332 閑話 ユリウス⑤ よろこびのうた
ブリヌイ屋で目的のものをゲットして、さっそく食べ始める。出かける時にうっかり「エルンストさんへ目的地を告げてから」というアルノルトとの約束を忘れそうになり、慌てて戻ったというミスはあったけれど。この時間ではクルイロゥへは行けないかもしれないし、宿の朝食はすっぽかしてしまうという特大のミスはあったけれど。
このブリヌイは、美味しい!!
素晴らしい、昨日食べたイクラのブリヌイも良かったけど、今日のは更に、更に美味しい!!思わずこれを目の前で焼いて作ってくれたお嬢さんに心からの感謝を込めて「美味しいですね!」と伝えた。これは支払った代金以上の価値のものを出してくれた店へ、当然の礼儀だ。この店は最高だ。
素晴らしい味を堪能しつつ、できればクルイロゥにだって行きたい。…昼食の時間に差し掛かってしまうと、カーシャはともかくカトレータは売り切れてしまうかもしれない…あの店は大空への感謝を捧げる金糸雀に相応しい「翼」という名を冠している。その名に恥じない味とサービスは、リピートする価値が大いにあるんだけどな…
「ユリウス、そんなにいつもお腹空いてるの?」
夢中になって考えていると、少し呆れたようなアルノルトに質問された。
…ん?お腹が空いているかどうか?…ん?えっと、食事は…私にとって「空腹を満たす」ではなく「味わう」という手段のような。お腹が空いたから食べるものではなくて、生きている確信を得たくて必要に迫られて食べている。
そう言うと、更に呆れた顔で「食べ物じゃなくても生きている実感は得られる」とアルノルトは言った。
…デコピンに次ぐ衝撃情報なんですが。
そうか、アルノルトはさすがにそんな凄いことまで知っているのか…教えてほしいな。教えてくれるかな。
するとアルノルトは、ツルリと、いとも簡単に「カペラに行こう!」と言い出した。綺麗な歌を聞けばいいと。綺麗な景色を見ればいいと。
私も聞いたことはあるんだよ、カナリアの歌は。歌劇団の演目はいくつも見たよ。それで、どうやって生きている実感が得られるんだろう。アルノルトは何か秘密のやり方を知っているのかな。
というか、カペラにあまり男性が出入りするのは歓迎されないって聞いている。これはエルンストさん情報だし間違いないはず。だから昨日インナ殿と会ったのは、小ホールから離れた応接間だったんだよ?
でもアルノルトは例の「最長老様と仲良し」ということでいつでも来ていいと言われているのだそうだ。…なるほどなあ…アルノルトほどの人間だと、そう言う風に周囲に認められていくんだな。なんだか緊張しながら、小ホールに案内された。
そして、それは扉が開かれて、遮音結界の向こう側に足を踏み入れた瞬間だった。
心臓に、直接刻まれる声。
細胞を一つ一つ再生させていくような、体ごと作り変えられるような声。
これが、人の声なのか?
いや、カナリアの…いや、でも確かに人間の、声。
私の身体中の水分を震動させているような声。
よろこびの、うた。
私は、よろこびに体を再生されて、いまこの世に生れ出た。
そう思っても、仕方ないでしょう?
アルノルトは、やっぱりすごい。
昨日から、私の心臓や脳や体を、破壊しては再生させる。
アルノルトは更にすごい歌が聞けそうだという情報まで貰って、エルンストさんにも広報部のみんなにも聞かせてあげようよ!と言って今にもカペラを飛び出そうとしていた。
ちょっと待ってくれ。私は、私をこんなに新しい体に再生してくれた奇跡のカナリアたちにお礼も言っていないんだ。練習している人々の邪魔をするわけにはいかない。ならば、案内をしてくれて、尚且つ素晴らしい情報までくれた彼女に最大級の感謝を込めて、きちんと言葉で伝えなくてはならない。
「きっと素晴らしい金糸雀の文化を見られる機会ですね…貴重なことを教えてくださってありがとう、美しいカナリアの方」
こんな言葉だけでは、本当は足りないんだけれど。今はこれしか思いつかないんだ、ごめんなさい。あなた方に頂いたよろこびのうたを、私は忘れない。
「ホラはやくー!ナチュラルにカリスマってる場合じゃないよユリウス、走れ!」
…くそ、アルノルトはほんとに私をイラッとさせる天才だな…!
*****
午後一時。私はさっきアルノルトが仕掛けてくれた方陣の威力を知った。これは、マナを可視化させるものなのか!マナが見えるというのは…マナの感度が良いというのは、こんな世界を、こんな景色をこの目で見られるということだったのか。
光が幾筋もたなびいていく。
まるで里のあちこちで神経細胞が空へ繋がろうとしに行っているようだ。
生きるよろこびのうたを、次々と紡いでゆくカナリア。
そのカナリアと共に歌おうと、ウキウキしながら準備していく人々。
カペラから鐘の音が響く。
次の瞬間、里全体が爆発したかのようにドウ!と地鳴りを起こした。
…爆発ではない、これは人の声。これも、人の声だった…!
カナリアたちの声のマナが降り注ぐ。
惜しみなく降り注いでくる。
私だけではなく、みんなに、すべてに。
この里は、一つの生き物の心臓のように鼓動を刻む。
なんなんだ、今日はなんなんだ。
生きている、私は生きてこんなに感動している。
食べ物じゃなくて、歌と、景色と、光で。
アルノルトの言う通りだった…私が生きている実感は食べ物以外でも得られる。こんなに感動できることが、世の中には溢れている。アルノルトは、それをよーく、知っているんだな…
そしてアルノルトは、私の腕を掴んで踊りの輪の中へ突っ込んでいった。さすが金糸雀の民だなあ、みんなして何気なく踊っているようで、高度なことをこなしてる。よくこの中にアルノルトは入れるな。ほんとにアルノルトは何でもでき…でき…でき…できていなかった。
ただただ、こころが跳ねて飛んで、楽しくて仕方ないから。
その通りに体を動かしている、ただ、それだけ。
その原始的な情動にまかせた動きが、余計にアルノルトの喜びをダイレクトに表しているみたいで。
うん、私もやってみよう。このテンポだと仕方ないけど、ほとんどフォックストロットなんだよなあ…
なんとか付いていけそうかな。難しいステップの構成なんて気にしない。アバウトでいい。とにかく音楽に入り込め。とにかく歌に溶け込め。
その心が躍るままに、踊れユリウス。
誰かの結婚、おめでとう。
誰かの幸せ、おめでとう。
私の誕生、おめでとう。
私はこの金糸雀で生まれることができて、幸せだ。