240 閑話 フィーネ② 高く跳べ
ナディヤと仲よくなったぼくは、それでもまだ少し慎重に言葉を選んで話していたと思う。初めて得た友人という宝物が大切すぎて、何か妙なことを言って呆れられてしまったらと思うと怖かったんだよ。そんなぼくを見て、ナディヤは柔らかく笑う。
「ねえフィーネ。私と同室のリアっているでしょう?リアもね、心に宝物がいっぱいあるのよ…リアの話も、とても面白いの。フィーネの話はとてもおいしそうで綺麗だし、リアの話は世界ってとても広いのねって思っちゃうわ。私、二人の話を聞いていると、楽しくて仕方ないの」
「…リアかい?そういえば彼女もよく図書館で見かけるね…」
「ふふ、そうでしょう?リアは勉強がとても好きなのよ。知らないことを知っていく自分が、とっても好きなんですって。歴史のお話とか、学科の先生も知らないことを知っていたりするのよ」
リアの話をするナディヤは本当に楽しそうだ。歴史…そうか、ぼくがぼくだけの宝物を持っているように、他者には他者の宝物がある。きっとリアは歴史の音の粒を見ると、心が躍って仕方ないのだね。ぼくが「そうか、リアの話をぼくも聞いてみたいものだね…」と言うと、ナディヤは「それはとてもいい考えだわ!リアにも伝えておくわね」とうきうきした様子になり、さっそく翌日の昼食時にぼくはリアと初めて食事をご一緒した。
「フィーネってマナをそんな風に感じるんだったの…それは興味深いわねえ、歴史上の人物でそういう人、いたのかしら。今度調べてみなくっちゃ!わかったら教えてあげるわフィーネ」
「おお…なるほどね、そういう観点で自分を考えたことはなかったよ…君は斬新な切り口を持っているねリア…」
「ねえ、それよりフィーネの話をもっと聞かせてちょうだい!いったいマナってどんな動きをしているのかしら。誰かが魔法を使う時にようやく意志を持つ感じなの?それとも、意志のあるマナが魔法使いの願いに応えるのかしら!」
「あはは、残念ながらぼくはマナと話したことはないねえ…ただ、人から漂ってくるマナはその人に染まっている。なんとも滑らかな絹の反物のように織り上げられたマナもあるし、その人が魔法を使おうとマナを錬成すればまた違う味わいが産まれる。ぼくはそれを感じるのさ」
「へえ~…!なら、人の意志に応えるっていうより、その人の感性そのものだったりするのかしらね…奥が深いわねえ…ああ、私に開けられない知識と感覚の扉を持つフィーネが羨ましいわ!ねえ、ほんとにお願いだから、これからももっと聞かせてくれないかしら」
「あはは、もちろんだよ。じゃあかわりに、ぼくにはリアの話を聞かせてくれないかい?歴史の面白い話や、言葉の由来や…きっと君の中には宝物がたくさんあるんだろう?ぼくも羨ましいんだよ」
「もっちろんよ!ああ、すっごくフィーネの話は面白い!ねえナディヤ!」
「ふふ…そうね、二人の話はとってもおもしろいわ…でも私、時々二人の使う難しい言葉がわからないわ…」
「そういう時は、いくらでも聞いてちょうだい!ねえフィーネ、ナディヤになら何でも教えるわよね!」
「もちろんさ。ごめんよ、ナディヤを置いてけぼりにするつもりはなかったんだよ…リアとの話が面白くてつい…」
「うふふ、なら安心ね。フィーネってとても優しいのね。私、大好きになっちゃったわ」
…なんと…
な、なんと言ったのだろうね、ナディヤは…
ぼくのことが大好きだって?ぼくが優しいから、だって?
