5 踏み込む資格 sideアロイス
「ヘルゲはさ、どうして『おじいちゃん』が他人に認識されなくてもいいって、思うんだ?」
ある日僕がそう問いかけると、ヘルゲは少し首をかしげながら答えた。
「ニコルだけの、『藁』だからだ」
「わ、藁?麦わら?…溺れるものは…ってやつの、藁?それとも帽子?いや、ストロー?」
「溺れる、だな」
この寡黙な男とのとんちんかんな問答に慣れてきた僕は、その回答を簡潔に理解するため「選択肢」を提示するようになっていた。
「溺れるって、海でか? …! まさか男にってことはないだろうな!?まだ7歳なんだぞ!」
「…」
(うぐ…こいつ今絶対「あほか」って思った…!)
嫌なことだけ明確に伝えるのがうまいな、とムカムカするものの、ニコルに関することには丁寧に向き合ってくるヘルゲに好感を抱いてもいた。
「修練だ」
「ん?」
「意識が広がりすぎて、溺れる」
僕は思わずぽかんとした。修練で溺れる、だと?
*****
修練とは、まず心の中を整理する作業だと教えられる。心にダイブし、心に整理用の部屋を作り、片付け、スペースを作れ、と。
きちんと整理する訓練が身に馴染めば、心の広さ自体がどんどん大きくなり、スペースも膨大な空間になってゆく。
そのスペースに、雑味をそぎ落とした後の純粋な自我を一滴ずつ落とせ。
一滴、一滴。
どんなに途方もないことだとしても諦めるな。
一滴、一滴。
純粋な願いを。純粋な希望を。純粋な欲を。
そうして染まった己は、望む姿になる。槍にも、盾にも。愛にも、憎しみにも。
心への潜行、などという荒業ができる精神構造も白縹特有だが、子供の頃から息をするようにできていては失敗する方が難しい。
ふと認識すれば、小さな小さな己の心。
乱雑な記憶や感情の片付けから始まり、もっと拡がれ、と願うと少しずつ大きくなって、嬉しくなる。
毎日そんな風に手入れを続けて、入手する己の大きさを把握できるからこその、白縹だ。
かと言って絶対に事故が起こらないわけではない。
たまにいるんだ。心を無理やり一気に拡げようとして、「突き抜けて」しまう者が。
「突き抜けてたことに、最初は気付かなかった。すいすいと深く潜れるので、とても気持ちよくなってしまって。あまりの抵抗のなさにちょっと怖くなって周囲を見たら…『アレ』が目の前に迫っていたんだよ。とても…とても恐ろしかった…」
突き抜けてしまった者が、名を呼ぶことさえ恐ろしがる『アレ』。
深淵、と呼ばれる無意識の大河のようなもの。深淵につかまったら戻ってこれない。
これは迷信ではなく、白縹全員がわかっている本能レベルの恐怖。
未熟者が突き抜けないよう、もし突き抜けたらすぐに連れ戻せるように、「警報」の方陣が敷かれた部屋で修練する。
さらに他者の心にダイブして連れ戻せる「セイバー」のユニークが付き添う。セイバーはユニークの中では割とポピュラーな能力なので、たいてい複数人配置できる。
この体制で、事故率は2年に1回あるかないか、だった。
僕が放心したのも無理はないと思ってほしいよ…
*****
「ニコルは…そんなに深く潜ってるのか?最近、誰かが深淵を見たなんて話、聞いてないんだけど…」
「突き抜けるんじゃ、ない」
「え?」
「溺れるんだ」
(溺れる…拡げようとして突き抜けるんじゃなくて…海で溺れるときって?泳ぎ疲れて、体力がなくなって…何かにつかまって休めないから…溺れる)
(修練で、海に相当するもの。自分の心で溺れる要素はないと思うけど…「部屋」なんだし。いや、待て…一滴ずつ落とす願い?ふつうあの年齢で溺れるほどの願いを修練で得ているのなら、それだけで上位宝玉の実力なんじゃないのか?)
