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箱庭の世界(後編)

「ミナギン!ひまわり!私を置いて二人で楽しむとは何ごとだ!」

「はい?」

「……うな?」

「どうしました?紅糸さん」

帰宅し一目散にゲームが置いてあるリビングへと駆けていった紬であったが、そこにあった光景は紬が予想していたものではなかった。

予想していた光景は蒼巳観凪とひまわりが仲良く二人でゲームをしている光景だったが、実際はひまわりが造花を作成しているのがリビングの現状であった。

「うな?うな?ミナギンは何処にいったのだ?」

「まだ帰宅されてませんよ。一緒に下校しなかったのですか?」

「だって私が起きたらもうミナギンはいなかったんだ」

「観凪さん、薄情ですね。それとも神隠しでしょうか?」

「神隠しなんてこの世にない!ちょっと怖いこと言うな!」

紬にとって神隠しとは怖いもののようだった。

蒼巳観凪はここにはいない。

……それでは何処にいったのか?という疑問を紬は考えていた時であった。

「紅糸さん」

「うな?何だ?ひまわり」

「とりあえず帰宅したんですから、ゲームやりませんか?」

「おぉ!やるか!ちょっとは反撃の法を考えてきたんだぞ」

「ふふふ、私が家で何もしていないと?」

「ま、まさか貴様ぁ!」

「その通り!造花作りをし始めたのはついさっきで、それまではゲームをしていたんです!」

「くっ、この引きこもりが。だが、負けるか!」

ここ何日か、この空間ではそればかりが繰り広げられていた。

そして今回もそれは同じであった。


ゲームを始めて二時間。陽はとうに落ち、辺りは暗くなり、つまりは夜になっていた。

そこで二人はようやくある事実にたどり着いた。

「……あの、観凪さん遅くありませんか?」

コントローラは握ったままにひまわりは言った。

「うな?そういえばミナギンは?」

熱くなりすぎた紬は蒼巳観凪のことなんてちっとも覚えていなかった。

ちっとも覚えていない上に、ちっとも気にしていなかった。

戦いに余裕があるひまわりだからこそその事実に気がつくことができたのである。

その余裕こそが、二人の勝敗を物語っていたりする。

「まだ帰宅していませんが」

「何でミナギンまだ帰宅していないんだ?それおかしくないか?」

「何でと言われましても、まだ帰宅していないからですけど……どうしてまだ帰宅していないのがおかしいのですか?確かに遅くはありますけど」

「だって、もう帰ったって聞いたんだ」

「え?」

「何か、よくミナギンに治療を受けている生徒から、ミナギンはもう帰ったって聞いたんだ。ミナギンは私にそう言伝してほしいと頼んだらしい」

「え、え?そうなるとおかしくないですか?」

ひまわりはコントローラを置いてうろたえ始めた。

オロオロと辺りを見回すのは、もしかしたら気づかないうちに蒼巳観凪が帰っているかもしれないという確認の動きであった。

「だって、観凪さん、まだ帰ってきていませんよ」

「そう。だからおかしいんだ。寄り道しているかもしれないが、それにしたって遅くないか?」

「いえ。それ以前におかしいですよ!だって観凪さんは紅糸さんに帰宅したって言伝を頼んだんですよね?」

「うな。そうだが?」

「普通なら確かにその間で寄り道をしていても何ら問題はありませんが、でも私たちは同棲しているんですよ?それでその言伝を頼むということは、先に家に帰るという意思表示になると思うんです」