「あっは、フィーネったら首まで真っ赤よ!?なによう、私だってこんな面白い友達、大好きに決まってるわ。これからもよろしくねフィーネ!」
「あ、あ、ありがとう…ぼくも君たちが…大好きさ…」
ぼくらは三人でクスクス笑いながら昼食の時間を過ごした。なんと甘やかで、なんと胸の熱くなる時間だったことだろう。ぼくはこの時のことを一生忘れないだろうと思った。
*****
ナディヤとリアの同室に、ビルギットという女がいる。これがまた…ナニーもぼくの大切な友人二人に酷な部屋割りをしてくれたものだ。どうもこの女の心の拠り所というのが、その可愛らしい顔のようでね。まったくもってくだらない、君の宝物はそれしかないのかい?と本気で憐れんでしまうよ。
ぼくがナディヤやリアとよく話すようになってから、彼女たちの部屋へ招いてもらってリアのお宝「紙媒体の絵本」を見せてもらっていた時のことだ。
「ただいまぁ~…あら、フィーネじゃない…」
「…おじゃましているよビルギット」
「あらやだ…フィーネもそういう絵本好きなの?物好きが多いわね」
「ビルギット、そんな言い方はないと思うわ…」
「ほんとよ、あなたの趣味に合わないならほっといてくれればいいって、何度も言ってるでしょ!」
「ほっといてるじゃなぁい。私はそんなものより楽しいことに夢中だもん」
「…君の楽しいことって、何なんだい?」
「ん~?かっこいい男の子とおしゃべりしたり…素敵な恋をしたいから、自分を磨いたり…すっごく楽しいわよ?」
…ほぉ~?
ぼくは頭に血が昇るのを感じた。このバカ女はお粗末で貧弱なマナを垂れ流しておきながら、ぼくの大切な友人の気分を害して何とも思っていないわけか。
「…ビルギット、君の楽しいことというのはつまり、生まれ持ったその容姿だけを頼りに異性からチヤホヤされるというのが最終目的なわけだね?しかし世の中美人は数多くいるものの、本物の美人は君よりよほど磨き抜かれた容姿と感性をお持ちだと思うのだよ。君は自分磨きにヤスリでも使っているのかい?目が粗すぎてそのヤスリは役に立っていないようだよ。今度ぼくから木工用のきめ細かい紙ヤスリでもプレゼントさせてもらおうかな。それとね、『光陰矢の如し』ということわざをご存知かな?君のご自慢の薄っぺらい美貌は、老人になった時に君へどういう恩恵をくれるのだろうねえ?まあ、君の言う素敵な恋が訪れることを陰ながら祈っているよ。一般的には素敵とは程遠い恋になるとしてもね?」
…ふぅ~、スッキリしたね。これでこのバカ女に言い忘れていることはないだろうか。おや…リアとナディヤが随分と驚いて固まっているようだ。そしてバカ女は顔を真っ赤にさせてプルプル震えているね。
「な…な…なんですってぇ!ワケわかんないことごちゃごちゃ言って…!あんたなんて気持ち悪い行動しかしないだんまり屋だったくせに!」
「おやおや、ぼくの言った言葉が難解すぎて伝わらなかったのかな?そんなに難しいことを言ったつもりはなかったのだが…ごめんよ、君の頭には自分磨きの削りカスでも詰まっていると思ってこれからは語りかけるとしよう。それにしても”だんまり屋”のぼくがこれだけ語りかけていると言うのに、君からの反論はたったのそれだけかい?残念だな、言葉での意思疎通ができると思っていたのに。これではぼくが削りカスに一生懸命語りかけている阿呆のように見えてしまうよ」
「こ…この…っ」
バカ女は手元にあったコロンの瓶だのクッションだのを引っ掴んでぼくに投げようと振りかぶった。まったく、このバカ女は救いようがない。ぼくはベラベラと話している間にバカ女の周囲に結界方陣の準備を終わらせてあったので、すぐに展開した。
結界によって切断されたクッションの中綿が舞う。割れたコロンの瓶から咽るような量が飛散し、バカ女の服や床が濡れた。バカ女はふわふわ舞う中綿でクシャミをし、コロンで咽て咳き込み、ひどい有様になった。
「…これは…バチがあたったと思っていいかしら…」
「まあ、フィーネの毒舌が鋭すぎて…どっちが悪いんだかもうわからないわ私…」
「うーむ…これは君たちの部屋も結界を解いたら酷い臭いになってしまうね…すまないことをしたよ、二人とも…」
「あら、コロンの瓶なんて投げたのはビルギットだもの…フィーネは悪くないと思うわ」
「それもそうね!…おっと、ナニーが来たかしら…」
バタバタと足音が聞こえ、初老のナニーがノックをしてドアを開けた。
「…んまあ…何事なのこれは!?え、結界方陣…?どういうことなの?」
「それが、ビルギットがぼくのことを気に入らないと言ってコロンの瓶やクッションを投げてきそうになったんですよ…怖くなって思わず結界方陣を出してしまいまして…」
「あら、フィーネ…あなたなら確かにこの結界を出せるわね。それにしても…ビルギット!クッションだけならともかく、ガラスの瓶を投げるだなんて!」
