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「三食おやつ昼寝付き、最低限の衣と住があれば喜んで」

作者: 優希 まな

 異世界から迷い込んだ男。彼が少女と出合ったのは良く言えば“最後の楽園”飾らずに素直に叫ぶなら“帰らずの樹海”だった。何も語らない少女と右も左もわからない男。そんな二人を巻き込みダンジョンが形成され始める。逃げる間もなく取り込まれダンジョンマスターとなった少女。しかしそれを望んだ者の思惑は崩れ去る。「ビックリしたね。大丈夫?」へらりと笑う男の手によって。少女はすぐに考え、そして「死にたくないのなら、私に協力しなさい!」満面の笑みを浮かべ男に言った。困惑したように首を傾げた後、意味を理解した彼はくしゃりと顔を歪めて彼女へ答えを返すべく口を開く。


 という粗筋が一番最初のコンセプトのここから始まらない物語。約四万文字ですのでお時間にご注意ください。

 行き場のない怒りを少しでも発散させようと男は木を見上げた。

 その場に深く腰を落とす。迷ったのは一瞬だ。

 直ぐに鈍い音が響く。一陣の風が、何処からか葉を一つ落す。

 傍らで地面に蹲る男。

 鈍い音の正体であるうめき声を上げながら手を擦るその姿は、見るものの呆れを誘う。

 生暖かい瞳で一連の動作を見やっていた後方から息遣い、憐憫をこれでもかと含んだため息が零れた。

 恨めしげに振り向けば、口を徐に開く彼女が非の打ち所のない完璧なまでの笑顔を称えている。


「レナ。典型的な科学者でお日様がとことん似合わない君が木を殴ればどうなるか、そんなことは私に言われるまでもないはずでしょう?」


 だが、美しい笑顔を形作るその目は笑ってなどいなかった。

 常ならば恐ろしいほどに澄んだ翡翠の瞳には一切の光がなく、今は苔のように鬱蒼としている。

 赤く染まった手を振りながら痛みを誤魔化していた男。

 レナは、されど気にした素振りもなく。懲りないのだろう。今度は右足を大きく振り上げていた。

 蹴りつけようと身体を捻る。しかし勢い余った彼の足が木を捉えることはなかった。見事に空振りを描き、そのまま盛大に尻を地面に打ち据える。

 突き刺さる視線は一瞬の非難を孕む。だが、当の本人は痛みで声も出ないのだろう。視線に気がつくはずもなく、再び地面に力なく蹲るばかりだ。


「遠まわしに引きこもりの根暗だといいたいのかユイハ」

「遠まわしでもなんでもなく、素直に率直にそうだと伝えているはずだけど」


 男はうっすらと涙の浮かんだ目を吊り上げた。

 他人の振りをするには最適な距離。そこで呆れながらも心底面白そうに微笑む金髪の女。ユイハを睨み付ける。人形のように整った。そんな賛美も素足で逃げ出すほどの美しさを湛えた彼女。

 すっと通った鼻筋に、切れ長の涼しげな瞳、赤く色づく形の良い少し薄い唇。何よりも素晴らしい色素の抜け落ちた雪のような白い肌。これほど陳腐な表現もないだろう。だが詩人でもない男にはこの程度が限界だった。それにだ。彼女の顔はそれは素晴らしい。素晴らしいのだが。


 だが、体が残念だと男は力強く断言するだろう。


 余計な肉がまったくもってない細い体。そのストーンとした遮蔽物の一切がない胸の辺りを拝めば特に。無言の視線を送れば意味を察したのだろう、ますます輝く笑顔にレナは苦い笑いを返すほかない。どちらにせよ、黙っていれば心底美しいのにもったいない。という言葉が全てなのだろうと結論付けて。ひっそりと吐いたため息を聞きとがめられる。綺麗な顔と微笑みから零れる言葉。辛辣なそれは何処までも儚げな雰囲気を纏う彼女には似つかわしくない。

 せめて猫を被ってくれていれば。そうは思えども本性を知っている身としては、いざやられるとなると寿命が五年は縮む思いをするのだが。

 残念な美人だ。

 女性に送るには問題しかないような言葉だ。だがそれ以上にユイハを表す言葉をやっぱり彼は知らなかった。


「すまなかった」

「何に対する謝罪なの?」


 彼女は男のそんな取り留めのない心中を察したのだろう。

 また一段と視線から温度が消えていくのを彼は肌で感じ、すぐに誤魔化すように“レナ”なんて女のような名前で呼ばないで欲しいと、いつものように注意をした。

 話を聞き入れて貰えたことなど勿論ただの一度としてない。だが言わなければそれは黙認となりやがては公認となるだろう。

 レナージド博士と呼べ。胸を反らしてそう言えば今度は鼻で笑われる。


「すまなかった」

「だから」


 ここまでしてから、なんとか彼女の怒りを誤魔化せたと一つ息を吐く。

 全てが、ここまでのやり取りの何もかもが、多少の変動はあろうともここ最近は毎日のように繰り返す日常であった。

 ただ、今日は殊更に行なう場所が違うだけ。

 緑が目に眩しいこの場所で行なうが故の違和感が消えないだけなのだ。


 王都直轄直接管理地区南東ゴルディバの大森林中腹部スレイナ郡ヨサーイード村。


 より、徒歩三日ばかりの現在地。

 早口言葉だろうか。レナージドがまず始めに思ったことだ。

 次いで思ったのは記憶能力を試されているのでないかということだった。

 実際何度も間違えた。その都度ユイハが訂正しようとして、彼女も途中までしか覚えていないのか首を傾げていた。生きていく上で辺鄙な村の正式名称などさしたる必要性もなく。イード村でもことは足りる。何よりもそこに住まう人々でさえ覚えられない以前に知りもしないのだから場所の名前などこの際どうでもいいのだろう。ウチの村に隣の村、それだけでやり取りが出来てしまうのだから当たり前だとも言える。

 そんな、手付かずの、人間の領域の外にある、深い深い森の中。


「レナ? 急に黙ってどうかしたの?」


 思えば森を幾つ越えたのだろうか。境目がない状態が酷く残念に思えた。

 ふと、意図せず深いため息を吐いて後ろを振り返る。

 恐ろしいほどに美しい友人の笑顔に耐え切れなくなったわけではないし、不毛な考えばかりが浮かぶ自分に厭きれたわけでもない。言い聞かせてはまた一つ息を吐く。

 見渡す限りの緑。目に入るものを色で形容しようと思うのならば四色もあれば事足りるであろう。緑にも種類があると言うが、レナージドにとって緑は緑でしかない。常に研究室に引きこもり、思い立ったように数年に一度あるかないか、世界の秘境と呼ばれるような場所へ行くこともあるにはある。だが今いる場所は秘境などという言葉で足りうるとは到底思えなかった。近隣の村まで徒歩で三日はかかるだろうか。街と呼ばれる場所まで行こうと思えば徒歩で五日と魔車で三日ばかりだろうか。随分と遠くまで来たものだとため息をかみ殺す。


「いや、ただ……なんて俺は小さいんだろうと思ってな」


 奥の方から湧き上がる衝動のままに拳を握る。

 物にあたることほど無意味なことはない。それでも行き場のない怒りを発散させねば気がすまなかったのだ。

 ふらりと進んだ先、一番大きく見える木に標的を定める。先ほどの痛みと赤みが色濃く残る拳を眺める。

 自然は偉大だった。比べて自身のなんとちっぽけなことだろう。


「随分と唐突ね。けれどそうね、小さい頃に好き嫌いをしていたからには自業自得だと思うけれど?」


 そっと、白く小さな手が彼を包む。振りかぶった手をゆっくりと握りこまれる。はずが、みしりと骨が軋む幻聴を確認する。

 にこりと微笑むユイハの耳が動く。やめておきなさいな。どうでもよさそうに呟くエルフである彼女には例えば人とは違う感性があるのだろうか。物語の中のように植物と意思の疎通が出来るのであろうか。訝しげに見上げたその先で彼女は変わらずに微笑んでいた。

 ふと促すように彼女の手が動く。よくよく見れば、殴りつけようとした木は先ほどとは種類が違うのだろう、幹全体が大きくささくれていた。あのまま殴りつけていれば血を見ることになったかもしれない。それを止めてくれたのだろう。感謝の意を示そうと彼女を見やるが、相変わらず指を掲げ続けるその姿に疑問を覚える。

 見るように促す仕草。何度か繰り返されたその方向を注意深く窺えば、木ではなく空虚を示している。怪訝に思いつつも、示されたままの方向を見やる。

 おそらく木々の合間に青い空が見えれば儲けものだろう。

 しかし予想は裏切られる。


「なっ!?」

「良かった。見間違いではないということは」

「少し待ってくれないか。あれは、いや……だが」

「ダンジョン以外なんだといいたいの?」


 見えたのは白だ。雲だろうか。だがそれにしては無機質だった。のっぺりとどこか薄汚れた風体の白。

 どれほど眺めようとも形もなく、色も一定のそれは壁だろうか。こんな森の奥深くに? 栄えている最先端の文明が物々交換であるこの地に? 廻った疑問は的を得ているようで掠ってもいないのだろう。レナージドは引きつった笑顔を浮かべ隣を見やる。そのまま視線だけで訴える。さっきまでは青空が確かに見えたはずだ、と。首を縦に振られる。つまり彼の思い違いなどではなく確かについ先ほどまではあの建造物はなかった。と、いうことになる。


「ダンジョンの発現」

「いいえ、気が付かなかっただけ、という可能性も考慮すべきでしょう」

「いや、それは」

「えぇ、実際困ったことにあり得ない」


 現場に居合わせたことは数度ある。瞬きをしただけで景観が変わる常識の崩壊。

 多くの人間はそれを見なかったことにしては問題を先送りにする。きっと疲れているのだと。夢なのだと。されどあくる日も同じ光景が当たり前のように広がりようやく認め、そして歓喜する。

 ダンジョンの誕生を。

 ダンジョン。それは世界の謎。

 ある日突然現れる隣り合わせの非日常。

 将来お偉い学者様が解明すると言われている未知なる現象。


「空が青いな」


 故にレナージド博士は瞳を閉じる。


「現実逃避はどうかと思うけれど」


 平常時であったのならば。白々しいその呟きには鋭い指摘だけが返る。

 現実逃避なのだろうか。ユイハの言うように。

 彼は自問自答を繰り返す。結論は変わらず。白い壁しか今では見えないその場所で、確かに存在していた青い空に思いを馳せた。


「空が青いな」


 ここまでやってきたのだから同じことだろう。けれど、そう。例えばもっと前ならば。

 例えばまだレナージド博士だったころならば。

 もしも。仮定には意味はない。後悔をして道を戻る暇などないのだ。言い聞かせるように何度か深呼吸をする。


「眩しいほどに」


 “行ってくる”

 思えば何処へと聞きもせずに彼女は今まで付いて来た。

 帰れと言ったのは三度だけだ。それ以上言うことに意味はない。

 労力を消費しても欲しい結果が手に入らないことは多い。研究の一環ならばそれも醍醐味だろう。だが人生の過程に置いてはただ空しいだけだろう。

 隣をそっと仰ぎ見る。エルフであるせいだろう。ほぼ変わらぬ身長にため息を零そうと、したところでレナージドは気がつく。

 そこには誰もいなかった。

 いつの間に? 彼がそれを考えるよりも早く声が届く。近いようで遠い距離。


「現実逃避中に申し訳ないけれど、早く来ないと先に行くけれど?」

「いや。いやいや。だから」

「先に行くけれど」


 どうするの? 隠されているはずの言葉に拒否権はなかった。

 ずいぶんとずるい問いかけだ。細く息を吐く。聞かれてしまえば答えなど一つしか持たないというのに。

 こんなことになる前ならば。女々しい奴だと彼女は男を笑う。ずいぶんと早かったがいつかこうなることは理解していたはずだと自嘲して。何かに当り散らしてしまいたい衝動がまた湧き上がる。

