コレットの苦しみ
逃走する際にコレットがばら撒いた粉末の匂いが薄れたおかげで、窓から逃走した彼女を嗅覚で追跡するのは造作もなかった。全くと言っていいほど外出している住民のいない大通りを見下ろしながら、ジノヴィは前方にある建物の屋根の上へとジャンプし、屋根から突き出た煙突を右へと回避しながら走り続ける。
彼がクライアントから依頼を受けて参戦した戦闘が繰り広げられたのは、大半は遮蔽物が殆どない平原での戦いだった。それゆえにこのような市街地での戦いはそれほど経験したことはなかったが、苦手というわけではない。大勢の敵と戦えるような”派手な仕事”がない場合は渋々標的の尾行や暗殺などの依頼を受けて資金を稼いだことがあったが、そのような仕事の時はこうやって屋根の上を移動するようにしている。
だからジノヴィは、屋根の上を走り回ることに慣れていた。
しかし、彼の後ろをついてくるのは、訓練を受けていたとはいえ実戦経験が少なく、まだ敵を殺すことを躊躇している少女である。彼女が育ったのは森の中にあるアネモスの里であるため、このように屋根の上を走ることに慣れていないのではないだろうか。
もしかしたら路地の上を飛び越えるのに失敗して転落しているのではないかと思ったジノヴィは、ちらりと後ろを振り向いた。しかしアネモスの里から一緒に旅に出たジャンヌは、さすがにジノヴィほどの速さではないものの、屋根の上を走る彼の後について来ていた。
彼女がちゃんと付いてきていることを知って安堵したが、ジノヴィはやはり彼女を連れてくるべきではなかったのかもしれないと後悔していた。
先ほどの屋敷での戦闘で、彼女は敵を庇ったのである。
ジャンヌが旅に出た目的は、この世界を浄化する事。一体どのような手段でこの世界を浄化するつもりなのかは不明だが、屋敷でコレットを庇ったように、悪人を改心させてこの世界を浄化させようというのであれば、間違いなくジノヴィはその目的が達成されるまで付き合うことはないだろう。
ジノヴィが殺してきた敵の中には、人々のために戦った善人も含まれている。けれども彼が大剣で屠ってきた敵の大半は悪人ばかりだった。その悪人に雇われた傭兵たちも皆殺しにした事もある。
もし仮にジャンヌの目的である世界の浄化が『悪人を改心させる事』なのであれば、長老がジャンヌの護衛としてジノヴィを雇ったのは大間違いとしか言いようがない。ジノヴィができることは敵を殺し尽くすことだけなのだから。
ジノヴィがジャンヌのように世界を浄化するという使命を与えられていたのであれば、彼は悪人を改心させるのではなく、その悪人を根絶やしにすることでこの世界を浄化するという手段を選んでいたに違いない。
(ジャンヌは甘すぎる)
ジノヴィの一族は、ほぼ全員が傭兵であった。
自分が仕留めた獣の毛皮で作った服を身に纏い、ツヴァイヘンダーを振るって敵を薙ぎ倒す最強の傭兵たちである。彼の一族では一人前の戦士になるために自分一人で獣を討伐するという試練が与えられる。その仕留めた獣の毛皮で作った服が、傭兵として戦うことを許された戦士の証のようなものなのだ。
ジノヴィが身に纏っている服の毛皮も、彼が仕留めた獣の毛皮である。
幼少の頃から重い剣を与えられ、戦士として戦う事を教えられてきたからこそ、ジノヴィは敵を葬ることを躊躇したことが殆どなかった。傭兵に与えられる仕事の大半は、要人の暗殺か兵力が足りない騎士団への加勢ばかりである。それゆえに、傭兵になる以上は人間の命を奪う事を覚悟しなければならない。
けれども、アネモスの里の戦士たちはジノヴィたちの一族と比べればはるかに温厚だ。里を滅ぼそうとする敵には反撃するが、逆に敵の領地へと進撃することはない。自分たちの領地を守ろうとしているだけである。
