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Three Gem - 結晶の景色 -  作者: 赤月はる
明の年、暗の年
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86 進化の過程 sideフィーネ

  




『うふふ…コンラートにね、この前セリさんに教わった煮物と、鶏の照り焼きを作ったの。すごくおいしいっていっぱい食べてくれて…頑張った甲斐があったわ』



通信する度に幸せそうな顔をするナディヤを見るのは、ぼくにとって僥倖以外の何物でもない。彼女がずっとコンラートを心配して見つめていたのは、ぼくもリアもよく知っている。それが報われてからというもの、ナディヤはこうしてぼくに「幸福」そのものを見せてくれるのだ。



「ナディヤは相当腕前が上がったようだね。セリ婆の教えを受けているということは、ぼくらの馴染みの味を君が継承しているということだ。今度会えた時には、ぼくにも是非ご馳走してほしいな」


『もちろんよ!レパートリーも増えてきたし、何よりあの包丁がね…すごい切れ味なの!切り口がツヤツヤしてるのを見ちゃうと、もっと切りたくなっちゃって困るわ』


「あっはは!そんなに愛用してくれてるとは嬉しい限りだよ。道具とは使ってこそだ、その包丁も幸せだろう」



コンラートからナディヤに通信が来る頃合いだったので話を切り上げ、ぼくは部屋の天井を見上げる。


…なんという充足感だろう。


ここ一年で、ぼくの状態は一変した。捜査に出ても「これは道を踏み外した者の仕業なのだ」とハッキリ切り離して考えられる。哀れみや怒りを感じても、それによってぼくの五感が染まるような幻惑じみた気持ちにはならない。




*****



ぼくは良くも悪くもマナへの感覚が鋭敏すぎて、軍属になってからは毎日泥水の中で必死に息をしている死にかけの魚のようだった。


ぼくら白縹は、純粋培養にすぎるのだ。


精神年齢の高い白縹では在り得ないような稚拙で薄汚い犯罪や、私利私欲にまみれた者が多すぎて、目が回る。白縹の村にだって犯罪はある。だが、中央のこの濃度たるやどういうことなのだ。

息が、詰まる。

物の味が、しない。


それでもなんとか慣れることができたのは、ヴァイスという白縹の避難所があったからだ。ぼくにとって宿舎やヴァイスの仲間との語らいは、泥水にまみれたぼくが呼吸できる唯一の場所だった。


入隊して一年が経つ頃、エレオノーラさんがぼくを呼んだ。


執務室に入ると品の良い香りが漂ってきて、同時に軽やかなのに奥の深い旋律のマナが耳をくすぐる。



「フィーネ、あんた最近顔色が悪いね。数日休みを取ってはどうだい?」


「…ご心配をお掛けして申し訳ない、エレオノーラさん。でも、休んだところで根本的な解決にはならないのですよ。ぼくはここで、役に立つ人間になりたい。ただの方陣好きではなく、エキスパートになりたいのです」


「…そうかい。ただね、フィーネ。なんでも我武者羅にやりゃあいいってもんでもないよ。ちょっとこのワガママ婆さんの願いを聞いてみちゃくれないかい?かわいい娘がそんな顔色をして仕事に奔走しているのを見るのは、つらいんだよ」


「エレオノーラさん…ぼくのような変人に、もったいないお言葉ですよ。では一日だけ…明日、ゆっくり休ませていただくことにします。無理も、なるべくしませんから」


「ふふ、ありがとうよ。ああ、それとねぇ…『方陣のエキスパートになりたい』、それがアンタの願いかねぇ?」


「 ? はい、そのように思って仕事をしておりますよ」


「んん、いいねぇその野望。じゃあ、アンタに特別任務を依頼したい。明後日以降、これから捜査のない午後は基本的に魔法部の方陣研究室へお行き」


「な!?え?け…警護か何かの任務でしょうか…?」


「いいや、特別任務と言っただろう?アンタはこれから軍部の…いや、ヴァイスの威信を背負って、”方陣と言えばフィーネ”と言われるくらいの極上の女におなり。容易い任務じゃないよ、何せあそこは魔法や方陣狂いがひしめく緑青の巣だ。だが、アンタにならできる。このエレオノーラ婆さんの目に狂いはないさ」



あの時ぼくは、驚きすぎて口をぱくぱくさせていたと思う。そのうち、エレオノーラさんの言葉がようやく脳に届き、次には恥ずかしながら涙腺が決壊していた。そうだ、ぼくはそんな風に救ってもらうまで、自分が窒息死寸前だったことに気付かない大馬鹿者だったのだ。