 横の木に今度こそ歩み寄る。幹を確認しおえた後にこつりと拳を叩きつける。ついでに足元の小石を蹴り上げようとして、踏鞴を踏む。

 蓄積されていく思いはやるせなさだろうか。湧き上がる感情は怒りだろうか。

 突き動かされるように早足で目指す。

 白い壁を。


「レナ」

「まったく。わかった! わかったから待っていろ!」


 近づくごとに緑と青と茶の三色だけしかない空間に人工物の白が浮く。そういえば今日は雲が出ていなかったのだと初めて気がつく。

 高さは目測で五階建てだろうか。窓の数を縦に数えるのならばそうなる。

 窓。ずいぶんと綺麗な硝子のそれを見てユイハが感嘆の息をついているのが目に入る。芸術的な感性を大事にするエルフ独特の感覚なのだろうか。いやロマンで腹は膨れない派である彼女のことだ。売ることが可能ならばどれくらい遊んで暮らせるかを考えている可能性しかなかったとすぐに考えを訂正する。

 透明な硝子の窓などある程度の富裕層しか持たないからだ。その上で恐ろしいほど透き通るそれを見る限り、慎ましく生活するのならば年単位は自由人として暮らせるのではなかろうか。

 そっと近づいて窓を覗き込む。もちろん何も見えはしない。服に引っかかっている葉を取る。反射で浮かび上がった男はただただ草臥れていた。


「これって」

「あぁ」


 ダンジョンはそもそも異世界だ。身体を踏み入れるその時まで向こう側が見えないのは当たり前だといえる。

 例えば、建物の形をしているがもしかしたら一歩中に入ればそこは森かもしれない。砂漠の可能性もあるだろう。溶岩地帯や吹雪の耐えぬ山岳地域だってありえる。往々にして階数ごとにそれらが入り乱れるのも珍しくはない。

 だが、例外も中にはある。古びた洋館や墳墓など。そういった外観のものは大抵がお約束を守るのだ。誰もがする想像を現実にしてくれる場所なのだ。ある意味で一番ロマンという儚い夢を叶えてくれる場所でもある。出てくる魔物は予想の通りであり、内部も思い描いた通りであるのだ。罠が張り巡らされた薄暗い、多くは不気味な月が輝く夜であるダンジョンの中。骸骨や幽霊など、所謂アンデットなどと呼ばれるものが闊歩している世界。一番難易度が低いが攻略には時間がかかることが多い闇の世界。

 思わずため息を吐いたのはどちらだったろうか。

 そのダンジョンは見かけだけならば“医療所”に見えた。無駄な装飾のないのっぺりとした外観がそう見せるのだろうか。単なる思い込みかもしれない。

 魔装を確認しているユイハの手元。嫌そうな雰囲気を纏いながらアンデットの弱点である炎や光の属性が付与された武器と交換している様子を見て、レナージドも覚悟を固める。


「小さいとはいえ中規模ダンジョンに間違いはないみたいね。ということは」

「おそらくだが、ダンジョンマスターがいるだろう」


 それはただの想像であり予感だ。外れてしまえば後手に回ることになる。命を左右するものは情報だが、それ以上に時の運というものがある。


 ダンジョンは初・小・中・大・規格外と分けられる。


 初規模や小規模の場合、多くはダンジョンとさえ呼べるか怪しいものも多い。

 ある日突然現れた倒壊寸前の掘っ立て小屋、大きく深いが人一人でも五日で掘れるであろう穴倉、方向感覚が今一わからなくなる森。初期はその程度の小さな異変でしかない。片手で年齢を伝えることが出来るような幼子でも魔玉を簡単に持ち帰ることが出来るだろう。


 ダンジョンにはそれを形成している核がある。


 魔玉と呼ばれるそれを失えばダンジョンは消滅してしまう。初期では幼子の爪ほどの大きさであり、価格は彼もしくは彼女の数日分のおやつ程度となる。

 魔玉や魔石は昔から世界の何処にでもダンジョンと共にあって、今では生活に影のように密着しており、それなくしての生活は成り立たないほどの依存を生んでいる。小規模も後期であれば大きさは大人の握りこぶし程となり価格はごく普通の四人家族の生活費一月分程となる。

 中規模ともなれば前期後期は関係なく大人の腕一抱えはあるだろう魔玉に加え、出現するようになった魔物を倒してそれらから魔石も得られる。故に上手く管理して最大限まで利益を出そうと国が動くことも多い。


 そして――


「面倒臭いこと」

「なら、先に」

「先に進んで、どうなるの?」


 初めから中規模でダンジョンが現れることは自然発生では有り得ない。


 “何か”が手を加えない限り。ダンジョンは必ず初規模から始まるのだ。

 “何か”時に便宜上ダンジョンマスターと呼ばれる存在。

 ダンジョンが自然発生するその瞬間たまたま居合わせたとされるもの。

 あるいは明確な意図を持ち自ら望んでなりえんとしたもの。

 ダンジョンマスターが存在するダンジョンは難易度が高いものが多い。

 “何か”の意思が介入している以上ある種当然であるともいえる。


「それに、長い長い旅路を行く私たちには先立つものは必要。でしょう?」

「建前は何処に消えた」


 建物伝いに入口を探す。

 真っ黒な窓の向こうから物言いたげな視線が注がれる。

 何度目かの問いかけは、最後まで言わせてさえもらえない。突き進む彼女の足がひたりと止まる。


「本当に」

「くどい。と、何度言えばその優秀な頭は理解してくれるというの?」


 ぽっかりと、そこで闇が口を開けていた。

 突如湧き上がるもの。言い知れぬ不安、恐怖、それと同じくらいの高揚。

 向こう側は見えない。一歩踏み出さない限り、そこに世界が広がることはない。

 大きく開け放たれた扉が黒を切り抜く。やはりこれも硝子で出来ており思わずため息が零れる。マスターの考えがただ読めなかった。

 確かな人工物の概観を持つダンジョンのマスターは、彼らは人間であったのだ。故に概観は見た事があるものが根底に存在していることが多い。尤も過去に想像だけで摩訶不思議なダンジョンを作り上げた先人もいないとは言い切れないが。


「これは、やはりマスターがいるはずだけれど」

「だから言っただろうが。それでも先立つものが必要なんだろう。どのみち遅かれ早かれ道は一つだ」

「遠慮しないでいいのね?」


 二人は入り口を前に無言で手を振るう。

 ユイハは握り拳であり、レナージドは指を二本出す。

 分かりやすいほどに、その後の表情は二分された。

 がっくりと肩を落とし、急かされるままに男は歩く。


「いつみても不思議な」

「えい」

「だっ?!」


 目の前に近づく黒い板。

 研究者の悪い癖だろう。よく観察しようと一度足を止めようとする。が、そのまま後ろから勢いよく突き飛ばされ、ぶつかった――瞬間、柔らかい地面ではなく硬質な床を二度三度踏みしめる。

 振り返り睨み付けようとすれば目当ての人物は当然のようにそこには居らず。

 先のほうで興味深そうにあちこちを見渡していた。


「ユイハ何……」


 目の前に広がるのは、受付のような、壁と一体化したような長い机。

 その前には整然と並べられた椅子が右方向に続いる。左側には扉があり、ダンジョンの法則故にその向こう側を窺い知ることは出来ない。

 “待合室のようだ”まっさきに浮かぶ感想はこれだった。


「レナ」

「レナージド博士だ。言いたいことはわかった。だが、それは俺こそ聞きたいことだ」


 受付に向かい真っ直ぐに進む。内部は少しだけ散らかっていた。

係員が少し席を外しただけ。抱く印象は日常の中の何気ないひとコマだった。今にも仕事に必要な資料を抱えて、机の主が戻ってくるのではないか。見渡した室内に漂う人の気配が確かに訴える。

 視覚で得た情報、しかしそれを裏切るように嗅覚が問いかけるのだ。埃っぽいこの空気がわからないのかと。無造作に広げられていた薄い帳簿を手に取る。ほんの少し白く染まる手は嗅覚を裏切らなかった。

 表紙の代わりであろうよくわからない材質の、透明で少し厚手のある紙を捲る。中には文字が綴られていたがわかる言語ではなかった。唯一わかるのは数字だろうか。0002227144。見渡せば似たように十の数字からなる帳簿が壁一面の棚に収められている。そっと元あったように机に帳簿を戻し、別のものを手に取る。どれだけ眺めようとも数字の意味はわからない。そもそも意味のあるものなのか。最初はこのダンジョンに関する謎掛けのヒントか何かの可能性を疑ったが、よくよく考えるに何かの識別番号とするのがしっくりと馴染む。だがそうすると今度はこの場には十桁なければ管理が出来ないほどの膨大な帳簿があることになる。

 すっと、隣で息を吸い込む音が鳴る。マズイと思った時には遅かった。レナージドはそれでも咄嗟に自身の耳を覆い隠す。


「ファジス語で書け! その上詰め込みすぎでしょうが!!」


 あぁ、もう! 当然のように帳簿を元の場所へは戻さずに、ユイハは身近な机に投げつけながら怒鳴り声を上げた。

 完全な八つ当たりだろう。眺めながらふと心配になる。こんなに滅茶苦茶にして! 怒鳴りながら誰かが入ってくるのではないか、と。

 受付を一人後にする。ばさばさと不穏な音が鳴り響く後ろを見る勇気は彼にはなかった。

 入って左側、今では自身の右手側の扉を眺める。真っ黒な向こう側からボサボサの濃い黄色の髪をかき混ぜる男と眼が合う。内部が暗いせいか、黒にも見える濃い藍色の瞳に漂うのは呆れだろうか。息を一つ吐いて背を向け、椅子が並ぶ待合室を突き進む。

 受付の隣は、別の受付だろうか。布が垂れ下がりその後ろに頑丈そうな鉄格子を塗りつぶす黒が見える。部屋の中は見えない。だというのに、金品やそれに準ずる何かを管理する場所だと直感で感じたのだ。

 ダンジョンという異界に自身の常識を持ち出すことほど馬鹿な話もないだろう。だが、そうとしか形容できないことも事実なのだ。

 歩を進める。するとすぐに道が直角に折れ曲がる。道というよりも入口から全て、大きな部屋だと呼んだほうがいいのであろう。大の大人三人が手を伸ばしてもぶつからないであろう幅を持ち、通路の真ん中を割り 、壁に向き合うように椅子が並ぶ。椅子の前には扉があり、等間隔で同じ光景が奥のほうへと続いている。

 急に言い知れぬ恐怖を覚える。

 言い聞かせるように零れた独り言が空しく響く。


「ここはダンジョンだ。ダンジョンなんだ」


 部屋の上にはレイヤ語で何かしら書き付けられた、材質が今一わからない板状のものが吊り下げられている。予想が正しければ医療所の診察室などの区分けと考えるのが一番しっくりくるだろうか。

 同じような扉が並ぶ中、意味は無いがなんとなくと手前から二番目の扉に手を伸ばす。

 ここがダンジョンである以上、扉の向こうに何があろうとも覚悟しなければならない。

 取っ手に手を掛ける。大きく息を吸い込み肺に留める。

 場合によっては呼吸さえままならない可能性も捨てきれないからだ。

 取っ手を引く。ガツンと堅い手ごたえを覚え首をかしげる。鍵が掛かっている雰囲気ではない。罠だろうか。警戒心を上げた後に今度は押す。


 扉は開かない。


「何をしているの? その扉は横に滑らせる形状でしょうに」

「罠がないかをだな」

「ダンジョンでは見ない形状だけど……そうね、引きこもりには初めての遭遇だったのね」

「笑いたければ笑えばいいだろう!」


 やはり鍵がかかっているのだろうか。がたがたと音を出す横で奇異の視線を感じレナージドは顔を上げた。

 扉に遊ばれている馬鹿がいる。これでもかと雰囲気で物語るユイハは小刻みに肩を揺らしながら、不自然なほど平坦な声で指摘した。

 いっそ指を指して腹を抱えて笑ってくれればいいものを。第一にレナージドの研究室も同じ扉の形状をしていたのだ。ただ単に荷物が溢れ過ぎたが故に年中開け放ってあったそれを扉と呼べるのならば、だが。

