306 慟哭 sideアルノルト
遠くから、その行列を見守っていた。
あざやかで小ぶりな絨毯が敷かれ、天蓋には細やかな蔓草模様の刺繍が施された薄布がかかる。天蓋の四隅に下がっているビーズのタッセルが一歩ごとにシャラ、シャラ、と鳴り、小さなカナリアを乗せた輿がゆっくりと里を練り歩く。
太鼓の音が鳴りやんだ里には、行列の先頭を行くインナさんの歌声しか響かない。
一小節歌うと、光の羽根が。
一小節歌うと、光の花弁が。
錫杖をシャリンと鳴らしては少しずつ紡がれるその歌は、マナの大河へ嫁入りするあの人を言祝ぐためだけに空へと溶けて行く。
インナさんは天蓋にかかっているような薄布を頭から被り、銀のメダリオンを額飾りにしていた。黒地に水色の糸で細かく刺繍された長いチュニックと水色のサッシュ。それにゆったりした白いシャルワールをはいている。
銀の錫杖、銀の装飾品、銀のサンダル。
ミロスラーヴァさんをいざなう、月の使者みたいだ。
俺とダンさんは、ミロスラーヴァさんと同じ運命を辿る決心をしたインナさんの歌声を遠くに聞きながら、その時が来るのを受けとめようとしていた。
*****
「ダンさん、お話があります」
ミロスラーヴァさんとインナさんが儀式前の行列へ出る準備をするので、いったん里を出る方向へ歩き出した俺は、ダンさんに伝えなくてはならないことがあると決心した。
「ミロスラーヴァさんは、今晩…亡くなってしまうんです」
「…え?どういうこと…あ、まさか儀式って」
「寿命、なのだそうです。その儀式での歌を、ダンさんに見せると…そう、言ってくれたんです、ミロスラーヴァさんは」
「ふ…ふざけないでよアルノルト君。まさか儀式で最長老様が殺されるの?」
「違います。寿命なんです、無理に殺されるわけじゃありません。その死期をマナの大河から教えられ、静かにその時を待っていたミロスラーヴァさんに俺は出会いました。最期を看取ってほしいと、言われました。ダンさん、あなたもです。インナさんと俺とダンさん…三人で、あの丘で、ミロスラーヴァさんの至高の歌を見るんです。…お願いです、ダンさん。最高の映像記憶を。あの人に相応しい映像記憶を…」
俺とダンさんは黙り込み、里を出てすぐの林の中で行列が少しずつ移動していくのを見つめた。ダンさんは、「わかりました。僕は一つも見逃しません。ほんの一粒の光だって。ほんの一滴のマナだって」と言ってくれた。
ダンさんは準備してきますと言って広報部の自室へ走って行った。俺も宿に必要なものを取りに行くので、また林で落ち合おうと約束した。
*****
太陽の光が名残惜しそうに地平線へ落ちていくと、水平線にはすでに満月が昇っていた。
熟れた果実のような朱色の月。
年に数回しか見られない、特大の満月があの人を迎えに来ようとしている。行列はとうとう丘へと差し掛かり、そっと下ろされた輿からは小さなカナリアが出てきた。
黒地に赤い糸で細かく刺繍された長いチュニックと赤いサッシュ。白いシャルワールに薄布のベール。インナさんと違うのは、額のメダリオンや装飾品、サンダルが金色だったこと。それと素晴らしい意匠の刺繍が全面に施された飾り布を頭から肩へ垂らし、金色の錫杖を持っていることだった。
ダンさんに仕掛けたマナの可視化方陣を起動させ、林から丘へ移動魔法でダイレクトにやってきていた俺たちは簡易テントの中に隠れて二人のカナリアを待っていた。でも俺たちはしばらくテントから出るのも忘れて、太陽と月の使者みたいな対照的な衣装を着た二人に見惚れていて…「二人とも出ておいで、来ているじゃろ?」と促されるまでぼけっと見ているだけだった。
「あ、ごめん…きれいで…見惚れてた」