「げほっげほっ!…だって、フィーネが!げふ、げふ!むかつくことばっかり言って…!」
「フィーネは何を言ったっていうの?」
「ビルギットが素敵な恋をしたいから自分磨きをしてるって言ったんで…じぶんみがきってなんだろう?って思って、ヤスリで磨くの?って聞きました。そしたらビルギットが怒ったんです…ごめんねビルギット、ほんとに何のことかわからなくて、君がそんなに怒ることを言ってしまったとは思わなかったんだ…」
「げほ、げほ、嘘よっそんなこと言ったんじゃないわよ!ごほっ」
「…嘘?フィーネは何て言ったの?」
「だから…げほ、コーリンヤノゴーだとか…!お婆ちゃんになったらとか…!」
「は?calling and go?…ダメね、何を言ってるかわからないけど…とにかくそんな物を投げるなんていけないわ。フィーネはわからなかっただけじゃないの、謝ったでしょう。あなたも謝って仲直りなさい」
「ぜったいイヤよ!げほんっ」
「…しょうがないわねえ、もう…フィーネ、この結界解ける?」
「もちろん解けますけど…たぶんこの部屋に酷い臭いが充満しますよ…」
「ふう…ナディヤ、リアは今日からしばらく空き部屋へ移動なさい。匂いが取れるまでビルギットはこの部屋で過ごしなさい、わかったわね」
ナディヤとリアは大人しく頷き、自分の荷物をまとめて引っ越しを完了させた。それを見届けてから、結界解除…ビルギットは再度ぼくに向かう元気もなく、トイレでウエウエと吐いていた。
い い 気 味 だ 。
*****
高等学舎に上がったぼくらは、毎日充実した日々を過ごしていた。ぼくはすっかりリアとの語らいやナディヤの癒しに包まれている。他人がどのようにマナを感じているのかを客観的に理解できたぼくは、興奮してしまわない限りは普通に他者と話せるようになっていた。ある日、自然学の授業の一環で森や海辺を探索する機会があった。海辺では貝殻や漂着物からどんなことがわかるかを知るため。森ではどんな木の実や葉っぱがあって、どうやって命が循環しているか。そういったものを集めるために数人ずつのグループに分かれての課外授業だった。
ぼくとリア、コンラート、デニスの四人で森を歩き、虫に食われた木の実や紅葉した葉っぱなどを集めていると、学舎のシンボルにもなっているケヤキの大木がある広場に出た。足元のクローバーも一つ摘み取り、コンラートが持ってくれていた籠に入れる。大木の根本で何かないだろうかと近づいた時に、それはぼくの五感を襲った。
こんな方陣、味わったことがない…!
これは…そうだ、防諜の方陣!しかも、なんという精度だ。ぼくなど足元にも及ばない鋭さを持ったそのマナの残滓を、ぼくは我を忘れて貪った。なんという研ぎ澄まされた…なんという強靭な意志…なんという技巧のヴァイオリン…!!
本当ならこの方陣を展開した御仁に目の前で方陣を展開してもらい、存分に味わいたい。きっと学舎の職員に違いない…しかしこのマナ、どこかで…
「おい、フィーネ?お前どうしたんだよ、大丈夫か?」
「お…おお…コンラート、すごいんだよ…素晴らしいマナが渦巻いていたんだ、ここに!聞いたことないかい、防諜の方陣だよ。軍で使われる方陣だ、しかもレベルもけっこう高いぞこれは!ああ、こんなヴァイオリンの音色を聞いたことないよ、研ぎ澄まされた刃のようなのに、守る意思に溢れていて…甘いし旨味に溢れているし、なのにキリッとした酸味もあって、舌触りはまろやかで…あああ、たまらない!」
「お…おい…頼むぜフィーネ、帰ってこーい…つかココって…アロイス?」
「んああ…おいしい…おいしすぎる、でも物足りない~…マナの残滓だけだなんて…メインディッシュで食べてみたい…」
「うおーい…ダメだこりゃ…おーい、リア!デニス!ちょっと来てくれーぃ!タースケテー」
ぼくはリアによって正気に戻され、学舎へ帰った。リアに心配されつつ、ぼくはあのマナの残滓の記憶に夢中で…ほとんど眠れない夜を過ごした。そして、ソレは起こった。
マナが。ぼくの愛しいマナの世界が、暴力的な強さでぼくを襲う。眩暈と言うのもおこがましいほどの、酒に酔うとこんなことになるのだろうかというほどの渦。過去に見た記憶のマナと今ぼくに見えているマナ。方陣の花が開いては飛んできて、ぼくを飲みこむように襲い掛かっては背後へ駆け抜けていく。
矢車菊がぼくの脳天と融合しては分離する。
デイジーが口から入って後頭部へ抜けていく。
牡丹がぼくの心臓を貫いては背骨を砕いて去っていく。
ああ、そんな。君たちはぼくの愛しいマナと方陣だろう?なぜそんなにぼくを貪り、浸食していくのだい?ぼくに不満があって、ぼくを作り変えているのだろうか?ぼくはそんなにダメなのかい?
