331 閑話 ユリウス④ デコピン・エフェクト
ふらふらと。
そう、表面の「温かい私」はデコピンによって吹っ飛ばされていて、アルノルトが言う所の「真っ黒ユリウス」を表面に晒しながら、本当にふらふらと歩く。
宿へ戻り、エルンストさんに「ただいま戻りました」と言うと、心配そうに「…どうかしました?」と言われる。どう言っていいのかわからず、あいまいな笑顔で「アルノルトとケンカ友達になりました」と言うと、なぜかとても嬉しそうに「それはようございました!」と言われて困惑する。
寝室で独り、ぼけっと先ほどのことを思い返す。
今まで、無敗だった。どんなに多勢に無勢でも、勝つことはしなかったが私が誰かの軍門に下ったことはなかった。それが、たった一人の未成年に、負けた。
ギフトに苦しめられてきた私が、一番ギフトに頼り切っているとアルノルトは指摘した。ギフトを言い訳にするな、真っ黒でもなんでもいいから、私自身で勝負しろと。こんなに人としてどうしようもなく黒くて冷たい私でも。白のキングどころじゃない、不格好で歪な黒のポーンでもいいから、それで勝負しろと。
そうだ、人の心は変わるから…私のギフトに操られていようが何だろうが、その人の深い場所の感情は、その人にとって真実なのだとも言っていた。
そんな都合のいいこと、考えていいのかな?いや、いけないと思うんだけど…実際に父様も母様も、私を隔離するしかなくて泣いたくらいなのだし。
でも、じゃあギフトって何だ?
なぜ私はそれを強力に備えて生まれてきた?それをギフトと知らずに使い切ってしまったとしたって、それは…あんな子供に分かるわけはない…よね?
あれ?ギフトって「使い切れる」ものだっけ。ギフトに幸福の総量があるなどと言ったのは…
私、だ。
私が、幼かった私が、勝手にそう思い込んでいた?
あ…あれ?なぜ私はこんなことを考えられるようになっている?
私はいま「空っぽで真っ黒で冷たい、歪なポーン」のはずだ。空っぽなのに、なんでこんなに…あれ、なんでこんなに私はアルノルトにイライラしてケンカできたんだ?…だって、アルノルトが…私に…本気で怒ってケンカしてくれたから…
そうだ、アルノルトが本物の感情を盛大にぶつけてくれて、それに私は本気で返した。さっき、私は「本物の感情のやり取り」をしていたんじゃないか…!!
え、え、だってアルノルトは…ギフトに下ったから…だから私はこころが死ぬと諦めた。大好きだと言ったじゃないか。でもケンカした?大好きだとケンカするのか、アルノルトは?
えーと。
えーと。
よくわからない。わからないけど、額への衝撃のせいか、自分の脳がすごく働いているのはよくわかる。
…デコピンてこんな効果があったの?