(ヘルゲは「意識が広がる」って言うけど、溺れるほど意識が広く薄くなってしまったら、深淵につかまることと同義だろう?ニコルがそんな恐怖にまみれて修練してるとは思えない。そんなひどい精神状態には、とても見えない。ヘルゲは何か間違えてるのか?それとも…嘘を、ついている?)
(幼いニコルにとっての海…いや、自分を保ったまま「溺れる」ならば海とまでいかないとしたって、そこまで「願い」がたまっていなくたって、とにかくニコルが溺れる程度にはデカいんだ。そこは絶対だ。…ヘルゲはなんで「溺れる」って言い切れるんだ?こいつの確信は、なんだ?)
(考えろ、考えろ…何かが隠れてる気がする。これがわからなきゃ、僕はきっと…ヘルゲのこともニコルのことも知る資格が、ない)
「…ヘルゲ」
「なんだ」
「ニコルは、自分の願いに、溺れてるのか?」
ヘルゲが目を見開いた。そんな風にすると、同期でも髄一の透明度を誇る紅い瞳が、光を乱反射して煌めく。
「…自分の、というか」
「 ? うん」
珍しくヘルゲが言い淀む。
「たぶん最初から…ニコルの中にあったはずだ」
「そんなこと…って…」
あるのか、と言いかけて僕は口を噤んだ。
聞けばニコルは修練が嫌いだと言っていた。
整理しようとしても、感情が「漂ってて」うまく捕まえられないから。
本来、拡がっていく心の実感は無条件の悦びだ。
地味な作業に面倒だと思うことはあっても、ある日訪れる「いつの間にかここまで拡げたんだ」という達成感でやみつきになる。
なのに、「嫌い」。
僕は今までこんなに脳が高速に働くのを感じたことがなかった。
まるで、何かに導かれるようだった。
(…やっぱり、ニコルの修練の到達度にかかわらず、ニコルには最初から溺れるほどの「海」があったんだ。自分が保てないような深淵クラスのダイブなら、「嫌い」程度で済むはずがない。)
(そうだ、陸地にある自分の部屋で整理整頓してるんじゃなくて、もし海中に漂うものを取りにいかないといけないのだとしたら?嫌いにも、なる。)
(それにしても…ヘルゲ!こいつ、知ってるんだ。知ってて、僕に隠そうと苦心しているような感じがする。何をためらってるのかわからないけど、僕は…もう、ニコルにもお前にも、傍観者でいる気は、ない!悪いけど逃がさないぞ、ヘルゲ)
僕はゆっくりと顔を上げて、ひた、とヘルゲを見据えた。
「…どうしてかはわからないけど、最初からニコルの心には、純粋で、大きな願いがあった。だから修練で整理しようにも、最初から大きな心の器の全貌が掴めず、途方に暮れる。…途方に暮れるニコルが縋っていて、道しるべみたいなのが、おじいちゃん。だから、他人には認識されなくていい。いや、認識できない。ニコルだけの道しるべだから。…そんな解釈で、いいかな」
今度こそ、ヘルゲがはっきり驚く表情を見せた。
僕が初めて見た、ヘルゲの「感情」だった。
「なん、で…」
「わかったのかって?」
「ああ…」
「僕はニコルを理解したわけじゃない。君だよ、ヘルゲ。君も『溺れてる』んだろ?君に『藁』があるのかは知らないけど、ニコルが自分と同じだと理解してる。だから『おじいちゃん』がいることを信じてあげたわけではなく、君は、いることを知ってたんだ。違うか?」
ヘルゲはただ、いつもどおり黙っているだけだった。
だが一度彼の感情を見つけてしまった僕には、その表情がとてもゆっくり変貌していくさまがありありと見てとれた。
驚愕から、ゆるゆると変わっていく。それは、歓喜、だった。
ヘルゲ、落ちました。BLじゃないですよぅ、重めの友情です。