(旅に出すなら、もっと殺し方を教えるべきだ)
この世界では、戦う事が当たり前なのだから。
嗅覚を活用してコレットの匂いを追っていたジノヴィは、ロイデンバルクを取り囲む防壁を睨みつけながら舌打ちをした。
「ど、どうしたのですか、ジノヴィ?」
「匂いは壁の外まで続いてる。くそ、あの女は防壁の外に逃げやがった」
「え…………」
コレットはジノヴィたちのように、戦うために訓練を受けていたわけではない。相手がごく普通の人間なのであれば、一時的に嗅覚を攪乱されたとはいえ追いつくことは難しくない。だが、防壁の外へと逃げられたのであれば彼女の追跡は少しばかり難易度が高くなってしまう。
夜になれば、基本的に魔物は凶暴化するからだ。更に視界も悪くなってしまうため、魔物の掃討は昼間に行う方が望ましいと言われている。ジノヴィならば嗅覚を使う事で暗闇でも敵を探知することは可能だが、昼間よりも危険度は上がるため、彼も極力夜間での魔物の討伐は避けるようにしている。
「しかもコレットは負傷している。魔物は血の臭いに刺激されるのを知ってるだろ?」
「そんな…………!」
戦うための訓練を受けていない上に、負傷している人間が狂暴化している魔物に遭遇すれば、生還できる確率は極めて低い。
武器を持っているのであれば辛うじて生還できるかもしれない。だが、武器を持っていないのであれば魔物を撃退するための手段がない。更に傷口から溢れ出る鮮血の臭いで魔物を刺激してしまうため、凶暴化した魔物がどんどん集まってくる。
あらゆる場所に生息している小柄なゴブリンですら、素手で人間の首を容易くへし折ってしまうほどの力があるのだ。更にゴブリンは発情期になるとより獰猛になり、人間の女性を犯すことも珍しくはない。
間違いなく、コレットは発情期のゴブリンたちに犯された挙句、凶暴な魔物たちに食い殺されているに違いない。
「…………どうする、ジャンヌ?」
「行きましょう、ジノヴィ。急げば間に合うかもしれません」
「間に合う? お前、まだあの女を助けるつもりなのか」
「…………」
助け出したとしても、コレットは自警団に引き渡されて死刑になるまで牢屋の中で生活することになる。このロイデンバルクから逃がしたとしても、他の村や街にもコレットの情報はすぐに伝達される筈だ。他の国へと亡命する前に検問所で身柄を拘束されるのが関の山である。
それゆえに、ジノヴィはこのまま彼女を見捨てようとしていた。
「…………あの人、『助けて』って言ってました」
「なに?」
目を細めながらジャンヌの方を振り向くジノヴィ。彼女は真っ白な手をぎゅっと握りながら、ジノヴィの目を見つめる。
「助けを求めてたんですよ、コレットさんは。普通の殺人鬼なら助けを求めることなんてありません」
「…………だが、貴族を殺したのはあいつだ。助けを求めていた理由が分かったとしても、ロイデンバルクの連中が信用すると思うか?」
ジャンヌと戦っていた最中に、コレットは急に怯え始めた。自分が殺した貴族の死体を見下ろしながらぶるぶると震え、ジャンヌに助けを求めてきたのである。
怯えていたコレットの事を思い出しながら、ジャンヌは唇を噛み締めた。確かにコレットは普通の殺人鬼などではない。何者かに洗脳されているのか、二重人格である可能性がある。しかし、仮に彼女を追跡して突き止めたとしても、貴族を2人も殺されて混乱しているロイデンバルクの住人たちは九分九厘信用しないだろう。
そのままコレットを牢屋の中に放り込み、ギロチンで処刑するのが関の山である。
「諦めろ。このまま魔物の餌食になれば、コレットは苦しまずに済む」
