景を想像してしまった自分を憎んだ。
(怖がってる場合じゃない…………!)
そんな光景が現実にならないために、これから魔物を屠りに行くのだから。
家から飛び出し、必死に里の奥へと逃げていくエルフの住民たち。家の中から里の奥へと避難していくのは女性や子供たちばかりで、中には年老いた老人たちもいる。戦士たちは基本的に若い男性たちによって構成されているため、逃げていく人々の中に若い男性たちは全く含まれていなかった。
「ジャンヌ、お前も戦うのか!? お前には使命が―――――――」
「でも今は里が最優先です!」
出撃するのが遅れたのか、家の中から弓矢と矢筒を持って飛び出してきたエルフの戦士にそう言ったジャンヌは、土煙に呑み込まれた防壁の方を睨みつけた。
外からは相変わらず戦士たちの雄叫びが聞こえてくるが、段々と魔物の咆哮や呻き声が大きくなっているのである。その魔物たちの唸り声を穿つのは、戦士たちの荒々しい雄叫びや、魔物にやられた戦士たちの断末魔。
誰が殺されたのだろうか、と考えたその時、崩壊した正門の残骸の向こうから、オリーブグリーンの皮膚に身を包んだ小柄な人影が顔を出した。
身長は人間よりも明らかに小さい上に、手足はまるで飢えているかのように細い。しかしその細い指の先端部からは猛獣を彷彿とさせる鋭い爪が伸びており、痩せ細っているからと言って弱いわけではないということを告げている。
胴体も痩せ細っていると思いきや、腹だけは膨らんでおり、その上に乗っている胸板は手足と同じく痩せ細っているように見える。その胸の上に伸びる首も同じく痩せ細っており、大きな口の中には人間よりもはるかに鋭い牙がこれでもかというほど並んでいて、よだれで濡れている。
「ゴブリン…………!」
あらゆる場所に生息している魔物の一種である。
それほど手強い魔物ではないものの、群れで行動するため、ゴブリンと一対一で戦うことになるのはほぼあり得ないと言っても過言ではない。基本的な攻撃は爪での攻撃や牙で噛みついてくることが大半だが、中には死亡した兵士の武器を鹵獲して振り回す個体や、魔術を使ってくる変異種もいることがある。
しかも極めて繁殖力が高いため、定期的に掃討作戦を実施しなければあっという間に草原や森の中がゴブリンで埋め尽くされてしまう。
里の中に入り込んできたゴブリンを睨みつけたジャンヌは、他の戦士たちが矢筒の中から木製の矢を引っ張り出したのを確認してから、すぐに走る速度を上げた。出撃が遅れたことでこの里の中での防衛戦に参加する事ができた戦士たちの装備は木製の弓矢ばかりである。近距離用の得物を持っているのはジャンヌだけなのだから、槍を持って突撃し、ゴブリンの群れを攪乱して仲間が援護射撃し易い状況を作らなければならない。
『ギィィィィィ!』
(得物は無し…………リーチならばッ!)
ゴブリンたちは今のところは丸腰だ。戦死した戦士たちから武装を鹵獲したり、魔術を使う事ができる特殊な個体は含まれていない。
一気に加速しつつ姿勢を低くし、木製の柄を握りつつ両肩から力を抜く。先端部をゴブリンへと向けながら狙いを定めたジャンヌは、踏み込むと同時に両腕に力を込め―――――――彼女の瞬発力によって加速した2m以上の長さを誇る特注品の槍を、ゴブリンの喉元へと向けて突き出していた。
「こちらが上ッ!」
ぐさり、とロングソードの刀身にも似たデザインの先端部がゴブリンの喉をあっさりと貫く。柔らかいモスグリーンの皮膚を穿って首の骨を突き破り、うなじの皮膚を貫通して血まみれになった刃があらわになった頃には、一番最初にジャンヌの強烈な突きの餌食となった哀れなゴブリンは呻き声を発しながら身体を痙攣させ、アネモスの里の大地を覆う緑の草たちを鮮血で赤く彩る。
槍を引き抜こうと腕を持ち上げたゴブリンがジャンヌの槍を掴もうとするよりも先に、皮膚と肉を貫く感覚を感じたジャンヌはそのまま槍を思い切り振り回し、喉を貫かれたゴブリンを群れが押し寄せてくる方向へと投げ飛ばしていた。傷口から溢れ出る鮮血が散弾のように飛び散り、後続のゴブリンたちに先陣を切ったゴブリンが早くも殺されたことを宣言する。