「な、成るほど。そう言われればそうだな。だが……」

「観凪さんはまだ帰宅していない」

「うな。そこから導き出される結論は……ミナギンは何かの事件に巻き込まれたか」

「え、ええぇ!」

紬はおもむろに携帯電話を取り出した。

「ど、ど、ど、どうするんですか?」

ひまわりの動揺は最高潮に達していた。

オロオロ度数も過去最高だった。心なしか涙目にもなっていた。

「こういうときは、け、け、警察に言ったほうが」

「警察が何をしてくれる?」

「じゃ、じゃあ、『正義』に」

「軽く敵対しているから無理だ」

「でも、私が言えば……」

「そんなことよりミナギンと連絡が取れるかどうか確認するほうが先だ」

意外に紬は事を冷静に捉えていた。

蒼巳観凪のアドレスを検索し、そして通話ボタンを押して発信する。

紬は携帯電話を耳に当ててその反応を待った。

ひまわりはまだオロオロしながら、紬の反応を待っていた。

「ど、ど、どうですか?出ましたか?」

「……うな。電波が届かないか、電源が入っていないとの回答が返ってきたな」

「学校は電波が届くんですか?」

「届くな。ミナギンの携帯も届く」

「ということは学校にいない、ということでいいんでしょうか?」

「多分な。まあ電源を入れていないという可能性もあるのだが、現代人が携帯に電源を入れておかないなどということはないだろう」

「も、もしかすると誘拐されて、それで電源を消されているとか!」

ネガティブ思考が、それなりに真実に近い答えをたたき出していたりした。

「誘拐って、ミナギンを誘拐してどうするんだ?誰が?何の為に?」

「えっと、それは……」

「まあミナギンが現在どのような状況に置かれているかは非常に気になるが、そのようなことを気にかけている場合ではない。私たちは直ぐに行動に移さなければならない」

「行動って何をするんですか?」

紬は胸を張って、さも当然だと言わんばかりの調子で言った。

「何って、ミナギンのところに行くに決まっているだろう」

「え?」

「幸いにしてまだ死んでいないようだからな。さっさと行くに限るだろう?」

「あの、観凪さんの居場所、わかるんですか?」

ひまわりにはそれがわからなかった。

しかし紬はそれがわかるという。それは紬のほうが長く蒼巳観凪といたからなのだろうか、とひまわりは思った。

「あぁ、わかるぞ」

「何処にいるんですか?観凪さんは」

「そんなの知るか」

「ほえ!」

わかると言われたのに、次には突然知らないと言われ、ひまわりは素っ頓狂な声をあげてしまった。

「あ、あれ?紅糸さん……観凪さんの居場所、わかるんですよね?」

「勿論わかるぞ」

「あの。ど、何処にいるんですか?」

「知るか」

「はにゃ!」

もう一度同じ質問をしたところ、やはり同じような回答が返ってきた。

「あ、あの、ど、どうして何処にいるかわからないのに居場所がわかるんですか?」

「わかるからわかるんだが」

「そ、それって矛盾してないですか?」

「いや、矛盾してないが」

「だって、何処にいるかわかるのと居場所がわかるのって同じでしょ?」

「うな。同じじゃないぞ。質問の仕方が違ったじゃないか」

「どういうことですか?」

「ひまわりは最初、ミナギンの居場所がわかるかと聞いた。これは『はい』、『いいえ』の二択で答える質問だった。私はそれがわかるから『はい』と答えたのだ。でも次の質問は何処にいるのかと場所を訊ねるものだった。そんなものは知らないので、わたしは『知らん』と答えたんだ」

「???」

紬の説明を聞いても、ひまわりは理解が出来なかった。

「あの、全然わかりません」

だから素直にそう言った。

「うーな。言葉で言うよりも実際に見せたほうが早いか。丙種追跡能力『隠糸透華カクシイトトウカ』」

紬が小指を立てた。しばらくするとその小指に赤い糸が巻き付いているのが見えた。更にその糸は外へと伸びていた。

「この糸は特殊でな。私が見ようと思わない限り見ることは出来ないし、見せようとしなければ他人も見ることが出来ない。また具現化はしていない。だから壁とか窓とかは通り抜けることが出来るんだ」

「はぁ」

「んで、ミナギンの小指にもこれを括りつけている。具現化していないけどそういうことが可能なんだ。だからこの糸を辿っていけば必然的にミナギンのいるところにたどり着くということだ」