「苦しむに決まってるじゃないですか!」
「!」
ジノヴィの目を睨みつけながら、ジャンヌは叫んだ。
里での戦いで、自分が判断を間違えて仲間を無駄死にさせてしまったことを悔いていたからなのか、ジャンヌはジノヴィの指示に反論することはあまりなかった。彼の指示を聞いて躊躇う事はあったものの、未熟な自分の判断よりも、歴戦の傭兵であるジノヴィの判断の方が正確だと思っていたからである。
「本当の事を分かってもらえないまま死んでいくなんて…………苦しいだけですよ、ジノヴィ」
「ジャンヌ…………」
「赤の他人に決めつけられたまま死ねば、彼女はきっとあの世で苦しみ続けます。だからお願いです、彼女を追いましょう」
「…………………分かった」
首を縦に振り、ジノヴィは門の方を睨みつけた。
幸運なことに、門は閉じていたものの、自警団の団員たちは見当たらなかった。先ほどの屋敷での戦闘に気付いた団員が、他の団員たちに応援を要請したに違いない。
ジノヴィは門を手で押して強引に開けると、ジャンヌと共に門の外へと躍り出た。
ロイデンバルクの郊外には、小さな森がある。
アネモスの里の周囲に広がる森と比べれば、そこに生えている樹の大きさは遥かに小さい。アネモスの里の周囲にある樹は、切り倒せばトロールを容易く押し潰してしまえるほどの大きさだったが、このロイデンバルクの郊外にある森の樹はアネモスの里の樹の6分の1程度の大きさしかない。それゆえに枝が伸びている位置が低く、枝も細いため、アネモスの森と比べると空がはっきりと見える。
コレットから聞いた話では、自警団がこの森の中に生息する魔物を定期的に掃討しているため、魔物がロイデンバルクを襲う事は少ないという。しかし先を進んでいたジノヴィが早くもツヴァイヘンダーへと手を伸ばしたのを見たジャンヌは、背負っていた槍を取り出した。
「血の臭いだ」
「…………」
コレットの血だろうか。それとも、魔物たちが縄張り争いをした際に流した血なのだろうか。
「コレットさんですか?」
「分からん、血の臭いが濃すぎて判別できん。だが、コレットの匂いと同じ方向からだ」
「…………」
唇を噛み締めながら、槍の柄をぎゅっと握った。
もしコレットの匂いがする方向とは別の方向から血の臭いがするのであれば、コレットが生存している可能性は高いと言えただろう。だが、コレットは負傷した状態で夜の森へと丸腰で逃げ込んでしまった。血の臭いで刺激される凶暴な魔物たちが、丸腰の彼女を真っ先に襲うのは想像に難くない。
ツヴァイヘンダーを引き抜いたジノヴィが、腰に下げたランタンを確認してから森の中へと走っていく。ジャンヌもランタンを確認してから彼の後を追いかけた。
アネモスの里の大地は、巨大な樹から伸びる根が隆起していたのだが、この森は樹が小さいからなのか、全く地面から根が突き出ていない。苔の生えた倒木の上を飛び越えたジャンヌは、自分の生まれ育った里の周囲に広がる森よりも小さな森を眺めながら、ジノヴィと共に血の臭いのする場所へと進んでいく。
コレットが丸腰だった以上、魔物を撃退することはできない。逃げようとしても、彼女の血の臭いのせいで森の中の魔物たちが刺激されるため、逃げるのは極めて困難だろう。
森の奥へと進んでいくにつれて、ジャンヌの嗅覚も血の臭いを探知し始めた。
アネモスの里を襲ってきた魔物たちとの戦いの際にも嗅いだ、強烈な血の臭い。
けれども叫び声は聞こえない。もし襲われているのだとしたらコレットの絶叫が聞こえてくる筈だ。彼女の絶叫が聞こえないという事は、何とかこの森から脱出したか、とっくに食い殺されている可能性がある。
(コレットさん…………!)
