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修学旅行  作者: 沢山書世
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第一章 旅行前夜

五章で完結予定です。よろしくお願いします。

 明日は山中中学校の修学旅行出発日だ、三年生三人はそれぞれの夜を過ごしていた。

 風太の家

「風太―」

 台所で夕食の片づけ仕事をしていた母親が、居間に向かって声をかけた。

「んー?」

 息子の風太がおかしな音を鼻から絞り出して返す。風太からすれば、返事をしているつもりなのであろうが、母親にはそれが伝わっていかない。

「風太―、聞こえているのかい?」

「んーんー」

「あのねー、おみやげはご近所の分も頼んだよ」

「もごもご」

 風太は今現在、お菓子を食べることに忙しくしているのだ。口いっぱい頬張った状態のまましゃべろうとしているので、きちんとした返事ができないでいるのだ。なかなか返事が返ってこないことに痺れをきらした母親が、布巾と茶碗を手にしたまま、風太のいる居間に顔をのぞかせた。

「風太、聞こえていないのかい?」

 風太が右手の指でオッケーサインの輪を作ってみせる。

「あーっ、こら! それは明日修学旅行に持っていくお菓子じゃないの! どうして今食べちゃうのかしら」

 畳の上には、口の空いたリュックサックと、いくつもの菓子袋が散乱している。

「もぐもぐ」

「もぐもぐじゃあないでしょ!」

「もごもご」

「まったくもう」

「味見だよ、味見」

 やっと風太の口から返事らしい返事がでてきた。口いっぱいに頬張っていたお菓子がようやく胃袋の中へと落ちていってくれたようだ。

「普段から食べ馴れているお菓子ばかりでしょ! 今更味見もへったくれもないだろうに」

「へへ。おんなじ味かどうかということも含めて味見をしていたんだよ」

「この減らず口はどうして治ってくれないんだろう! あんたは単にお菓子を食べたかっただけでしょうが、まったくもう」

 母親が右手に持った布巾で、風太の頭を叩くしぐさをする。

「家のお菓子が切れていたからさあ、仕方がなかったんだよ」

「なんだって?」

 母親が、急いで茶箪笥へとかけ寄っていく。引き扉を開けて顔を中へと突っ込み、お菓子箱を覗いてみた。

「あー、空っぽ」

「うん、そうなんだよ」

「そうなんだよ、じゃないでしょ! お菓子を切らしてしまったのは、あなたが原因でしょうに」

 母親が箱を逆さまにして、

「あーあ、あたしの大好物もここに入れておいたんだよ。それが跡形もなくなってしまって」

 振り返って、風太を睨みつける母親。

「ごめん」

「もーっ、どうして、ひとかけくらい残しておいてくれないのかしら」

「しばらくは家のお菓子を食べられなくなるからね、今日が食べ納めだと思ったら、手も口も止まらなくなっちゃったんだよ」

 そんな言いぐさで母親が納得するわけがなかった。

「うるさい! 代わりにそっちのお菓子をよこしなさいよ」

 畳の上の菓子袋へと手を伸ばす母親。

「だめだよ、これは明日の分なんだから」

 お菓子を守ろうとリュックに覆いかぶさる風太。

「明日の分? どの口がそんなことを言うのかしら。もうすでに自分から手を付けちゃっているくせに」

「ほんの少し味見をしていただけだよ」

「そういうつもりで始めたのかもしれないけど、まだ終わらせる気にはなっていないんでしょ。そもそもが、味見というものは買う前にするものでしょうが」

「まあ、一般的にはそうかもね」

「買った後にするのは味見じゃない、毒見というのよ。その袋をこっちによこしなさい、あたしが毒見をしてあげるから」

「けっこうです、どうかおかまいなく」

「旅行先で問題が起こったら大変だからね。親がしてあげられることは毒見くらいのものなんだから」

「いいよ、味見も毒見も自分でできるって」

「親の言うことをちゃんと聞いておくのが子供っていうものなのよ」

「ダメダメ、これだけは譲れないね」

「あんたのことだからどうせ今日中に全部食べてしまうに決まっているんだから。それだったらあたしにも少しはよこしなさいっていうの」

 バリボリ

 何かを砕く音が二人の耳に入った。音のしてくる方へと視線を移すと、父親がお菓子を頬張りながら座っている姿が目に入った。

「あー」

 母子で揉めている間に部屋の中へと入ってきていたらしい。

「味見も毒見も僕がしてあげておいたよ。大丈夫、安心して食べなさい」

 満足そうな笑顔だ。

「もう、こうなったら早い者勝ちよ、二人とも異論はないわね」

 母親がそう言いながら夫と息子の顔を交互に見る。ゆっくりとうなずく二人。父親が口を開いて、「用意」と、続いて風太が「スタート」と叫ぶ。三人が、残っているお菓子目がけて飛びかかっていった。