「あ!成るほど」

ひまわりは居場所がわかるが何処にいるかはわからないという紬の言葉を、ようやく理解した。

「ミナギンはこの先にいる。でもそれが何処だかは私は知らん。というか、そんなことどうでもいい。とりあえずミナギンのところに行かなくては、だな」

「はい!」

目的地はわからないが、目的は出来た。

蒼巳観凪がどういう状況に置かれているか、二人は知る由もない。そこに危険があるかどうかなどわかるはずも無い。

それでも、二人は全く迷うことなく行動に移った。



帰宅すると、部屋は赤く染まっていた。

床、壁、天井、ありとあらゆるものに赤が染み付いていた。

その部屋の中央には二つの死体と、一人の少女。

二つの死体は、バラバラにされ、しかもそのパーツが足りていなかった。僕はそれを冷静に観察した。異常な状況なのに、どうしてか冷静にその数を数えたのであった。

そして少女。赤く染まった少女。

彼女は僕を抜かせば、この部屋で唯一生きていた人間であった。

否、人間ではなかった。

何故なら彼女がこの惨劇を起こしたのだから。

人間はこんなことはしない。化物しかこんなことはしない。

だから、きっと、彼女は化物であった。

少女は二つの死体をただ、ひたすらに、***いた。

僕が帰宅したことなんて気づく様子もなく、ただひたすらに……

目を背けたい、しかし背けることなんて出来ない。

震える声で僕は『何をしているのか』と訊いた。

そこでようやく少女は僕の存在に気づいた。

少女がこちらを向く。

そうすることで、今まで見えなかった死体の一部分が僕の目に映った。それは顔だった。僕の、血の繋がっていない、だけどかけがえの無い二人の、顔だった。

気づいてはいたかもしれない。だけどわかりたくはなかった。

それがわかった瞬間に襲い掛かる吐き気。

僕はそれを抑えることなく、そのままそこに吐き出した。

喉元が熱い。目頭も熱い。鼻が痛い。

僕は、僕は泣いていた。

僕は両親が死んでしまったことが悲しかった。

最愛の人たちが死んだ、否殺されてしまった。目の前の少女に。

少女の口が動き、言葉が紡がれる。

それは僕の質問に対する回答だったと思う。

だけど僕の耳にそれは届かない。

何をしているかなどという質問は愚問であった。

そんなもの見ればわかる。この部屋の状況を見ればわかる。

だから僕が訊くべきことはそんなことじゃない。

嘔吐物が通った喉元は未だに熱を持っていた。だけど僕はそんなことも構わずに口をあき、『どうして、こんなことを?』と訊いた。

少女はまた口を動かし何かを言った。

でも、僕は覚えていない。

その内容を覚えていない。

僕が覚えているもの。それはそのとき見せた少女の嗤みであった。

狂気に染まった、少女の嗤みであった。


目が覚めると、そこは小さな世界だった。

小屋とそれに見合う小さな庭。その向こうは永遠に草原が続いているように見えるが、実際にはそれは壁に描かれた絵であった。

どうやら詩那さんがここからいなくなった後、テーブルに突っ伏して眠ってしまったらしい。

呼吸が荒い。汗もかいている。暑いわけではない。

嫌な夢を見たのだ。

昔の、過去の、災厄の夢。

それは僕が大切なものを失ったときの記憶だった。

瞳から雫がツーッと落ちる。涙だった。

あぁ僕は泣いていたんだ。

あのどうしようもない絶望。僕にとってあの時は世界の終わりを意味していたと思う。

あの先からは何も無い。

そう思っていた。

あの二人と、そして彼女といることが、僕にとって世界の全てであった。

それがあの日突然、壊れた。

子供が何も考えずに積み木を壊すように、僕はその動きに全く気づくことなく、その世界は壊されたのだった。

あの絶望を僕は生涯忘れることは無いだろう。

だから僕は……

なのに僕は……

「だ、大丈夫っすか?」

そこでようやく僕はこの空間に僕以外の人間がいることに気がついた。

詩那夜仲。この空間の製作者であった。

「凄い顔色悪いっすよ。どこか身体の調子でも悪いんっすか?」

僕は首を横に振って、『そうじゃない』と応えた。

軽い倦怠感はあるものの、それは身体の調子が悪いことが起因するものではなかった。

全てあの日の記憶が、僕をこうしているのだった。

「夢を見ていたんだ」

「夢?悪夢っすか?」

「あぁ、僕の両親が殺された時の夢だ」

「え?」

詩那さんが驚きの表情を作った。

しまった。詩那さんは僕の両親が殺されたことを知らなかったのだ。

というかこの話は、おそらく僕の周りでは識桜しか知らない話になっていた。

いや、もしかすると紅糸さんなどはその情報を仕入れているかもしれない。

だが、僕はいままでこうして誰かにそのことを喋ったことがなかったのだ。

そこまで深い位置に他人を入り込ませたくなかったから。

今のは完全なる失言だった。

寝ぼけていたから、更には見ていたのがあの時の悪夢であったから、それが口から出てしまったのだろう。

この話はこれで終いにしたかった。

しかし詩那さんはそれを許してはくれなかった。

「ご両親、亡くなられていたんすか?」

哀れむような顔でそう訊ねられた。

僕はそれに答えるつもりはなかった。

彼女のこの雰囲気。それは事件の表面だけを語ったところで納得はしてくれないものであった。

もっと、僕の、深いところまで入り込もうとする雰囲気。

僕はこの時初めて彼女に恐怖した。

あぁ、そうか。だから僕はこの空間がこんなにも居心地が悪いのだ。

詩那さんがあまりにもあいつにそっくりなものだから、僕はこの空間から早く出たいのだ。

「蒼巳君……何か辛いことや、悲しいこと、傷ついたことがあったらいって欲しいっす。私たちは、もうそんなものを気にする間柄じゃないんですから」

「……何でもない。昔の話だよ」

だからもうこれ以上語るつもりも無い。とは付け加えなかったけれど、それでこの話を打ち切った。

あぁ、昔のことを思い出したせいか気分が滅入る。

しかし今日はやけに昔のことを思い出すなぁ。

全ては二年前に終わってしまった、あの時の思い出。

突然の災厄によって終わらせられた、あの日々。

月日が経つごとにあの時の記憶はおぼろげになっていく。生きていくということはそういうことかもしれない。何かを捨てて、何かを得て、その繰り返し。

忘れたくは無いと思っても、確実に、記憶は風化していった。

……ちょっと感傷的になりすぎたかな?

あぁ!やめやめ。

今はそんなことを考えている場合じゃない。

とりあえず現状を把握しなくてはならない。

えっと、詩那さんがここに戻ってきたということは、彼女の移動は済んだのだろうか?

済んだということはこの世界の外はもう学校ではないのだろうか?

さりげなく訊いてみたいが、どう訊ねようか?

「……いつごろ戻ってきたの?」

あからさまな質問は控えて、とりあえず本筋から離れたところから攻めてみることにする。

「え?あ、五分前ぐらいっす」

「……起こしてくれればいいのに」

つまりあれか?僕は詩那さんに五分近い間、寝ている姿を見られていたというわけか?

それは非常に恥ずかしいことなのだけど。

「……うん?あれ?それなに?」

また、ようやく気がついたのだが、テーブルの上には二膳料理が用意されていた。

「あ、夕飯っす。自宅に戻ったんで適当に作ってみたっす」

「料理するんだ」

最近の子にしては珍しいと思う。

というか僕の周りに料理が出来そうな人間は識桜ぐらいしかいないような気がした。

紅糸さんは、わからないけどあの性格から判断すると出来ないだろう。ひまわりは、最近は僕の指導のおかげでなんとか出来るようになったけれど、初めのうちは全くの無知であった。

その面だけを見れば彼女はとても女の子らしかった。

いや、料理が出来るからといって女の子らしいとは限らないか。しかし何でだろうなぁ?料理が出来ると女の子らしいと思うのは男の性なのだろうか?脊髄反射的にそう思ってしまったのであった。

「一通りは出来るっすよ。大体毎日作っているっすから」

「毎日は凄いね」

「凄くないっすよ。しなければならないことっすから」

「家事を?」

「家の親、共働きっすから」

詩那さんの表情に初めて影が差した。

あぁ、そうか。それだったか。

僕はこれだけの会話で、この世界を形成する能力の成り立ちがわかった。

それでも僕はそれを確信するために、彼女の言葉を待った。

「小さい頃から帰ってきても誰もいなかったっすから、仕方が無く私が作らなければいけなかったんっす。別に両親が悪いわけじゃないっすよ。私の生活の為に働いてくれていることには感謝しているっす」

「……本当に?」

「えっ?」

「本当にそう思っているの?」

僕はどうするのが正しいのだろうか?