やけに大きな樹の近くへと辿り着いたジノヴィが、剣を抜いたまま立ち止まった。彼の前方から強烈な血の臭いが漂ってくる。ジノヴィが察知した血の臭いを発していた地点に辿り着いたという事なのだろう。
槍の柄を握ったまま、そっと彼の隣に立つジャンヌ。もしかしたら魔物が襲い掛かってくるのではないかと思いつつ警戒したジャンヌだったが―――――――鮮血や肉片で真っ赤に染まった大地を見下ろした彼女は、凍り付く羽目になってしまった。
鮮血と小さな肉片がまき散らされた地面の上に、肌色の皮膚が付着したままの肉片や、筋肉と思われる赤い肉がこびり付いた状態の骨が転がっている。人間の足と思われる物体には小型の魔物に噛みつかれた傷跡がいくつも刻み付けられていて、脹脛の部分は齧り取られてしまっていた。
そのすぐ近くには血まみれの背骨の一部や内臓も転がっている。
ここで魔物に食い殺された、人間の死体だ。
「あれは…………」
槍から手を離したジャンヌは、血の海へと足を踏み入れる。
肉片の群れの中心に、食い殺された人間の上半身と思われる部分が残されている。ジャンヌやジノヴィに背中を向けた状態で、血の海の真っ只中に取り残された人間の上半身。腹から下は魔物に千切られてしまったらしく、既に絶命しているのは火を見るよりも明らかであった。
頭と思われる部分がら伸びている長い頭髪と、血まみれになった服を目にしたジャンヌは、目を見開きながらその上半身へと手を伸ばした。服の肩の部分にも血が付着していたらしく、その死体に触れたジャンヌの白い手まで赤く染まってしまう。
「――――――――コレットさん」
死体の顔を見たジャンヌは、血まみれになった彼女の顔を見下ろしたまま呟いた。
血の海の上に取り残されていたのは、コレットの上半身だった。顔の右半分は頭蓋骨もろとも大型の魔物に食い千切られたらしく、口と鼻と顔の左半分しか残されていない。顔には鮮血だけではなく、彼女の肉を食っていった魔物たちの唾液や、明らかに血や唾液ではない別の液体がへばりついている。
身体を汚された挙句、魔物たちに肉を食われた女性の残骸。
「…………帰ろう、ジャンヌ」
「…………」
コレットの左目をそっと閉じさせたジャンヌは、彼女の上半身を抱きしめた。
「コレットを救う事はできなかったが、これでロイデンバルクは平和になる」
「…………いえ、彼女も救わなければ」
「おいおい、そいつはもう死んでるんだぞ? 教会に行って、神父たちにちゃんと埋葬してもらうのか?」
魔物たちが食べ残した上半身を抱きしめたまま、コレットの死体に付着していた血で真っ赤になってしまった自分の手で涙を拭い去り、ジャンヌは体内の魔力の加圧を始める。
彼女が発する魔力の反応を感じ取ったジノヴィは、目を細めながらジャンヌを凝視した。
ジャンヌは風属性の魔術を得意としている。コレットを自警団の団員たちから救い出した時も、風の砲弾を撃ち出して自警団の男を吹き飛ばしていた。更にアネモスの里の防衛線でも槍に風を纏わせ、魔物の群れを蹂躙したという。
基本的に魔術は、体内の魔力を何かしらの属性に変換してから撃ち出すものである。それゆえに、その気になれば全ての属性の魔術を使うことも難しくはない。しかし、その属性の適正の高さには個人差があり、全ての属性の魔術を使いこなすのは不可能だと言われている。
ジャンヌの場合は風属性である筈だが―――――――今の彼女の体内で加圧されている魔力の反応は、風属性ではなく光属性であった。
―――――――しかも、熟練の魔術師が切り札の魔術を放とうとしているかのような圧力である。
(何だこの圧力は…………!?)
やがて、彼女の身体から魔力の一部が剥離し、空中で純白の古代文字を形成する。その古代文字の群れはゆっくりと動き始めると、他の古代文字たちと共にジャンヌの周囲を旋回し始めた。
「コレットさんは―――――――私が救います」
強烈な光を放ち始めた白い古代文字の群れを凝視しながら、ジノヴィは理解した。
これが、ジャンヌに与えられた『世界を浄化するための力』なのだと。