 航の家

「航、明日の準備はできているのかい?」

 母親がそっと部屋に入って行き、航の背中に向かって話しかける。

「今やっているところ。もうすぐ終わるけどね」

 荷物をバッグに詰め込みながら、そう答える航。

「そう。ならいいんだけど」

「うん」

 てきぱきと動かされていた航の手が突然止まった。手には東京の地図帳、買い求めてから今日まで幾度となく開いてきたお気に入りのものだ。それをじっと見つめている。

「旅行ガイドは、結局何冊読んだんだい?」

 母親が尋ねる

「20冊くらいかな」

「ずいぶんとたくさん読んだものだわねえ。本番前にそんなに情報を入れてしまったら、あっちへ行ってから楽しみがなくなっちゃいそう」

「へへ」

「東京に住んでいる人たちよりも、ずっと詳しくなっちゃったでしょ。将来はガイドさんにでもなろうっていうのかい?」

「趣味趣味、地図を眺めるのは、単なる僕の趣味さ」

 母親が立膝で航の正面へと移動する。

「ちょっとお母さんに貸してごらんなさい」

 航の手から地図帳を摘み上げて、

「わたしが問題を出してあげる」

「え?」

「中身がどれだけあなたの頭の中に入っていったのか、お母さんがテストしてあげるわ」

「ありがと」

「えーと、どこを出そうかしら」

 地図帳をぱらぱらとめくっていく。

「ああ、ここね、ここにしよう。航、心の準備はいい?」

「うん、いつでもどうぞ」

「さて、六本木はどこの都道府県にあるでしょう」

「東京」

「すごい、当たり―」

「やったー」

「次の問題です」

「はい」

「上野はどこの都道府県にあるでしょう」

「埼玉」

「ブー」

「東京」

「当たり―」

「・・・」

「ん? 何?」

「あのねえ、これは東京の地図なんだよ。そういった問題の出し方じゃあ、たとえ僕が答えを知らなかったとしても、全問正解出来ちゃうでしょうが」

「あなたに自信をつけさせてあげたいと思ったのよ」

「それはありがたいことなんだけどさ。ありがたいことなんだけど、出来れば問題をもっと難しいものにしてもらいたいな。せっかくだから、自分の本当の力を知っておきたいもの」

「おやおや、言っちゃいましたね、航選手。そうきましたか、いいでしょう、受けてたってあげようじゃないの。こうなったら真剣勝負よ、親子だということを忘れてかかってきなさいね」

「ははは、大げさだなあ」

「さて、問題です」

 正座になおる母親。

「はい」

 航も正座で対抗する。

「東京タワーがあるのは東京のどこ?」

「神谷町」

「えーと、最寄駅は神谷町となっているわね。正解よ、へー、なかなかやるじゃない」

「へへ」

「次、六義園があるのは?」

「駒込」

「正解」

「新宿御苑があるのは?」

「新宿」

「正解」

「代々木公園は?」

「代々木」

「正解」

「ちょっとちょっと、またさっきとおんなじに戻っちゃっているよ」

「だってさー、難しい問題を出して、もしも答えを間違ったりしたら、あんたどうするね」

「またガイドブックを読み返すよ」

「そうだろ」

「うん」

「旅行本番の前日にそんなことで徹夜でもされたら、寝不足になっちゃうでしょ、お母さん、心配しちゃうわよ」

「そういうことを考えてくれていたんだね、ありがとう」

「できることなら、もうそろそろ寝てくれないかなあ。そうしてもらえると、お母さん安心できるんだけど」

「そうだね、そうしようかな」

 航は母親から地図帳を戻してもらうと、そっとバッグにしまった。

「それにしても、二十冊読破というのは大したものよ」

「へへへ」

「東京で迷子になることはないわね。母さんが太鼓判を押す!」

「僕はべつに迷子対策で地図を眺めていたわけじゃあないんだけどね」

「備えあれば憂いなし」

「はいはい、そうですね」

「偉いぞ、航選手」

「疲れたのかな、なんか眠くなってきたよ」

「それはグッドタイミングね、さっさと布団に入っちゃいなさい」

「うん、そうするよ」


 数馬の家

「数馬、まだ起きているのかい? 明日は朝が早いんだよ」

「うん」

 パジャマ姿の数馬が、テレビを見ながら返事を返す。

「早く寝ちまいな」

「でも、まだ眠くならないんだよ」

「たっぷり寝ておいてもらわないと、明日の朝が大変だよ」

「大丈夫、大丈夫」

「大丈夫じゃないでしょ。起こすこっちが大変だっていうの!」

「大事な日なんだから、ちゃんと起きるよ」

「いつもそんなことを言っているけど、簡単には起きてくれないだろうに」

「そうだっけ?」

「とぼけるんじゃないよ、まったく。運動会の時だって、起こそうとしたら、きっと運動会当日だという夢を見ているに違いないとかなんとか寝ぼけて言って、全然起きようとしなかったじゃないか。遠足の時もおんなじ」

