407 実験契約 sideヨアキム
ぬるい空気が湿気を伴って沈殿したようなデミの片隅は、シンとしているようでいてそこかしこに獣が潜んでいるような気配に満ちています。
一つ向こうの通りでは娼婦たちの猫撫で声や酒に酔いしれる者の声が響く。たまに小競り合いの怒声も響くのはデミのBGMだとばかりに、誰も気に掛けません。
私はボロボロの貫頭衣を着て、顔の左半分が焼けただれ、潰された眼球を再現して片目の男に変装しました。ふふ、貫頭衣なんて懐かしい。昔は私も着ていたんですよ。もう少し小ぎれいなものでしたけど。
その時は柔らかい綿だったし、フード付きで濃い鼠色の貫頭衣でしたが。今日は生成りでボロボロの麻、七分丈のダボダボのズボンをはいてます。昔の底辺労働者の格好なんですが、デミでなら通用しますねぇ。だーれも私に注目しません。成功ですね。
壁の穴のそばに座って、そっと自動マッピングを展開します。穴の中には三人いますね。ちょっとお声掛けしてみましょうか。
ヨア『ごめんくださーい、ギィはいませんか?』
マナに変換した声を、音声通信の要領で通路の中ほどへ届けました。するとすばしっこい動きで一つの光点がこちらへやってきます。穴の出口寸前で止まったので、穴の方へ火傷の跡を見せながら「こんばんは、ギィですか?ヨアキムです」と小声で話しかけます。
ギィ「…驚かせるなよ。周りに誰もいねえか?」
ヨア「ええ、出てきて大丈夫ですよー」
ギィがするりと壁から出てきて、立ち上がりました。私の変装を見て、眉を顰めていますね…どこか変でしょうか。
ヨア「…この格好じゃおかしいですか?」
ギィ「ちげーよ、目玉がツブれてるとこがキモチワリー」
ヨア「あ、そうか…潰された直後の眼球じゃリアリティないですね…これではアンデッドでした」
いい考えだと思ったんですけどねえ…失敗です、目は元に戻しましょう。
ギィ「ほんとに来たんだな。物好きだなお前」
ヨア「ふふー、ギィは面白いですからね。ところで穴の中にいるお二人…紹介してもらえません?仲間なんでしょう?」
ギィ「…アブねぇからあいつらは外に出さない。一人はさっき殴られたとこだし、もう一人はつっこまれそうになったから結界使って逃げてきたばっかなんだ」
ヨア「なるほど、じゃあこうしましょう。デミ側へ出たら危ないんですよね。草原側で呼びますから、出てきてもらえます?」
ギィ「わかった」
ギィは穴の中へ戻りましたので、私もフラフラと物陰へ行きます。そしてゲートを開いて、草原側へ来ました。周囲を確認して…うん、詰所にも見つかってないので、簡易テントのピックを出口付近に刺して展開します。穴の出口だけ、テントと繋げましょうね。
穴の通路を四つんばいでやってくるギィを待ち、「ギィ、こちらですよー」と声を掛けました。草原へ出てきたギィは呆れた顔をしています。何でしょう、また失敗しましたかね…
ギィ「…お前さっき向こうにいたじゃんか。詰所を通ってくるんだと思ったのに…何なんだよほんと…」
ヨア「あはは、えーと…すごいでしょう」
少し胸を張って威張ってみましたが、ギィは絶対零度の眼光で「ヘンなやつ…」としか言いません。淋しいなあ、その反応…
ギィは一度穴へ戻り、お仲間二人を連れて草原へ出てきました。ギィより少し大きな体の子はジン、小さな女の子はキキと言うそうです。挨拶しましたが、二人とも無言で警戒を解きませんね。
まあ、当然かもしれません。ジンは頬骨のあたりに大きな痣を作って顔が腫れ上がっています。キキは引きちぎられたような服で懸命に体を隠して、ジンの後ろにいました。ギィは…パッと見でケガはしていませんが、むき出しの脛には血が滲み、古傷がたくさん見えますね。
ギィ「んで?お前何しに来たんだ?」
ヨア「ああ、偽善者らしく振る舞ってみようかと思いまして」
ギィ「ンだよ…悪かったって言ったじゃねえか。お前の魔石のおかげでキキもつっこまれずに戻ってこれたしよ」
ヨア「ふむ…結界を出した時の相手はどういう反応していました?」
キキ「…怒鳴って、ツバ吐いて、どっか行った」
ヨア「ジンは…もしかして魔石を持っていなかったから、殴られるのを防げなかったんですか?」
ジン「…俺はすばしっこくない。鈍くさかったから殴られただけだ」
ヨア「ギィ、あなたの仲間はこの二人だけですか?ではもう一つジンが持てるように結界の魔石を渡しましょう。ジン、この結界は出せますね?」
ジン「…出せる」ペコリ
ジンは…たぶんお礼のつもりでしょう、一つ頷くように頭を下げて魔石を受け取り、服の裏側に吊るしてある小袋へ隠しました。さて…どうしましょうね。あんまり上手ではないのですが、私の拷問の傷を散々治した治癒師のマナを思い出します。丁寧にあのマナをなぞり…まずはジンへ。