目を回し、マナ以外何も見えなくなったぼくは昏倒し、治癒室で目覚めたのは数時間後のことだった。高熱にうなされたぼくは泣きながら「行かないでくれ、ぼくを見捨てないでくれ」とうわ言を言っていたそうだ。
熱も下がった翌日、まだ安静にしてなさいと治癒師のヘルミーネ先生に言われてベッドにいた。ぼくは…からっぽになってしまった自分を感じていた。まだマナの流れはもちろん見えている。しかしいつもは慈愛に溢れた楽しげなマナを感じさせるヘルミーネ先生から、何の音楽も聞こえない。マナが遠くて、よそよそしくて。なんという孤独感か。なんという寂寥感か。もうぼくは…君たちと遊んでもらえないのかい?
小さい頃に、何をからかわれても何の痛痒も感じなかった。変人だの狂人だの言われたって、この世界を知らないのだから仕方ないと諦めていた。だが…これではビルギットのことなど嗤えない。ぼくは彼らに見捨てられたらこんなにからっぽなのだ。
その日、泣いて泣いて泣きまくった。自分に絶望し、何の価値もないという荒涼とした気持ちで埋め尽くされた。泣き疲れて眠るが、夢で愛しい世界に触れてしまい、起きて愕然とする。一段一段と奈落への階段を降りて行くような気持ちは、もはやぼく一人でどうにか立ち直ることなどできなくなっていた。
二日目のお昼に、心配したナディヤとリアが治癒室にやって来た。
「…フィーネ、ひどい顔色だわ…熱は下がったんでしょう?」
「ああ…だが…マナが感じられないんだ…」
「え!?見えないの?」
「見えるけど…遠い。遠くて触れないし、聞こえない…ぼくはいったいどうしたんだ…」
涙腺が壊れているかのように、はらはらと涙が流れる。
大切な友人に甘え、弱音を吐いた。
「ねえフィーネ。それってあなたの器が大きくなったのかもしれないわよ!」
「…は?器?」
「私、フィーネみたいな人が歴史上にいないか探したって言ったじゃない?まあ、明確に見つかったわけじゃないんだけど…たまにね、あるのよ。緑青の人とか、マナに敏感な人でね、一時的にはしかみたいになって急にマナの扱いがヘタになっちゃった人の話!でもその病にかかると緑青ではお祝いになるんだそうよ?ねえ、ヘルミーネ先生聞いたことない?」
「あぁ~、それは『成長痛』とか『マナはしか』とか緑青では言われてるらしいわね。それにかかった人は一時的なスランプになったあと、劇的に能力が高まるっていう話ね。この村じゃあんまり聞かないけれど、そういう状態ならマナはしかの可能性は高いわよねえ」
「じゃあ…もしかしてぼくは…」
「ふふ、フィーネったらたくさん泣いたんでしょう。ダメよ、一人で泣いちゃ。私たちのこと、忘れちゃダメ。そうね…きっと、高ーくジャンプするために今は縮こまって力をためてるのかもしれないわ。フィーネならすごく高く跳べるはずよ」
「そうよ、大ジャンプに決まってるわ!…だからもう、泣いたりしないのよ」
「うん…うん、ありがとうナディヤ、リア…ぼくは本当に君たちが…大好きだよ」
その後ぼくは順調に回復し、リアの予想どおり劇的に能力が上がった。今までのように精度の甘いなんちゃって方陣を何種類も持っているのではなく、完全に方陣を制御し、駆使できるようになっていった。マナも深く理解できるようになり、以前よりも色鮮やかなマナの感触を味わうことができている。
それでも、まだまだ彼らのことを理解できていないと自分を戒める。
あの大木で出会った防諜方陣の残滓に引っ張られるように開花したぼくの才能は、体術の才能もないのに軍部への道を切り開いた。その後は…皆さんご存知のとおりだよ。そしてこのマナはしかのきっかけの防諜方陣を敷いた張本人が、再度ぼくの前で素晴らしい結界方陣を出した時…もっともっと素敵なマナと、仲間をぼくは手に入れることになる。