「そうだったかなあ」

「明日だって、修学旅行の朝だという夢を見ているに違いないんだとか言って、布団から出てこなかったら困るんだよ」

「そうはならないよ」

「ならないっていえる根拠はあるのかい?」

「うん、あるある」

「言ってごらんなさい」

「用事の重要度が全然違うもの」

「重要度?」

「運動会や遠足は毎年あるでしょ」

「うん」

「けれども修学旅行は、一度きりしかない。三倍も違う」

「千日のうちの一回と三回だろ。あんまり違わないような気がするけどねえ」

「大違いだよ。まあ、明日になれば解るって。きっと僕のことを見直すことになると思うよ」


 翌日の駅

 駅での見送りは、この町の一大イベントだ。集まってくるのは修学旅行に出かけて行く生徒の家族だけではなく、全校生徒とその家族もやってくる。そこに校長をはじめとする学校関係者と、町会、役場などからも人が繰り出してくるので、総勢五十人ほどが小さな駅に集まっていた。

 駅長がアコーディオンで校歌を弾き始める。彼のいつもの役割だ。

「数馬の奴ったら遅いなあ」

 風太と航が数馬の家の方角を眺めている。

「どうやら今日も起きられなかったようだな」

「あいつ、朝は本当に弱いんだものなあ」

 噂をすれば、である。駅舎から百メートルほどのところにある曲がり角から、数馬の姿が飛び出してきた。

「来たっ」

 道を大きく回り込んで直線に入ると、みんなの待つこちら側へと一目散で走ってくる。その真後ろには、スリッパを手にした母親が同じスピードで続いている。見送りに来たというよりは、追いたててここまでやってきたと言った方が合っているであろう。