 不機嫌を取り繕うも薄暗いダンジョンでなお赤く見える頬が全てを台無しにする。業とらしい咳をひとつ。気をつけてね、罠があるかもよ。後ろからかかる声には勿論聞こえない振りをした。


「開けるぞ」

「いい、右方向に滑らせるように」

「わかっている!」


 軽い音を立ててあっさりと扉が開く。

 押し殺した笑い声を無視し、意を決しゆっくりと中へ進む。


 世界が開けたそこは、想像の通り。

 新たな別世界などではなかった。


 ベ ッドと執務机、それと椅子。机の上には当たりまえのように先ほどの帳簿が広がっている。外の常識で考えるのならばおそらくは、患者の情報でも記されているのだろうか。

 今にも「今日はどうしたんです?」と言いながら医者がやってきそうな雰囲気が何食わぬ顔をして存在しているのだ。

 ふと横を見る。小さな籠には鞄と少しばかり見慣れぬ形状の厚手の洋服が無造作に置いてある。

 机の隅のほうに追いやられているカップからはかすかに湯気まで漂っている。


「不気味の一言がこれほど似合うところもないでしょうね」

「いい加減アンデットが出れば完璧だろうな」

「出ないからこそいいと思うけれど」


 つい先ほどまで人が居たのだと強烈に物語る品々。

 言い知れぬ恐怖を抱かせる出来の良い演出だ。

 中規模だというのに魔物の影はなく、代わりに漂う誰かがいたはずの証。勝手に想像してしまう脳がただうらめしい。ここのマスターは中々どうしていい性格をした者であるらしい。ただ前へと進むだけで、人の恐怖が勝手に難易度をあげるのだ。中規模の中でもひときは小さい方であろうこのダンジョンの難易度を。

 訪れた者は、かすかな物音に怯え、自身の影を警戒し、気付かぬうちに作り上げた幻影の魔物と戦い疲弊する。いざ本物の魔物が出たときには恐慌状態に陥るのは避けられないだろう。出るとわかっているものがいつまでも出ず、ここぞという場所でもやはり何もなく、磨り減っていくばかりの神経ではまともな判断は下せない。いざ魔物が出現したその時には、後先考えずに全力で目の前の敵を倒すか。一目散に来た道を逃げ出すか。


「悪趣味なマスターであるのは確定でしょうね」

「ユイハとなら気が合うんじゃないのか?」


 部屋の奥にはカーテンがあり、捲ってみればその面にある全ての部屋は繋がっている様子だった。

 左右を見渡す。左側は大きな部屋だった。幾つもベッドが並び、机の上には薬剤であろうか、小さな硝子の瓶が数個放ってある。当たり前のように椅子に置かれた手荷物、跳ね上げられた掛け物。水滴が滴る音がかすかに響く不気味なその空間。


「私と種類は同じでも畑が違うからどうなるかでしょう」


 反対には同じようにベッドが一つと執務机が置いてある部屋が六つばかり続いている光景が目に浮かぶ。

 わざわざカーテンを捲らずとも想像に容易く、それが逆に不気味さを煽る。

 さらにその奥、一番奥は通路ごとカーテンで覆われていた。その向こう側で僅かに見え隠れする扉が、ゆっくりと閉まっていく。

 小さなはずの音がやけに大きく耳に響く。

 咄嗟に武器を構え顔を見合わせる。扉の前の部屋で布が僅かにはためいた。


「悪い冗談みたいな場所だこと。ねぇ、ここは本当にダンジョン?」

「間違いなく」


 生地が厚いのか影は見えない。だが確かに向こう側に感じる誰かの息遣い。

 床との隙間に足が見え隠れする。裸足の白い足だ。人間の子供のもののように見える。

 マスターだろうか。ゆっくりとカーテンに手を掛けたレナージドがユイハに目配せを送る。

 小さな短剣を胸に掲げる彼女。淡く嵌めこまれた魔石が煌く。光の属性が付与された魔装なのだろう。炎で容赦なく焼き払うかと想像していただけに彼は首を傾げた。

 ダンジョンである以上、例えば目の前の布を燃やしたとしても意味はない。一歩、その空間から外へ出るだけで全てが元に戻るのだ。

 扉を一枚隔てただけで空間ごと切り離してしまうダンジョン特有の現象だといえよう。故に本来ならば捲ることなく、丸ごと焼き払うのが正解であるといえる。

 敵の正体を確かめたい。重要なことだろう。だが、今回の場合は悪手であり後手に回る予感が消えないのだ。


「何? 言いたいことがあるような顔をしているけれど」

「燃やしたほうがいいと思うんだが」

「文句があるのなら貴方がやる?」


 そんなレナージドを察したのか、ユイハは首を緩く横に振った。どちらでも結果は変わらないでしょうよ。無言で綴られた言葉の裏に隠された本音。そもそも魔装なんてただの飾りよ。何かあれば貴方を盾に物理行使を行うから大丈夫。長い付き合いだからこそわかる心の声に思わず苦笑が零れた。そしてふとレナージドは思うのだ。

 彼女は何処まで付き合ってくれるのだろうかと。


『短い人の子の命が尽きるまで』


 そう返されたのはいつのことだったか。懐かしさに囚われる。その前に、彼女へと合図を送る。

 何かを覆うように円を描くカーテンに手をかける。


 あぁ、びっくりした。


 皺になるほど握り締めたそれを横に思いっきり引く。と、同時にユイハが躊躇なく攻撃を繰り出す。

 魔装から放たれた光の矢が何かを捉える。

 夜を焼く閃光。

 中途半端に薄暗いダンジョンで明滅する光。その中で小さな影が躍る。木の葉のように舞う布がふわりと床に落ちる。

 残ったのは無残に散らかった布と間延びした女の声。

 そして、ゆっくりと閉まっていく扉だ。

 確実に“何か”はいた。そして出て行った。

 理解した瞬間急いで扉を潜り抜ける。開け放つだけでは向こう側が見えないダンジョンの特性が酷く恨めしかった。

 今度こそ罠かもしれない。

 扉の向こうへ出た瞬間何があっても不思議はない。頭ではわかっていたがそれより早く体が動く。

 ユイハの怒声が遠く響いた。厚さにすれば少し詳しい専門書程度の扉。だが、それ一枚で世界は隔絶されてしまう。

 水の中を潜るようだと言う人もいる。寒い空気の壁を突き抜ける感覚が好きではないと語る人もいる。細い蜘蛛の巣を千切り進む感覚が気持ち悪いと嘆くものもいる。感覚は人それぞれだ。


「レナ!!」


 ぬるりと生ぬるい空気の層をやり過ごし、レナージドは身構えたまま、軽い足音が駆ける様子に耳を澄ませた。

 音のほうを見やれば、待っていたのだろう。白い何かが翻り、壁の向こうへと消えていった。

 広いながら直角を描く構造である以上、その先の動向は窺えない。だが、響く足音の後にカタンと何かが嵌る音が続く。入り口すぐ横、ひとまず無視をしてきた扉が出したのだろう。

 誘われている。ゆっくりと窺いながら後を追う。目の前に迫った扉を一瞥し、詰めていた息をここでようやく吐き出す。


「いっ?!」

「この馬鹿! 馬鹿、阿呆、引きこもり!」


 直後、予想していた以上の衝撃がレナージドを襲った。

 頭を守るように庇った腕に意味はなく。足に鋭い痛みを感じたのは一瞬だ。

 気がついたときには床に熱い口付けを送っている最中であった。

 足払いをされたと理解が及ぶが、それ以上に思いっきり打ち付けた顔面から火が出るようだった。床に一点、付いた赤を見れば余計に痛みが増す。

 床に蹲ったまま、ふと前を見る。真っ黒に染まった扉に浮かぶ男を見て、ついに耐えていた涙が溢れ出す。幸い鼻は折れてはいないが、問題はそこではないのだろう。声もなく痛みに耐える横で、飛んでいた罵声を思い出す。

 馬鹿、阿呆。これには反論のしようはない。だが一番最後の引きこもりは違うのではなかろうか。ただの悪口でしかない。そもそもの話研究者が研究所にこもって何が悪い! とレナージドは声を大にして叫びたい。勿論ユイハにはおそらく“貴方は度が過ぎているの!”といわれてしまうがために、口にしたことは一度もないのだが。


「ユイハ」

「私は悪くないでしょう。謝らないから」


 これでもかと恨みがましい顔を作り上げてから彼女を睨む。そっぽを向いているため視線は合わない。だがその声は震えているように思えた。笑いたければ笑えばいいのに。小さく出した吐息に混ぜた謝罪は彼女の耳には届かないだろう。

 彼女自身笑いを堪えているように見せているのだ。それをレナージドが台無しにするわけにはいかなかった。素直に心配したと、涙を称えて詰め寄られるほうが男は弱いのだと知らないのだ。最もユイハは彼を男とは見ていないのだろう。人よりも長い時を生きるエルフの感性では往々にしてそうなる。なるのだが、涙は女の最後にして最強の武器だと声高らかに語る強かさを彼女はあっさり投げ捨てたのだ。それほど取り乱していたのだろう。自身の行為を振り返れば、確かに謝る以前に殴り飛ばされるのが正論だ。

 大丈夫だとの確信があろうとも。自信があろうとも。ダンジョンで信じることが出来るのはただ一つしかないのだから。


 ダンジョンは必ず攻略することが出来る。


 それ以外を信じることはただの傲慢に他ならない。

 それがたとえ自分自身であっても信頼してはいけない。それは過信であり、無謀であり、旗であるといわれている。高名な冒険者が説いたのだから、真実の一面であることは疑いようがない。


「だからといって」

「何か? この私に文句でもあって?」

「ないわけがなかろう!」


 レナージドは冒険者ではないが、ダンジョンには数え切れないほど潜っている。

 だが、同時にそれは博士として行なったものでしかない。

 事前に全てを調べた上で行なうただの学術研究。自身の研究に即した場所を実際に訪れ、その対象をただ観察するだけの行為。危険などまるでなく安全が確実に保障されていると言い切ってよい。

 ダンジョンの詳細な地図。出てくる魔物とそのおおよその遭遇地点。手に入る魔石の期待値。魔玉までの最短距離。

 およそ欲しいと思える情報の全てが揃っていた。ここまでのものが出揃えば、下手をすれば街の中の方が危険があるかもしれない。

 ダンジョンは時にその姿を大きく変えることもある。だがそれは大規模ダンジョンに限った話である。

 故に一度地図などを作成してしまえば、難易度はその時点で最低値にまで落ちるのだ。

 出口が分かっている迷路ほどつまらないものもないのだから。


「私を納得させられる申し開きがあるのならば聞いてあげましょう」

「仮説だが、おそらくマスターはプレイヤの関係者と見て間違いない」


 所詮わかった“つもり”だったのだ。

 目の前で輝く笑顔を称え腕組をする彼女。寄せて上げてをしているはずのその胸は平らだ。いわゆる前衛職と呼ばれている男性冒険者のほうがまだ胸があることだろう。

 小首を傾げ互いの瞳が交差しないことに気がついた彼女の笑みがまた深まる。

 たぶん。おそらく。きっと。誰がそんな憶測を言えと? 無言で叩きつけられる正論に打ちのめされる。

 今もわかった“つもり”なのかもしれない。右から左に流れるお説教が勿体無い。これが現実逃避なのだろうか。こっそりと吐いたため息は今度こそ見逃しては貰えなかった。

 このダンジョンのマスターは確実に英雄とも謳われる“冒険者プレイヤ”の関係者である。

 レナージドにはその確信があった。


「仮説だが? 間違いない? 私のいいたいことはわかる?」


 往々にしてズレているのだ。

 かの冒険者はいつだって常識という枠組みから意図なく遺脱してしまう存在だった。

 時に時代から煙たがられ、時に世界から羨まれる。

 彼女がそうであったように。


「レナ。貴方という人間は……!? 通信装置?」


 感情のこもらない平坦な声は聞き流されるだけだった。

 涙を称えようが笑みを浮かべようがレナージドが今は真剣に話を聴く気がないことを彼女も知っているからこそ。

 自分の考えに没頭している専門家ほどタチの悪い存在もいないだろう。どうしても彼らに話を聞かせたい場合は、現実に目覚めるまで待つしかない。物理的に引き戻すことは勿論可能だ。だがそれでは意味がない。話半分。いや四分の一ほど聞いていればまだマシであろうか。聞かなかったものを聞き流すだけ良いのか悪いのか。難しい顔をして黙り込んでいる男を見る限りでは、もう一度物理でこの思いを伝えるのが早いのかもしれない。