いきなり仲間が瞬殺されたことを知って躊躇ってくれれば時間を稼ぐ事ができるのだが、血まみれになった槍を構え直したジャンヌは、すぐにその考えを投げ捨てた。
相手は獰猛な魔物である。もし仮に冷静な人間が相手だったのならば、迂闊に突撃すれば槍の餌食と化すだろうと判断し、慎重に攻めようとする筈である。だが、ジャンヌたちが死闘を繰り広げなければならないのは躊躇いなく騎士団や人類に襲い掛かり、彼らを食い殺す魔物たちだ。仲間が瞬殺されてもお構いなしに突っ込んでくるのは想像に難くない。
案の定、仲間の返り血を浴びた一匹のゴブリンがジャンヌに飛びかかろうとして、後ろにいた仲間の矢によって射殺された。
顔面に矢を叩き込まれたゴブリンが地面に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
一番最初にジャンヌが先制攻撃を仕掛け、ゴブリンたちの注意を引いたのが功を奏した。里の中に入り込んだゴブリンたちは、彼女の後ろに3名の戦士たちが立って弓矢を構えているにもかかわらず、仲間を殺したジャンヌしか見ていなかったのである。
魔物は人間よりも恐ろしい敵だが、人間と比べるとかなり単純な敵である。知能の高い種類の魔物でない限りは単純な手でも彼らの意表を突くことができるので、しっかりと作戦を用意していれば、少数の兵士でも魔物の群れを殲滅することはできるのだ。
慌てふためくゴブリンの群れを一瞥しつつ、ジャンヌは右へとジャンプする。いくら単純な敵が慌てふためいているとはいえ、そのまま正面から突っ込むのが愚の骨頂だと判断したからだ。それにジャンヌがそのまま正面から突っ込もうとすれば―――――――せっかく後ろで矢をつがえている仲間達を遮ることになる。
「撃てぇッ!」
右へと飛んだジャンヌを追うべきなのか、それとも真正面に並んで矢をつがえている戦士たちを狙うのか迷っていたゴブリンたちへと、容赦なく矢の群れが突き刺さっていく。胸板に3本も矢が刺さったゴブリンが崩れ落ち、その後ろにいたゴブリンの眼球を、がっちりした体格の戦士が放った強烈な一撃が貫く。
アネモスの里の戦士は屈強だが、列強国の軍事力は圧倒的としか言いようがない。侵略してきたアートルム帝国も、その気になれば雇った傭兵の活躍で撃退できた戦力よりもはるかに多い大部隊を当たり前のように投入できるのだ。
それゆえに、必然的に無数の敵を相手にせざるを得なくなってしまう戦士たちは、剣の振り方や弓矢の撃ち方を習うよりも先に、仲間との連携を徹底的に教え込まれる。
ジャンヌも昔に教わった戦術の通りに仲間の射線を確保しつつ、側面からゴブリンの側頭部を串刺しにした。がつん、と小さな頭蓋骨がロングソードのような槍の先端部に貫かれ、傷口から脳の一部が溢れ出す。顔をしかめながら強引に槍を引き抜いたジャンヌは愛用の槍を左から右へと薙ぎ払い、まとめて3体のゴブリンを両断すると、そのまま追撃せずに一旦後ろへとジャンプした。
槍で攻撃するよりも―――――――魔術で攻撃した方が手っ取り早いと判断したのだ。
「―――――――”荒れ狂う暴風よ、我に矛を”」
体内の魔力を加圧し、両手で握っている槍の中へと流し込んでいく。
人類の体内に蓄積されている魔力の属性は、基本的に無属性ということになっている。その魔力を魔法陣や詠唱によって魔術を発動するために変換し、最終的に変換を終えた魔力を魔術として敵に放つのである。
エルフやハーフエルフたちは、あらゆる魔術の中でも”風属性”の魔術を得意とする。
ジャンヌが得意としている魔術も、風属性の魔術であった。
加圧された魔力が槍の中を満たしていくにつれて、先端部の周囲に翡翠色の煌きを放つ三重の魔法陣が展開する。刃の根元へと近づくにつれて回転が速くなっているその魔法陣たちには複雑な古代文字がびっしりと刻み込まれており、ジャンヌが注入した魔力を刃の中へと封じ込め続けていた。
ジャンヌの周囲の風の流れが、唐突に変わる。
限界まで加圧した高圧の魔力が微かに魔法陣から漏れ、周囲の風の流れを捻じ曲げているのだ。
その風の流れの変化が―――――――”チャージ完了”の合図だった。
