152 閑話 ハイデマリー① イキテ
R15
少々病的な描写があります。
苦手な方はご注意を。
私は、アロイスの彼女になったらしい…
今日、初めて会ったんだけど。
ニコルの兄だって、教導師だって、それしか知らなかったんだけど。
***
ヴァイスで自室に戻ろうとしたら、アロイスがにこやかに話しかけてきた。人当りのいい男よね、ニコルが慕ってるのも分かるわ。「こちらへどうぞ」なんて促されて、宿舎の奥へ行こうとするから…なにそれ、誰の部屋へ行く気よ?って思って少し警戒心が湧く。でも振り返ったら…そこはもうヴァイスじゃなくて、アロイスの家だった…
最初はなんて迂闊でバカな男なの、と思った。
私は体験したことないけれど、これは移動系の魔法のはず。だとすれば、可能性としては…タンランで侵入に使われているという”遁甲”かもしれない。他の移動系魔法の情報はないし…白縹はついこの前ダージェに潜入されたらしいし、工作員に捕まって薬物で洗脳でもされたのかしら。それとも、ダージェ独自の心理魔法?とにかく…なんとか洗脳を解けないかしら。この男を傷付けたら、ニコルが悲しむわね…でも、ヴァイスに刃向かうなら手加減できる自信はないけれど。
警戒しつつ、話を聞いてみるけど…要領を得ない。
何が目的なんだかサッパリわからなくて、イライラした矢先…この男は、私の中の、入ってはいけない部分に、刃物のスパイク付きの靴でザクザクと入ってきた。
***
私が”幻影”を初めて見たのは13歳の時だった。4つ年下のアロイスはまだ初等学舎だったし、実際に私を見たわけではないと言っていた。でもコンラートのレア・ユニーク発現時にいろいろあったようで、教導師になってからレア・ユニークの子がどういう目にあってきたのかを一通り調べたらしい。…それはまあ、理に適ってるわよね。生徒にレア・ユニークが発現した時…どれだけ早く大人が理解し、対策を打てるかが重要だと思うもの。
アロイスが言った通り、私は発狂寸前だった。周囲から見れば、既に手遅れくらいに思われていただろうと思うわ。
最初はね、こわいオバケが出たと思ったのよ。肘から先の、とても見覚えのある手が現れて、スゥっと頬を撫でられたわ。お風呂場の脱衣所で、私が一人きりの時だった。叫んだ私に驚いて、同期やナニーが駆け付け、私はオバケが出たと訴えて泣いた。ある日は一人で散歩していたら、膝から下の足だけが、隣を軽やかに歩いていた。でも少しだけ見えているスカートの裾にある刺繍は、私がその時来ていた服とまるで同じだった。…私は叫びそうになったけど、抑えた。手のオバケが出たと言う私を、誰も信じてくれなかったから。そのオバケは、私が一人になった時を狙って出てきていた。少しだけ怖いのをガマンすれば、もうオバケが出たと嘘をついて皆の気を引こうとしただなんて思われなくて済む。
でも、本格的にそのやせ我慢が無効になったのは…私の「頭」が出現してからだった。私と同じ顔が、生首のように、私の目の前に浮いている。でもその瞳といったら…とっても、とっても、慈愛に満ちていた。私を見つめて、とても愛しそうに微笑む私の首は、まるでキスでもするかのように私に向かってきて…私と重なり合うようにして、消えた。自室で昏倒した私は、治癒室で目覚めた。治癒師の先生が、真っ青な顔で「…怖かったわね、大丈夫?」と言ってくれた。…先生は私に何が起こったのか知っているのかしら、と不思議に思ったけど…すぐに理由がわかった。私の顔の隣に、私の首が同じようにベッドで横になって私を見つめて微笑んでいたからだ。
もう平静を装うこともできなくなった私は、だんだん面積の大きくなるもう一人の私に呪詛の言葉を投げかけて過ごすようになった。一人部屋に移され、ナニーが心配そうに見ているのも気にならなかった。とにかく、こいつのせいだと思ったから。
「…頼んでもいないのに出てくるとかなんなの?消えてよ。なくなってよ。死んでよ。潰れてよ。壊れてよ。…私なんて、ばくはつしてしんじゃえ」
毎日そんな風にしていたら、もう一人の私はとうとう完全体になった。ごはんもほとんど喉を通らない私の頬はこけ、目の下には真っ黒なクマがある。鏡なんて見るのもイヤだったから予想でしかないけど、きっと瞳なんて濁りまくっていたはず。なのに、その完全体の瞳だけは…金色にキラキラ輝いていた。そして、いつものように嬉しそうに微笑むと…私の首に手を差し出してくる。
