406 閑話 半分の世界
デミの壁には、子隠れの穴がある。
そんな曖昧な、なんともバカバカしい噂など誰も信じてはいなかった。数秒先の未来が保障できたら重畳というこの半分の世界では、人の良心など数滴しかない。気を抜いたら殴られて当然。警戒を怠れば蹴られて当然。そしてありもしない希望に縋るなど、死んで当然。
ギィには仲間などいなかった。いるのは必死に生きる為に身を寄せ合っている子供の群れ。それは小さな魚が捕食者から身を守る為に群れを作るのと同じ。サーディンランのように必死に周囲と合わせてデミを駆け抜け、捕食者が誰かを捕まえれば、そいつが食べられているスキに逃げるチャンスができる。
その日もギィは夜の最底辺を駆け抜けた。しかしサーディンランからはぐれ、たった一匹になったギィは今、格好の餌食として半分の世界のケダモノに追われていた。
肺が空気を求めて焼き付きそうでも。心臓がオーバーフローで正規のリズムを刻めないほどエラーを出していても。足を止めたら即ち苦痛が待っている。それはあのケダモノと同じ生き物に変身していくための、闇の世界への通過儀礼。
あの世界へ入りたいなら足を止めるがいい。
あの世界よりも、さらに下の世界へ入りたいなら心臓を止めるがいい。
だから、ギィは走った。
せめて、この「高度」を維持するために。
しかし毎日走って逃げているギィにも限界はあった。エサなど毎日獲れるわけではない。小金をくすねることに成功したって、その金で買ったエサはその場で口へ入れることに成功しなければ、他の小魚のエサになる。その日は失敗して、ギィは水しか飲めていなかった。
よろけて壁に手を突き、体勢を立て直して走り出そうとしても足は絡まったままで、自分の意志に従わなかった。マズい、と思って反対の手を壁に突いたつもりが虚空に投げ出され、ギィは暗い穴の中へもんどり打って倒れた。
ひどく腕を擦りむいたが、そんな痛みなど感じるヒマはない。早く立ち上がって、走らなければ。もう奴らは、すぐそこに。
『おい…あのガキどこ行った』
『あンだァ?こっち行ったと思ったんだがな…くそ、さっきのあばら家にでも逃げ込んだか』
『チ…つまんねえな。おい、他の獲物見つけようぜ』
ギィは自分のいる場所から1mも離れていない場所で聞こえるケダモノどもの声に震えながらも、複数の小さな手に四肢と口を押さえられて身動きもとれないでいた。ケダモノどもが去ったあと、小さな声で「静かにできるなら離してやる。できるか?」と言われ、コクコクとうなずいた。
「こっちだ」と言われて立ち上がろうとしたら、また頭を押さえられた。
「バカ、手で確認しろ。立ち上がれる高さなんてねえよ」
確かに、周囲を確認すると狭い穴だった。四つんばいになってその声に従って進むと、月明かりに光る草原と墓が見える。しかしその声の主は右へ曲がり、出口の寸前にできている少し広い場所で止まった。
そこは本当に小さな、子供が五人も入れば満員という横穴。月明かりでようやく見えた声の主は、ギィより少し年上の男。そしてギィの後ろを付いてきていたもう少し小さな男。最後はこの横穴を小さなスプーンでガリ、ガリ、と削っている小さな女。
「お前、死にたいか?今すぐその手に持った石、捨てろ」
ここに来るまでに見つけた小石を握りしめ、何かされたらこいつで殴るかぶつけるかして逃げようと思っていたギィは渋々小石を落とした。
「お前、四人目だ。この穴を使ってるのは今の所俺たち三人。お前も使うか?」
「…何なんだ、ここ」
「子隠れの穴。聞いたことないか」
「…バカな妄想を信じたらスキができるじゃんか」
「その妄想の中に、今いるだろ」
「…なんでここ、見つからないんだ」
「そこの出口から出て、振り返ればわかる」
ギィは言われた通りにし、振り向いて瞠目した。
穴は、なかった。
でも自分は、外壁の外の草原にいる。
