299 カナリアの祝詞 sideアルノルト
金糸雀の里は、一言で言うなら「毎日がお祭り」という感じ。そこかしこでドシュプルールっていう弦楽器をかき鳴らしていたり、ショールっていう大きな笛を鳴らしていたり、底抜けに明るい印象の街だった。他の部族の街と同じくらい広いのに「里」という呼称が付いているのは、古くからの慣習だからなんだって。
金糸雀の民家もとても古い様式のまま変わっていなくて…なんだかレインディアの遊牧民みたいな毛織物がたくさん飾られた、白い土壁に青い屋根の素朴な作りなんだ。二階建てまでのものがほとんどで、家によって伝統の織物の柄がある。それが家の中にも外にも飾られているので、街全体がとてもカラフルなんだよ。
俺は「魔法部の研修生が金糸雀の文化を学びに来た」という名目で、マザー分体のそばにある宿屋へ宿泊していた。おかみさんは豪快な笑い方をする気のいい人で、米を炒めたプロフとか串焼き肉のことはシャシリクって言ってたけど、そういう素朴なおいしい料理を出してくれる。
俺の相談に乗ってくれる人はマザー管理部署(白縹でいうところの維持セクト)のゾーヤさんという女の人だ。たぶんフィーネと同じくらいの年で、とてもおっとりした優しい人。最初の3日間は付きっきりで里を案内してくれて、俺が「学舎を見学か、放課後のクラブ活動に参加とかできますか?」と聞くと「アルはそう言うと思ってました。もう学舎へは了解をもらってあります、クラブ活動ならいいそうですよ」と言ってくれた。里の探索が終わったら、すぐに学舎へ行こうっと。
金糸雀の里は、今までの街のように「区画」で特徴があるとか、そういう明確なモノがない。アルカンシエル南西の海沿いにあるこの里で道を聞くと、「夫婦岩の方向を目指すといいよお、海を左に見て歩きな」とか「海を背にして行ってごらん」とか言われる…今までガッチリ区画分けされた街や、小さな白縹の村しか知らない俺にはかなりチンプンカンプンの案内で、ヨアキムさんに「たすけてぇ、金糸雀の地図をくださあい!」とヘルプを出してしまった。
…でも貰った地図がこれまた…くねくねした路地が満載で、見てもあまり変わらないことがわかりました。これはもう、足で歩いて覚えるしかないです…
宿屋のおかみさんに「里歩きしてきまあす!」と言って出掛けたのは、ここへきて五日目の朝。毎朝の日課を終えて、今日こそ少しは里を把握するぞ!と歩き出す。もう迷子になったっていいや、いざとなったら自動マッピングをしたり、ヘルゲさんに接続してガードに上空から道案内してもらえばいいもんね!そんな風に開き直って、ヒョイっと路地に入ったり、行き止まりになって戻ったりしていて疲れ始めた頃。
ぶわりと、全身に鳥肌が立った。
あっちだ…海の方向から、ものすごいマナの波が押し寄せてくる…
何人が歌ってる?ううん、何十人だ?
それくらいの人数がいなければ、こんな圧倒的な、こんな力強い…こんな天へも届きそうなマナの光の柱が立ち昇るはずがないよ…!
まるで何十本もの光が縒り合わさって、編み上げられるように立ちのぼる光の柱。そこから更に里全体を包むような波動が生まれているようだ…
俺は、心臓も脳も何もかもが波に揺さぶられていると感じながら、涙で歪む視界のままで光の柱へ向かって走り出した。
*****
「ここから先へは立ち入りをご遠慮ください。…あなたはどちらの方です?金糸雀ではないですね…?」
「え?あ…ごめんなさい、入っちゃいけなかったんだ…あの、アルノルト・緑青と言います。金糸雀の文化を学ぶために里へ滞在させてもらってます」
「そうですか。申し訳ございません、いま長老様方がこの丘でタラニスへの感謝を歌っておりますので、ご遠慮願いたいのです」
「…そっか、なにか大切な儀式をしてるんですね…ほんとにすみません、知らなかったとはいえ…ごめんなさい」
