10 紅の祈り sideヘルゲ
「ヘルゲはさ、どうして『おじいちゃん』が他人に認識されなくてもいいって、思うんだ?」
ニコルがユッテたちと遊ぶので森に来れない、と言っていたある日。
それでもなんとなく習慣で森へ一緒に来ていたアロイスにそう問われて、俺は少し考えてしまった。
認識されなくてもいい、というより認識できるはずがないからだ。
しかもこれが「事実」だとわかってもらうには、俺のことをかなり深くまで話さざるを得なくなる。
それに、何もわからないなりにニコルを気にかけている優しいこの男を、俺がマザーに持っている警戒心や敵愾心に巻き込みたくなかった。
このアロイスという男は、対人スキルがほぼゼロに近い俺にも、幼くて自分の広大な心の内をうまく説明できないニコルにも、疎むことなく辛抱強く諦めずに話しかけてくる。
こんな人物とは、初めて接触した。周囲は皆、諦めたというのにな。
とにかく、アロイスは自分なりにニコルを理解しようと努力しているのがわかる。
そんな人物をどうして無碍にできるだろうか。
ならば、巻き込まないように細心の注意を払って、最大限の対応をするべきだ。
「ニコルだけの、『藁』だからだ」
がんばって考えたが、こんな謎かけみたいなことしか言えない俺が情けない。
どうしてかは言えない。だが、ニコルだけの命綱なんだ、とわかってくれればいいが…
「わ、藁?麦わら?…溺れるものは…ってやつの、藁?それとも帽子?いや、ストロー?」
「溺れる、だな」
アロイスはたくさんの連想した言葉を紡いで、俺が答えやすいように聞いてくる。
俺が1しか出力しないのに、足りない9を苦もなく差し出してくるアロイス。
まったく、俺はこの男にはかなわない。すごいやつだ。
「溺れるって、海でか?…っ、まさか男にってことはないだろうな!?まだ7歳なんだぞ!」
…訂正する。
すごいやつだが、ニコルかわいさに、たまに阿呆になるやつだ。
まあ、わからないでもない。ニコルはかわいいからな。
だいたい、男に溺れるってなんだ。
そんな男は俺がひねってたたいてかっさばいて本性暴いてニコルの目を覚まさせてやるから、そんな心配はまったくの杞憂だ。
だが、どうしたもんか。
ニコルが海に溺れるとか、変な心配をさせてもいかんしな。
軌道修正しなければ。
「修練だ」
「ん?」
「意識が広がりすぎて、溺れる」
こう言えば、わかってもらえるだろうか。
アロイスはニコルの心が広大だとは知らない。
でも「ニコルにとっては」溺れてしまう、そんな広さだから、命綱が必要なのだと。
ニコルには悪いが、ダイブが下手なのだ、くらいに思ってもらわないとな。
「ニコルは…そんなに深く潜ってるのか?最近、誰かが深淵を見たなんて話、聞いてないんだけど…」
「突き抜けるんじゃ、ない」
「え?」
「溺れるんだ」
ああ、アロイスは「突き抜ける」と解釈してしまったか。
違うんだ、アロイス。
俺たちみたいな「迷子」はな、突き抜けることさえできないんだよ。
俺たちにとっては、自分の心の中も深淵も大差ないんだ。
つかまって、戻ってこれなくなる恐怖を持てるのは、安全な場所を知っているからだろう?
俺たちはな、アロイス。
もうつかまっていて、ただ必死にもがいてるんだよ。
ただただ、「真の望み」に縋って、呑み込まれないように必死なだけなんだ。
俺は、いつのまにか何かに祈るようにアロイスをみつめていた。
自分でもどうしてかわからない。
わかってもらえるはずもないのに。
わかってもらえるだけの情報も差し出せないのに。
苦しい、のかもしれない。
またぽつりと並列思考がつぶやく。
…そうか、俺とニコルだけでは、きっと同じ痛みを共有するだけで救いがないのかもしれない。
いや、俺はニコルに救われたけれども。
じゃあ、ニコルは?
ニコルを救うのは誰なんだ?
俺はニコルを守る。
きっと、ニコルのことを守ってやれるが、「救う」なんてことが俺にできるのか?
もし、俺じゃない誰かがニコルを救えるなら、それはきっと目の前のこの男しかいない。
そんな気がする。アロイスなら、きっと…
「…ヘルゲ」
何か考え込んでいたらしいアロイスが、ふ、と浮上してきた。
俺を呼んだはいいが、何かが掴めそうで掴めない、というように少しもどかしげに見える。
ああ、そうだよな。
わからないよな…すまん、アロイス。
お前が悩まなければいけないのは俺が不甲斐ないせいだ。
「なんだ」
でも、それはアロイスのせいじゃない。この優しい男は一つも悪くないんだ。
「ニコルは、自分の願いに、溺れてるのか?」
ドクン
俺の心臓が、大きな音を立てた。