天(ソラ)から見てるよ
「わたし、死ぬのなんか恐くないよ」
冷子はまたそんなことを言ってくる。
僕の目の前で手首を切ってみたり、歩道橋から飛び降りようとしてみたり。
実際、僕と付き合う前から左手首には切った後が何ヶ所かあった。
2年前から同棲を始めて、2人とも24歳になった。同棲といっても、2人とも働いているから、朝と夜しか一緒にいられない。土日はゆっくり2人でいられるけれど・・・。
「ねえ、なんで僕をそんなんに困らせたいの?」
「え? 困らせてる?」
こんな会話は日常茶飯事。
「だってさー、死ぬのは平気とか言って、手首切ったりさー。僕が慌てて止めるの知っててやってるでしょ。心配してんだよ、こっちは」
「フフ、嬉しいんだー、心配されるの。だからわざとやってるの」
彼女ははにかむ。
「やめてよー。こっちの寿命が縮むよ」
僕は眉間にしわを寄せる。
夜、僕と冷子はベッドの上で、激しく暖かいセックスをする。
冷子と肌を触れ合わせるのはとても幸せなことだ。
「おまえはさ、死ぬのなんて恐くないって言うけど、死んじゃったらこんなに気持ちいいセックスもできなくなっちゃうんだぜ」
胸の中に彼女を包みながらそういうと、「そうだねえ。それはこまるねえ」なんて軽い返事が返ってきた。
分っているのやらいないのやら・・・。
ある日、僕は会社に行くためスーツ姿にフルヘルメットというアンバランスな格好で、オートの二輪に乗って大きめの国道を走っていた。
目の前の十字路、赤になったので止まった。信号だけに集中して青になったからアクセルを握り込んだ。右からすごい威圧感を感じて振り向くと、ダンプカーが猛スピードで突っ込んできている。
たぶん、黄色信号に焦って、渡れると思ったのだろう、僕はダンプカーの運転手の驚いた顔すら見て取れた。
瞬間、宙に飛ばされたとき、僕の時間はスローモーションになった。僕のオートマバイクはダンプカーの下に潰され、後続を走っていた車も巻き添えになっている。
明らかに青になってから走り出したので、僕の過失にはならないだろう。などと考えてから、後ろに冷子を乗せていなくて良かった、と思った。
青空が広がり、太陽の光がまぶしかった。
僕は、高校生の頃を思いだしていた・・・。
高校一年、夏。
初夏の日差しだったが、ラッシュの電車の中はクーラーが効いていて涼しかった。
そう、確か、先に声をかけてきたのは冷子だったと思う。
「おはよう!」ラッシュの中で黄色い声が響く。
「あー、えーと・・・」まだ高校生になりたてで、女子と話す事も苦手だった僕は、声をかけられてもそれが誰だか分らなかった。
「もしかして私のこと分らない?」
「えっと・・・はは・・・ごめんね」
「やーだー、アタシ冷子・・・あなたは・・・」
光がフラッシュバックして高校二年の夏休みを映しだした。男子3人、女子3人で合計6人で行った熱海の海だった。
僕は冷子に片思いをしていて。この海で告白しようと誓っていた。 どうにか冷子だけを呼び出すことに成功して、夕方の堤防に2人で座った。閉まりかけの海の家からかぎ氷を買ってきて冷子に手渡した。ただ何となく世間話をしていると、夕方の空は少しずつ星空に包まれて行く。(早く言わないと二人きりの時間が無くなっちゃう)僕の心臓はバクバクしていた。
「ねえ、わたし待ってるんだから、あなたの口からきちんと言ってよね」 冷子にそう言われた・・・。僕はどのくらい黙ってたんだろう、とにかく長い時間黙っていたような気がする。僕は言った。
「冷子ちゃんが好きだよ」
また場面が変わる。高校を卒業して、彼女は就職して事務職に。僕はデザインの専門学校へと進んだ。
その頃からだ、彼女がおかしくなり始めたのは。泣きながら電話をしてきたり、会社を休むようにもなった。
社内でのいじめとセクハラとで彼女は鬱病と診断された。
彼女はその会社を辞めスーパーのパートを始め、僕と同棲することになった。22歳のときだった。
僕は学校を卒業し、デザイン事務所に入って、デザイナーの卵として働き出した。
鬱病初期の頃は薬の副作用などで、寝ぼけて頭を壁に打ち付けたり、勝手に外に出たりすることがあった。
そのうち「自分には存在価値がない」と言い出してリストカットやアームカットをするようになった。ホントに僕と一緒に暮らしていて良かったと思った。彼女の家族はあまり鬱病という病気に理解が無いようだった。
「わたし、死ぬのなんか恐くないよ」
冷子の声が聞こえた。じゃあ、僕が死んだら・・・。
そう思ったとき、僕は2人の住むマンションに戻っていた。
お気に入りの白いTシャツに、Gパンを履いている。
「あれ、ここは僕のうちじゃないか・・・」
壁にかかっている丸い時計を見た。9時半過ぎを示している。冷子はもうとっくにパートに行っている時間だ。
僕はどうしてこんなところにいる・・・。完全な遅刻じゃないか。訳が解らない。すると、急に自宅の電話が鳴りだした。着信メロディーはメリーさんのシツジにしてあった。
電話を取ろうと振り向いた瞬間。またしても背景が変わった。
僕は空中に浮いていた。
ああ、そういうことか・・・。
下に広がる光景を見て、全てを悟った。
国道で斜めになって止まっているダンプカー。その下には僕のオートマバイク。
運転手の僕は、歩道にうつ伏せになって大の字になっている。
ヘルメットのバイザーは真っ二つに割れてヘルメットからはずれていた。その中からは大量の血が流れ出て、歩道に黒いしみを作っていた。
頭が割れたのだろうか・・・?