彼女に自分のことを正しく認識させることが正しいのだろうか?

……いや、そこまで深く踏み込む必要は無いか。

詩那さんは僕の深いところまで踏み込みたいと思っているようだけど、僕はそうじゃない。むしろ逆である。

彼女との付き合いはここがボーダーラインであった。

「いや、なんでもないよ。この夕飯頂いてもいいかな?」

「どうぞっす」

お腹は空いていたので、素直に彼女の好意を受けた。

それはここ数日ひまわりが作った料理とは比べ物にならないほど美味しかった。

けれどつまらない食卓だった。

やっぱり僕の居場所はここではない。



「ふと思ったんだが、これ役割間違ってないか?」

夜の闇を駆けながら紬はつぶやいた。

彼女たちが走るスピードは常人のそれとは比べ物にならなかった。

強化系能力のひまわりはもちろん、そうでない紬もである。

身体能力が高い、だけでは済まされないスピードだった。

万能具現化能力……しかしただ具現化するだけではないと、ひまわりは分析をした。

具現化したものに、プラスα能力をつけることが出来る。

そう考えなければ、紬の能力は説明がつかない。

人間を数キロメートル飛ばした『でっかいぱんち』。

存在しない糸で相手を追跡する『隠糸透華』。

そして今、人間ではありえない速度で移動している能力。それを使用する前、紬は靴を具現化し、そして履いていた。

おそらくそれが、紬の脚力を上げたのだろうとひまわりは推測した。

同時にひまわりは思う。

何故これほどの力を有しながら今まで表沙汰にならなかったのかと。

冷静に見て、紬の能力は世界脅威に匹敵するとひまわりは分析した。

それほどの力を、どうしてこれまで使わずにきたのか、使わずにこれたのか、それが疑問であった。

「うーなー。ひまわり?聞いているのか?」

「あ、ごめんなさい。何でしたっけ?」

考え事をしていたひまわりにその声は届いていなかった。

「うな!聞いてなかったとな!何だ、ひまわり、無視か?いじめか?私のこと嫌いなのか?」

「い、いえ!好きですよ」

「う、うな。面と向かって言われると恥ずかしいものがあるな」

何か妙な雰囲気が彼女たちに漂った。

周囲に人がいたのならば、彼女たちの周りに薔薇の花が見えたことだろう。

しかし生憎周囲に人影はなかった。そしていたとしても高速で移動する彼女たちを観測出来たかどうかは微妙なところであった。

「えっと、それで何の話ですか?」

妙な空気を打破すべく、ひまわりが訊ねた。

「うな。これって役割間違ってないか?と言ったんだ」

「役割?ですか?」

紬の言いたいことがいまいちわからないようで、ひまわりは可愛らしく首を傾げた。

「うな。いちいち可愛いな。ひまわりは」

「はい?」

「うな。なんでもない。だからな普通は攫われたり、助けられたりするのって女の子じゃないか?間違ってもミナギンのような青年じゃないと思うんだ」

「あ、成るほど」

ぽん、と手を叩くひまわり。

「助けられるのはヒロインと相場は決まっているのに、何であいつが助けられているんだ?何だ、あいつ実はヒロインだったのか?ピーチ姫の血をひいているのか?」

「確かに男性が助けられるっていうストーリーはあまりないですよね。あっても燃えないですよね。あ、でも私たちの中で考えると一番そういう役にあっているのってやっぱり観凪さんではないですか?」