 拳を握り振りかぶる。頭上に落とすべきか頬に捻りこむべきか、悩んだのは僅か。さすがに顔は駄目だろう。未だに赤い鼻を見やりざまぁみろとユイハはほくそ笑む。ただでさえしまりのない顔をそれ以上にするのは彼女とて忍びない。

 癖っ毛の濃い黄色の髪を見下ろす。薄暗い中でぼんやりと照らされた光の加減か、今はほとんどオレンジに見えるその頭。握り拳を解き開いた掌を右に、もう一方を左にそっとあてがう。白い花が咲くように小さな手が暗闇で映えた。

 ゆっくりとその指先が丸くなっていく。ボールを掴むように無造作にゆっくりと。違和感を感じたのだろう。レナージドの眉がかすかに動く。徐々に力を入れながらユイハは大きく息を吸い込んだ。聞いていないからこそ言ってやろうと考えて。


「酷似しているがわからない。……あの受付もどきからだ」

「でも、“何も”聞こえない。隠れている、というわけではないと断言出来るわ」


 弾かれた様に後ろを振り返る。

 今日こそは言ってやろうと。彼女が搾り出した声を無機質な音が掻き消していく。

 細く長く響く音。それは通信装置の呼び出し音に似ていた。研究所に篭りきりすぎると切れることなく鳴り響くため、魔石を外しては根源から断ち切ったことがただ懐かしいとレナージドは目を細める。自身の研究の邪魔でしかなく、だが場合によっては鳴っていないと逆に違和感を感じるほどに聞きなれたもの。

 故に違いがよくわかるのだ。

 作り手の癖がまるでないと言えばいいのだろうか。単一で一定で恐ろしいまでに均一で、何よりもその音は無機質だった。

 浮かぶのは困惑。覗き込んだ互いの瞳を窺う。何も見えないその内に隠された感情のままに静かに発信源を目指す。

 奥には何もいない。ユイハの優れた耳がそう言うのだから事実そうであろう。

 細く反響しながら止まない音。魔装を展開させた彼女はひとつ頷いて見せた。

 咄嗟に閉じた瞳の裏が白く染まる。

 断続的に続く破壊音にまぎれて、それでもまだ聞こえる呼び出し。


「出てみるか」

「あまりおすすめはしないけれど」


 整然と並べられていた帳簿は見る影もなく。所々砕けた棚に切れ端となって鎮座する。倒れた椅子と小さな穴の開いた床。散乱した紙屑がより一層の不気味さを演出する。

 止まない音を頼りに奥へ進む。目配せは一瞬。

 踏み込みと同時に大きく片足を上げ、躊躇なく彼女はそれを振り下ろしていた。

 見事なまでの踵落しだ。

 思わずといった風情で拍手を送ってからレナージドは我に返る。


「何をするんだ! 色々聞き出そうと考えていたというのに」

「無駄で無意味なことはするべきではないと思うけれど」


 マスターの思い通りになるこの場所で、彼らの中だとも言えるこの地で、それでも目の前にわざと現れた彼女。誘うような仕草からして罠へと誘導している可能性は高い。けれどそれならば何も自身が出てくる必要はない。魔物を使えばいいだけのこと。どのような形であれ接触を持ってきたことが理解できなかった。誰か他の者の意図がある可能性は否定できないが。何よりも知識が、いや常識がないといえばいいのだろうか。言い表せない奇妙な違和感。


 ボタンの掛け違いのように互いの読みがズレている気がしたのだ。


 もし、望んでなったのだとすればあまりにもお粗末であり、それ以上に考えなしだといえるだろう。そもそもダンジョンマスターは自身の存在を隠したがるか公表したがる。二者択一しかない。前者は望まぬ形でマスターとなったものであり。後者は望むべくしてなったものである。稀に隠れようとして見つかってしまうこともあるが、その場合は手遅れであることも多い。


「何を考えていると思う?」

「私の家から出て行って。だとすれば……可愛いのだけれど」


 第一にダンジョンマスターは本来架空の存在だ。

 御伽噺の中で英雄に与えるための役割を担う空想の役者。

 その存在が事実確認されたのは百二十年ほど前、冒険者達の全盛期の頃。当時は暗黙の了解として皆が口を噤んだ。


「まさか……何か、心当たりでも?」


 誰もがその存在を知るようになったのは三十年ほど前のことだ。

 さらにはここ十数年ともなるといつしか、人が故意にダンジョンマスターになることも出来るようになっていた。

 種族的な特徴故に人間よりも時間が遅く過ぎ行くもの達はそれに恐怖した。

 悠久とも呼べる時を生きる彼らは普遍を好むからこそだろう。

 彼らの苦言と忠告を聞かず。そうしてエルフを代表とする彼ら人に近しき隣人達は、いつしか人間の前から姿を消したのだ。

 何処かに村を築いたのか、それともまだ定住の地を捜し旅を続けているのか、十数年というエルフ達には短い歳月を考えれば後者だろうか。人間であればとうに出来た村を街へと発展させる準備を始めている頃合だろうに。

 彼らは別れの言葉は言わなかった。

 代わりに老人が最近の若者はと愚痴を語るのと同じように捨て置いた。

 曰く「人間は何になろうとしているのか」と。

 かつてユイハに同じ質問をされた男はなんと返したのだろうか。

 望まぬ形でマスターとなってしまった彼らは例えばなんと返すのだろうか。


「覚えがあるの。彼に聞いた話に似ているの」

「彼?」

「そう。夏に必ず行われる行事の一つだとか。皆で怖い話を順番に語っていくの。それも全部で百も。そしてその後皆で曰くつきの場所へ足を運んでは回る」

「楽しいのかそれは。面倒臭そうにしか聞こえないが」


 私の家から出て行って。

 ユイハが紡いだ理由はこの場所では滑稽に響いた。

 あまりにも普通で普通過ぎて気にも留めなかった事実。ダンジョンが家だなんて誰が思い浮かべるだろうか。踏破すべき世界の歪みであるそれを。


「そう、ね。けれど……」


 米神や眉間を揉みながら、頭痛が痛いとユイハは零す。

 彼女の口癖だ。どうしようもないような場面で、もうどうにでもなれと呟く言葉。

 これから待つ避けようのない不幸を想い、つい泣き言をいいたくなった代わりに。


「好奇心は時に人を殺してしまう。それでも、人は安寧の中に居るほど時に欲しがるものがある」

「恐怖か。ある意味ダンジョンもそうだといえる。なるほどそういう趣旨で行ったわけか」

「えぇそう。……人はわかっているのにそれでも好奇心に負けてしまう」


 レナージドはユイハが懐かしむ“彼”のことは何も知らなかった。ただ、その懐かしそうな瞳が全てを物語るのだ。

 美しい思い出に浸っているのだろう、揺れるその瞳はしかし急速に光を消していく。何があったのか、レナージドにわかるはずもない。ただ音もなく形作られた唇が紡いだ言葉は彼にとっても忘れられないある人の名前だった。

 出逢ったのは少し前で、別れたのはすぐ最近で、だというのに酷く懐かしかった。

 ずっと昔の話のように色褪せて浮かぶ情景。振り向いた過去で、けれど声だけが聞こえない。交わした会話が全て文章として頭を過ぎる。何故? 疑問のままに思い出そうとした所で、何かが落ちる音を聞く。何事かと辺りを探れば瓶の蓋らしきものが床に転がっている。

 ふと、彼は思い出したようにユイハを盗み見た。その手にいつのまにか握られているのは、かなり効き目があるが同時にとてもお高い頭痛薬が入った瓶だった。


「ユイハ?」

「残念だけど私達が話しの通りの怪異に合うことはなかった。あの時、このダンジョンがあればとても楽しめたのでしょうね」

「つまり?」

「彼が語った、物凄くお約束を守った素晴らしいほど典型的な演出に拍手を送るべき。と、そういうこと」


 瓶から薬を取り出すそぶりもなく、豪快に煽った彼女は力なく笑って言った。薬を水も飲まずに噛み砕いて苦いと呟く様子は異常だ。

 爛々と輝く癖に妙に据わった目をレナージドにひたりと向ける。うふふと零れる言葉。そして近づく顔。

 ユイハの美しい顔を見慣れた彼でさえ高揚が頬に現れてしまうほど。彼の心境を知っているだろうに、くすりと妖艶に微笑んで身体をピタリと密着させてくる。柔らかいが、一番肝心の温もりが平らな事実が一気に高揚した気分を奪っていく。鎧の代わりに鉄板でもつめているのだろう。そう思ってしまっても仕方がないことだろう。

 耳元で話があるからそのまま聞いてと吹き込む彼女は、とてもいい笑顔だ。ぐいぐいと腕が押され本来ならむにゅっという表現こそ相応しいはずが、かつんという擬音がユイハにはよく似合う。思わずため息を吐こうと息を吸いこむ。


「逆手に取ることが出来ればいいけれど、難しいでしょう。だからせめて心構えだけでも……レナ? 聞いているの?」

「あぁ、聞いていた。とりあえず離れてくれないか……涙が出そうだ」

「感激のあまり?」

「いや……あっ、なんでもありません」


 貴方も男の子なのね。身体をどんどん押し付けては「どう? ムラっとしちゃう?」なんて、笑う彼女にレナージドは目頭が熱くなっていった。まな板を押し付けられてもどうすればいいんだろうかと本気で彼は考え込んでいた。紳士であり経験が豊富な男であれば上手くあしらえたのだろうか。だがそのどちらでもない上に人としての常識が欠けていた男は素直に今の言葉をため息と共に吐露してしまったのだ。


「痛いだろうが! やめないか! 腕はその角度にはだな!!」

「口は災いの元であり、そして目は口ほどに物を言うの。身体的特徴を論って人を貶めてはいけないって習わなかったの?」

「お前のまな板と同列扱いにしていい案件ではないだろうが」


 勿論ダンジョンに謝罪の声が響いたのは言うまでもない。


「申し訳ありませんでした」

「本当にわかっているの?」

「ごめんなさい」


 耳元で妖艶に微笑んだ彼女は確かに美しかった。ぐりぐりと人の足を潰してさえいなければとの注釈が付くのだが。

 忘れがちではあるがユイハは現役の冒険者だったと、何かしらの金属が埋め込まれているのであろうその足の感触でレナージドはようやく思い出す。口からは途切れることなく“ごめんなさい”だけが断続的に紡がれる。


「……その謝罪が何に対するものかを問いただしたいけれど。まぁ、ここで言っても仕方がないから先に勧めましょうか」


 一頻り満足したのだろう、レナージドが痛みのあまり近場の椅子に座り込むのを素敵な笑顔で見送ったユイハは一人探索を開始した様子だった。とは言えども開け放たれた扉は本来の役目を果たしてはいないのだろう。常ならば確かに此方とあちらは同じ空間どころか世界でさえないというのに、ここでは全てが地続きとして認識されており、受付の辺りからは盛大に家捜しの音が響き渡り、彼女の姿が見え隠れするのだが。

 扉があるのにない。

 レナージドは感心していた。多くのダンジョンを知っているだけになおさら初めてのそれに刺激される好奇心がどんどん大きくなっていく。足の甲を撫で擦りつつ彼は考えに没頭しようと椅子に深く座り直す。


