コレットの疑惑
やはり、アンドレイの屋敷の周囲は武装した男たちで取り囲まれていた。騎士団のように制服の上に防具を装備するのではなく、私服の上に防具を装備した自警団の団員たちである。身に着けている武器もバラバラであり、一般的なロングソードを装備しているものや、スパイクがいくつも付いた荒々しい棍棒を背中に背負っている巨漢もいる。
ロイデンバルクを守る自警団には、統治する貴族たちからちゃんと彼らのために予算も用意されている。しかし大国の騎士団とは違い、その予算の金額はそれほど多くはないため、足りない分の装備は自分で何とか揃える必要があるという。だからこそあんなに統一感がないのだ。
周囲の売店で回復用のエリクサーを眺めるふりをしながら、ジノヴィはアンドレイの屋敷を観察する。大剣を背負い、狼の毛皮で作った服を身に纏った巨漢が屋敷の近くをうろついていれば怪しまれるかもしれないが、傭兵や冒険者の中にも彼のような恰好をする者たちは多い。もし怪しまれたら冒険者だという事を主張すれば問題はない。
アンドレイの屋敷の周囲は鉄製の柵とレンガの塀で囲まれており、正門と裏門以外から侵入するのは骨が折れそうだった。強引に登れば辛うじて中には入れそうだが、さすがに今は警備している自警団の数が多い。昼間に侵入するのは間違いなく不可能だろう。
「…………」
”誰がアンドレイを殺したのか”という事が分かれば、コレットが無罪だという事は証明される。だからジノヴィはコレットが無罪だという事を調べるのではなく、最初からアンドレイを殺した犯人を捜すつもりで調査をしていた。
だが――――――――彼女のために証拠を調べているジノヴィが現時点で最も疑っているのは、そのコレットである。
もしこの事件の犯人が本当にコレットだったという事を知れば、ジャンヌはどうするのだろうか。彼女はしっかり者だが、実戦経験がないために判断力がそれほど高くなく、甘いところがある。世界を浄化して救うという使命を与えられているのだから冷酷になるのは自分だけで十分だが、もしコレットを殺さなければならなくなったら、ジャンヌは九分九厘躊躇うに違いない。
コレットを見張れ、と言われて困惑していたジャンヌの事を思い出しながら、ジノヴィは目を細める。
今まで彼は、何度か汚れ仕事も経験してきた。もしコレットが今回の事件の犯人で彼女を始末することになっても、彼は絶対に躊躇はしない。
(この予想が外れるのが一番なんだがな)
予想が外れているのであれば、真犯人を始末するか、自警団に引き渡すだけでコレットが無罪だという事は証明される。彼女は以前のように自宅でハーブを使ったエリクサーを調合して生計を立て、平穏に暮らす事ができるのだ。
(屋敷の中には、まだ証拠が残ってる筈だ………。調べれば分かるかもしれん)
そう思いながらアンドレイの屋敷を見つめる。4階建ての巨大な屋敷に入り込む事ができれば、仮に自警団が証拠を回収していたとしても、何か情報を手に入れることができるかもしれない。
だが、あの塀や柵を乗り越えて侵入しようとすれば自警団に発見されてしまうし、もしあの警備をしている自警団の中に、コレットを救い出す際に痛めつけた自警団の団員が居れば面倒なことになる。顔を見られているし、自警団への暴行で身柄を拘束されるのが関の山だ。
少しでも自警団に発見されず、安全に証拠を探すのであれば夜になるだろう。
(とりあえず、昼間は下見だけにしておこう)
この世界には、当たり前だがまだ電気は存在しない。それゆえに夜間の光源は松明やランタンなどであり、夜になるだけでかなり視界が悪くなってしまう。今のうちに屋敷の周囲の道や地形を覚えておかなければ、屋敷を見張っている自警団に発見された際に逃走する事ができなくなってしまう。
それゆえにジノヴィは、屋敷の近くの露店でアイテムを購入したり、ずらりと並ぶ品物を見るふりをしながら周囲の道を確認し始めた。
「眠らないのですか」
借りている部屋に上がる前に、リビングの隣にある仕事部屋の明かりがついている事に気付いたジャンヌは、まだ部屋の中でハーブの粉末を調合していたコレットに声をかけた。
彼女はもう一仕事してから床に就くつもりらしく、ハーブの粉末が入った試験管やエリクサーの原液で満たされたビーカーの群れの中に、湯気を発するマグカップが紛れ込んでいる。コレットはそのマグカップを口へと運び、赤い粉末の入った試験管を傾けて中身をフラスコの中へと入れてから、ジャンヌの顔を見上げた。
「ええ。今、新しいエリクサーを作っているところなんです」
「明日作ればいいのでは?」
「うーん………一応レシピはメモするようにしているんだけど、眠ると感覚を忘れちゃいそうなんですよ」
微笑んでから、コレットはそのフラスコの中に先ほどのハーブの粉末を混ぜ、エリクサーの原液を何滴か垂らして混ぜ始める。瞼を擦ってから手元のレシピを確認し、首を傾げてからもう一滴原液を垂らした。