紬はあごに手を当てて考え始めた。

戦闘力的には三人の中では蒼巳観凪が一番低いと考察できるだろう。

加えて僕っこである。

暴君である紬よりも、戦闘力が尋常ではないひまわりよりも、蒼巳観凪は攫われるのに適している人間であった。

「うな!そういえばそうだな!私たちの中では一番ピーチ姫だな!」

「一番ピーチ姫でしょう」

「でもそうなると、私たちって全くヒロインらしくないんだな。ちょっと反省したほうがいいのだろうか?反省してヒロインらしく振舞ったほうがいいのだろうか?」

「いえ、これも個性だと思って割り切りましょう」

人見知りで引きこもりの少女がダメな方向に割り切ってしまった。

「うな!じゃあ私もより一層暴君に磨きをかけよう」

蒼巳観凪の心労が増えるであろう決意をした少女がいた。

「紅糸さん。あとどれぐらいで観凪さんのところに着けそうとかわかりますか?」

「糸の長さからいって、あと少しだと思うぞ」

「……観凪さん。何処にいるんでしょうか?」

紬やひまわりは蒼巳観凪が事件に巻き込まれたと思っている。

思っているのだが、彼女たちが現在走っている場所は住宅街であった。

工場後や廃墟に閉じ込められているのでは、とか考えていた彼女たちはいささか納得がいかなかった。

「うな。事件に巻き込まれたと思ったが、ただ単に友達の家に行っただけだったのかもしれないなぁ」

「それだったら連絡がとれないのはおかしいです。観凪さんは優しいですから、そういう場合はきっと一報を入れてくれると思います」

「そうだな。いや、待て。もしかすると彼女のところに行ったのかもしれないぞ」

「えぇ!観凪さん、彼女いたんですか!?」

「うな?私がミナギンのことを調べた時にはいなかったはずだ。んで、最近もそんな様子はないからそれはないか」

「び、びっくりしました」

「やっぱり事件か」

「ですかね」

「しかし、こんな住宅街でか?ミナギンにいったい何があったんだろうな?」

「あの、観凪さんは生きてはいるんですよね?」

「あぁ、生体反応はあるな」

紬は糸からそれを読み取った。つくづく便利な糸であった。

「観凪さんは生きている。でも連絡は取れない。携帯電話も繋がらない。……もしかして観凪さん、監禁されているんじゃないですか?」

ひまわりが真実に近いところに到達した。

「ミナギンが監禁されている?何の為に?」

「それは、わかりませんけれど」

「ひまわり。あんまりネガティブに考えるな。もしかすると、本当にどうでもいい理由かもしれないんだぞ」

「どうでもいい理由」

「もしかすると、携帯はただの電池切れで、ミナギンは友達とゲームに夢中になって連絡を忘れているだけかもしれない」

「な、成るほど!」

しかし紬の間違った思考のせいで、真実とは遠いところに到達してしまった二人であった。

「うな?そんなことを言っているうちに着いたようだな」

「え?ここですか?」

それはなんでもない普通の二階建ての一軒家であった。

表札には『詩那』と彫られていた。



『箱庭』の世界には夜は来ない。

永遠に昼間で、永遠に晴天であった。

故に、というわけではないけれど、小屋には電気はひかれていない。そこまでは私の能力の範囲外なのだ。

だから、この世界にはテレビやゲームといった娯楽を提供するのは不可能であった。携帯ゲーム機であれば出来るのだけど。

この世界には娯楽が不足していた。

蒼巳君は口に出しては言わなかったけれど、退屈しているのは見てわかった。

何とかしなければならない。

私は蒼巳君に不自由をさせたくてこの世界に招待したわけではないのだ。

二人だけの楽しい世界を創れると思ったから、いつまでも寂しくない世界が創れると思ったから招待したのだ。

それなのに娯楽がないなんて話はない。

早急に対応しなくてはならない。

私は『箱庭』から出て、自分の家に何か娯楽になるようなものを探すことにした。

幸い漫画ならいくつかあった。

男の子が好みそうな漫画も少しは持っている。友達の女の子から進められた、やけに格好いい男の子ばかりが出てくる漫画だったけど、話自体は結構おもしろい。

だから今日はそれを読んでもらえば退屈しないでもらえるはずだ。

小説とかもいいかもしれない。

確か父さんの部屋に時代小説があったはずだ。

私は読んだことないから、内容がどんなものかはわからないけれど、やっぱりああいうものって男性は好むのではないかと思った。

でも本は意外に重いものだから、量が多くなるのなら回数を分けて運ばなければならない。

こんなことになるのなら、休日のうちに運んでおくべきだった。

まあいい。

まだ始まったばかりだし、時間はたくさんあるのだ。

急ぐ必要はない。

ゆっくりと、一緒に、時を刻んでいけばいい。

とりあえず、時代小説は後にして、漫画だけ『箱庭』に運ぼうとした時だった。

ピンポーン。

インターフォンが鳴った。

「え?」

私の部屋は二階だったが、それでもその音を聞き取ることが出来た。

ピンポーン。

こんな時間に誰?

ピンポーン。

父さん?母さん?

いや、それはない。家族だったらインターフォンなんて鳴らすことなく入ってくるはず。

ピンポーン。

それなら訪問販売とか?

でもこんな夜も遅い時間にそんなものが来るとも思えない。

どんな用件にせよこんな時間に訪ねてくる人なんて碌でもない人に決まっている。

私は居留守を決め込んだ。

ガチャ。

「は?」

ガチャって、今ガチャって音がしなかった?

あれって鍵が回った音じゃない?何年も聞いているから、間違えようがない。

やっぱり父さんか母さんが帰ってきたの?

いや、そんなわけがない。それならばあのインターフォンは何の為に鳴らしたというのか?

家族ならインターフォンを鳴らさない。

でも家族以外に鍵を開けることが出来る人物はいない。

嫌な予感がする。

とても嫌な予感がする。

空き巣とか、そういうのじゃなくて、何と言えばいいのだろうか?運命的に悪い予感がするのだ。

この来訪者は上げてはならない。

空き巣なんか以上に上げてはならない人物の気がするのだ。

階下で物音が聞こえる。

来訪者は勝手に侵入者になっているようであった。

そしてその声も聞き取れた。

「ま、まずいですよ、紅糸さん。勝手に上がったりなんてしたら」

「勝手にじゃない。ちゃんとインターフォン鳴らした。でも出なかったんだ。ミナギンここにいるのに出ないなんておかしいだろ?留守なわけがないんだ。ミナギンがここにいるのに留守を決め込むなんておかしな話なんだ」

!!

紅糸さん!?

この声は間違えようがない!蒼巳君のことをミナギンなんて呼ぶ人は他にはいない!