「このバカ息子が、やっぱり寝坊して」

 パカッ。

 スリッパで数馬の頭をひっぱたいている。

「いててて」

「腹が立つったらありゃあしない」

 パコッ。もう一度叩いた。

「ごめんごめん」

「しかも、昨日のうちに準備をしておけとあれほど言っておいたのに、なんにも用意していないときた」

 パコン、パコン。

「ててて」

「こののんびりした性格、何とかならないものかしらねえ」

 スコーン。

「あっ、今のはいい音!」

「ちょっとお、僕の頭を楽器替わりにしないでよ」

「じゃあお尻にしてあげるよ」

 スパーン。

 ヒャッ。

 数馬が飛び跳ねた。みんなの前で着地が決まって、これで無事全員集合。

「まったく、おむつがなかなかとれない子だよ」

「もう取れているよ」

「たとえ話にきまっているだろ。ちっとも親の手を離れてくれなくて、いつまでたっても手がかかる、そう言っているんだよ」

「それって名言の一種かなにかなの? 誰が言った言葉なんだい?」

「言い出しっぺが誰だかなんてことは知らないけれど、あんたみたいな子供を持った母親全員が思っている言葉だよ」

「うちだけじゃあなくてよかったな」

「この減らず口」

 数馬のほっぺたをつねる母親。そこに航の母親が歩み寄って行った。

「なにはともあれ、間に合ってよかったじゃないのよ」

「あっ、おはようございます。遅くなってすみません」

 ほっぺたを引っ張ったままで頭を下げる数馬の母親。

「いててて。そんなに怒らないでよ。電車も今日くらいは待っていてくれたはずなんだから」

 こんな具合に、数馬の減らず口はちっとも懲りていない。

「何ていう言い草だい。見送りの人たちがこうやって来てくれているんだ。待たせたうえに心配までかけたんだよ。申し訳ないと思わないのかい」

 今度は頭を押さえつける数馬の母親。

「ててて」

「汽車に乗り遅れるとか遅れないとか、そんなこととは別次元の問題なんだよ。さあ、みなさんにちゃんと謝りな」

 母親が、グイグイと頭を下げさせながらぐるりを回っていく。

「皆さんすみません」

 数馬は頭を上下させられながらも、笑顔を振りまいている。

「皆さーん、朝もはよからご苦労様です」

 などとのんきなことを言っている。母親が、

「こら、ちゃんと謝るんだよ」

 いっそう深―く数馬の頭を押し下げた。

「まったくもー、なにかしでかしてくれるんじゃないかと心配になるよ。いっそのこと東京までついていこうかねえ」

 そこに航が寄ってきて、

「おばさん、僕も手伝いましょう」

 一緒になって数馬の頭を押し下げる。

「数馬、まだまだ、頭が高いぞ」

 風太が後ろから二人に近づいていき、大きなお尻でドンケツを食らわせた。

「おわっ」

 三人そろって地面に倒れ込む。

 グシャ

「いててて」

 プオー

 列車の汽笛が辺りに鳴り響いた。

「さあ、乗りこむぞー」

 教師の赤井から、生徒たちに向かって号令がかかった。修学旅行に付き添っていく三人の引率のうちの一人である。

「みんな急げ―」

 同じくの青田も声を張り上げる。あわてて改札に入っていく三人の生徒達。

「バッグバッグ」

 風太の母親が、そう叫びながら改札内まで追いかけてきた。航と一馬の母親も、そのあとに続く。三人が揃いも揃って自分らの荷物を忘れていたのだ。

「あわわわわ」

 慌てて母親の元へと戻ってくる三人。それぞれのバッグを親の手から受け取って、改めて列車に飛び乗っていった。

「まったくもう。あんなんで旅行中ちゃんとやっていけるのかねえ・・・大丈夫なのかねえ」

「出発前からこんな調子じゃあ、先が思いやられるわ」

「何にも事件を起さないで帰ってきてくれればいいんだけど」

「これから数日は、家の電話が鳴るたんびに、あの子たちが何かしでかしたんじゃああるまいかと、ドキッとさせられてしまいそうだよ。ふうー」

「そうよねえ」

「一緒についていった方が、なんだか気が休まりそうだわねえ」

「連れていく方だって大変よお」

「それはそうかもしれない」

「あの三人を連れていくんですものねえ」

「引率がたったの三人なんでしょ、そんなんで大丈夫なのかしら」

「少ないわよねえ」

「あの子たちには六人は付き添いが必要よ」

「そうそう。マンツーマンでも贅沢なんだろうけれど、倍は付いていてもらわないと、安心はできないわね」

 列車の窓から風太がひょっこりと顔を出した。口にはチョコレートを銜えている。

「あっ、それはあたしが隠しておいたチョコレートじゃないのよ」

 風太の母親が叫ぶ。風太は咥えているチョコレートを口から手へと移し、

「餞別として、いただいておきましたよー」

 そう言い終わるや、また口に戻した。

「こらっ、返しなさい」

 文句を言う母親に風太があっかんべーをして見せる。

「まったく、この子ったら。来月はお小遣い抜きだよ」

 列車が動き出した。

「楽しんで来いよー」

 見送りの人たちが声を張り上げた。テープが飛び交い、旗が振られている。

「気をつけてねー」

 トランペットが鳴りだした。駅長が吹く蛍の光である。

「行ってきまーす」

 送る側と送られる側、双方が手を振り続けている。誰かの弟であろうか、列車を追いかけてホームを走っていくまだ幼い子供の姿が見える。案の定、途中で転んでしまった。

「あっ、大丈夫か!」

 涙腺の弱い人は、この見送り場面にやられてしまう。冷静に考えてみれば解るのだが、修学旅行はそれほど長旅というわけではない、わずか数日で帰ってきてしまうものなのだ。ゴールデンウイークや夏休みの方が会えないでいる期間としてはむしろ長いというのに、駅での見送り場面には、ついうるっときてしまう。

「僕たちはすぐに帰ってくるんだぜ。それなのに、ずいぶんと大げさなお別れを演出してくれるものだよなあ」

 風太が同意を求めて数馬と航を振り返った。二人の眼がうるんでいる。

「おいおい、何をウルウルしているんだよ」

 そういう風太の目もウルウルし始めた。

「こういうのはうつってしまうんだよなあ」

 風太は数馬の腕を掴むと、自分の顔を近付けていって、涙をぬぐった。

「うわっ、きったねえなー」

「大丈夫、気にしないから」

「違うよ、俺の方が気にするんだよ」

 ゴーーー

 列車が一つ目のトンネルに入っていった。


 列車の中

「泣いたら、なんだか腹が減ってきちまったなあ」

 風太がポケットからお菓子をひっぱり出して、口の中に入れ始めた。が、いつものように大量に掴んでは口に放り込んでいく、といった豪快な食いっぷりではない。口に運んでいく動作を繰り返してはいるものの、一度につまんでいる量は少ないし、動きもゆっくりしている。口で言っているほどに空腹というわけではないのだろう。