エレオノーラさんに優しく背を撫でられ、すっかり目が腫れてしまったぼくは、翌日一日を瞼を冷やすことに費やした。ともあれ、ぼくはそうして再起を果たして様々な方陣を学べる環境を手に入れた。




*****




それから二年間は怒涛の日々だった。

軍人が何をでしゃばっているのだ、といった空気もあった。しかしそんなものは歓喜に心を震わすぼくに届くものでもない。研究室では、むさぼるように方陣を喰い尽くしていった。全ての香りを吸い込み、あらゆる旋律を聞き分け、西で「こんな商売ではこの方陣が珍しい使い方をされた」と聞けば足を運び、東で「まさかこの方陣がこんな作動をするとは」と聞けば足を運ぶ。


当初は胡散臭いとぼくを警戒していた緑青の研究者たちは、あっという間に馴染みになってくれた。ぼくのあまりの熱狂ぶりに呆れた、とも言うだろう。

室長からも「こんな方陣狂いは緑青でも滅多に見ない。君は緑青の祖先でもいるんじゃないのか?軍にいるなんてもったいない」というありがたくも苦笑せざるを得ないお言葉をいただいた。





少しはエレオノーラさんの期待に応えられているだろうか、と考えられるようになった頃。ぼくは運命の方陣を眼前に目撃する。




壮麗な音楽。緻密な調べ。話に聞く金糸雀一族の合唱は鳥肌ものだと言うが、それがこの歌声なのだろうか。ぼくは今までこんなに沁みるような旋律は聞いたこともない。鋭利な刃物のようでいて、しなやかに揺らめく極光のように輝く結界方陣。




あの日からだ。ぼくに染みついてしまったと思い込んでいた泥水や汚泥がすっかり洗い流されていて、清流にやっと戻ってこれたと思った。いや、「戻った」のではなく…清流そのものがぼくの一部になったと、思った。


笑ってしまうくらいなんだよ、ヘルゲ。

全てから守られていると思うくらいなんだ、アロイス。

呼吸するたびに新鮮な気持ちでね、コンラート。

音楽が耳に心地いいんだ、ナディヤ。

舌に触れるマナがおいしくてね、リア。

心がくすぐったくてたまらないのさ、ニコル。

愛しいマナと方陣がね、ユッテ。

完全にぼくの元へ帰ってきたんだよ、アルマ。







ミニーネを初めて手渡された時、あまりのことにぼくは泣いてしまった。驚いたコンラートは、あわあわしている。申し訳ないことだ。だけども、今だけは泣かせてほしい。



「お…おい、そんな泣くほどのこっちゃねえと思うぜ?ヘルゲのやつのこった、ちょちょいっと片手間に作ったに決まってんぞ?それにヘルゲはおめーを利用する気満々なんだしよ」


「はは、みっともない所を見せてすまない、コンラート。だがね…この魔石のマナと方陣から、言葉と裏腹な”信頼”の音色が聞こえるのさ。間違えようもないね。こんな音楽を聞かされて、奮い立たないヴァイスがいるものか」


「うーわー、お前その行きすぎ嗅覚なんとかなんねぇのか?俺らの気遣い台無しなんだけど」


「ふむ…しかしコンラート、ぼくへの気遣いなど無用。何よりぼくを泣かせまいとするなら、ぬいぐるみ選定の顛末も話したのは失敗だったね。ぼくの為にあの可愛らしい少女たちが選んでくれただなんて…嬉しくて仕方ないね。もうぼくの愛情は溢れて止まらないというのを、君らは思い知るがいいさ」


「えー、そんな脅しめいた愛情初めて聞いたぞ俺…」


「はっはっは、では楽しみにしていてくれたまえ!ぼくは急用ができたので失礼するよ!」



その後ぼくは、ナディヤにお願いしてニコルたち三人と直にミニーネで話させてもらった。この愛らしい子犬がとても嬉しかったと伝えると、口々にミニーネがどんなにぼくに似合っているかを伝えてくるのだ。


幸せを噛みしめて、涙だけは出さないように踏ん張り、じっくり三人のマナを感じ取る。


笑って通話を切る。

これで全員のマナはいただいた。

皆けっこうなお味だったよ、ご馳走をありがとう。


さあて、明日から忙しくなるね…中央のありとあらゆる一流店に出向かなければいけないよ。発送までは部屋が狭くなってしまうだろうが、とにかくまずは包丁の注文からだ。





  

フィーネさん、マナで個人情報奪取という変態技。

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