冬の日の出来事(おまけ)
冷たい木枯らしが通り過ぎる。周囲を見渡せば葉を落とした街路樹が立ち並び、道行く人々の装いを眺めればその寒さは明らかだった。
彼女が美南となってから、冬を迎えるのはすでに三度めになる。『美南』となる前のことを思い出すことも、かなり珍しくなっていた。
「改変前の名前は……確か今の悠にいと同じだったはず」
彼女は『悠人』という『昔の名前』を推論によって導き出した。しかし、彼女にとって『悠人』はもはや兄の名前でしかなかった。
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美南はとある学術書を借りるため、図書館に訪れていた。
用件を済ませた彼女は、自宅に戻るためのバスを待つ間、鞄の中にある学術書の内容を頭の中で反芻することにした。
彼女が学術書を読むのは、義昭の傍に居続けるためだった。彼女の中で、タイムマシンは義昭との逢瀬の口実になりつつあった。
義昭の隣を歩くことは、並大抵の努力では叶わない。
実のところ、義昭は非常に優秀な成績を修めていた。――それこそ、タイムマシンの製作が可能である程度に。
美南が義昭と渡り合えるのは、ひとえに、彼女の人生が二周目であるからに他ならなかった。そして、その一周めの知識を総動員してさえも、彼の会話についていくのは容易なことではない。
仮にタイムマシンが完成したとして、昔の自分に戻るつもりはもうなかった。今の義昭との関係が壊れることを思うと、今の生活を手放すことはできない。
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ふと気がつけば彼女の手はすっかり冷えきって、指先の感覚は失われていた。
かつての自分がどのように寒さに耐えていたかなんて、今の美南は覚えていなかった。それでも、彼女の行動はもう決まっていた。
彼女の携帯端末は、その突発的で異常な発熱から、マニアの間で、高級カイロなどと揶揄されることもあった。
それは、格安である故の欠陥である。しかし、彼女の手にかかれば、欠陥であるはずの発熱も思いのままであった。
それに、美南には、その粗悪品が大切なアイデンティティーの一部分であるように感じられて、どうにも手放せずにいた。
そして、その欠陥こそが今の彼女にとって最も必要なものであった。
冷えきった手に、携帯端末の熱が優しく染み渡った。
バスの到着まではまだ時間がある。発熱を安定化するため、そして退屈を紛らわすため、彼女はいくつかのアプリを起動した。
義昭との逢瀬の日程を確かめたり、試験前にもかかわらずチャットに興じるクラスメイトに心の中で合掌をしたり、なんてしながらも、時は静かに流れていくのだった。