「感覚?」
「そう。混ぜ方とか、調合するタイミングの感覚。だから忘れないうちに調合して、その感覚を忘れないようにしたいんです」
「仕事熱心なんですね、コレットさんって」
「ふふっ、ありがとうございます」
「………あの、もしよければここで見ていてもいいでしょうか? エリクサーが作られているところを見たことがないので…………」
「ええ、いいですよ」
近くにあった椅子を傍らに持って来て腰を下ろし、ジャンヌは作業を続けるコレットをじっと見つめていた。
ジノヴィにコレットを見張るように言われていたことを思い出し、少しだけ目を細めるジャンヌ。しかし、ジノヴィが抱いている疑惑を、こんなに仕事熱心で真面目な人があんなことをするわけがない、と反論して押し返す。
「ところで、コレットさんはどうしてエリクサーを作ろうと思ったんです?」
「冒険者や騎士団の人の力になるためですよ。エリクサーは、魔術を使えない人にとっては唯一の回復手段ですから」
ヒールなどの魔術が使えるのであれば、致命傷を負ったとしても即座に回復する事ができる。戦闘にすぐに復帰する事ができるので、パーティーの中に魔術師がいるかどうかでそのパーティーの生存率は大きく変わるといっても過言ではない。
しかし、その魔術を自由自在に使える人間の数は、それほど多くはないのだ。
生まれつき体内にある魔力の量や魔術の素質によっては、初歩的な魔術の発動すらできない人も多い。それゆえに魔術師は貴重な戦力であり、魔術の素質がある奴隷には人権があっさりと与えられることも珍しくないという。
そこで、貴重な魔術師がいなくても傷を癒すことが可能なエリクサーが発明されたのだ。
ヒールのように瞬時に傷を塞ぐことはできないものの、魔術師に頼らなくても即座に治療する事ができるため、多くの傭兵や冒険者たちに愛用されている。パーティーに魔術師がいないのであれば必需品とも言えるだろう。
「確かに、回復アイテムを作って頂けるのは本当に助かります。旅の最中に怪我をすることは多いみたいですから…………」
エリクサーが発明されていなかった頃は、魔術師のいないパーティーで冒険に行くのは自殺行為だと言われていたほどである。エリクサーのおかげであらゆる冒険者や騎士たちの生存率が跳ね上がったのは想像に難くない。
コレットは嬉しそうに微笑むと、複数の粉末を調合していたフラスコの中身を大きなビーカーの中に注ぎ、オレンジ色のエリクサーと混ぜてから、調合を一旦やめて窓の外を見上げた。
窓の向こうに広がっているのは、無数の星たちと巨大な月。夜空を支配しているその月は、一見すると満月のようにも見えるが、よく見ると微かに欠けているのが分かる。
「明日は、満月ですね…………」
「ええ」
「今のままでも綺麗ですけど、満月の夜空の美しさは格別ですよ」
明日の夜、夜空を支配する不完全な月は満月となる。アネモスの里で満月の夜空を見上げた事を思い出したジャンヌは、息を吐きながら月の欠けている部分を凝視した。
ジャンヌの心の中も、その不完全な月と同じ状態であった。
アンドレイの屋敷へと向かったジノヴィは、実はコレットがアンドレイを殺した犯人なのではないかと疑い、ジャンヌに彼女を見張るように指示を出していた。ジャンヌはこんなに仕事熱心で心優しい女性が、街を統治する貴族を殺し、ロイデンバルクを混乱させかねないような事をする人間なわけがないと信じようとしていたが――――――――月の一部が欠けているように、彼女の心の一部ではコレットを疑っていたのである。
未熟な自分とは違って、ジノヴィは数多の戦場で激戦を経験してきた歴戦の傭兵である。傭兵がクライアントに裏切られることは珍しくはないため、雇われて戦場に向かう彼らはクライアントからの不意打ちにも警戒しなければならない。
それゆえに、ジャンヌよりも危機察知能力は彼の方が上なのだ。
だからジノヴィは間違っている、と決めつけることはできなかった。
満月をもう一度見ればコレットを疑わずに済むだろうか、と思いつつ、息を吐くジャンヌ。コレットはジャンヌが月に見惚れているのだろうと思ったらしく、彼女を見て微笑んでからエリクサーの調合を再開する。
レシピを確認しながら作業をするコレットの後姿を見つめながら、ジャンヌは思った。
もしこの人が犯人だったのなら、きっと槍を向けて戦う事を躊躇してしまうだろう。ジノヴィならば躊躇わずに剣で斬りかかるだろうが、ジャンヌは冷酷な人間ではない。ジノヴィよりもはるかに甘く、未熟な乙女である。
そんなことになれば、彼の足を引っ張ってしまう事になるのは想像に難くない。
だからジャンヌは祈った。
コレットが犯人ではありませんように、と。
