彼女とショパンと欠落と
「サカモトさんって、ピアノうまいなあ。」
と、私は言った。
5限目の授業は音楽で、校内では数少ない、クーラーが使える部屋での授業だった。
暑さを避けるため、ほとんどの生徒が昼休みが終わるのを待たずに、音楽室に来ていた。
チャイムが鳴るまでの時間をみんなもて余しており、私はサカモトさんを中心にグランドピアノに群がる女子を、遠巻きに眺めていた。
私の隣で彼女は、クラスメイトの人間関係でも見ているのだろうか、一人でにやにやしていた。
サカモトさんが弾いていたのは、ショパンの幻想即興曲だった。サカモトさんは、音大に進学を希望していると、誰かが言っていた。
サカモトさんの右手と左手は、別々の意思を持った生き物のように、バラバラに動く。それなのに一つの曲として見事に調和していた。
私はそれを、うっとりと聞いていた。
「私、いっつも誰かとあんな関係になりたいと思ってんねん。」
「それはフシギちゃんの夢の話か?」
彼女はそうやってすぐ私をからかう。
「ちゃうよ、ピアノの曲の話やん。あの曲、左手は一拍を三分割の伴奏で、右手は一拍を四分割でメロディー弾いてんねん。あんなことフツーできひんやろ。」
「十二分割で考えたらいけるで。」
「算数的にはな。サカモトさん、そんなこと考えて弾いてないやろけどな。別々のことしてるように見えて、なんか合ってるっていいと思うねんなあ。」
「なるほどね。あんたの言うてることは、ようわかったけど、たぶん無理や。」
「なんで。」
「それはね、あんたに欠落してる部分があるからよ。」
彼女は生まれも育ちも大阪だ。生粋の関西人なので、もちろん話す言葉は関西弁だが、それが時々標準語になることがある。
普段、彼女が話す声は丸くてかわいい声だ。その声と同じように、かわいい丸文字が、空中にぽわっと浮かんでいるように感じるのだが、その時の会話の中で、彼女が最後に言った言葉は、突然明朝体になった。
高校を卒業した後、短大へ進学した私は、新しい友人に誘われるまま、近くの大学生が作ったイベントサークルに入部した。
入部と言っていいのかどうか、よくわからないのだが、友人に連れられてミーティングと呼ばれる集まりに何度か参加した。
ミーティングではあるが、特に大事な話はしない。次の遊びの相談をして、あとは飲み食いするだけだった。
短大生の醍醐味はこうだと言う友人にならって、同じようにしてみたが、私はいつも疲れていた。
ミーティングに行くと、私は隣の人とだけ話してしまう。もっと、いろんな人と話した方がいいと、友人からアドバイスを受けたが、複数の人といっぺんに話すような、器用なことは元々苦手なのだ。
それは高校生の頃から自覚していたのだが、新しい環境をきっかけに、自分を変えられるのではないかと考えたのだ。
しかし、すぐには変えられなかった。
あちこちで会話が飛び交う中、音の多さに、言葉の多さに、酔ったような気分になった。
時々知っている単語が聞こえて、それを頭の中でいちいち漢字に変換してみたり、ゴシック体やポップ体の文字が空中を行ったり来たりして、その単語から連想される話を考え始めてしまい、気が付くともう次の話題になっている。
私は誰の話も聞いていなかった。
途方に暮れている私を救ってくれるのは、男の子であることが多い。
「疲れたん?」
「うん、ちょっと疲れたかな。あたし、大勢で話すの苦手やねん。」
「じゃあ、外に出る?」
そう言って、その場から救い出してくれるのだが、私の言葉は男の子達の耳に届く間に、何かの合図に変換されてしまう。
お互いの目的が違うので、当然会話はすぐに行き詰る。
「おとなしいんやね。」
「そんなことないよ。」
「この後、二人でどっか行かへん?」
お決まりの会話だ。もう何度も聞いた。
ここで私は「うん。」と言わなくちゃいけないのだろう。
私は、高校の音楽室で交わした、彼女との会話を思い出していた。あれはやっぱり、フシギちゃんの夢の話なのかもしれない。
男の子達は皆、彼らと同じリズムで踊ることを私に要求する。
私はショパンの、ポリリズムのような音楽を作りたいだけ。異なるリズムの中にも調和は生まれるのに。
だが、私の思い描くような音楽は、たぶん作ることはできないのだろう。
「それはね、あんたに欠落してる部分があるからよ。誰かを好きだっていう気持ちが、いつも抜け落ちてんのよ。」
たぶん彼女の言う通りなのだろう。
彼女の明朝体の文字が頭の中で、何度も浮かんでは消えた。