俺は謝って、その場を離れた。…でももう、あの光の柱と波に心は翻弄されて、揺さぶられて、涙はまったく止まらなかった。…タラニスって何だろ。確か金糸雀は自然崇拝だったよね。空に立ち昇ってたから、空への感謝の歌なのかなあ。
ああ…だめだ、涙が止まらない。そっか、ベルカントもこういう歌をいつも歌ってくれてるのかなあ…
分身だけど、ほんとの里帰りじゃないけど、なんだかベルカントを解放してあげたくなった。そっと、丘からは離れたけど、真下の海岸の方へ降りていった。誰もいないのを確認して、ヨアキムさんへ接続する。翼は不可視にして…
さあ、ベルカント。
歌ってくれよ、あの長老さんたちの感謝が全部の空へ届くように。
ベルカントは喜びに打ち震えて歌う。
仲間に会えたと泣きながら歌う。
タラニスという、空そのもの、太陽そのものへの感謝をこめて、まるで大気を震わすかのような、音の衝撃波を生み出すほどの声。
七百年の時を超えてこの空へ溶けて行くベルカントの波紋は、俺の心をめちゃくちゃに掻き乱した。竹林を暴風に煽られたかのようにざわめかせ、あまりのマナの嵐に竹の葉が舞い乱れる。
俺はなんだかもう…ベルカントの喜びとヨアキムさんの罪の意識と、ただただ…二人の魂がこれからも幸せであって欲しいという俺自身のちっぽけな願いでいっぱいになり、ベルカントが歌うのをやめて落ち着いてからも静かに泣き続けていた。
*****
泣き疲れて砂浜で大岩にもたれたまま寝てしまっていた俺は、サクサクと砂を踏む音が近づいてきて目を覚ました。太陽が真上にあって…温かい地域とは言え、真冬に海辺で眠っていた自分に「俺ってバカ…」と思いながら足音の方を見る。
「…あなたかねえ?タラニスへの感謝を捧げてくれたのは?」
「へ?あ…えっと…?」
俺を面白そうに見下ろしていたのは、すごくちっちゃい、腰の曲がったおばあちゃんと、おばあちゃんに手を貸している「お付きの人」って感じの二十歳くらいの女性だった。
…あ、この人、さっき俺に丘へ入っちゃいけないって言ってた人だ…
「あー、その…もしかしてここも入っちゃいけない場所…でしたか」
「ヒョッヒョッヒョ…そんなこたあないよ、ここは誰のものでもないからね」
「タラニスへの感謝って、歌のことですか?俺は…歌ってません」
「んー…あなたから歌が紡がれたと思うがの?ほれ、歌の光がまだあなたを取り巻いておるよ。…あなたの名前は、アルノルトと言うんだってね?緑青ってこたあ、あの偉い学者さんと関係あるのかねえ…わたしゃ、てっきりあの学者さんがご先祖様を連れてきてくれたのかと思ったんだが、来てみたら立派な青年がおるで、びっくりしたよ」
「学者さん…あ、そうか、デボラお母さんはここに来ていろいろ聞いたって言ってたけど」
「おー、そうじゃそうじゃ、デボラ殿だったね。年を取ると物忘れが激しゅうて…すまんねえ、あなたはデボラ殿の息子さんだったかい」
「あ、はい。じゃあお母さんにいろんなお話をしてくれた長老様…ですか?初めまして、アルノルト・緑青です。よろしくお願いします」
「んー、わたしゃミロスラーヴァっちゅうんだ。アルノルトや…時間はあるかい?婆の話し相手をしておくれよ。インナ、案内しておあげ」
俺は頷いて、二人の後を付いていったんだけど…なんかミロスラーヴァさんがよろよろと砂浜を歩くので「あの、嫌じゃなかったら俺が抱っこして歩いていい?」って聞いてみた。インナさんは目を丸くしてたけど、フィーネより二回りも小さなおばあちゃんを抱っこして歩くなんて、俺には朝飯前だった。
ミロスラーヴァさんは「ひょっひょっひょ…こりゃらくちんだ」と笑っていたけど、インナさんは少しオロオロしながらも俺を案内して…到着したのは綺麗な毛織物がたくさん飾られた大きな家だった。…ここへ来るまでの間、道行く人がインナさんみたいに目を丸くして俺を見ていた気がするんだけど。ハッ!!まさかマリー姉ちゃんに言われた「女性に簡単に触っちゃダメよ」ってことだったのかなあ!?フィーネ以外には触ったりしてなかったんだけど、俺ってば!!