「ほっほ…そうかい。なら、こんな派手なものを着た甲斐があったね。さて、二人に注意事項がある。わたしが歌い出したら、何をしてもわたしはもう『祝詞』に支配されて止まらない。ただ、見届けておくれ。あなた方に頼みたいのはそれだけだ」
「もう、歌うの?」
「いんや、まだあと少し時間はあるさ。…インナ、おいで」
「…はい、最長老様」
「覚えておおき。この役目が死ぬほど辛いと思ったら、さっさと投げ出しなさい。だから、自ら死を選ぶでない。どんなに死にたいと思っても、生まれてわたしと出会ってくれた魂を殺すことは許さんぞえ」
「はい」
「ダン、頼みがあるんじゃ。ここで見たこと、記憶に鍵をかけてほしい。アルノルトがやり方を知っておる…それとねえ、あなたの生き様は素晴らしい。胸を張って生きなされ、あなたはここにいる三人から信頼されてここに来ていることを誇りに思ってほしい」
「…はい」
「アルノルト…楽しかった。わたしはこんなに楽しい思いをさせてもらったのは生まれて初めてじゃった。あなたに恋したまま空へ行けるよ、ありがとう」
「…うん」
「それとねえ、わたしの他にもう一人、扉を全開放できるおなごがおるじゃろ?そのお人にねえ、必ずこの数日間の記憶を見せるんだよ。あなたが一人の女をこれほど幸せにしたという証拠を見せてやれい。アルノルトには必ず良いことが起きる。カナリアの最長老が、全身全霊であなたを祝福してやろう」
「あは、ちょっと恥ずかしいな…でも、うん。ミロスラーヴァさんのことは大切な記憶だから、大切な人には見せるね」
くしゃりと、いつものように機嫌良さげに笑ったミロスラーヴァさんは、「さーて、とびっきりを見せてやるよ」と言って俺たちを丘の中央へ連れていった。俺はヨアキムさんに接続すると、ベルカントに丁寧にお願いした。「あの人が、極上の眠りにつけるように…最高の歌を歌ってあげてください」と言うと、ベルカントはまるで集中するかのように静かになった。
黄金の錫杖が、打ち鳴らされる。
巨大な満月を背にして赤と金が閃くと、周囲の歌うマナが一つずつ起き出したように光り始めた。灯籠のように揺れる歌うマナは、一つずつ、手を繋いでゆくかのように細い光の糸を紡ぐ。
俺たちを取り巻くように光のリングが編み上げられると、それまでか細くて聞こえなかった歌が錫杖のシャリン、という音に合せて一つずつ紡がれていった。いつのまにか鳥肌が立ち、なぜか大地からも体に響くような、歌を支える土台のような低音が響いている気がする。ビリビリとしたその震動は、まるでこれから紡がれる歌を全ての大気へ行き渡らせるために力を溜めているかのようだ。
小さなカナリアが、語る。
歌うマナが、応える。
小さなカナリアは、紡ぐ。
歌うマナが、追いかける。
大河よ、この魂はあなたと共に
タラニスよ、魂の言祝ぎを捧げ給う
大河よ、この魂は全の歯車
タラニスよ、魂の安寧を導き給え
また赤と金が閃いて、錫杖が打ち鳴らされ、小さなカナリアはその体の大きさからは想像もつかないような大気の震動を生み出し始めた。同時にベルカントも寸分違わず祈りを紡ぎ出す。
流れる空よ
瞬く星よ
母なる大地よ
生けるものどもよ
根源たる太陽と、その妻の月の名の元に
闇を祓え、光よ集え
召しませ 召しませ 大河に還る御霊を受け取り給え
大河に還る御霊を受け取り給え
光の粒は踊る。波が打ち寄せ、引いてはまた打ち寄せる。俺の心も、体も、心臓も、魂も、全てを惹きつける紡がれた祈りが輝き出す。編み上げられた光は高度を上げ、大気を震わせながら、あの日出会った光の柱を生成していく。
心をむき出しにして歌うミロスラーヴァさん。人並みの恋をしたかった。まっさらな心のミロスラーヴァさん。我が子をこの手に抱いてみたかった。何もかもをさらけ出して祈りを捧げ、それでも熱い芯にある強い願いは、周囲の人々の幸せだった。