予想した通りに、夜になった途端にアンドレイの屋敷に潜入する難易度は一気に下がった。松明やランタンを手にした警備兵が正門や裏門を見張り、中庭や屋敷の中を自警団の団員たちが巡回しているものの、警備兵たちはあくびをしながらただ単に敷地の中を”歩いているだけ”であり、昼間よりもはるかに侵入は容易であった。
気付かれずに塀を乗り越え、壁をよじ登って屋敷の3階へと潜入し、アンドレイの死体が発見された寝室を調べ終えたジノヴィは、今しがた後頭部を思い切りぶん殴って昏倒させた警備兵をクローゼットの中に隠し、音を立てずに通路を移動していく。
念のため愛用のツヴァイヘンダーも持ってきたが、この得物がここで猛威を振るうことはないだろう。長大なこの大剣は室内での戦闘よりも屋外での戦闘を想定した得物である。それに、自警団の団員を殺せばさらに面倒なことになってしまうのは火を見るよりも明らかだ。
素早く階段を上り、息を殺しながら4階の通路をちらりと覗き込み、警備兵がいないか確認する。屋内を警備している警備兵は腰に小型のランタンをぶら下げているので、接近を察知するのは容易だ。それに対しジノヴィはランタンの明かりをつけていない上に、身に着けている狼の毛皮で作った服も灰色であるため、暗闇の中にいる彼を見つけることは困難だろう。
仮に怪しんで近付いてきたとしても、ジノヴィを侵入者だと断定できる距離は、彼の攻撃の射程距離内である。
ランタンを付けた警備兵が、眠そうにあくびをしながら踵を返して通路の奥へと歩いていく。その隙に物陰から躍り出たジノヴィは、姿勢を低くしながら豪華な装飾で彩られた大きなドアをそっと開け、中に警備兵がいませんようにと祈りながら部屋の中へと侵入する。
(ここか)
彼が忍び込んだのは、アンドレイの執務室らしい。
上質な木材で作られたデスクの上には、この世界では高価な紙がどっさりと置かれており、この執務室で仕事をする筈だったアンドレイがサインするのを待っている。しかし、その書類の空欄になっている部分にサインが書かれることは、もう二度とない。
この屋敷の持ち主は、もうこの世にはいないのだから。
「…………」
警備兵が近くにいないことを聴覚を活用して確認しつつ、ジノヴィは執務室の中を調べ始めた。
先ほどまでは3階にある寝室を調べていたが、犯人に関する手掛かりはあまり見つけることはできなかった。アンドレイが殺害されたのはその寝室で、アンドレイはベッドの上で身体中を刃物で切りつけられ、血まみれになって死んでいたという。
自警団によってその血まみれのベッドは既に運び出されて処分されてしまったらしいが、寝室の床にはまだ微かに血痕が残っていた。
戦場で戦闘を経験しているジノヴィは、その血の飛び散り方を見て、瞬時にそのアンドレイを殺した凶器は鈍器ではなく刃物であったことを見抜いていた。さすがに刀身の形状までは判別できなかったものの、凶器となった刃物の刀身はそれほど大型ではない。
寝室で得られたのは凶器に関するヒントのみであった。
執務室にならば、知人や他の貴族から送られてきた手紙が保管されている筈である。さすがにそれは自警団に持ち出されてはいないだろう。その手紙を見る事ができれば、アンドレイの人間関係を把握でき、犯人を知る事ができるかもしれない。
そう思いながら、彼はデスクの引き出しを次々に開け、中に保管されていた手紙や書類の内容を片っ端から確認していった。大半の手紙は貴族が主催するパーティーへの招待状や、ロイデンバルクを統治する他の貴族たちからの仕事に関する手紙ばかりであり、彼が何者かに恨まれていた様子は全くない。
珍しく誠実な貴族だったのだろう、と思って感心したジノヴィは、一番下の引き出しに入っていた一通の手紙を開いて中身を確認し――――――――目を細めた。
《アンドレイ様へ警告》
「…………なんだこれは」
その手紙を送ったのは、自警団の指揮官からであった。
《近隣の中間地帯で、貴族が相次いで殺害される事件が発生しております。ロイデンバルクではそのようなことは起こっておりませんが、念のため警備兵の増強を推奨いたします》
(この手紙が届いたのは…………先週みたいだな)
手紙をそっと上着の内ポケットの中に放り込み、後ろにある大きな窓を開けるジノヴィ。窓の縁に左手を引っかけながら右手で窓をしっかりと閉め、彼はそのまま屋敷の壁を掴んで下へと降りていく。
アンドレイは、おそらくその貴族を殺している犯人によって真っ先に狙われたのだろう。
もしこの事件の犯人が、手紙に書かれていた”貴族を相次いで殺した犯人”と同じで、その犯人がこのロイデンバルクに居座っているのだとしたら――――――――他の貴族が狙われる可能性が高い。
(よし、ジャンヌにも手伝ってもらおう)
そう思いながら、ジノヴィは庭の花壇の影に隠れて警備兵が通過するのを待ち、ニヤリと笑いながら塀へと向かって走り出した。
上手くいけば、明日の夜に犯人の正体を暴く事ができるのだから。