あぁ…やっとか…やっと、楽にしてくれるのね。
なのに、その完全体は、嬉しそうに私をそっと抱きしめた。
あんなに呪ったのに。あんなに死ねと願ったのに。私がワタシへ放った呪詛は私へ還ってきて、私を殺してくれると思ってた。だって、わかってた。こいつを出しているのは私。私の出したワタシが嬉しそうに微笑んでいるのは、私の体を乗っ取ってワタシとして生きるために私が欲しくて愛しそうなんだと思うから。なのに、なんで。まさか私を愛しいと思ってる?なんなの、何がしたいの、もうだめ、わからない、私はワタシがわからない。
気が付くと宿舎を飛び出して、海に走っていた。
もうわからないから。くるしいから。こんなのおわりにしたいから。
海に入って、なるべく沖に出ようと思った。でも、ワタシが悲しそうな顔でダメ、ダメ、と引っ張る。うるさい、離して。私はもう、楽になりたい。海の底で寝たいの。珊瑚みたいに、石になって海底にいたい。ワタシは好きにすればいい、私を止めないで。
気付くと私は急に深くなった場所で沈みかけていた。
ああ、キレイ…海を選んで良かった。ここでならよく眠れる。どこまで潜れるかしら…あら、意外と浅いのね、もう砂が見える。真っ白い砂に、波でたわめられた日の光がユラユラと模様を描いている水色の世界。
ここで眠れるなら、最高。
海底に、誰かいる。たくさん…たくさんの人が増えていく。同期の子、先生、ナニー…私の周りにいる人が、たくさん。…なんだ、こっちが本物の世界だったんじゃないの。やっぱりあんなのは悪い夢だったのよ。さあ、私も連れてって。
みんなに抱きとめられて、私は幸せだった。いろんな人から人へ、私はリレーのバトンみたいに受け渡しされていく。ふふ…歓迎してくれてるのかしら。そんな風に思っていたら…最後にワタシが現れて泣き笑いみたいな顔をして唇を動かした。
『イキテ』
ワタシに受け止められた私は、他の人たちにワタシごと持ち上げられて海上に顔を出した。いきなりもの凄い苦しみが私を襲う。飲みこんでしまった海水が、鼻からも口からも吐き出され、酸素を求める肺が悲鳴を上げる。ゲボ、ゴボ、とひどい音をさせて咽る私を、海中でずっと「彼ら」が支えていた。
ほとんど意識を失くした私を見て、「まるでたくさんの手によって海上に捧げられた供物のようだった」と、のちに救助してくれたナニーは言っていた。
***
それから私は必死に生きた。
彼らは私を水色の世界に連れて行ってくれる気がないようだから。だから…この苦しい世界で、私はワタシの願い通り『イキル』ことにした。そうしたら、いつか彼らは迎え入れてくれるかもしれないから。
あれから私の能力はレア・ユニークと認定され、暴走することもなく、便利で特殊な魔法として受け入れられた。ヴァイスで頼りにされることも嬉しい。後輩の女の子も懐いてくれて、とても楽しい。そうして大切にする人が増えれば、私がいつか水色の世界に行った時、それだけ人が増えていることだろう。
だけど、あれ以来一度もあの子だけは幻影として出すことはできなかった。現在の私は出すことができた。でも、私にイキテと言った、あの子だけが。
私はだんだん焦り始めていた。ヴァイスに来て、10年経つ。どんなにがんばっても、どんなに大事に皆を守っても、あの子だけが出せない。まだ、許されないんだろうか…まだ、私はイキテいないのだろうか…まだ、水色の世界に連れて行ってもらえないのだろうか…もう、苦しいのに。皆を守る”ハイデマリー”を生きるのは、苦しいのに。
そんな折、ニコルに出逢った。
無性にホッとする。無性に可愛い。この子が愛しくて、きっとそばにいられれば、この苦しい世界でも私は生きていけそうな、そんな気がするほど。そして少しだけ…ニコルの屈託のない愛情のこもった笑顔が、あの子に似ている、と思った。
ニコルが帰ってしまうと、無性に淋しい。
苦しい世界にもう一度置き去りにされたようで、虚無感さえ感じる。
これはまずいわね…と頭の隅で考えるけれど、今日ニコルに会ったらそんな警告もどこかにすっ飛んでしまった。でもある一瞬に「この子が帰ったら、またあの虚無感に襲われるのね…覚悟しておかないと」と思って素に戻ってしまったのがいけなかった。それがもとで、私はアロイスに捕まったのだから。