「レナ? レナージド博士? レナちゃーん!」

「だれがレナちゃんだ!?」

「聞こえているのなら返事くらいしなさい。さて、本格的に開始するからお得意の観察だの考察だのは後にして頂戴」

「だがしかし」


 だが思考を開始するその前に、感付いたのだろうか呆れを隠そうともしないにユイハの呼び出しを受けしぶしぶ立ち上がる。

 本当ならば俺は此処にいるから後は任せた。そう言えたのならばどれほど良かったことだろうか。

 がっちりと捕らえられた左手を痛いほど引かれてしまえば、しかしその野望も諦めるほかない。

 やれやれと大きくため息を吐いては仕方ないと雰囲気でこれでもかと物語って、彼はしぶしぶと探索を開始した。


「こちら側はあの中途半端なホールの部屋で行き止まりで、あとは入り口横の扉と上に伸びる階段。それと開かずの扉が一つだけ」

「とりあえずは入り口の扉だろうな」


 入口から続く第一階層部分はまさしく受付であり待合室であった。

 全部で十ニ箇所ほどの診療部屋がありその前に規則正しく椅子が並ぶ。これほど立派な医療所がダンジョンだという事実が惜しいほど。実に手際よく地図を書き上げたユイハが何度「勿体ない」と呟いたかわからない。


「気が進まないけれど、順当に制覇するにはそうすべきでしょうね」


 時節聞こえる通信装置の呼び出し音。

 金属製の何かを落とした音。

 照明器具が目に痛いほど切り替わりダンジョン内が明滅する。


「これだけ急かされているわけだしな」


 魔装を確認し警戒したのは三回までだった。このダンジョンのマスターは何がしたいのか、自身の存在を恐ろしいまでに誇示してくる癖に接触だけはしてこない。家族に構って欲しくてしょうもない悪戯を繰り返す幼い子供のようだった。

 時節狂ったような、だが演技のために無理をしていることが誰にでもわかるような笑い声が背後から響く。振り返れば壁に見え隠れする白。その影はよくよく観察してみれば小さく、おそらくは少女のものであり、どうしたものかとレナージドが頭を抱えれば、放置しましょうとユイハは微笑んで言った。


「一応私は開かずの扉をもう一度見てくるけど」


 彼女に呑まれてはいけない。恐怖に溺れてしまうから――と。


「待っていることにする」

「そう。すぐに帰るけど、大丈夫?」

「お前の中の俺は一体何歳で止まっているんだろうな? 大丈夫だから、その初めてのお留守番みたいな扱いはやめてくれ」


 異様な風体と不気味な気配、そして物悲しい雰囲気。一度深みに嵌れば自滅してしまう。

 二人が下した判断に間違いはなかった。

 あの時、彼女を追いかけ次の階層に移動していたとすれば何が起こったのか。立て続けに起こる怪異に慣れ切ってしまった二人は当然のように無反応だ。だが、これが少女の望むように現れていたのならば、彼らが今このダンジョンにいなかった可能性は否定できない。

 一度態勢を立て直し出直すか、こんな場所に構わず先に進むことを選ぶか。はたしてどちらになったであろうか。階段を背に椅子に座り込んだレナージドはぽつりと浮かんだ疑問に返す答えを考えた。


「俺は、こんなところで何をしているんだろうな? こんなところで時間を浪費している場合じゃないはずなのに」


 だが、最初から答えは一つしかないのだ。

 袖を引かれる。服が悲鳴をあげるほど勢いよく。深みへと歩む自身を邪魔するように。

 咄嗟にユイハに見せるわけにはいかないと浮かびかけた自嘲を消す。相応の力が込められているのだろう。白く小さな指が限界まで生地を伸ばしている。


「ユイハ」

「やっぱり、この扉はただの飾り扱いをされているようね。先へ行きましょうか」

「ユイハ? えっ……あ」


 普段服装を気遣う彼女にしては珍しいと感じていた。問答無用でまず物理を行使するだろうにと不思議に思っていた。

 返事は遠くから返る。力任せに開けようとしていたのだろう。何度も殴りつけるような音を今までずっと聞いていたはずだと思い出す。

 なら、この指は? 一体誰の指なんだろうか。

 気がつけばいつのまにか指は消えている。

 引っ張られた形状から戻ろうと布が弛んで皺を作る。

 軽い足音を横目で見送る。

 扉の閉会音は聞こえず、そしてその先は行き止まりだ。ならば彼女は未だにそこにいるのだろうか。

 開け放たれた扉の奥、豪華な部屋が一室に、怪我人がその運動機能の回復に使うのであろう訓練室、そのさらに奥の中途半端に広いホール。

 その何処かで佇んで――


「え!? ちょっと!? 嘘でしょう?!」


 居たところを奇襲されてしまったようだ。

 レナージドはすぐ背後に聳え立つ気配を肌で感じ、次いでなんだかんだと全弾回避したのであろう「信じられない!」憤慨したような叫び声の後に小さな余韻を伴い「もう嫌。なんで、どうして、これも全部」続いて消えた泣き言がひたすら哀愁を誘った。

 心の中で、それでも誰かさんに聞きとがめられないように小さくレナージドは謝罪を送る。ウチの大人気ないエルフがなんかすいません。初めてはっきりと聞いた声音を思うに、想像通り未だ少女の域を出ないであろうマスター。そんな子供に本気で徹底抗戦する、人間で言えば老婆三人の年齢を足してもまだ不足が出るようなユイハを思って。


「……ユ、イハ」


 刺激を与えないようにゆっくりと振り返る。

 そこに居たのは予想以上の笑顔の仮面を張り付けた鬼だった。


「何を遊んでいるの? まさか、気がつかなかったとでも?」


 喉に張り付いた声を絞り出そうと試みる。しかしレナージドの口からはもはや吐息さえも零れない。

 彼は何一つとして持っていなかったのだ。彼女を納得させるだけの理由を。今口を開かなければお説教は免れないだろう。彼女のお説教は話を聞かない誰かのせいで何時だって最後は物理に頼ってしまう。曰く、痛い思いをすれば体は覚えるでしょう? と。いつもならば駄目で元々を覚悟しながらも一応は言い訳を紡ぐのだ。彼女がそれに小言を返すうちは手を上げられる心配がないからこそ。


「残念だが、事実気が付かなかった」

「本気で言っているの? 自分の言っている意味がわかっているの?」


 だが彼には今回その言い訳すらなかったのだ。

 服を引かれて初めてその存在を認識したのだ。

 音も気配も息遣いも、何もかもが彼のスキルをすり抜けた。

 彼のスキルはたしかに常時発動しているわけではない。また敵や罠を察知することを専門としたものには到底敵うものでもない。

 【ステータス閲覧宣言】

 熟練度がいつしか高くなった彼のその技は、瞳に映った動くもの全てにほぼ無意識で発動するまでに至る。


「スキルだろう。それもおそらくは」

「おそらくは? また言い訳?」


 レナージドは勿論周囲には気を配っていた。魔物の気配が一切なくとも。マスターに敵意が見えずとも。常に辺りを見渡していた。

 瞳にさえ入れば彼が気が付かずと知れることがあるからこそ。

 根っからの研究者気質である彼はお世辞にも運動神経が褒められたものではない。故にそういった類全てのことが苦手と言って差し支えはない。魔物の気配を察しろ、見つけたのならば強さを探れ、無理なら逃げろ、全てが全て彼にとっては無茶な要求へと変わる。

 だからこそこのスキルを選んだのか。と、言われればそれはまた違うのだが。


「マスター専属のスキルである可能性が非常に高い」

「……そう、そうね、そんなことも言っていたわね」


 ふっと息を深く吸う音が響く。その僅か後、壁から鈍い音が轟く。

 床に小さな小石が立て続けに落ちる音を思うに、ユイハが壁を殴ったのであろう。振り返ることが恐ろしくて出来たものではないとレナージドは想像だけを膨らませる。おそらく彼女の顔には笑顔は既になく底冷えするような真顔をしているのだろう。美しすぎるが故に出来のいい芸術品にしか見えず、白いその肌に温もりがしかとあるのかを確認せずにはいられないほどの。


「どう、思う?」

「今までの鬱憤を発散させる」


 声が震えぬように。その努力は報われる。しかし裏返り可笑しな音程を彷徨うのは代償行為か。

 返った答えに抑揚はなかった。彼の質問の真意を掠ってもいなかった。固定されたように前だけを見続ける首を横に動かす。錆付いた扉のようにぎっと軋む音が聞こえた気がした。これでは恐怖を煽るばかりだ。気がついてはいても少しでも先延ばしにしたいと足掻く体。

 視界の隅にユイハが映る。ステータスを閲覧すればそこに状態異常の文字は勿論ない。ゆっくりと瞳に映る彼女の面積が増える中、最後は一気に行くべきだとレナージドは腹を括った。一つ呼吸を行い気を引き締める。


「思う存分、ね」


 そっと、優しく頬に添えられた彼女の両手がそれを阻んだ。

 ひんやりと冷たいその手には力などこもってはいない。だが、こちらを見るなと何よりも雄弁に物語るのだ。

 無視をすることは簡単だろう。その後頬に爪痕が残る程度ならばまだいい。だが、緩々と頬を撫ぜるその手は時節首まで下りてくる。おそらく振り向こうとした瞬間。頚動脈から聞こえるはずのないキュッという音が響くことになるのだろう。


「どっちのだ」

「私は譲る気はないけれど」


 後ろから響く押し殺した笑い声が何よりも恐ろしかった。このダンジョンに入ってから出遭い続けるどの怪異よりもだ。

 今までの鬱憤とは果たして誰のものだろうか。彼女たちどちらのものだろうか。知らず声に出していたのだろう。頬に食い込む爪がただ痛かった。

 もともと彼女の沸点はそう高いものではない。

 エルフは皆ゆったりとした時間を生き、それゆえに恐ろしいほど気の長いものが多い。はずである。

 はずというのはレナージドが出会ったことのあるエルフが、話とは違い皆短気であったからだ。もしかしたらその性分ゆえに彼らとは一緒にいられなかったのではと疑うほどに。

 ダンジョン内部で迷い、面倒くさいと怒鳴りながら、壁を粉砕し道を造り強行突破をしたのは誰であっただろうか。思い出の中でエルフでありながら筋骨逞しいがっしりとしたその体で微笑んだのはユイトだ。そして彼は実の妹の胸を無遠慮に触ってからこうのたまった。「しばらく会わないうちに縮んだか?」と。なおその後の壮絶なる兄妹喧嘩は冒険者の間では語り草になっているとかいないとか言われているらしい。


「敵対する気か」


 自身の交友関係を一から全て整理しなおすべきかもしれない。

 レナージドはげんなりとしつつも思考を戻す。

 明確な敵意を持たないダンジョンマスターを敵に回すのは愚の骨頂である。


「敵対? 可笑しなことを言うのね、レナ。一応そうなった瞬間から彼らは私たちの」


 意思があろうがなかろうがそうなった時点で既に彼らは人間ではなくダンジョンそのものとなる。

 故に彼らにとって人間とは。


「ユイハ」


 小さな声が名前を呼ぶ。自身の耳にさえ届き損ねた音をそれでも彼女は汲み取ってくれた。

 長く細く吐き出される息。思えばユイハは幸せが逃げるからと、ため息を吐いたことがなかった。人に見せ付けるためにわざとやることはある。だがそれ以外は意識してそうならないように努力しているのだと。

 迷信を信じる老人と同じだ。合理的な根拠などそこには存在しないのに確かに人々に信じられているもの。中には実際に真実的を得たものが混じっていることもある。


「ユイハ」


 今度こそレナージドはしっかりと彼女の名を呼んだ。

 続けるべき言葉を捜し、何度も口を動かし損ねる。

 謝罪は違うのだろう。感謝は間違いなのだろう。

 ならばなんと紡げばいいのか。既にぼさぼさだった髪を更にかき混ぜる。口から意味も無い音だけが漏れる。結局のところ何を言っても無駄なのだろう。それならばと彼は意を決する。