恐る恐る自分が出てきた場所を触ると、抵抗もなく手が壁にめり込んだ。
そのまま入ると、さっきの三人が「わかっただろ?」と言った。
「…わかんね。魔法か?」
「ンなの知るか。外からこの穴は見えない。だから俺たちはここで夜をシノぐ。夜明け前にここを出て、元の場所へ戻る。それの繰り返しだ」
「俺も使う。ねぐらにさせてくれ」
「勝手にしな。ただ、この横穴は俺たちが掘った。お前も広げるのに協力しろ。しないなら通路で寝ろ」
「わかった。手伝う」
リーダーのような奴はラスと言った。無口な男はジン。壁をスプーンで削っていたのはキキ。ギィは子隠れの穴で毎晩眠るようになり、それから二年生き延びることに成功した。
しかし半分の世界はそんな生活をずっと続けさせてくれるわけもなかった。一番年上のラスに、急激な成長期が来た。デミの子供は太るヒマなどないが、身を守りたければ筋肉がなければ話にならない。力を蓄えることは必須条件。
そしてラスは、とうとう穴へ入れない体格になってしまった。
穴の入り口を広げようと思ったが、そのせいで偽装の魔法が壊れて無くなってはヤバい。ラスは「俺のことは気にするな。お前たちはここで寝ろ」と言って去っていく。数日後、ラスは排水溝の中でケダモノの餌食になって死んでいた。
残ったギィ、ジン、キキは相談した。ラスが死んだのは、この穴で安穏とする時間があったから警戒心が薄れたんじゃないのか?ではどうする。草原へ出たら盗賊に掴まって奴隷みたいに使われるに決まってる。じゃあ…この穴を出ても生きていける方法を探すしかない。
キキは女の子で、体力もない。ジンは力はあるけど敏捷性に欠ける。ギィは敏捷性に優れ、まあまあ体力もあった。ギィは二人に言った。
「…俺がここを出て行けるようなモノ、探してくる。金、エサ…武器。手に入れて、準備しよう」
そうしてギィはまた夜を駆け抜ける。日中はエサを探し、少し日持ちしそうなものならば他の小魚を巻いて子隠れの穴へ放り込む。夜にそれらを拾い集め、横穴へ持って行く。
ある日、ギィと同じくらい痩せた男がケダモノの中でも陰湿でねちっこいやつら三人に絡まれていた。子隠れの穴のすぐそばだったので、ギィは戦利品を放り込みに行けずに物陰へ隠れて見ていた。
そいつの身なりは良く、金目のものをたくさん持っていそうだった。でもあのケダモノ三人の獲物を掠め取ったら、嬲り殺されるのは確定。ギィは「さっさと殺されちまえ、どっか行け」と思っていた。
しかし結果はその痩せぎすな男の圧勝。というか、手品のようにケダモノどもを操っていた。しかも、そいつはケダモノどもに全く興味も示さず、何も獲ろうとしない。そうか、こいつはデミのケダモノじゃないからだ。
ド級のラッキーだ。ボンヤリしたその男は、案の定ギィがケダモノどもの懐を漁っていても気に掛けなかった。そしてギィは、待望の武器を発見した。
やった…これで間に合うかもしれない。もうそろそろジンも穴の移動がキツくなってきている。これさえあれば。
そう思っていたが、男は妙な取引をギィへ持ちかけた。
武器は持つな。代わりに結界の出せる魔石をやる、と。
男はデミの外のやつらしいおキレイな言葉を吐いた。それ自体はバカバカしいことを言っていると思うだけの、何も心に引っかからないものだった。だがその男、ヨアキムは、自爆でもかまわないと言ったギィの言葉に反応し、言った。
ギィには誰も守れない、と。
ようやく、ギィは理解した。自分がなぜこれほど焦っていたのかを。自分はジンとキキを小魚の群れの一匹ではなく、「仲間」だと思っている。守りたい仲間。ラスが死んだことがあまりにショックで、もうジンとキキまで失いたくなかった。
何も持たないギィの、唯一の持ち物。
何も感じなかったギィの、唯一の感情。
それを守る方法を、ヨアキムは、そっとギィへ差し出したのだ、と。