124 奇跡の確率 sideニコル
懐かしい、匂いがする。
愛しい、気配がする。
ここに居るはずのない彼のことを恋しがるのはやめて、相応しい自分になることを考えようって、今朝思ったばかりなのに。私は、気が狂ったのかもしれない。怒りに呑みこまれて、獣になってしまったから。愛しい人のことばかり考えて現実から逃亡する、浅ましい獣になってしまったのかもしれない。
気持ちのいい、手の感触までする。
バレッタを外し、髪を梳いてくれる優しい手。
どれだけ彼の感触に飢えてたんだろう。
こういうのって何て言うのかなあ、幻触?そんな言葉あったっけ…
「ニコル、来い」
…幻聴…
ああ、でも…抗えない。
これが気のふれた私の作った幻だったら、消えた後のダメージが怖いな…
そっと、顔を上げた。
嘘みたいに、本物そのもの…
?
まさか。でも。
「ヘルゲ…兄さん…ほんもの…?」
「ああ。迎えに来てやったぞ。来い」
『来い』
そう言っては、落ち込んだ私を食堂から連れ出したヘルゲ兄さんを思い出す。…これが例え幻覚でも。もう、何でもいい。会いたかった…死ぬほど会いたかった。
ヘルゲ兄さんに抱きつく。
あったかい…あんな、死んでもおかしくないような目にあったあの子を見たから。ヘルゲ兄さんが死んでしまったような気持ちになっていた。生きてる。ヘルゲ兄さんは、生きてるんだ。
「…じいさん、この盾は消せるか。ニコルは俺が連れて行く。もう心配ないぞ」
( 是 )
…なんで、君が言うこと聞くのかな?
さっき私のこと、“主”って言ってたのに。
ヒドいじゃない、という気持ちになって拗ねると、守護が答える。
( 昏い火と輝る水は主と同等の守護対象。同時に、主を共に守る守護者でもある。昏い火は主を傷つけない )
あ、そ…
なんか釈然としないけど。
でも…ヘルゲ兄さんの体温が心地いいから。
あんまりにも安心できるから。
今は、ドロドロに甘やかしてほしい。
*****
ヘルゲ兄さんは少しだけ歩くと、私をベッドにおろした。
…は?ベッド?あれ、ここアロイス兄さんの家の客間…
今、数歩しか歩いてないよね?
やっぱり幻覚かなぁ、コレ…
やだな、目が覚めた時のこと、覚悟しておかなきゃ…
カチリ、と音がするのでそっちを見ると、私のバレッタがそっとサイドテーブルに置かれていた。ベッドがギシリと揺れて、隣に腰を下ろしたヘルゲ兄さんが私の頬を拭う。
「…アロイスに連絡してくる。その後で飲み物も持ってきてやるから、横になってろ」
そう言うと、部屋を出て行った。
…随分長い幻覚だなぁ…
守護はやりすぎだと思うよ、いくら私の望みを叶えるのが存在意義だとしてもさ。覚めた後の衝撃を考えてよ…立ち直れなくなっちゃうじゃない。
( …主、我らにそんな機能はない。守護対象の主に、再起不能になるほどの衝撃を与えてどうするのだ )
…へ?幻覚じゃ、ない?あのヘルゲ兄さんは…本当に本物なの?
( 是 )
…
…
うぅぅっそおぉぉぉぉぉ!!
んなっ なんでヘルゲ兄さんがいるのっ
だっ だって、私マザーの施設にいたよ?
少ししか歩かなかった!
数歩でこのベッドまで来たっ!
( 昏い火は移動魔法を使ってここへ主を連れてきた )
い…移動…魔法…
例の、フィーネ姉さんが秘密裡に入手したっていう…
ああ、なるほど…すごいタイミングだった気がする…けど。
…あはは…
ほんと、すっごいタイミングだった。
いつも、そう。
私が「もうダメだー、心が折れるー」ってなると、スッと現れる。
なんなの、もう。
これって惚れない方がおかしくない?