「お前が」


 居てくれて良かった。

 尻すぼみの言葉は爆音に飲み込まれた。

 反響を重ね鳴り響く金属音。何かが机から盛大に落ちた音。床や壁が崩れる無残な破壊音。

 同じことが今日だけで何度あっただろうか、気が付けば後ろには誰もいなかった。遠くで聞こえる破裂音に小さな悲鳴。何が起きているのか考えたくもないのに頭は想像をめぐらせる。


 ユイハがダンジョンマスターと戦っている。


 弾き出された答えを否定しようとする。

 だが、喧騒がこちらへと近づいてくる以上現実逃避に勤しむ時間など残されてはいないのだろう。


「待ちなさい!!」


 白い何かがこちらへと駆けて来る。後ろには光属性の攻撃を容赦なく乱舞させるユイハが続く。

 年の頃は十二、三だろうか。

 ユイハの攻撃に照らされ白く光る髪を振り乱し、暗い色をした瞳は景色を写し取り激しく明滅している。速度の速い光属性の攻撃を、見ているレナージドがはらはらするような動きでなんとか避けている少女。何度か避け損ねたのだろう。所々破けた洋服には薄い焦げ目が付いている。

 薄暗く肌寒いこのダンジョンを素足でいる彼女。その色は不自然なほどに真っ白だった。同じく色素を抜き取ったようなワンピースドレスが翻るたびに見え隠れする膝や太腿から察するに、服から出ている部分にだけ何かを塗りたくっているのだろう。

 顔立ちは幼いながら涼やかで美しいと形容できるものであり、十年後が楽しみだと言われるのではないだろうか。細いながらも既に女性特有の線を描き出す体を思うに色々な意味でそう称する人間は多いはずだろう。


「なるほど、これが頭痛が痛いという状態か」


 僅かながらもしかと揺れる少女と一切微動だにしないユイハを思わず見比べてしまう。

 やっぱりおっぱいは正義だ。

 下した結論を噛み締めながらレナージドは現実から逃避し続ける。攻撃が繰り出されるたびに明滅するダンジョンを眺めているだけで気分が悪くなるのだから仕方がないと言い訳をして。

 しかと、少女と絡んだ視線を無理やり引き剥がす。

 なんとかしてよ!

 目は口ほどに物を語る。切実に叫ばれた声無きその言葉にけれど返す言葉を男は持たない。なぜならば、同じことを少女以上に望んでいるのだから。


「待ちなさいと――」


 魔装が途切れ、一瞬にして静寂が広がっていく。

 予め準備していた術式を使い果たしたのだろうか。ユイハのブラフという可能性もあるが、彼女の場合はそういった思考の全てを逆手に取るため判断はつかない。


 魔装は誰でも扱うことが出来る。


 故に職業にさしたる意味などないとスキルは蔑ろにされるようになってきている。

 だが魔装は所詮道具なのだ。限度回数が決められたもの。威力の調整が出来ないもの。準備に恐ろしいほどの時間を要するもの。様々だ。

 子供でも扱えるが故に便利で危険で、だがそれだけでしかない道具。

 なによりもそこに込められた力が無くなれば使い物にならなくなってしまうもの。

 生活をほんの少しだけ豊かにするためだけに初めは齎されたもの。


「言ったわよ、ね?」


 肩で息をしながらユイハと対峙する少女はふいに距離を詰めてくる彼女を怪訝そうに見つめていた。足に力が篭るが、様子見のためだろうその場に留まり無造作に握られた魔装から視線を外そうとはしない。完全に遠距離用であるあの魔装は近すぎれば効力を正しく発揮できないのだ。使用者が両手を広げた分の倍ほど離れた位置で展開されそこが起点となる。故にそれよりも内側に居た場合は攻撃の一切を受けないとも言える。二人の距離はそのぎりぎりの境界だ。意図を読もうと後手に回った少女は動くに動けずユイハを注視し続ける。一方のユイハは距離など関係ないと言わんばかりの無表情でじりじりとその間合いを詰めていく。

 とうとう魔装による攻撃が少女の向こう側で発動する距離へと至る。

 今発動した場合、攻撃そのものは受けないが発動した瞬間の余波は受けてしまうことを理解し、少女は弾かれたように数歩ユイハへと近づいていく。

 無言の睨みあいが続いたのはほんの数秒だった。

 ユイハが無造作に少女へと手を伸ばす。当然警戒を露にした少女の意識が一瞬だけ全てその手へと注がれる。

 待ってましたと言わんばかりに笑みを浮かべ、ユイハは床を蹴り上げる。

 まさか本人が突っ込んで来るとは思わなかったのだろう。驚いたようにただそれを見つめていた少女は咄嗟に身を捻る。

 だが、それよりも先にユイハの手が彼女の白い腕を鷲づかみ、反転する。

 靴から高い音を響かせ勢いが入れ替わる。

 腰を深く落とし、何処にそんな力があるのだろうか、気がつけば少女は小さく宙を舞っていた。


「えっ?!」


 見惚れるような技だった。教本に載せても見劣りしないほど完璧な。

 何が起こったのかわからずに目を回す少女は受身も碌に取れずに床に転がり、その後はぽかんとユイハを見つめるだけだった。

 おそらくは少女の中の、美しく繊細で暴力なんて知りもしない魔に長けた、深遠の令嬢さえも敵わないような、そんな絵に描いたようなエルフの像は音を立てて砕けちったことだろう。

 たいていの人間が思い浮かべるエルフへの夢や希望や妄想。それは勿論間違ってはいない。いないのだが。

 少女の儚いそれを粉砕した彼女は満面の笑みで囁くのだ。


「いつ私が後衛職だと言ったかしら? その思い込みは致命的じゃないかしら? エルフが体を武器にすることのどこが悪いのかしら? ねぇ、そうでしょう?」


 作り上げたことが一瞬でわかる妙に高い声音で、ねっとりと絡みつくような言葉遣いで、勝手に人様の印象を決め付けるのはやめなさい、と。勿論、彼女がずば抜けて特殊であることは伏せたままで。

 未だ世界を知らぬであろう少女が将来恥をかかなければいいのだが。お前らだけで他はごく一般人が想像するままだろうに。そう呟ければどれほど良かっただろうか。

 自身の歩んだその過程を思い出し、仲間を手に入れたとほくそ笑むレナージドは、ごく普通のありふれた思考を持つただの男であり聖人君子などではなく。これも大人になるための高い授業料だと訳知り顔で頷く。

 生暖かいその視線に気が付いたのか、少女が床に座り込んだまま彼を一瞥した時にはにっこりと愛想笑いを送ることも忘れない徹底振りだ。


「私の……」

「何? 言いたいことがあるのならはっきりすべきじゃない?」


 心此処にあらず。ぼんやりと見上げるその瞳の焦点はどこか虚ろだった。ユイハに夢を粉々に砕かれた人間がよく浮かべる、彼にとってはもはや見飽きた表情である。

 薄暗い中真っ黒に見えるその瞳にはやがて涙が湛えられていく。泣くほどの衝撃だったのだろうか。じっと睨みつけるように少女を威圧するユイハに咎めるように視線を流す。それ以上彼女の夢を壊す必要もないだろうにと、自分の思考回路は棚に上げて仕舞い込んでから善人を装う。

 彼はいつだって誰かさんの影に隠れて分かり難くはあるが存外イイ性格をしていた。


「私は」


 少女の瞳からついに涙が転がる。

 猫の目を髣髴とさせる少し勝気なその瞳からぼろぼろと次々に落ちては服を床を濡らしていく。

 無意識に距離を取ろうと震えた体をユイハが捕まえる。強い力が篭っているのだろう。痛みに歪む彼女を気にせず、優しい笑顔を湛えている。

 さすがにやり過ぎではないだろうか。

 レナージドもようやくここで考えを改めた。少女が涙を零すのは純粋な恐怖心ゆえだろう。目には目を。先に彼女が仕掛けたのだとしても、正体を知った今となれば可愛い子供の悪戯に過ぎない数々の行い。

 子供を叱るのは大人の役目だろう。悪いことをしたのならば諭さなければならない。

 傍観者を貫いてきたレナージドはそこで意図的に大きく息を一つついた。

 おそらく、また忘れ去っているだろう二人に自身の存在を思い出させるために。

 だが、その行動も遅すぎた。


「言っておくけど、泣いて丸めこめるだなんて思わないで頂戴ね」


 見計らっていたのではないか。まったく同じタイミングでユイハが強い口調で言い放つ。

 子供相手に大人げが無さ過ぎる。苦言を呈そうとすれば今度は小さいながらも確かに聞こえる舌打ちに思考が止まる。


「………舌打ち? えっ?」


 恐る恐る見やれば何事もなかったかのように涙を拭う少女の姿が確かにそこにはあった。

 女って怖い。涙は女の最後の、そして最強の武器だというが、怖い。いくつであっても女は女とか本当に怖い。

 遠い眼差しをして目の前の現実から男は、心配して損をしたと思いつつも只管に顔を逸らすことを選択した。

 このまま行けば世の女性全てを信じることが出来なくなるからこその自衛行為だとも言えるが、そこにはとんと気が付かぬ振りをした。


「それで、貴女はプレイヤを知っている?」

「話題が予想外に急すぎませんか!?」


 微笑を絶やさない彼女と、不機嫌を隠そうともしない彼女。

 固まる男を他所に、唐突ともいえるその問いかけに驚き首を傾げたのは少女ただ一人だ。

 プレイヤをはっきりと匂わせるダンジョンを作ったマスターであろう、小首を傾げる彼女。これほど胡散臭いものはそうそうないであろう。

 ユイハの眉にはっきりと皺が浮かぶ。

 少女から感じるのは困惑。何を言っているのだろうか? 言葉はないが向けられた瞳が何よりも物語る。はずが、照明の具合だろうか、芯の部分が冴え冴えと凪いで彼らには見えた。


「何も知らないと君は言いたいの?」


 君と、ユイハが二人称を使うのは我慢の限界が近いときが多い。

 今はまだ輝く笑顔のままだが、これが無表情になればその瞬間爆発は免れないであろう。このまま成り行きを眺めることだけに徹していたかったレナージドも、さすがに不穏な気配を放置しきることが出来ずに仕方なく口を開く。

 このままではユイハが物理を用いたお話を繰り出しかねない。


「落ち着けユイハ。そもそもの話」


 気骨逞しい冒険者相手にそれが行われるのならば彼も見てみぬ振りをしたことだろう。後で骨だけは拾ってやるぞと。だが、目の前にいるのは一番多感な時期にあろう少女である。下手をすれば彼女は真実何もわからない可能性が高いのだ。ただこの場所に居合わせただけの哀れな被害者でしかないかもしれない。と、そう結論付けることは勿論無理しかないのだが。


「君はこのダンジョンのマスターで合っているのか?」


 その質問に少女は瞳を瞬かせた。

 小首を今度は反対側に傾げ、心底、だがどこか作り物めいた不思議そうな顔を浮かべる。

 やや間を置いてから、見せ付けるように開いた掌の上に握った拳を打ちつける。

 なるほどね。二度三度頷きながら呟いて。


「私を誰だと心得るの?」


 芝居がかった動作で、手に梳かれ散らばった髪が僅かな光を受け鈍く輝いた。

 浮かぶ表情は酷薄な笑み。


「このダンジョンのマスターであるナ……」


 ――を作りたかったのだろう。

 面白くもないのになんとか無理やり作り出したのがよくわかるなんともいえない哀愁が漂う、という表現がしっくりくるその表情。おそらく原因は妙に右側だけが釣りあがっている唇のせいだろうか。例えば父親が、彼にとっては渾身のネタで家族の笑いを取ろうとして見事に外し、その場の空気を凍りつかせた時。そんな時に「うわーー。お父さんさすが。すごく面白い」子供心に気を利かせて精一杯慰める場面で使われるような表情と言えばわかりやすいだろうか。