紅糸さん!紅糸さんが来た!

しかも蒼巳君を探しに!

どうして!?どうしてわかったの!?

「おぉーい!ミナギン!いるんだろぉ!返事しろ!」

「そんなに大きな声を出したら近所迷惑ですよ」

「うっさい!そんなこと気にしている場合か!ミナギン!出てこないなら、こっちから行くぞ!」

こっちから行く!?

紅糸さんは蒼巳君の居場所をわかっている?

『箱庭』の中にいるというのに蒼巳君の居場所がわかっている!?

だからここまでたどり着くことが出来た。

どうして、とか考えている場合じゃない!止めなくちゃ!

私たち二人の世界は誰にも侵させはしないんだから!

階段を駆ける音。間違いない。居場所がわかっているんだ。

でもどうやって?

私の計画は完璧だった。

完璧で何一つとして穴はなかったはずだ。

そうだ、完璧な計画だ。

紅糸さんにそれがばれているわけがない。

おそらく紅糸さんは当てずっぽうでここまでたどり着いただけなんだ。

偶然に偶然が重なって、ここまで来ることができただけなんだ。

だから先手を打てば、きっとこの障害は回避することが出来る。

私は、紅糸さんがこの部屋にたどり着く前に、この部屋から飛び出した。

そして階段を上ってくる紅糸さんと目が合った。

「うな!」

もう一人、その後ろからメイド服を着用した女性もいたが、そちらには見覚えはなかった。おそらく同じ学校の生徒でもないと思う。

「……お前は」

「紅糸さん!な、何でこんなところにいるんすか!?」

今から何の現状も知らない人間を演じることにした。

私は何も知らない。蒼巳君の居場所なんて知らない。蒼巳君のその後なんて知らない。

「昇降口であったな。確か詩那さんだったな。お前こそなんでここにいるんだ」

「何でって、ここ私の家っす」

「あぁ、そうか。表札にもそう書かれていたな。まあそんなことはどうでもいい」

「どうでもいいって、何っすか?何の用なんすか?突然断りもなく上がってきて」

「ミナギンを出せ」

一点の曇りもなく、紅糸さんはそう言い放った。

ばれている?

いや、そんなことはない。

私の計画はどんなことがあろうとわかりっこないのだ。

「何のことっすか?私、蒼巳君は帰宅したって伝えたっすよね?」

「……そうか。成るほど。そういうことだったか」

私の言葉に納得したのか、紅糸さんはうんうんと頷いた。

「そういうことっす。ここには蒼巳君はいないっすよ」

「?何を勘違いしているんだ?私はようやくあの時おかしかったことに気がついただけだぞ」

「え?」

「昇降口でのことだ。あの時確かに下駄箱にはミナギンの上履きはなかった。外履きはあったがな。それなのにお前はミナギンは帰宅したといったな。やっぱりそれはおかしかったんだ。外履きがある状態で帰宅なんて普通の人間はするわけはないんだ。例え急いでいたとしても、外履きを履くのは習慣のようなものだから忘れるわけがない。だからあの時は強引に納得してしまったけど、矛盾はあったんだ」

「え?あの……だ、だから、私は蒼巳君に言われたことを伝えただけっす」

というか、今頃になってそんなことに気づかれても。

「いいからミナギンを出せ」

「だから、蒼巳君はここにはいないっすよ」

「しらばっくれても無駄だぞ。ミナギンがその先の部屋にいることはわかっているんだからな」

「!!」

どうして!?

どうしてそのことを知っているの!?