 風太と向かい合わせに座っている二人も、風太と同様におとなしくしている。ホームシックに罹るにはかなり早すぎるようだが。

「航、これ食うか?」

 湿った空気が自分たちの辺りに停滞していることを風太が嫌ったようだ。作り笑顔でもって航に話しかける。

「いや、いいよ」

「そうか」

 差し出したお菓子を自分の口の方へと方向転換し、ぼそぼそと食べる。

「数馬、これを鼻から食ってみせてくれないか? きっとおいしいぞ」

 あられを差し出す風太。

「俺も今はよしとくよ」

「あ、そう・・・」

 また自分の口に持っていき、ぼそぼそと食う。

 ゆっくりとではあったが、あられ一袋を完食してしまった風太、空になった袋を航のリュックへと押し込んだ。

「こんなに食べてばかりいたら、東京に着くころにはかなり太ってしまいそうだな、はははのはー」

 と、めげずに二人に話しかけていく。

「出口ドアに体が引っかかって、降りられなくなっちゃったりしてね」

 やっと返事を返してくれたのは航だ。

「ははは」

「でも、運動して消化を助けてあげておけば、いくら食べても大丈夫だよ」

「運動?」

「ああ」

 数馬が風太の横へと移動する。

「こんな具合にな!」

 数馬が風太の首に両腕を撒きつけて締め上げた。

「ぐえっ、や、やめろ」

「プロレス技は、いい運動になるんだぞー」

「運動はともかくとして、脇の匂いが臭いんだってばさ、匂いがたまらなく強烈なんだよ」

「匂いじゃあない、香りと言え、香りと」

「どっちでもいいからやめてくれ、やめないと、くすぐるぞー」

 風太の指が、数馬のあばら骨の上で踊り始めた。

「うひゃひゃひゃひゃ」

「どうだー」

「まいったよ、まいった。降参降参」

 風太から腕を離し、椅子に倒れ込む数馬。

「はあはあ」

「ふー、はあはあ」

「ここは電車の中だというのに、はあはあ、息切れをおこすなんてどういうことだよ」

「しかも、まだ出発してから十分しか経っていないんだぜ。この調子でやっていたら、ぜーぜー、東京に着くまでには、はあはあ、へとへとになってしまっているだろうなー」

「疲労困憊の状態で東京に辿り着いたんじゃあ、あっちで楽しめないぞ」

「せっかくの旅行だというのにそれじゃあもったいないなあ。はしゃぐのも、ほどほどにしておくか」

「うん、しばらくはおとなしくしていようぜ」

 三人は座席に深く坐りなおし、窓の外に目をやることにした。

「いつの間にか、外の景色がすっかり変わってしまったなあ」

「ほんとだ」

「見慣れない風景だよ」

「俺たち、本当に東京に向かっているんだな」

「ああ。どうやらそのようだ」

「東京かあ」

「東京っていうとさ、なんだか怖いというイメージが浮かぶんだよね、俺は」

 数馬がそう告白する。

「怖い?」

 聞き返す航。

「うん。だって人が大勢いるんだろ」

「そうだな。うちらの町の人口の、それこそ何十倍、何百倍といった数の人間が暮らしている」

「それだけの人たちが集中していると思うと・・・、なんか怖くないか?」

「怖い?」

「去年、町でバッタの大量発生があっただろ」

「あー、あったあった。たしか夏だったよな」

「うん。あの時にさあ、俺、すごく怖い思いをしたんだよ」

「空一面がバッタだらけになったものなあ」

「外にいたのかよ」

「うん」

「俺は家にいたけど、確かにあれは怖かった、うん」

「東京があれと同じ状態だと思うとさ・・・」

「虫と人間とでは違うんじゃあないの?」

「そうかなあ」

「人間は大勢でいきなり襲ってきたりはしないだろ」

「まあな」

「バッタは何も言わずに不意打ちで向かってきたからなあ」

「そうそう。空が急に暗くなったと思ったら、次の瞬間は、自分がバッタの大群の中にいるんだもの」

「思い出した、思い出した」

「隠れる場所も、逃げる時間もなかったんだよ」

「そりゃ怖いわ」

「その場にしゃがみこんで、ただ丸くなっているしかなかった」

「まさに生き地獄」

「いったいいつまでこの状態が続くんだろうって、不安になったよ」

「・・・」

「風太、どうした?」

「俺、具合が・・・悪くなった」

「気味の悪い話を聞かしちゃったからかな、大丈夫か?」