既にパトカーと救急車が駆けつけており、僕を運ぼうとしていた。
既に死んでいる・・・。
痛みもショックもなかった。気付いたら死んでいた。
冷子・・・死の恐さも分らずに死んじゃったよ・・・。僕は天を仰いだ
霊安室、僕の家族と冷子がいた。
母さんと冷子は声をあげて泣いていた。その2人を父が抱きしめた。弟は口をひきしめ、目を充血させていた。
それから僕は冷子の生活を空から見守ることにした。
冷子は生きる意味を失ったと思い込み手首を切ろうとする。僕は後ろからそっと彼女の両腕をつかんでそれを止めさせる。『冷子、君が幸せになってくれないと僕は悲しいよ』
聞こえる訳がないが、冷子は握っていたカッターを離して切るのを止めてくれた。そしてテーブルに突っ伏して大声で泣いた。
問題は冷子の住む場所だった。冷子の家族は鬱病に対して理解がない。パートなんかやめてすぐ就職しなさいという。無理な話だ。社内の問題で心に病を背負ったのだ。そう簡単に縦社会の現場に戻れるはずは無かった。
しかし、冷子のパート代だけで今住んでいるマンションの家賃が払える訳でも無く。冷子は途方に暮れた。
僕は母さんの夢まくらに立ってささやくことにした。
『母さん、冷子のこと、頼んだよ』
あの時の母さんは凄い驚いていたな。勢いをつけて布団から上半身を起き上がらせるときょろきょろ周りを見渡していたっけ・・・。すぐ隣にいたんだよ母さん・・・。
母さんはすぐ実行に移してくれた。冷子に連絡を取り、弟をルームシェアとして送り込んでくれたのだ。
弟はまだ美術大学の学生だったが、アルバイトを二つこなし、なんとか2人で暮らしては行けそうだった。
弟はとても寡黙な男だったが、芯が強く心根の優しい男だ。兄貴の僕が言うのも照れ臭いが、弟になら冷子を任せてもいいと思った。
この際だ、弟の夢の中にも出演してやれ、と思って弟に一言いってやった。
次の日、弟は冷子に向かってこう言った。
「冷子さん、兄貴から伝言があったよ。何があっても冷子さんを守る様にって・・・」
それを聞いたとき、冷子はフローリングの床にへたり込んで、また大声で泣いていたね。
冷子、僕はもう見守ることしかできないから、だから、強く生きて欲しい。
夏の暑い日、気持ちのいい風が吹いたら、それは僕が起した風だよ。
強い雨の日、冷子が出かけるときにやんだら、それは僕のしわざ。
冬の雪が積もった日、滑りそうになったところを他人に助けてもらったら、それは僕が仕組んだこと。
冷子は全部分っているみたいだったね。いつも僕にありがとうと心の中で思ってくれていた。
僕の方こそありがとう。冷子と一緒にいた時間。心配ばかりだったけど、そんな冷子を守れる自分がとても嬉しかった。今、守ってあげられないのは本当に悔しいよ。
ある日、僕は君にこう囁いたんだよ『僕の分まで生きて欲しい』って。そよ風に乗せて。
君は多分聞こえてたんだ。君はだんだん前向きになった。
そして弟に言ったにね。「彼の分まで生きるよ」って。
弟はとても嬉しそうに頷いた。
冷子は数年後、弟と結婚して、今はお腹に赤ちゃんがいる。
もう大丈夫だね。その身に生を受け入れて、君は生きる活力を手に入れた。これから訪れるであろう辛い日々も乗り越えて行けるね。
僕の役目はもう終った。もう見守らなくても大丈夫。
『冷子さよなら』
良い天気だった。バルコニーの中、身重の体で洗濯物を干す冷子。強い風が吹いて、彼女は風の過ぎ去った青い空を見つめた。いつまでもその顔を、忘れないよ。
END
ショートショート小説です。
玲子の心情変化が分かっていただけたらいいなと思います。