あんな痛い思いをした直後とか。反則だよ。
実際に痛い思いしたのは、あの子だけど…
私は、叫んでただけだったけれど…
助けられた、かなあ?
もうあの子、泣かなくて済むかなあ?
( …通称“先祖返り”が今後生まれた場合、昏い火と同等の養育プログラムにかけられる可能性は83.33%あった。…主は、泣くはずだった子供を救っている )
えぇっ そんなに…可能性が高いの?
( 是 守護が生成されるのに要する期間は、生後約5か月が平均。生成前だと“心理層特殊体”と看破され、施術される。さらに、最初の施術で蘇生できずに死亡する確率は約75% )
な…じゃあ…もしかしてヘルゲ兄さん以前にも…いたの?海持ちの子が?その死亡率って…実際に死んだ子がいなきゃ、算出できない…よね?
( …是 昏い火以前に3名いた。主は奇跡的に難を逃れた。検査直後の生まれである主は、完全に我らを生成する時間を持てた。そして昏い火は…奇跡的に蘇生が成功した )
背筋がぞくぞくする。肌が粟立つ。私も、ヘルゲ兄さんと同じ…
ううん、きっと最初の施術で死んでた可能性が高いんだ…
私とヘルゲ兄さんが出会えたのは、ほんとに奇跡に近い確率だったんだ。
私が恋をした人は、九死に一生を得た人だったんだ。
大切にしよう、この恋を。
生きているうちに、ちゃんと伝えたい。
あの温かい体温が、間違いなく存在するうちに。
*****
いつの間にか、部屋にヘルゲ兄さんが来ていた。
…あぁ、嬉しいなあ…本物だ…
「…やっぱり夢じゃなかった。ヘルゲ兄さんだ」
「なんだ、夢だと思ってたのか」
「うん、だって…会いたくて仕方なくて、いつも夢に出てきてたから」
「そうか。ビットの盾を出したのは、憶えているか?」
…あ、ああ…守護のことね。
しまった…すっかり忘れてた、私あの養育室を破壊しちゃったんだった。
そういえば、私って…今朝と今では180度、精神状態が違う。
あんなに荒れ狂うような怒りの獣を内に秘めてたとは。
それに、非力で嘆いていたとか…うーん、急にあの“泥に沈んでた日々”が自分の黒歴史に変わった自覚が出てきた。たった昨日までのことなのに…現金だなあ。
「…うん。なんか、久しぶりに目が覚めたみたいな気分。半年か、もっと長く、暗い迷路を歩いてるみたいな気分だったから」
「そうか、それは寝過ぎたな、ニコル」
「あはは…ヘルゲ兄さんが、コンラート兄さんみたいな冗談言ってる」
「一緒にするな」
「あはは…ふふ…おっかしい…」
なんだか急に、ヘルゲ兄さんが愛しくてたまらなくなった。
冗談を言うなんて。
私を笑わせてくれるなんて。
ああ…ヘルゲ兄さんは、生きてここにいる…
「ヘルゲ兄さんに、会いたかった。ヘルゲ兄さんに、触りたかった。ヘルゲ兄さんが、好き。もう離れているのは、イヤだよ…」
するりと、言うことができた。
照れるとか、意地を張るとか…そんな無駄なこと、してるヒマないもん。
今、伝えたいことがあるの。
「…俺も、ニコルが好きだが。何で今さらそんなことを言うのかわからん…お前も、軍に来るんだろう?」
「あはは、そっか。ヘルゲ兄さんはそういうの取られちゃったからわかんないか」
そうだよね、そういう感情を抉り取られたんだもん…簡単に伝わったら世話ないよ。さて…どうやったらヘルゲ兄さんに伝わるか。これから大変だなあ、私。
なんか、いっぱいいろんなことがあって…さすがに疲れたかも。
もう少しだけ、ただの妹のフリして甘えていいよね?
私はヘルゲ兄さんに手を握ってもらって、久しぶりの幸せすぎる睡眠に落ちた。