「あの、ミロスラーヴァさん…もしかして抱っこなんて恥ずかしかった?女の人に簡単に触っちゃダメって姉ちゃんに言われてたの、今頃思い出した…ごめんなさい…」
「ブフ!ブーッヒャッヒャッヒャ!!この婆ちゃんを、若い娘みたいに扱うたあねえ!アルノルトはいい男じゃないかい!アッヒャッヒャッヒャ!!それとねえ、わたしゃミロ婆でかまわんよ、小さな子もそう呼ぶからねえ」
「うー…そんなに笑わなくってもー…だって皆俺を見るからさあ…えっと、ミロ婆ちゃんね、わかった…」
「あの…アルノルトさん、そうではないんですよ。最長老様に触れるのが…その、不敬にあたると思われているので。あ、でも最長老様がいいとおっしゃったんだから、いいんですよ?道で見てた人も、私が何も言わずに案内しているのを見て納得しています。びっくりしただけです」
「えー!そうだったのかあ…それは重ね重ねごめんなさい…」
とりあえず不敬罪だー!なんて言われて捕縛されなくてよかったよ。ミロ婆ちゃんをそっとクッションへ下ろすと、俺もすぐそばの床にあるクッションへどうぞと言われて、あぐらをかいて座ってみた。
「ふむ…アルノルトや。ご先祖様を連れて来てくれてありがとうよ。今日はひと月に一度、いつも通りのタラニスへの歌を捧げる、何て事のない日だったはずなんだがねえ…全員が驚くほどの荘厳な歌だった…あんな古代の祝詞は、数人しか知らんからの」
あちゃあ…そっか、ベルカントは七百年前の言葉で歌ってるんだもんね…猫の庭の皆にとっては、ベルカントの歌は流れる水音や風の音みたいに自然の音楽に近いんだよ。…どうしよっかなあ…これ、言ってもいいのかなあ…
「秘密なら秘密でかまわんよ、アルノルト。あなたにも事情があるんじゃろ。ただ…あなたとデボラ殿に感謝を。わたしゃそれだけ言いたかったのさ」
「ちょ…ちょっと待ってねミロ婆ちゃん。えっと…インナさんも…秘密を守ってくれる?」
「インナはわたしのひ孫さ。口は固いし、約束も守るよ」
「じゃ…じゃあ、わかりました。全部は話せないけど…さっき歌った人っていうか魂っていうか、その分身なんだけど」
俺はヨアキムさんに接続した。もちろん翼は消して、見た目は俺に何の変化もないはずなんだけど、それでもミロ婆ちゃんとインナさんは目を見張った。ベルカントに「君の仲間が会いたいってさ」と言うと、ベルカントは涼やかに歌い出した。さっきの祈りの歌みたいな衝撃波はなく、優しく、柔らかく、撫でるような声でマナのさざ波みたいな歌を二人に送っていた。
インナさんは「そんな…さっきまでアルノルトさんには『紡ぐ喉』なんてなかった…お、男の人なのに…」と呟き、ミロ婆ちゃんは「ほほ…お帰りなさいまし、ご先祖様…ようございましたな」と笑った。
どうも『カナリア』として祝詞や歌を自然へ捧げたり、歴史の真実を語るっていうのは女の人しかできないらしい。男性のカナリアは大抵が歴史の語り専門で、祝詞は歌えないんだそうで…占術師みたいな話だよねぇ。でも男性の方が芸術方面の才能が開花することが多いらしくて、素晴らしい絵を描いたり楽器をうまく弾いたり、ふつうの歌を上手に歌ったりするんだって。
俺はその日の午後、ずっとミロ婆ちゃんたちといた。婆ちゃんは俺をじーっと見て、くしゃりと笑う。
「あなたは随分とまあ、透明な心をお持ちだね。立派な竹がようさん生えてること。そんなに開いていたら、あなたを好ましく思う人は夢中になってしまうねえ?だが、バカだと思われることも多いんだろう?」
「ええぇぇ、ミロ婆ちゃん…視えるの?すごいね、フィーネ以外でそんな風に視える人に初めて会ったよ」
「ヒョッヒョッヒョ…カナリアなら、そんなにあけっぴろげな心はみんな視えてると思うがねえ。インナも視えるだろ」
「…えっと、はい。静かな竹林ですね。でもアルノルトさんは楽しげな音楽だから、ちょっと意外です」
「うはあ~…カナリアってすっごいね。俺とフィーネは緑青にも金糸雀にも似てるんだな~、親近感湧いちゃうよ」
「ほっほ、やっぱりあなたは緑青ではないんだねえ…もしかして白縹かい?」
「うっは、さすがミロ婆ちゃんだー。うん、俺は白縹一族出身です」
「ええぇ!?でもさっき緑青って…」
「あ、俺ねえ、緑青の学者さんいるでしょ。その人の養子になったの。…ミロ婆ちゃんは何で俺が白縹だってわかったの?」
「ほっほ…歴史を紡ぐ者は、マナの大河から囁かれるでなあ」
「そっかぁ、マナっておしゃべりだよね!俺もそれはわかるよ!」
「ぷは…アルノルトさんは楽しい人ですねえ、最長老様」
「そうだねえ、会えてうれしいねえ」
「俺もミロ婆ちゃんとインナさんに会えてうれしいよ!俺、しばらくこの里でお世話になるんだけど、また来ていい?」
「えっと…」
「…ああ、いいさ。いつでもおいで」
口ごもったインナさんに少しだけ首を傾げながらも、俺はミロ婆ちゃんの家を出て夕方の金糸雀の里を宿へ向かった。