「あんなに胃袋に詰め込んだのも関係しているんじゃないのか?」

「その二つの喰い合わせが悪かったのかもね・・・ははは」

 笑い声が小さく、腹に力が入っていない。

「こっちで横になるといい」

 自分が移って二人分の席を風太に用意する数馬。

「休んでいれば、じきによくなるさ」

「うん、ありがとう」

「しばらく食べるのは休んでおけよ」

「大丈夫、今は食欲がないからな」

「食べられなきゃあ、太らなくて済む。よかったじゃないか、東京駅で降りられるぞ」

「一石二鳥だな」

「よかった。置いてけぼりにされなくて済むんだな」

「ああ、安心していいぞ」

「うん」

 ビニール袋をバッグから取りだして、風太に差し出す航。

「もどしたくなったらこれを使えよ」

「大丈夫、トイレに行って出すから」

「無理無理、あれは一瞬でやって来てしまうものだからな、トイレまでは間に合いっこないよ」

「ちゃんと口を押えるから」

「そうすると、今度は下から出てきてしまうんだよ。パンツがぐっしょりになっちまうぞ」

「本当か?」

「試してみればわかるさ」

「その勇気はない」

「それと、これは念のための分、持っておきな」

 もう一枚ビニールを取り出し、二枚にして手渡す。

「一枚あればいいよ」

「サービス、サービス」

「大盤振る舞いだな」

「そのかわり、こっちが危うくなったら、返してくれよな」

「解った、それまで預かっておくことにしよう」

「じゃあ、ゆっくり休めよ、な」

「うん」

 言うなりすぐに眠りに入って行った風太。

「まったく、かわいい寝顔をしやがって」

「いたずらしてやろうか」

「それは元気になってからでいいんじゃないの?」

「そうか?」

「反応があった方が面白いだろ。それまでは、二人で東京に向けての作戦会議をしていようぜ」

「会議?」

「うん」

「議長は?」

「僕がやる」

「ならオッケーだ」

「数馬はさあ、僕達が東京に行く目的がなんだかわかっているのかい?」

 航が問いかける。

「目的?」

「誰かに会いに行くというわけではないだろ」

「うん、そうだな」

「じゃあ、俺たちはいったい何をするために東京まで行くんだい?」

「なんだろう。わからないや」

「建物を見に行くんだよ」

「建物?」

「京都や奈良に行くときには、昔の人が作った建物を見て回るだろ。東京に行くときは、現在の建物や街並み、つまりは今現在の文明を見に行くんだな」

 航が地図を出して広げる。

「これが東京だ。見てみなよ、緑色や茶色の部分があまりないだろ。これはコンクリートでできた建物がひしめき合って建っているからなんだ」

「ふんふん、つまり、森や山が少ないっていうことだな」

「そう、そういうこと」

 大きくうなずく航。

「僕らの町にある森や山とは違った色の森や山があるっていうわけじゃーないんだな」

「そう。これは地図上での表記の問題だからね。町の葉っぱだって、季節によって色が変わるけど地図上は一緒だろ」

「うん。そういえばそうだ」

 ページをめくっていく航。

「あっ、東京タワーだ」

 知っている場所を見つけた数馬が指で指し示そうと手を伸ばす。その拍子に、小机に置いてあった缶コーラに肘を当ててしまった。

「おわっととと」

 中身がこぼれ、地図がビチョビチョに。

「うわあ」

「ごめん、全部茶色にしちゃったよ」

 数馬がきょろきょろとあたりを見渡す。通路を挟んだ向こうの席でいびきをかいている客がいる。その脇に置かれたバッグを見ると、外ポケットに、水のペットボトルが入っていた。急いでそれに手を伸ばす。

「悪い、ちょっと窓を頼むよ」

「ああ」

 航が窓を開ける。数馬は外に体半分乗り出してペットボトルの水を地図にかけながら、バタバタと振ってやる。それを三回繰り返して車内へと体を戻すと、寝ている乗客のポケットから覘いていたハンカチとちり紙を抜き取って地図を拭いた。

「よし、きれいになったぞ」

 何が起こっているのか気付かずにいまだ眠り続けている客のポケットにハンカチを戻し、コーラ缶とちり紙はバッグの中へと放り込んだ。淡々と行われた一連の作業は、まるでいつもそうしているかのような手慣れた感じで進められていった。二人が悪びれている様子はなく、何食わぬ顔で会話に戻っていった。

