85 波打つ日々 sideヘルゲ
…今日は、深淵から何の警告もない。
ニコルは元気みたいだな。
ニコルが鬱屈しすぎた気持ちになると、爺さんからSOSが来るようになった。ここ最近のことだ。…爺さんも、ニコルがかわいそうだと思っているようだな。
俺が少々ミスリードしているせいもあるが、ニコルは「おじいちゃんの言うことが完全に理解できないと、魔法のことも白斑のことも解決しない」と思っている。だから自分が未熟なせいだと思い込むし、落ち込む。
だが、爺さんのことを完全に理解する…つまり真の望みと同化するっていうのは、言うほど簡単じゃない。追い込まれて、逃げ場がなくなって、心や体に刻まれるような恐怖に抗う術なのだから。
推測で言えば、俺はニコルが稀有な魔法の才能を持っていると思っている。だが、その魔法が何なのかについて、爺さんは頑なに話そうとしない。使用するとニコル自身が危ないから、なるべく使うはめにならないで欲しいと思っているんじゃないかと思う。もしこの推測が合っているのなら、ニコルはたぶんずっと品質試験に合格もしなければ、軍で仕事ができるような人材にも成り得ないということになる。
ニコルの将来にそんな苦しみを与えてまで隠そうとする爺さんは、いったい何を知っているんだろう。ただ、ひどいやつだと責める気にはなれない。たぶんそれほど危険だっていうことだろうから。
*****
俺はよくフィーネと話すようになった。
大抵フィーネが捲し立てるようにしゃべるが、こいつの見識や知識の深さには毎回驚く。デボラ教授と話すように作り物の俺でボロを出さないようにしゃべるわけでもないので、俺も楽だ。
「それで、お前のあの接続部分の紐はなんなんだ一体。なぜ一般言語であんな効果が出るのかサッパリわからん」
『ああ、あれはだね。金糸雀の語り部の技術をマネたのさ』
「語り部?歴史を紡ぐ者か?」
『そうだ。彼らの中でも“語り”や“祈り”用の二つ目の声帯を持って生まれた者は“カナリア”の称号を持っていてね。カナリアのその声帯は、発声器官というよりは“生体マギ発生機関”とでもいうべき“マナで出来た器官”なのさ』
「…白縹の瞳に相当する特徴だな」
『その通り。カナリアの声帯から紡がれる祈りの歌や歴史は、真実しかない。重大な虚偽を歌えばカナリアの喉は潰れる。だから彼らは歴史を紡ぐ者なのさ。まあ、その一族秘伝の歌をだね、偶然ぼくがごちそうになるという僥倖のおかげで、あの接続部分ができたってわけさ』
「…偶然か…便利に言葉を使うもんだな」
『おや、よくわかってるじゃないかヘルゲ。さすがはマギ言語使いだ。そう、“言葉は魔法”なのさ』
「ふん…ということは、細い管状の結界の中にマナでできた“歌”を仕込んだ?」
『ま、簡単に言えばそうなるね。他にも必要なマナの旋律や香りがあるわけだから、その調合はホンモノを味わったぼくか、よほど方陣の扱いに優れたカナリアしかできないだろうね』
「…なるほど。俺がいくら試作しても作動しないわけだ。結局お前にも、設計図しか渡せないものな」
『いやいや、ヘルゲの試作品設計図は素晴らしかったよ!ところで、方陣に接続させる箇所なんだがね…一つだけセンテンスの在りかを教えてはくれないかい?』
「お前…一応あれは秘匿言語だぞ。暗号化された部分を言われるまま翻訳したら意味ないだろうが」
『くうぅ、ヘルゲはイケズなのだなっ!試作品でもぼくが理解している部分しか使用していなかっただろう』
「当たり前だ。その上でフィーの性能が上がりそうな状況に組み直しただろうが。…まあ、お前が数理パズル505問目の解答を持ってくるというなら少しは考えてやってもいいが」
『ぬぅ!それはいかん、許しがたいぞヘルゲ!パズルは悩み抜いた後に閃く瞬間が快感なのではないか!外道だ外道!』