*****
夢を、見た。
ギフトの無い私は、リリーといつまでも仲が良かった。でもケンカして、大嫌いと言われて、リリーとは疎遠になった。
ギフトの無い私は、どうしようもなく黒くて冷たいから、仲の良かった男の子たちは離れていった。
ギフトの無い私は、ワガママできかん坊で、両親を困らせまくってとうとう母様を泣かせてしまうようなことをしでかした。
そんな、ifの世界。
ギフトが人並みの時期に発現する予定の私は、初等も中等も順調に学舎へ通った。しかしギフト持ちだからと周囲に虎視眈々の一般人の取り巻きが溢れ、自分が思うよりも大げさに全てが進んでゆく。とうとう私は耐えられなくなり、取り巻きなどジャマだと叫んだ。
ギフトが人並みの時期に発現した私はどれだけシンパを増やせるかに夢中で、人を人とも思わずにサクリファイスを繰り返す。とうとう勝負に負けて、人間的に価値のない人物と見做された。
ギフトが人並みの時期に発現した私は、自分が選ばれし者であると内心思っている。七色の部族を従え、紫紺を敬うべきだと尊大に言い放ち、どこの部族へ訪問しても煙たがられる。表面はにこにこしながらも、早く帰れといつも思われていることに気付かず、裸の王様よろしく嘲笑の的になっていた。
そんな、ifの世界。
ああ…ギフトがあっても、なくても。発現時期が人並みでも異常に早くても。「神からの賜り物」だから、人知を超えているんだ。私は「ギフトがたまたま早く発現した、ただのユリウス」だった。
そうだ、ただの、ユリウスだったんだ…
*****
『ねぼすけ変態ドMユリウス、起きろぉぉぉぉ!!』
ついぞ経験したことのない乱暴な目覚ましコールに、心臓がドカンと反応する。
思わず叫んで飛び起きるけど、うまく目の焦点があわずにキョロキョロしてしまう。そしてその存在をいつもの数百倍という規模で主張する私の心臓の音が、更に私を混乱させた。
私の心臓は、動いていて、私は、生きている。
昨日十数年振りにギシギシと動く気配があった私の心臓は、思う存分に潤滑油を差されたギミックのように滑らかな鼓動を刻む。思わず右手を胸に当て、その存在を驚きと共に感じる。いつもは、心臓が動いているだなんて思わずに生きていたんだと、今更気づく。
私を酷い言葉で起こしに来たアルノルトは、二カッと笑ってから「シルクのパジャマとはオサレだねー」などと意味のわからない部分を揶揄した。
…揶揄っていうのは、例えばもう顔も覚えていない黒のキングが言っていた、「早咲きは枯れるのも早いな?」という風に言うものなのでは?
どちらにせよ、こんな起き抜けの顔をいつまでも人様に晒すものではないなと、アルノルトの言う通り顔を洗いに洗面所へ入った。歯を磨き、顔を洗い、ふっと鏡を見る。
…誰だ、これ。
いつも似た顔を見てはいたけど、こんなに生気に溢れた顔は見たことがない。いつもはもっと、こう…そうだ、なんだか歪んで汚れたガラスでも挟んで見ているような、くすんだ感じだったじゃないか。意味が分からない、気持ち悪い。
ちょっと落ち着こうか、ユリウス。
落ち着いて、いつもの自分を思い出してみよう。そうだ、いつもなら朝食に何を食べて「美味しい」という貴重な気分を味わうか、じっくりと吟味して決めているじゃないか。今日はブリヌイとソバのカーシャとカトレータを狙っていたはずだ。宿の朝食と、メインストリートのブリヌイ屋と、「クルイロゥ」のカーシャとカトレータのセット!
よし、いいぞその調子。だんだん感覚が戻ってきた。
…おっと、そうだアルノルトを待たせている。とりあえず何度見ても気持ち悪いままのこの顔、おかしくないか聞いてみよう。
「…自分の顔忘れちゃったの?デコピン強すぎたかな…」
…デコピンて、そんな効果まであるの?
なんだかデコピンというものが恐ろしいほど複数の効果を持つというのを実感しつつあり、その間抜けな名前とは裏腹な高度な技法に畏れを抱く。アルノルトはすごい技術を持っているんだな…未成年だからと舐めていた自分は負けても仕方ないんだなと肚にストンと落ちたように納得する自分がいる。
ところが。
デコピンに感心している場合ではない。そんな場合ではないんだ!さっきアルノルトが酷い起こし方をしたのも頷ける。まさか…11時を回っているだなんて思わなかったんだ…!
私の楽しみが!
宿の朝食(メニューは見てのお楽しみ)!サーモンとクリームチーズのブリヌイ!ソバのカーシャとカトレータ!
しかも、デコピンという高度技術に敗れた衝撃で、楽しみにしていたパウンドケーキのことまで吹っ飛ばされていただなんて…!
有り得ない、この私から食べ物のことを吹っ飛ばすだなんて。
この世で一番恐ろしい施策、それはデコピンだった…!
エルンストさんに後でデコピンを受けたことがあるか聞いてみよう。
たぶんシンクタンクでも知らないと思うんだ、こんな効果があることは。