後編
実際のところ美南は少し焦っていた。
過去を元に戻そうにもタイムマシンすら存在せず、貴重な時間ばかりが消費されていく。…そればかりか、時間が立つほどに状況は悪化していった。
美南の記憶がよみがえることで、日常生活には支障は出ていないし、周囲に不審に思われている様子もない。しかし、裏を返せばそれは、『悠人としての自分』が薄れていくことを示しており、もはや現状としては『美南になってしまった悠人』というより『悠人の記憶を持っている美南』のほうが近い状況であった。
しかし、彼女はまだ過去に戻るために必要な重要な鍵――タイムマシンの制作者である義昭の名前――すら思い出せずにいた。
義昭は意外な形で美南の前に現れることになる。
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やがて夏休みが明けると美南は小学校へ行くことになった。彼女は記憶を頼りに危なげなく教室に辿り着くと、隣の席の人物に声をかけた。
「おっはよー。よしあきっ!」
それから彼女は暫く考えこみ、やがて、徐に口を開くと義昭にある質問をする。
「ねぇ、よしあき。タイムマシンのこと覚えてる?」
「タイム・マシン?かの有名なSF作家ウェルズの作品で、映画化もされたやつ?」
「そうそう。夕日を背景にカニが闊歩するシーンが何故か心に残っている……って違ーう」
その後もそれとなく質問を続けていくが、どうやら彼はかつての記憶を失ってしまっているようだった。
義昭がこの有様ではタイムマシンはいつ完成するのか、そもそも本当に完成するのか。薄れゆく記憶のことを考えると美南は絶望的な気分になった。
いざとなったら自分の手でタイムマシンを造らねばなるまい。とりあえず数学……もとい算数と、物理・化学…もとい理科は重点的に勉強しておこう。美南はそう決意したのだった。
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美南の決意を嘲笑うかのように、月日は無情にも流れ、彼女は中学3年生になっていた。
「志望校の受験これからだっけ?」
「良いなぁ。美南は頭が良くて」
残酷な選別を控えて、学級内は阿鼻叫喚の地獄絵と化していたが、美南は努力の末に、義昭と同じ高校に滑り込むことに成功していた。もっとも、自分がなぜ勉学に追われているのか、当初の動機はもはや忘却の彼方であった……。
「……そりゃ、ゆっきーと比べたら誰だって頭が良いよ」
「ナニソレ、私そんなにアタマ悪くないでしょ?」
「……ごめん、私はゆっきーにだけは嘘をつきたくないんだよw。どうか許してww」
……もう言葉は必要ない。
そんな彼女の携帯端末に、一通のメールが届いた。もちろん彼女の携帯のメールソフトは、今でもPOPに設定されていたが、当初の意味は既に忘れ去られていた。
「伝えたいことがある」――放課後、誰にも気取られないように屋上に来てほしい――。義昭からの呼び出しだった。
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「待たせた?」
美南が屋上に辿り着くと、既にそこには義昭が待っていた。
「ううん、今来たところ」
義昭の視線は自信なさ気に揺れている。美南は彼が持つ封筒に目をやり、呼び出された理由を察した。
「実は、僕は……」
義昭は拒絶を恐れるかのように口を噤んだ。暫く躊躇った後、義昭は徐に口を開いた。
「僕は、ずっと前から……」
きらめく夕日が2人の頬を紅く染める。美南は期待で胸の鼓動が高鳴るのを感じていた。
「タイムマシンを造るための研究をしていたんだ」
そう言って、義昭は数百グラムはありそうな分厚い茶封筒を美南に差し出した。
「だから、どうか……、どうか一緒に造るのを手伝ってほしい」
美南は、封筒の中身を検分しながら返事を紡いだ。
「ええ、喜んで」
義昭と一緒ならどんな困難も乗り越えていける。今までも、そしてこれからもずっと……。美南はそう直感していた。そんな二人の関係を祝福するかの様に、少し気が早い桜が咲き乱れていた。