330 閑話 ユリウス③ チェックメイト
私を解放してくれるただ一人の相手に、丁寧にお願いした。
なりふりなど構ってはいられない。
私はなるべく丁寧に、誠実にお願いした。
しかし焦る気持ちがつい出てしまう。紫紺のギフト持ちに慣れていないアル君にわかるように説明したつもりだったけれど、なかなか理解してもらえないのでついイライラしてしまった…それではいけないんだ。私の勝手なお願いを聞いてもらうのだから、落ち着け、ユリウス。
「…虚構の世界で生きていて、本物を欲しがって何が悪いんだ?私にはそんな操られた好意なんてクズと同じだ、私のことを愛していると言う人物など欲しくない。絶対に本物だとわかっている、負の感情を、ぜひ…私にくれ」
血を吐くような思いを込めて、じっとアル君を見る。
すると、みるみるうちにアル君の全身へと広がる「憤怒」。
ああ、なんという…
ありがとう、本当にありがとうアル君。
私のこころはいま、どろどろに溶けた金属のような…生命を熱で溶かし尽くすかのような熱さに十数年ぶりに触れて、黒くて冷たかったものとの温度差にギシギシとした亀裂の悲鳴が上がる。なんという熱、なんというエナジー。
生きるとは、本物の感情に触れることのできる幸せ。
生きるとは、外部刺激で沸き起こる感情の化学反応。
しかし、その化学反応はほんの数秒で沈黙する。
アル君から、憤怒の感情が叩きつけられて来ない。
なぜ?
せっかく溶けだしていたのに。
せっかく呼吸ができると思っていたのに。
もう少しで、私は本物に触れられると思ったのに…!
そしてアル君は、ゆっくりと私に笑顔を向ける。
そんなバカな。嘘だ、そんなの嘘だ。
なんで今さら、このタイミングでギフトに堕ちるの?
君以上の熱をくれる人を探す余裕なんて、私にはもう無いんだよ?
恐る恐る、アル君へ問いかける。
「…アル君?どうしたんだい、私に怒っていたでしょう?私が嫌なことを考えている人間だと認識してもらえたよね?」
するとアル君は、予想外の事を言ってきた。それはまるで、アル君の熱で溶かしてやるにはくだらなさすぎて、私は獲物として不十分だよとでも言っているかのような。そう、彼は「リリー」と、言った。
リリーの愛が欲しかったか?
欲しかった。今だって、それが本物なら喉から手が出るほど欲しい。
リリーの両親と、自分のギフト、どちらが憎い?
自分のギフトに決まっているでしょう、彼らはただ人形劇に強制参加させられただけの被害者なんですから。
高温の溶解した金属で溶かされ損ねた、黒くて冷たいこころが叫ぶ。
しかし私は彼に発するべき黒の言葉は仕舞い込んだ。
だって、彼にもう一度溶かしてほしかったから。
だから、「暖かいユリウス」でそのまま答えたのに。
「…ならば、俺はあなたが大好きです。事実を受け止めて、周囲に優しく振る舞うあなたが大好きです…」
私は、彼の審査に落選してしまったのだった。
答えを間違えた私は、もうこれ以上こころを溶かすことはできない。
あまりの衝撃で「嘘だ」と呟くのが精いっぱいだった。
だってそれは、私にとっての死の宣告そのものだったから。
*****
少しの間、意識が飛んでいたような気がする。
ああ、もう私も耐えられなくなる時が近づいているなと、妙にすっきりした気分だった。せめてアル君に溶かしてもらった分だけは耐えて、なるべく後顧の憂いを絶ってからどこかで独り、野垂れ死にしたいものだと思う。もう「本物」を探すのは、疲れた。こころが死ぬ恐怖と闘って、克てるだけのものは、私はもう持っていないんです。
こころが壊れた私を見て、悲しむ両親や屋敷の人々、それに少数ながらも私を支えてくれた人たちを見たくない。そうだな、それにアル君は…少し私のこころの寿命を延ばしてくれたんだから、彼がこれ以上私を気にかけないように手配しないと。
なんだか開き直れたというか、少し自暴自棄になっていたというか。
もういいやと、ようやく自分を諦める気になったというか。
かなり冷静になった頭で、ふっとアル君を見ると。なんだか彼は私を初めて見たかのようにまじまじと眺めていた。…この子は何だろう、人の心を読み取るかと思えば、まるで純粋無垢な子供のような目で私を見たり。いったい彼は、何を私の中に見ているのだか。それとも私に見えない何かを見ているのだろうか。本当に予測がつかない。
その、私の意識の間隙を突くかのように、アル君は私を罵り始める。よりによって友達になるとか少しなら嫌ってあげるとか、ただの拗ねてるガキとか、真っ黒ユリウスとか…!
自分が真っ黒に塗りつぶされてることなんて、先刻承知なんだ!君にギフトでもたらされた絶対零度の空虚が分かるか!?暗闇の孤独が分かるか!?
それを、誰が「エーンエーン」などと泣いてるって言うんだ!ギフトを使い切ったことを理解する前に大泣きして以来、涙を零すほどの感情の揺れとは無縁だ!それに悲劇のヒーローを気取れるくらいの余裕があったら、もっと高等学舎でうまく立ち回っていたっていうんだ!
当然だろう、そんな余裕があったらあんな黒のキングどもなど何度チェックメイトのコールができたかわかりゃしない。できてもやらなかった!ただ静かに、こころが壊れてしまわないように、周囲の人に被害が行かないように!意図的にステルメイトへ持って行く方がよほど難しいんだ、この分からず屋があああああ!!
…そこで、はたと気づく。
なんでアルノルトは、私に折れないんだ?だって、さっきギフトに下ったじゃないか?いい加減にしてくれ、こんなにこころを掻き乱されるのは危険なんだ。予定より限界突破が早まってしまうじゃないか…
思わず、どうしてだ?と聞いてみるけどよくわからない。私の予測は大外れだったようで、アルノルトにものすごい痛さのデコピンを食らった。
…は?デコピン?生まれて初めて受けた「暴力」に、私は唖然とした。
あれ以来泣いたことなどないと豪語した直後に、生理的なものとは言え出してしまった少量の涙に、もうショックを通り越して呆然としてくる。更にアルノルトは、今度は「言葉の暴力」を繰り出してきた。曰く「変態」、「ドM」…
何なんだ、何なんだこの幼稚な罵り合いは?
初等の頃にこんな言い合いしたっけ?
いや、みんな優しくて言い合いになんかならなかった。
アルノルトは、胸を張って堂々とこれを「ケンカ」だと言った。
嘘だろう、こんな幼稚な言い合い…この年になってケンカ友達とか。
そしてアルノルトは私へ向かって最終兵器のように、マナによる人探しの特技の話をする。…冗談じゃない…っ!くそ、何か交渉材料は!?
すっかり手札を封じ込められた黒い私はあっさりとチェックメイトコールを受け、この本物の白いキングに下った。