 何が始まるのだろうかとぼんやり眺める二人はそのなんともいえない状態に思わず目を合わせたが、同時に肩を竦めるだけで意思の疎通は終了となる。

 とりあえず最後まで付き合ってあげるべきだろうと。


「……ねぇ、例えばだけど」


 少女は声高らかに名乗りを上げようとする。だがすぐにはっとしたように口を手で覆った。

 その後わざとらしい咳払いを何度か行ってから、反応を確かめるような窺う視線が投げかけられる。

 じっとりと呆れを送る翡翠の瞳に、困惑しながらもそれ以上に何処か生暖かく感じる濃い藍色の瞳。

 自身に突き刺さるなんともいえない状況をそのときようやく認識した少女は居たたまれなくなったのか、小さく俯いてしまう。

 ぼそりと何事かを呟いて、彼女は顔を上げぬままに続ける。


「実は私は巻き込まれただけのただの村娘なの! とか言ったら信じてくれたりは」

「無理だ。あり得ない」

「無茶だし無謀でしょうね」


 やっぱりね。微笑んだ少女は二人の顔から目を出来うる限り背けたまま乾いた声で笑う。その瞳にはうっすらと涙が光っているように思えたが、先ほどの嘘泣きを見ていなかったとしても、気にかけてくれるような優しい大人はここには生憎と存在していなかった。

 言ってみただけとはいえ、もう少し対応の仕方ってものがあると思うんだけど。指で瞳をなぞる少女は慰める人間がいないこの場では滑稽でしかなかった。

 その哀愁漂う姿はしかしユイハには異なって映るのだろうか。彼女の警戒心が僅かだが上がったのをレナージドは確かに肌で感じていた。

 例えばそう。女性、それも特に地位の高いものほど自在に涙腺を操ることが出来るというが、果たしてこの少女は何者なのだろうかと。

 床に座り込んだ状態からゆっくりと立ち上がった彼女は埃を二度三度払ってから歩き出す。

 何処へ逃げるの? ユイハの問いかけには苦笑だけを返して、ゆったりと入り口正面の受付まで進んでいく。

 何がしたいのか手を上げ二人を制止させてから、見える位置を三度往復して彼女は椅子を用意した。わざわざ此処まで来て何故? 疑問に思うも少女は当たり前のように自分が用意した椅子のひとつに腰掛けた。

 勿論座ったのは一人だけだ。二度促すように手を振って、けれど無駄に時間だけが過ぎるのを確認してはしょっぱいような顔をしてから息を一つ。


「平たく言うと巻き込まれたの」


 何から話そうかと悩んで居たのだろう。何度か唸り声を上げてからそう語る。

 なんと言っても無駄だと思ったのか、それとも考えるのが面倒になったのか。おそらくは後者なのだろう。曖昧な笑顔を浮かべ誤魔化すことを選ぶあたり、やはり彼女は少女でしかなかった。


「平たく言い過ぎだろう。だいたいにして」


 巻き込まれた。それはもしかしたら真実であるかもしれない。

 ダンジョンが生成されるその瞬間、運悪く居合わせた哀れな被害者。何処にも可笑しな点はないといえる。

 だが――


「どんな大事件に巻き込まれれば子供がこんなところでダンジョンマスターになるっていうんだ?」


 現在地を思い浮かべる。

 最後の楽園。綺麗に着飾った謳い文句で言えばこうなるのだろうか。

 緑豊かといえば聞こえはいいが、その実情はいっそのこと帰らずの森といったほうがまだ親切だろう。一番近い村での最先端の文明は物々交換であり、街へ行こうと決心してもあっけなく決意が折れる程度には時間がかかるこの場所。そもそも村へ行こうと思い立っても徒歩で三日はかかるのだ。だというのにそんな場所で少女が一人。しかも彼女は巻き込まれたと誤魔化すように笑うのだ。

 椅子に腰掛けた彼女の仕草は良家の娘のものだった。村の娘にはどうやっても真似できないであろう、何気ないその姿勢。そんなお嬢様がこんな森の奥深くで一体何に巻き込まれたというのだろうか。いや、何に巻き込まれてこんな場所まで逃げなければいけなくなったのか。


「貴女、名前は? さっき言いかけてやめたでしょう」

「名前?」


 血で血を洗うようなお家騒動はもはや現在では物語の中で語られるのみだ。

 権力は富を生み名声を与える。それを手に入れるためならば欲しい人間は何だって出来る。自らの血族を貶めるだけでなく手っ取り早く皆殺しにすることは近道だといえよう。だが、少女の顔に浮かぶ感情は違うのだ。


「名前……今ならそう、私がジエムだわ」

「ジエムですって?」


 もっと大きなうねりに取り込まれてしまったような諦観だけが見え隠れする。

 そんな、悲しい、哀しい笑い方だったのだ。


「さて、それで私のことはさておき、貴方達はどうなの? こんな場所に来るなんてお互い様でしょう?」


 もしかして愛の逃避行? 人間とエルフの許されない恋?

 私“が”ジエムだと名乗った少女は、諦観とは食べ物ですか? と言い出さん勢いでにんまりと微笑んで続けた。

 “が”これは最も基本的な格助詞であり、動作や状態の主体、要求や願望の対象を示す。

 彼女は誰に願っているというのだろうか。それとも二人に要求しているだけなのだろうか。名前を隠すだけならばこれほど不可思議な気分にはならなかったに違いない。だがここで注目すべきなのは名前を偽った真意だろうか。腑に落ちないままに廻らせる考えは着地地点を見失い彷徨う。

 ふと思い至る。この少女はおそらく紙一重なのだろう。

 紙一重で天才なのか。天才の紙一重なのか。


「私たちは……平たく言えば旅の途中」

「平たく言い過ぎじゃない?」


 ふっと、隣から聞こえた息遣い。

 見やれば交差する瞳から伝わる感情は驚愕だろうか。すぐに離れたために確証はない。


「本当に旅の途中で、そして先立つものが欲しいだけ」

「先立つもの、ね」

「平たく言うと巻き込まれたから、この身一つしかない状態だから」


 ユイハなりの少女への意向返しだろう。同じような言い回しで輝く笑顔で言ってのける彼女は大人げがなさすぎた。

 こんな場所で旅の途中。少女はなんともいえない顔をしたが、顔だけは美しいエルフの輝く笑顔を前に口を開けては閉めて、閉めては開けた後に、大きなため息を一つ落すだけで何も言わなかった。二度三度、仕方がないと言わんばかりに首を横に振るう。


「そう、そうして……」


 そしてゆっくりと椅子から立ち上がり、彼女は二人に背を向けた。

 静かに空間を侵食するように広がる光が陣を描き出す。

 白い光に照らされた少女の影だけが濃くなっていく。


「私を踏破するの?」

 私を殺すのね?


 響いた声音に返答はない。

 歪に微笑んだ少女から這いよる気配は禍々しく物悲しい。だらりと両手を下げたままのジエムの周囲からは温度が消える。彼女を中心に周囲は白で染まる。吐き出した息は同じように白く染まり、流れ落ちる汗はそのまま凍りつく。

 彼女と初めて遭遇したあの時、何故光ではなく炎のほうがいいと思ったのか、その答えが目の前に広がっていく。

 辺り一面が白に染まる。


 その前に――


「……おい、どうするんだ?」


 二人は見てしまった。


 鏡の役割を果たしてしまう扉に映った彼女の表情を。

 どうだ! と言わんばかりの満面の笑みを浮かべ改心の出来に惚れ惚れと瞳を閉じるその満足そうな顔を。


「一応付き合ってあげるべきなのか?」

「付き合ってあげましょう。えぇ、もちろん攻撃あるのみだけど」

「いや、いきなり攻撃はどうかと思うんだが」


 見ているだけで何故だか無条件に頭を叩きたくなったのはなにもユイハだけではない。

 この娘はもしかして残念な子なのかもしれない。共通の見解のままに一歩足を踏み出す。

 怪訝そうなユイハの視線を無視してゆっくりと男が近づいていく。パキリと氷が高い音を立てて割れていく。近づくほどにます冷気。息が白く染まり、服の皺が固定されていく。


「だが、そうだな。軽めに一発ならありだな」


 扉の中の少女は目を見開き慌てている。

 少しそれを可哀想に思うもレナージドはまた一歩少女へと近づく。

 ユイハに殴り飛ばされるよりは断然いいだろうから諦めろとため息で語って。

 扉に映る少女の横に増えた影が大きくなっていく。

 答えるように右手を上げる。


「……ユイハ!」


 だが、影は動かなかった。

 のっそりと棒立ちでその場に佇み続けている。

 咄嗟に後ろに飛びずさり、氷に足を取られ転ぶ。悪手だと気が付いた時にはもう遅い。


「レナ? まったく急に何を」


 ユイハからは見えなかったのだろう。怪訝そうに見下ろされる中、そっと彼女の肩に手が掛かる。

 接近にまるで気が付かなかった彼女の言葉が不自然なまま止まる。


「ここからが、本番だとでもいいたいのか?」


 レナージドが代わりに振り向けばそこに居たのは白い塊だった。

 大きな白い布を被っただけの、人間だろうか。布に歪にあいた穴から伸びる手だけで判断するのならばそうなるだろう。だが魔物である可能性も排除出来ない。人間であるほうが不自然なのだから。だがそうだとすると“悪魔”が一番近いだろうか。

 ここはダンジョンだ。そして目の前にはダンジョンマスターを名乗る者がいる。ならば、例えばこれが人間であると仮定したとして何者だというのか。

 最も、大規模ダンジョンの深遠にまで潜らなければ“悪魔”なんぞには遭えるはずもないのだが。

 だとすると、このダンジョンに自分達よりも先に入った人物が居たと考えるのが自然だろう。だがそれでは辻褄が合わないのだ。現在地が全ての可能性を排除してしまうのだ。ここが街から程近い場所であればどれほど良かっただろうか。

 これほど“もしも”の可能性を願う日も珍しいとレナージドは自嘲した。


「……うわ、本物だ」

「ん?」

「えっ」


 白い塊から生える白い手を眺める。少女と同じように何かが塗りたくられているのだろう。不自然なまでに白く所々粉が浮いている。すっぽりと布が全身を覆っているため中身は一切わからない。手を見るだけならば、人間だとするのならば、男だと断定できるが、確証はない。

 他にも情報を得ようと視線を動かす。床との間に僅か出来た隙間は真っ暗で何かが見えそうにもない。中で何を喋っているのだろうか、時節くぐもった声が響き、息苦しいのか荒い息遣いが混じる。

 ユイハから鋭い視線が飛ぶ。危険を感じないがすぐに急所を押さえることが出来る腕を警戒するその眼差し。それがいつのまにかこの変質者どう調理してくれようと物語っている。

 事態を動かすために行動しろ。レナージドは課されそうになった使命を首を横に振ることで拒否するが、勿論彼にはそんな権利などは初めからなかった。


「あっーうん。……おい、そこの白いの」

「あっ、はい。申し訳ありません。つい感動して」


 攻撃をするべきか、それとも声をかけるべきか。悩んだ末に搾り出した声が硬直していたその場を動かす起爆剤となって広がっていく。

 びくりと震えた後にあっさりと肩から手を外した白い塊は、腰を直角に曲げたのだろう、二つ折りになった後馬鹿丁寧な謝罪を披露した。声はくぐもっているため聞き取り難いがたしかに男性のものであり、声質等を思うにレナージドとそう年は変わらないように思えた。だが、脳裏を掠めるかすかな予感。

 例えばこの男の所作が全て演技だとしたら? 例えばこのダンジョンが本来ならば大規模が可能であったのなら? 例えばそれを業と中規模に留めていたのなら? 例えば数ではなく質を優先したのならば?