お、落ち着くのよ。私。きっと紅糸さんは鎌かけているだけなんだ。

紅糸さんは何もわかっていない。

『箱庭』のことなんてわかるわけがない。

だから大丈夫。

部屋を見せてやればいいんだ。

そこに蒼巳君がいないことがわかれば紅糸さんは大人しく帰っていくことだろう。

「そんなに言うのなら、部屋見ればいいっす」

「あぁ、そうさせてもらうぞ」

傍若無人に階段を上り、紅糸さんは部屋に上がった。

私の部屋に、勿論蒼巳君はいなかった。

『箱庭』はそこにあったが、蒼巳君の姿は彼女たちには視認出来ない。

「うな?」

紅糸さんがきょろきょろと部屋を見回した。

そんなに見回したっていないのだから意味がない。

「どうっすか?これで満足っすか?」

「あ、紅糸さん。観凪さん、いませんよ」

紅糸さんの連れがオロオロとし始めた。

これはチャンスだ。

ここで強く二人に接すれば、もう彼女たちはここを出て行くしかないだろう。

「いないことはわかったっすよね!なら早くここから……」

「箱か」

その言葉に、私の時間は停止させられた。

紅糸さんの視線の先。

そこには『箱庭』があった。

そしてようやく私は間違いに気付いた。彼女をこの部屋に上げてはいけなかったのだ。

そもそもここまで到達したこと事態おかしな話であったのだ。

普通では考えられなかったのだ。

おそらく新たな能力を使って特定させたのだろう。

そしてそれはかなりピンポイントで蒼巳君の位置を特定できるものだったのだ。

「どうやらミナギンはその箱の中のようだな」

「え?えぇ?どういうことですか?」

「知るか。とりあえず箱を開けてみることにしよう」

紅糸さんが箱に近づこうとする。

私はその間に身体を割り込ませて、それを遮った。

「うな?どいてくれ。ミナギンを連れて帰るんだ」

「どうして……」

「うな?」

「どうしてあなたは、いつも、私の邪魔ばかりするっすか?」

「邪魔?私はお前の邪魔をした記憶はないぞ。今日が初対面だしな。それに邪魔をしているのはどちらかというとお前じゃないか?」

「完璧だったのに。私の計画は完璧で、これから素晴らしい世界が続くはずだったのに、どうして?どうしてっすか?」

「計画?」

「その箱の中の世界こそが理想郷なのに……二人で育む理想郷なのに……」

「うな。よくわからないが、箱の中で生活できる能力か。しかし、箱の中で生活していくことをミナギンは臨んだのか?」

「臨むとか関係ないっす!それが当然のことなんすから!」

「どうやらミナギンの意思はそこにはなさそうだな。と、なるとお前がミナギンを箱の中に監禁しているということか」

監禁?

紅糸さんは物騒な言葉を使う。

私が蒼巳君を監禁しているだって。それは違う。私は蒼巳君をあの世界に招待したんだ。そして蒼巳君はあの世界で永遠に暮らしていく。私と二人で。

いつでも蒼巳君に会える。寂しくなく素晴らしい世界。

「しかも能力を使ってか。『正義』が動いても何らおかしくはないことをやってみせているな。まあいい。ミナギンを返せば不問にしてやる。返せ」

「返さないっす!蒼巳君は私のものです!」

私のほうが長い間蒼巳君を見てきた!

私のほうが長い間蒼巳君と接してきた!

私のほうが強く蒼巳君のことを思っている!

それは絶対だ!絶対に私のほうが……

「それは違うな。ミナギンは……」

絶対に私のほうが蒼巳君のことを好きなのに!

「ミナギンはミナギンのものだ」

「え?」

「お前のものでも私のものでもない。それは酷く当然のことだが、ミナギンの行動は他ならぬミナギン自身が決めるんだ。だからミナギンがどうしてもその箱の中にいたいというのであれば、私はそれを止めはしない」

紅糸さんがそう言った。

これは機会だと私は思った。嘘でもいい。嘘でも、蒼巳君は箱の中にいたいと言っていたと告げれば、紅糸さんは引いてくれる。

私の計画は元に戻り、永遠に寂しくない世界が築けるんだ。

言うんだ!嘘でも!

私は口を、動かした。

でもそこから言葉は紡がれなかった。

どういうわけか、言えない。

それさえ言えば全て私の思惑通りになるというのに、言えない。

言葉が紡がれない理由。それは紅糸さんが素直だったから。

嘘を吐いてでもと思う反面、素直に語る紅糸さんに負けたくないと思う気持ちが強まった。嘘を吐いて逃げることは負けだと思ったのだ。

負けたくない。この人には負けたくない。

私の意識は完全に紅糸さんに向いていた。

「しかしミナギンの意思がそこにないというのなら」

瞬間紅糸さんから鋭く恐ろしい気配を感じ取った。

その気配の名を私は知らない。

知らないけど、それによって汗が大量に流れ出た。

「力づくでもミナギンを連れて帰らせてもらう」

紅糸さんの迫力は同年代のそれとは遙かに凌駕していた。

身体が震える。恐怖によってだと思う。

私はそれを必死に押さえつけて目の前の化物と対峙する。

絶対に負けない!思いだけなら絶対に負けない!

思いのたけをぶつけてやるんだ!

「私は、私は」

「うな?」

「私は蒼巳君のことが好きっす!」

「うな!」

「紅糸さんよりも、絶対に誰よりも蒼巳君のことが好きっす!愛しているっす!だから、だから、これ以上私の邪魔をするなっす!」

「好きだからって何をしてもいいわけじゃないだろ!」

私は、絶対に論破できない会心の宣言を言い放ったというのに、紅糸さんはそれを難なく論破してきた。

「お前、人の話聞いてたか!?聞いてないだろ!?私は言ったはずだぞ。ミナギンの行動は他ならぬミナギンが決めると。たとえお前がミナギンのことを好きだろうが、ミナギンの行動をお前が決めちゃいけないんだ。いい加減わかれ!あと、お前より私のほうがミナギンのこと好きだがな」