「そういえば地図なんて、授業でしか見たことがなかったなあ」

「普段は必要に迫られることがないもの」

「どうせおんなじ場所にしか出かけていかないからな。学校と、それから商店街くらいのものだもの」

「俺だって、眺めているのは趣味であって、地図を使いながら生活しているわけではないものな」

「航にとってはオモチャのようなものなのかな」

「そうだね、見ていると面白いことを発見できるんだよ」

「ふうーん」

「そういえば、このあいだ学校の図書館で昔の町の地図を眺めていたんだけどさ、百年前と今とでちっとも変わりがないんだよ」

「そりゃすごいねえ」

「役場も学校も、駅の場所も昔のまんまのところにあるんだ」

「僕らの町は世の中の発展から取り残されてしまっているのかあ」

「都会では高層ビルがどんどん建つ時代だっていうのに、町で一番背の高い建物が、農協の三階建てビルディングなんだもの」

 彼らの住む町では、どの建物も上へ伸びていくことはなかった。たとえ増築の必要に迫られたとしても、広げていく場所は横にいくらでもとれるので、縦に伸ばす必要がないのだ。人口が増える予定も今のところないので、この町の外観に極端な変化が起こることは当面見込めそうにない。

「町は戦争の影響を全く受けなかったって聞いたよ。戦前も戦後も自分らの生活スタイルは同じだったんだってさ。この間社会科の授業で教わった高度成長期とやらも、まるでほかの星の話ででもあるかのように、とんと縁がなかったらしいぞ。もはや戦後は終わった、などと言われても、ピンとこなかったと、おじいちゃんが言っていたなー」

 地図を数馬に見せながら、航がそんなことを話した。

「それに比べるとさあ」

「比べると?」

「東京はすごいよ。日々変化を続けているんだ。僕が見てみたいと思うところだらけだもの」

「たとえば?」

「新宿、渋谷、六本木」

「ふーん」

 上の空で聞いている数馬。元々そういったことにそれほどの興味はないようだ。今回の修学旅行で数馬が心掛けていることは、集合時間には必ず集合場所に居ること。あとは先生や仲間達にくっついていけば安心だ、そう思って参加しているのだ。行先がどこであろうがそんなことは一向に構いはしない、みんなと一緒に居られる、それだけで充分楽しいのだ。航のように地図の難しいマークを見て様子を想像しているよりも、現地を直接見て肌で感じる方が性に合っているのかもしれない。

 風太が目を覚ました。早速お菓子を口に頬張って、二人に話しかける。

「おはよう」

「ん? よお、復活したか。具合のほうはどうなんだ?」

「食っても平気なのかよ?」

「のどを通ってくれているということは、大丈夫だということなんだろうね」

 風太らしさが戻っていた。腹いっぱいになることができれば充分満足、すこぶる機嫌がいい。旺盛な食欲、それが彼の健康のバロメーターでもある。食いしん坊の一方的な理屈ではあるのだが・・・。