 人の形に近しい魔物ほど“面倒”臭いものはない。


「レナ」

「あぁ、わかった」


 ユイハは手が離れたと同時に横へ飛び、距離を取った瞬間には武器を構えていた。彼女も同じ事を考えたのだろう。見えるように掲げた短剣のその裏で、見えないように隠し持った“切り札”が光る。小さな魔石に凝縮された膨大な魔力。ほんの少しの衝撃で弾けるだろう、凶悪であるが故に美しく煌く爆弾。

 塊がのっそりと歩き出し、その警戒は最高潮に達する。だが、そんなユイハには見向きもせずに影はゆっくりとジエムの元へと辿り着く。

 驚愕の浮かぶ顔から一点、眉を寄せたその表情は怒りだろうか。これ見よがしに眦を吊り上げ睨みつけてから、大きくそれに向って少女は跳躍した。


「なんであんたが此処にいるのよ?!」

「危ない! 急に飛びついて来ない! 俺が支えきれなかったらどうするつもりなんだ!?」


 何度も踏鞴を踏んでどうにか少女を受け止めた白い塊は、ゆっくりと彼女を床に下ろした後に屈みこむ。鋏で急いでやりました。そんな痕跡が見え隠れするギザギザの丸い穴。視線をジエムと同じ高さにした後に、大きくはないが力の篭った声で諭すように語り掛けているその姿は、まさしく誰もが理想とする大人と呼べるだろう。

 姿さえ伴っていればの話だが。


「ごめんなさい。でも」

「でももだってもありません!」


 やがて正論を重ねられたジエムは重みに耐えかねたのか、がっくりと首を落し消え入りそうな声で何事かを呟いている。白い塊はその都度蠢いているところを見るに相槌を打っているのだろう。最後まで聞き終えたのかくぐもった吐息の後に、腕を組みながら上がった大声は至極全うだと言うのに、彼の間の抜けた格好のせいで全てが台無しになっていく。

 置いてけぼりにされた二人はその間の抜けた光景を後ろから眺めては、次の行動を決めかねていた。

 倒すのならば今こそが好機だろう。だが眺めているだけでなんとも気が抜ける彼らのやり取りが思いとどまらせるのだ。二人とももはやあれが演技だとは思っていない。だが、だからこそ不気味なのだ。あまりにも日常に密接した目の前のその光景が。

 そもそもの話、本音と建前と目的と手段と、その全てが一緒くたになってしまったが、このダンジョンを見つけたときから変わらぬ思いが一つだけレナージド達にはあった。


「……茶番はそれくらいにして頂戴」

「あっ、申し訳ありません。意図せず無視した形になってしまうとは。面目もありま……」

「あっ、それって!?」

「へっ?」


 どんな因果があるのかは知らないが、このダンジョンだけは踏破して行こうと。

 運命などというものを信じたことは一度もない。

 偶然にしては出来過ぎている出会いだとしても。

 例えば先立つものが欲しいから。例えば彼女を救えなかった代わりに。


「残念だけれど」


 爆風に煽られた髪で隠されたユイハの表情は見えはしない。

 思えば、レナージドはユイハに導かれてここに来た。


「避けられた」

「ようだな」


 爆発の余韻を残したまま、一切の間を与えずに炎を纏う槍が出現する。まっすぐに、彼らを突き破ろうと進む。

 しかし彼らに到達するその前に、煙の向こうで白い布が大きく広がった。

 点での攻撃である炎の槍は、面である布にあっさりと防がれて消える。

 ただの布ならば触れたと同時に燃やしつくし貫通したであろう。そう、ただの布ならば。

 ジエムによって凍った布が壁となり立ちふさがる。

 炎と氷、相反する二つの力がぶつかり、ただでさえ白かった室内が、さらにしっとりと白く染まる。

 水蒸気が立ちこめ互いの影も見えない状態で音だけを頼りに状況を見極めようと息を呑む。

 白い中で響く二人の声。慰めるような少女の声と、諦めたように震える男の声。


「やるしかない、のか?」

「こうなった以上は」

「そっか。そう、だよな」


 確かに目の前から響くようで、真横から囁かれるようで、耳に届いた呟きと喉を掠める冷たさ。

 白い霧の向こうから伸びる白い腕。喉で光る何か。

 宛がわれたのは食事のとき使うような小さなナイフだった。喉を掻き切る程度ならばその大きさでも問題がないのだろう。硬質な光を湛えて静かにナイフは証明する。

 気配も息遣いも後ろに居るそれからは感じ取れなかった。

 何もない空間から腕だけが生えている。馬鹿げた空想だ。

 だが笑い飛ばすことはどうやっても出来ない。


「貴方は何者なの?」


 乾いた音を立ててユイハの魔装が床に転がり落ちる。意識が一瞬でもそちらに向けば“それ”はユイハに殴り飛ばされていただろう。だが、白い塊の意識はただ只管に首のナイフだけに集中していた。ほんの少し力を込めて横に動かすだけ。それだけで二人の命を奪えるだろう。と、そこで気が付く。

 一人では無理なのだ。いくら“それ”が転移系のスキルを有している強者なのだとしても。例えば悪魔であったとしても、人型である以上は無理なのだ。気の遠くなるような修練を経て、深遠なる知識を有するような大悪魔であれば話しは別かもしれない。けれど、裏を返せばそんな伝説にしか生きられない生物でもなければ無理な話のだ。

 二人の人間に同時にナイフを突きつけることはどうあっても出来ない。物理的に腕の長さが足りるわけがないのだから。


「お前は何者なんだ」


 だが、“それ”は間違いなく人間だった。

 発動させたスキルをレナージドは思い返す。見えたのがほんの一瞬だったことも相成って殆どが“?”で多い尽くされた中ただ一つ読み取れたもの。

 信じられないその表記はけれど真実だ。ステータスを偽ることは、レナージドのスキルレベルの前では決して出来ないのだから。

 だからこそレナージドは確信している。

 あの白い塊は、“それ”は、人間であると。


「それは、私が知りたいの」

「それは、俺もわからない」


 影だけでユイハも同じ状況だと察していたレナージドは改めてじっくりと手を眺めた。人間の、大きな男の手だ。自身やユイハと比べるまでもなく綺麗な手だ。ならばユイハの後ろに居るのは誰だというのか。

 ユイハの声音を聞くだけならば彼女も自身と同じように男の手を見ていることになる。

 徐々に霧と煙が晴れていく中、緊張だけが高まっていく。

 動くならばそれが晴れる前だろう。だからこそと急く感情を押さえつけてじっと観察していた手に、違和感を彼は覚え始めていた。固く握り締められたその手が異様なほどつるりと光って見えたのだ。


「ごめんなさい。さようなら」

「すみません。ごめんなさい」


 霧の中柔らかく響く凜とした少女の声音。

 震えながら木霊する男の謝罪。

 場違いなほど穏やかで、この場に相応しいほど悲しいそれは、確かな最終通告であった。

 時間がない。急に殺意を纏った刃。

 だが、それでも恐怖と焦りを押し殺し、レナージドはじっくりと刃先ではなく疑問を抱いた手だけを注視した。

 やがて霧と塗りたくられた何かのせいで分かり難いが、たしかにそこにあり得ないはずの線を見つけ出す。

 それは、それは、よく出来た人形の腕だった。


「ユイハ!」


 都合よく彼の後ろには少女が受付から持ち出した椅子があったことを思い出す。

 ならば彼の出来ることはただ一つしかない。

 霧と煙で周りが見えないのは何も自分だけではないのだ。

 残った白を動かさないようにゆっくりとレナージドは手を上げる。ある程度の高さまで持ち上げたそれを一気にナイフに叩き込んでから、彼はそのまま後ろに勢いをつけて座り込む。

 目論見どおり椅子の上に立っていたであろう少女を突き飛ばし、そのまま椅子を巻き込み地面に倒れこむ。打ち据えた尻と足、そしてナイフを払いのけた右手が酷く痛む。


「貴方は、貴方達は何者なの?」

「ごめんジエム! やられちゃった」


 少女の悲鳴を掻き消すように上がるレナージドの叫び声を背に、霧の向こうで大きく影が舞った。

 二度三度響いた打撃音は、しかし周りのものを壊しただけだろう。一際大きく響いた壁を抉る音の後に、一度だけ小さく男のうめき声が続く。


「ユッキー!?」


 徐々に霧が晴れる中、浮かび上がる光景はレナージドの予想の範疇を軽々と超えていった。

 目の前の光景が理解できずに困惑する彼を他所に、ユイハに床に捩じ伏せられ腕を捻り上げられている男は実に軽い調子で笑っていた。ユッキーと、なんとも間の抜けた名前が、されど悲痛な叫び声となって少女から零れる。


 やはり何処までもこのダンジョンの住人はズレている。


 再確認をしながらレナージドは一歩場所を移動する。

 二歩、三歩、角度を変えてユイハに取り押さえられてなお笑みを浮かべる男を凝視する。想像は付いていた。あの時ステータスを見てから覚悟はしていた。それでも信じ切れなかったのだ。


「俺の見間違いであれと願ったんだが……やはり」


 だが、どれだけ角度を変えようとも、男の髪と瞳は黒かった。


「お前はプレイヤだというのか?」

「貴方はプレイヤだというの?!」


 それは、伝説に謳われる英雄であった冒険者達だけが持つ色彩。

 “プレイヤ”彼らはその多くが黒い髪と黒い瞳をしていた。そしてその色彩を持つものは彼ら以外にはいなかった。

 “プレイヤ”何処からともなく表れ、何処かへと消えた冒険者達。

 その多くがある日突然現れ消える。まるでダンジョンのようなその存在。


「プレイヤ? いえ、俺は……山友 幸人といいますが」


 男は黒髪に黒目、中肉中背、黒という色彩以外取り立てた個性は何処にも見受けられない。ごく普通のどこか人の良さそうな、お人よしそうな、騙されやすそうな雰囲気の漂う青年だった。


「プレイヤ、いや正確にはプレイヤーは違う世界から来た人間だと知るものは勿論少ない。

 

 彼らに縁の深いもの。

 国の中枢を担うもの。

 彼らについて研究しているもの。

 ほんの一つまみほどしかいないだろう。


 簡単な話だ。

 それは禁忌だからだ。


 違う世界の存在。それが許されるのは、例えばそこの娘のような年頃の少年少女の妄想の中だけだ。


 だが人は皆感覚では知っているのだ。


 世界が多角的に存在し干渉しあっていることを。

 代表は平行世界だろうか。

 あの時、違う選択した自分が歩む別の世界。

 確認は出来ず干渉も出来ず。それでも人間は盲目的に理解はしている。だからこそ考えるのだから“もしも”という言葉を借りて違う世界の違う自分のことを。同じ魂を根源に持ちながらもまったく違うその存在のことを。


  プレイヤーはこことは違う世界から来た存在だ。そして彼らはこの世界より上の階層の世界に住まう、ただの人間だ。


 そもそも世界に上下関係などあるはずもない。だがわかりやすくするための基準を求めるのならば横並びであるより縦並びでなければならない。


 宗教などもそうだろう、頂点に唯一絶対の神を置き、その下に遣いがいる。実際彼らには上下関係はないはずだ。それが彼らの教えなのだからそうでなければならない。だが現実は違う。これを世界に置き換えるのなら、プレイヤーの世界はこの世界からすればより上の、神の世界であるともいえる。


 “この世界”よりも上の階位にある上位の存在。本来ならば交わるはずのない二つの世界。

 当たり前だ。元よりこの二つは存在する高さが違うのだから。

 そもそもが同じ面にいないのだから、交差することもなければ、平行に並ぶこともなく。

 前後だけを見るしか出来ない“この世界”では存在さえ気がつかない。

 だがそれは“この世界”に限った話だ。

 より上にある世界はこちらとは違い、前後だけではなく、上下左右虚数軸、とあらゆる面を見渡すことが出来る世界だった。


 だが、それが何故ふいに繋がってしまったのかは誰にもわからない。


 この私、ジエム……正しくはジーエムであってもだ」


 ここの世界は伸ばし棒がどうにも行方不明になるようだ。小さな苦笑のその後に、女は静かに頭を下げた。


「改めまして自己紹介を、私がジーエムだ。そして逢ったばかりで申し訳ないが、すぐにさようならを言わなければならないことを、謝罪しよう」

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