ミロスラーヴァさんは上空を見上げ、光の柱から降ってくる祈りを受け止めて満たされていく。光の入れ物のようになってしまったミロスラーヴァさんは、黄金の錫杖をインナさんに渡した。そして刺繍の飾り布を取ってダンさんに渡す。最後に俺のところへ来て、額のメダリオンを渡した。
【ありがとうよ】
まるでマギ言語のように意志と力のこもったマナが震えて聞こえたのは、ミロスラーヴァさんだった『歌うマナ』からの声だった。
気が付けば、光の柱は消えていた。周囲には歌の残滓がチラチラと光る草原と、さっきの巨大さは嘘だったのかと思うほど小さな、普通サイズの満月があった。
*****
ヘナヘナとくずおれるインナさんを支え、でも俺もダンさんも力なく座り込んだ。さっきの自然災害かと思うほどの昇仙の儀式は、きれいさっぱりその痕跡もない。
「…アルノルト君、インナさん。僕の記憶をロックする前に、あなた方には渡しておきたいんです。高所を撮影する方陣と、遠方から撮影する方陣を使って多角的な映像になっています。どちらも僕の視線を増やす目的の方陣ですので、綺麗に撮れていますよ…どうぞ」
「…ありがとうございます。お二人とも、私は最長老様の跡を継いで今後は『長』と呼ばれてあの家に居続けるでしょう。でも今日の記憶とこの魔石があれば…私はミロスラーヴァ様と同じくらいの『最長老』になってみせます。どうぞ、いつでもいらしてください。あ…ダンさんは来にくかったら通信してくださいね。この丘へ来てくだされば、お話はできますから」
「はは…それは光栄です。ですが、あまり派手に伺うと大切な長様の純潔が疑われる。インナさんにそんな不名誉は絶対に被らせません。…手紙と、通信をしても?」
クスクスとインナさんは笑って頷いた。俺も…そうだね、ミロスラーヴァさんはいないから、自重しないと…
「俺も、手紙と通信にするよ。インナさんなら、大丈夫。俺たち三人は、自分たちの場所で、心はがっちり繋がったまま生きるだけだ。あ、でも…インナさんの昇仙の時はまた集まろうね、ここで」
「ふふ、楽しみにしてます。もちろんアルノルトさんもダンさんも、デートしてくださるんでしょう?」
「「当然!」」
俺たちは笑って、それからダンさんに「ごめんね」と言いながら記憶施錠を掛けた。インナさんを移動魔法で送り届け、俺とダンさんは里を出たところにある林へゲートを開いて移動した。
「…ダンさん。俺、秘密がいろいろある。ダンさんに話してないこと、いっぱいあるんだ。でも…俺はダンさんが好きだから、何か困ったことがあったら教えて。幸運が尽きちゃいそうだから呼ばないなんてことしないで、俺がダンさんの幸運になりそうだったら呼んでほしい」
「あはは、それは僕の台詞だよ。広報部への対応で困った、とか…あ、彼女とのデートコースにだって、相談に乗っちゃうよ?」
「ぷは!そうだね、ダンさんの至高のデートコースなら間違いないね!…じゃあ、また。しばらくしたら、広報部へ勉強しに行くと思うから、その時はまたよろしくお願いします」
「ん、わかったよ。またねアルノルト君」
ダンさんと別れて、林を歩く。
手に持ったメダリオンが月光に煌めいて、俺の目を眩ませた。
その金色の光が。
俺の瞳を射抜いたものだから。
俺はたまらず、駆け出す。
どっちに向かってるかわからないけど、とにかく走った。
誰もいない方向へ。月に見つからないところへ。
隠れて、俺一人で、あの小さなカナリアへの想いを吐き出せる場所を求めて。
木々が鬱蒼としてきた場所で、大きな木を見つけて体当たりするように拳を叩きつけた。
「あああああああああああああああああ!!」
ただ、叫んだ。
涙は出ない。
ただ、吠えた。
俺を見ているのは、金色のメダリオンだけだった。