くるりと槍を逆手持ちにしたジャンヌは、目の前で慌てふためいているゴブリンの群れではなく、巨大な樹から伸びる枝や葉で4割ほど覆われている天空を睨みつける。そのまま一瞬だけ右肩の力を抜いたジャンヌは、高圧の魔力をこれでもかというほど注入された愛用の槍を―――――――天空へと放り投げた。
魔法陣を展開された状態の槍が、緑色の光を発しながら天空を串刺しにするかのように舞い上がっていく。しかし、鍛えたとはいえ魔物よりも脆弱な筋力によって放り投げられた槍はあっさりと運動エネルギーを引き剥がされると、空中であっという間に減速し、重い先端部を下へと向けながら落下してくる。
そう、暴発寸前まで注入された高圧の魔力が詰め込まれている、獰猛な刃である。
彼女が放り投げた槍は魔法陣で魔力を束縛したまま、”着弾地点”にいたゴブリンの脳天を抉り取った。頭蓋骨の破片や脳味噌の破片をまき散らして崩れ落ちたゴブリンのすぐ近くに槍が突き刺さり、纏っている魔法陣でゴブリンたちの死体を照らす。
当たり前だが、着弾地点にいた哀れなゴブリンを抉るために放った一撃などではない。
その群れを壊滅させるために放った、ジャンヌの魔術の1つである。
次の瞬間、高圧の魔力を束縛していた翡翠色の魔法陣の1つが砕け散り、緑色の光の破片を周囲へとばら撒いた。立て続けにもう1つの魔法陣も割れ、死体たちを翡翠色の光で彩る。
そして、まるでカウントダウンのように―――――――最後の1つも、割れた。
「―――――――”ダウンウォッシュ”!」
暴発寸前の魔力を封じ込めていた魔法陣が全て解除されたことにより―――――――超高圧の風属性の魔力が、槍の外へと解き放たれる。
解き放たれた直後は単なる風属性の魔力の塊だった魔力たちは、自分たちの加速によって徐々にブレード状に形状を変え、あっという間に風の刃と化してしまう。槍が着弾した地点の全ての方向へと解き放たれた無数の風の刃の群れたちは、ゴブリンの群れたちを容赦なく両断していく。
胸板から上を切断されたゴブリンの死体が、崩れ落ちる前に後続の刃によって更に切断される。まるでドリルが鉄板を貫くような音が一瞬だけ響いたかと思うと、荒々しい音とは裏腹に、精密に切り刻まれたゴブリンの死体がアネモスの里を埋め尽くしていく。
最終的に、その荒々しい風の刃の”爆心地”に残っていたのは―――――――ジャンヌが投擲した一本の槍だけだった。
「さ、さすがジャンヌだ…………!」
「ですから私も防衛戦に参加するべきだって言ったんです」
顔をしかめながらゴブリンの死体を踏みつけ、自分の槍を回収する。ぐにゃり、と両断されたゴブリンの死体の一部がジャンヌの足元で潰れ、土に血をぶちまけてちょっとした泥を作っていく。
高圧の魔力を放出したからなのか、刃にこびり付いていた鮮血は消え失せていた。
得物が綺麗になっていたことに満足しながら槍を引き抜くジャンヌ。踵を返し、溜息をつきながら再びゴブリンたちの死体を踏み越えていく。
「でもアーシャに止められたんですよ」
「仕方ないだろ、お前には使命があるんだからさ」
「でも―――――――」
反論しようとしたその時、正門の方向から大きな足音が響いてきた。巨大な魔物もいたということに気付いたジャンヌは、今しがたゴブリンを血祭りに上げているうちに、防壁の外から聞こえていた戦士たちの雄叫びが聞こえなくなっていることに気付き、ぞくりとしながら槍を構える。
―――――――壊滅したというのか。
正門の残骸の向こうから、新しい魔物が顔を出す。
ゴブリンと同じくオリーブグリーンの皮膚が特徴的だったが―――――――その体格は、ゴブリンの比ではなかった。
痩せているゴブリンに対し、その魔物は太っているのである。大きく膨らんだ胴体からは、これでもかというほど脂肪を詰め込んだかのような太い手足が伸びており、身体中からは太い体毛が生えているのが分かる。頭部からは真っ白な頭髪が何本も伸びており、その巨体が動く度にイソギンチャクの触手のようにゆらゆらと揺れていた。
「と…………トロール…………!」
突破された正門から姿を現したのは―――――――数多の騎士たちを血祭りに上げてきた、トロールの群れであった。