「さあ、東京に行ってからも、食べて食べて、食べまくるぞー」

 東京にいろいろな食べ物が揃っていることを風太は知っている。全部食べつくしたいから修学旅行の期間を一年間に延ばして欲しいと先生に願い出た、そんなエピソードがある。

「そう言えば航さあ、自由行動で行く場所をどこにするのか、目星はつけてあるのか?」

 航は二人から見学場所の決定権を一任されているのだ。

「候補地がいっぱい出てきてしまって、まだ決めかねているんだ」

「うまいものを沢山食える場所を頼むよ」

「風太は食べ物から離れて考えられないんだなあ」

「僕は気にしないよ」

 これは数馬だ。

「どんなところか希望はないの?」

「特になし。僕はみんなのうしろについていきます」

「先輩たちから、おいしい店を聞いておけばよかったんだよなー、失敗したなー」

「去年の卒業生は三人とも町を出ちゃって、もう居ないからな」

「そうなんだよなー。一人残らずだもの」

「菜月は渋谷にあるブティックに就職したんだったな」

「901とかいうところで働いているらしいよ」

「おっ、店の名前まで知っているところをみると・・・ひょっとして数馬も東京通なのか?」

「違う違う、テレビでやっていたときに、たまたま見ていただけのことさ。東京では有名な場所らしいぞ」

「地図にも載っているよ」

 生乾きの地図をめくって見せる航。

「あれ? 何で地図が濡れちゃっているんだい?」

 風太が不思議そうに尋ねる。

「ちょっとな」

「小さいころから憧れていた衣料品店だったんだってさ」

「菜月は夢をかなえられたんだな」

「なにも東京まで行かなくたって、町にも店はあるのに」

「あれはスーパーマーケットだから、ちょっと違うんだろうよ・・・」

「そうなのかなあ?」

「なんだかんだで、やっぱり田舎にいるよりは東京で暮らしたいということなんじゃないの?」

「東京に行ったのは菜月だけじゃあないんだから、そうなんだろうね」

「玲奈は東京の学校に進学したしさ」

 風太が言う。

「代議士をやっている母方のおじいちゃんの後を、父親が継ぐっていうことだったな」

「玲奈自身は東京行きに乗り気じゃなかったみたいだったけどな」

「そうなの?」

「卒業挨拶の時、寂しそうにしていたものなあ」

「グッと涙をこらえていたんだよ」

「行くな、と言ってあげればよかったなあ」

「よその家の問題なんだから、詳しく知りもしないで無責任なことは言えないだろう」

「そうそう、他人が立ち入るべきでない事情というものが、それぞれの家庭にはあるものなんだからさ」

「親類縁者を頼って町に一人で残ることよりも、東京で家族と一緒に暮らす方を選んだということだよ」

「まあ、本人の自由で道を選ばせてもらえたかどうかは、本当のところはわからないんだけど・・・」

「本当は町に残りたかったんじゃないかな」

「ホームシックになってやしないかなあ」

「ホームは、今は東京だろ」

「そうか。じゃあ故郷シックでもいいよ」

「田舎のことなんかはすっかり忘れて、東京で楽しくやっていたりするかもよ」

「それは寂しいよ。町のことを忘れて欲しくはないなあ」

「でも、いつまでも過去を引きずっているわけにもいかないだろう」

「そうだけどさあ」

「東京の生活になじめているというのなら、安心できるんだけど」

「新しい学校で田舎者いじめにあってなければいいんだが・・・」

「勝ち気な性格だったから、やられても負けっぱなしということはないだろう」

「それもそうだな」

「碧も学校に入ったんだよな」

「うん、美容師の学校だね」

 数馬が付け加える。

「表参道というところにある店でアルバイトをしながら、学校に通うんだって言っていたな」

「表参道と渋谷は近いぞ」

 航が言う。

「そうなのか」

 身を乗り出す数馬。その数馬が手にしているお菓子にまで手を出し始めた風太。数馬はそれには気付いていない。

「じゃあ、東京でも二人は会っているかもしれないな」

「友達が近くにいるというのはありがたいことだよね」

 航の話に二人がうなずき、三人揃って窓の外に目をやる。

「三人とも、もう町には戻ってこないのかなー」

 そう言って遠くを見ている数馬のお菓子を、味をしめた風太がまた狙いにかかる。ちょうど数馬も手を伸ばしたところだったので、二人の手がかちあってしまった。

「あっ、こいつったら、俺のお菓子にまで!」

 小競り合いが始まった。

「卒業生たちの話だな?」

 前の座席の上から教師の木田がぬっと顔をのぞかせて、航に話しかけきた。数馬と風太のいざこざの方にはちっとも興味を示していない。幾度となく見慣れた光景でもあるし、仲良し同士の遊びの内だと解っているのだ。

 一行の座席はひとかたまりで取ってあったのだが、教師たちはあえて生徒たちとは少し距離を置いた場所に陣取ることにした。生徒達が気兼ねすることなく会話ができる環境を作ってあげようと、気をきかせてのことである。空いている田舎の電車はそういった融通をきかせられるところがよい。今は木田が教師の陣地から代表派遣されて、生徒たちの様子を見に来ているのだ。

「うん」

「彼女たちに、東京から町へ戻ってきて欲しいわけだ」

「あっ、そういえば、木田先生も以前東京で暮らしていたんだったね」

「ああ」

「どうして町に戻ってきたの?」

「東京が嫌になってしまったの?」

 風太と小競り合いしながらも、数馬が会話に加わってきた。

「うーん、東京を特段嫌いになったというわけでもないなあ」

「ふーん」

「うまくいっていなかったというのはあるけどね」

「ふーん」

「まあ、とにかく町に戻ってきたくなっちまったんだ。ホームシックのようなものも少しはあったのかもしれないなあ」

「へえー」

 小競り合いの方へと目を移す木田。

「二人とも、エネルギーは残しておけよ、これから五回も乗り換えをしなければならない、とてつもなく長い旅になるんだからな」

「はーい」

「さ、そろそろ最初の乗換駅だぞ、降りる準備を始めておけ」

「了解しましたー」


お読みいただき、ありがとうございました。この続きに興味を持たれたようでしたら、第二章もよろしくお願いします。

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