うん、少しは腫れも引いて痣が薄くなりましたか。ギィとキキにも治癒魔法モドキをかけると、三人の警戒がすこーしだけ緩くなりました。
少々、考えます。ギィとキキは小柄なので、まだしばらくこの穴での生活が可能でしょう。しかしジンの身長と肩幅を見て、この穴の問題点に気づきました。ジンはもうそろそろ、この穴に入れなくなる。そして避難所がなくなった子供は、まだ非力な状態のまま、デミへ放り出されてしまう。
暴力を躱せる技量が付くまで生き残れる確率はいったいどれくらいか。見たところジンは、この年齢の子にしては力持ちなのでしょうけど…大人に敵う腕力なはずがありません。
ヨア「ねえギィ、ジン、キキ。魔法の練習をしてみませんか」
ギィ「生活魔法は命綱だ。もうできるって」
ヨア「いいえ、魔石が無くても結界を出せるようにするんです。その魔石に頼ったままでは、いつかそれを奪われてしまうかもしれません。あなた方自身が、結界やその他の魔法を出せるように訓練するんです」
ジン「…そんなヒマ、ねえよ」
キキ「うん…」
ヨア「そうでしょうね、食べ物を確保するのに精いっぱいでしょう。ではこうしませんか?私の研究の実験体になってください。…ああ、何も体を切り刻んだりしませんてば。あなた方が訓練して、どこまで魔法の才能が開花するのかを観察させてほしいんです。やってくれるなら、訓練の時に報酬としてこれを差し上げましょう」
アロイスさんにお願いしてもらってきた、ヴァイスのコンバット・レーションを三人に差し出します。もちろん、アロイスさんの作った美味しい方ですよ。にこりと笑って、「どうぞ、食べてみてください」と言うと恐る恐る一口齧り、その後は夢中になって三人は口に詰め込みました。
ヨア「あー…そんなに急がなくても誰も奪わないでしょ。水を飲みながら食べないと、喉に詰まりますよ」
ギィ「報酬先払いとか、お前ほんとにバカだな。少しは駆け引きを覚えろよ」
ヨア「だってお腹が減ってたら集中できないでしょー?」
ギィ「じゃあもっと寄越せよ」
ヨア「やーですー。ギィはすぐそうやってもっと寄越せって言う…先払いはバカなんでしょ、訓練してからにしてくださいよ」
ジン「…なにやればいいんだ」
キキ「まほう…出したい」
ヨア「ジンとキキは素直ですね…ギィも少し口が悪いのを直した方がいいですよ?」
ギィ「うっせえな、ジンは無口でボンヤリしてんだ。キキは弱っちいし、強いやつに従わないと殺されるってんで大人しいだけだ」
ヨア「ギィは?」
ギィ「うーるーせーえーなー!俺は短気なんだよ、早く魔法教えろ!」
私はまず、「アロイス方式」を試そうと思いましてね。いつも使っている生活魔法がどの程度の精度で出せるのか三人にやらせてみました。一番繊細に使うのはキキ。雑だけれども発動スピードが速いのはギィ。錬成量が多いけれども放出精度は甘いのがジン。
ふむ、やっぱりその子の性格に良く似たマナの使い方ですね。まずキキには、錬成量を多くさせたいのでとにかくマナを練る練習をさせます。ジンには狙いを定める感覚を養ってもらうため、土魔法で的を作ってマナをそこへ向かって飛ばしてもらう練習。ギィには錬成と収束を繰り返し、時間をかけて丁寧にやるよう指示しました。
ヨア「キキはやはり繊細にマナを操りますねえ。その感覚は大事ですよ、素晴らしいですね。ジン、もしかしてあなた視力が悪いのかな?あー…これは近眼ですね、よく周囲が見えないから動くのをためらっていたんでしょう。明日、あなたの視力に合わせた眼鏡を作ってあげますから、今日は的を狙わなくていいですよ。マナを練る練習をキキとおやりなさい。ギィは…ハァ…」
ギィ「ンだよ!文句あるなら言え!」
ヨア「丁寧にって、言ったでしょ。もう飽きてきて、少しくらい手抜きしてもバレないとでも思いました?報酬はジンとキキだけかな…」
ギィ「くっそ、わかったよ!ちゃんとやるって!」
ギィは不貞腐れながらも丁寧に錬成と収束を繰り返し始めました。うん、いいですねー。学舎で学んだわけでもない子供がこういう指導を受けると、全てを吸収しようとするから仕上がりが早いんですよ。
三人ともそれからは不平も言わず、とにかく基礎訓練を黙々とやってくれました。私は「お疲れ様でした。いいデータが得られそうなので、専属契約してくださいね」と言ってコンバット・レーションを渡しました。
彼らが穴へ戻ったのを確認し、簡易テントのピックを抜いて、少し穴から離れます。草原を歩きながら私はいつものヨアキムに戻り、猫の庭へ帰りました。