「悩み疲れたから快感が来ない。分からないということは、その発想を一度手に入れれば次問からは解ける快感が得られる。お前はそれを止めている。だから俺は疲れていて方陣の試作もセンテンスの翻訳もできん」
『な…なんという俺様理論だ…!だが、それがいい。受けて立とうではないか…!』
こんなことを飽きもせず話し、「回答ではなくヒントだけをお互い教える」という妥協点を以て通信を終える。まあ俺の“ヒント”で本当にわかるかどうかは、フィーネの執念次第だがな。
「フィーネにもマギ言語、教えてあげないの?僕には割れるような頭痛と一緒にくれたじゃないか」
「あいつは安易に与えられる知識をありがたいと思うことはない。求めて求めて、その果てに自分で手に入れたものを宝物みたいに愛でるやつだ。だったら俺は、あいつが生涯楽しめる宝物庫になってやるさ」
「あはは、なるほどね!ま、フィーネがあの頭痛を味わうかと思うと、それもかわいそうだからな~」
「オイ…俺はかわいそうじゃなかったのかよ…」
「コンラートは頭が割れたくらいじゃ死なないじゃないかー」
「お前ら、少しはニコルちゃんの優しさを見習え。そんで人は何をされたら死んじまうのかをしっかり勉強し直して来い」
「俺はたぶん限界ギリギリがわかるぞ?おおよその加減で頭が爆破される寸前までいけると思うんだが、試すか」
「ンな精密さが必要な内容を“たぶん”だの“おおよそ”だの付けてしゃべってんじゃねぇよ…」
「あはは、コンラートは心配しすぎだって。一回試してみればいいのにー」
「その一回で俺の命がチェックメイトだろうがっ!ほんとお前ら怖い!!」
*****
そういえば、コンラートがバルタザール爺さんと話した内容を聞いた。俺たちで協議した結果は、「保留」。最初からヴァイスを巻き込んでの大規模なドンパチをやるつもりもないからな。だが、フィーネは少し違う意見だった。
『ぼくも加わっていることは、エレオノーラさんもわかっているようだね。面と向かってではないが、匂わされたよ。“特殊部隊の中でも突出して特殊な面々だねぇ”とのことだ』
「うっは…そうだろうと思ったぜ…ほんとあの夫婦、ホデクと違って目の付け所が的確すぎんだよ…」
「うーん…心強いのは確かだけど、巻き込みたくない心情は僕もコンラートと同じだね…」
「俺は必要性を感じないがな」
『ふむ…僕は話してもいいかもしれないと思ったが。計画に絶対はないよヘルゲ。君がどんなに常人ではありえないほどのパターン予測をしたところで、それは有限なのだからね。では、君以上の経験を備えた知略の権化であるエレオノーラ中佐が加わったら?ぼくは成功確率がハネ上がる未来しか見えない』
「…確かにな。だが、それとヴァイスを巻き込んで命を懸けさせてもいいかという話は別だ」
『…それも含めて、大佐と中佐ならリスクコントロールができると思うがね…』
「…うん、ちょっと難しい問題だよね。今日はこの辺にしとこうか?」
「だな。命を懸けさせてもいいかなんて…ダメの一択に決まってる。それでも俺たちが必要なら話せと言ったんだ、俺らはその一点を考えてみようぜ」
「そだね、宿題ってことで。じゃ、おやすみ」
それ以来、俺たちは考え続けている。
答えは出ない。
もしかしたら、計画実行のその時にならないとわからないのかもしれないが…それはバルタザール爺さんの心意気を踏みにじることにならないだろうか。
ぐるぐる考える俺たちは、彷徨っている深淵の迷子のようだ。
表面上の冷静さとは裏腹で、俺は自分が皆を巻き込む凶星なのではないかという気持ちになる。これ以上、誰からも何も奪わせたくない。だが、俺が皆から大事なものを奪うのかも知れないのだと思うと、震えが止まらなくなってしまう。
そんな日は紅い世界の端に座って、遠くに見える緑色の星を眺める。俺の世界から繋がる細い航跡の先にある、艶やかな緑。
逃避に違いないが、波打つ紅が収まるまで、俺はゆっくり眺めてから眠った。