初めの部分は正論で打ちひしがれていた私であったけど、後半にどうしても無視できない言葉が入りカチンときた。

「そんなことないっす!私の方が蒼巳君のこと好きっす!」

「いいや。私の方が好きだな」

「私っす」

「私だ」

「私っす!」

「私だ!」

紅糸さんとの言い合いで、私はすっかり周りが見えなくなっていた。



箱の中に入るときはどこかの扉と箱の中の扉を連結させて入る。また出る時もその連結した扉から出る。

詩那さんは先程この箱に入った時どうやら自分の部屋の扉に連結させたらしく、僕が出たところもそこであった。

んで、出てみたら詩那さんの他に紅糸さんとひまわりまでいたりした。

しかも紅糸さんは何やら詩那さんともめていた。

二人とも『私のほうが!』と言い合っていた。正直意味がわからない。

一人傍観者でいたひまわりだけが僕の存在に気づいた。

「あれ、観凪さん?箱の中にいたんじゃないんですか?」

「いたんだけどね。僕にも逆らえないものがあるんだよ」

格好良くいったけど、トイレに行きたかっただけだったりする。

だって、あの世界トイレないんだもん。そんな世界にずっと住めるわけないじゃないか。

というわけで勝手に出てきた。

本当はもう少し機を見てから出ようと思ったのだけれど、そうこう言ってられない状況に陥ったのだ。

ようするに限界だった。

僕だって人間なのだから生理的欲求に勝つことなど不可能なのだ。

「そういうわけだから、ちょっと席を外す。でもまあ直ぐに戻ってくるから」

「はい。わかりました」

僕は階段を降りてトイレを探した。

洗面所が直ぐに見つかったため、それを見つけることは容易だった。

急いで生理的欲求を開放する。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………はぁ。

生きているって素晴らしいな。

さて、状況も落ち着いたところで、落ち着いていない上の状況を確かめなければならない。

本音を言えばこのまま帰りたいのだけれど、生憎僕の履いているものは上履きであるし、それに紅糸さんはこのまま放置していてはいけない気がした。

……いや、紅糸さんだけではないか。

詩那さんも、このままにしていてはいけない。

そもそも詩那さんのことに関してだって、次に顔を合わせたときに決着をつけると決めていたんだ。

これ以上は先延ばしには出来ない。

だから階段を登る足は非常に重かったが、僕は二階へと向かった。

そしてやっぱり真っ先に出会ったのはひまわりだった。

「おかえりなさい。用は済みましたか?」

「あぁ、済んだ」

「それでは質問して良いですか?疑問があるんで」

首を傾げながら可愛らしく聞いてくるひまわり。

ぐわ!だからその仕草はやめてくれ。反則だ。そんなの断れっこない。

「な、何?」

「どうして観凪さんここにいるんですか?あの彼女の物言いだと観凪さんは箱の中から出れないみたいでしたけど?」

「まあ、確かにあの中の世界は彼女の許可なしでは出ることは出来ないけど、僕の能力を使えば出れないことはない」

それは詩那さんがこの世界を出たときから気づいていた。

気づいていて、それでも今まで箱の中の世界から出なかったのは、先程も言ったとおり機を窺っていたからだ。

もっともトイレに行きたくてそれは台無しになったが。

「能力、ですか?どうやったんですか?」

「それはおいおい話すよ。どうせ詩那さんに聞かれると思うしね。そんなことよりも、僕は逆にひまわりに問いたいよ。この状況は何だ?」

何で紅糸さんとひまわりがここにいて、しかも紅糸さんに限っては詩那さんともめているのだろうか?

そして『私のほうが!』って、何をもめているのだろうか?

「えっと、ですね。とりあえず観凪さんがいつまで経っても帰ってこないので、捜索をしてみたんです」

「凄いピンポイントで場所がわかったね!」

「紅糸さんの能力です。観凪さんを追跡できるらしいですよ」

「はぁ。つまり僕を助けに来たというわけか」

「結果的にそうなりましたね」

「ピーチ姫だね。僕」

「ピーチ姫ですね」

おそらく普通は逆なのだろうけど、僕らの関係ではそれが妥当である気がした。

「さて……」

聞きたくはないが、聞かねばならないだろう。

「ひまわり、あれは何だ?」

僕は彼女たちを指差した。未だに例の言葉を言い合っている。いったいそれを何回言ったのだろうか?

「紅糸さんと、詩那さんです」

「いや、まあ、そうなんだけどさ。そういうことを聞きたいんじゃなくて、どうしてあのような状況に陥っているのさ?」

「お互いに譲れないことがあるようです」

「……ああ、そうなの」

その譲れないことが非常に気になるのだけれど、それを聞くことはやぶへびだと思ったのでやめた。

「私も加わりたかったのですが、やめておきました」

「ひまわりが空気を読んだ!?」

ここでひまわりがあの乱戦の中に参加したら、更に収拾がつかないことになっていただろう。ひまわりはそのことがわかったのだ。

これは凄い進歩だ。

何故だろうか?そのことがとても嬉しい。

明日は赤飯にしようかな?

「空気を読む?よくわかりませんが、詩那さんとは初対面だったのであまり接したくなかっただけですが」

「ただの人見知りだった!」

ひまわりに期待した僕がバカだった。

というか何を期待していたんだろうか?

わかっていたことじゃないか。ひまわりが空気を読めない子だって。

それは前回、嫌というほど教えられたじゃないか。

それなのに期待してしまって、学習しろよ。僕。

僕はため息をついて、そして紅糸さんと詩那さんの言い争いの様子を窺った。

未だに同じワードを繰り返していた。

「不毛だね」

「不毛ですね」

「どれくらい言い合ってるの?」

「五分ぐらいでしょうか?」

五分も言い合っていて動きが全くないって、二人とも凄い気力だ。

あとどれくらい続くのだろうと、しばらく見守っていると詩那さんが疲れたのか、言葉をとめて荒く息をつき始めた。

詩那さんは体型が小さいからな。いくら運動部に所属しているからといって、体力では紅糸さんが有利だったのだ。

そしてその隙を見逃す紅糸さんではなかった。

「うな。もう終わりか?ならばミナギンを返してもらうぞ」

いや、僕ここにいるし、それに返すって僕はモノか何かか?

紅糸さんは箱に一歩近づいた。僕がまだそこにいると思っているらしい。

どれだけ周りが見えていないのだろうか?

「ち、近づくなっす!」

詩那さんがそれを止めに入った。

どうやらこの人も周りがまったく見えていないご様子であった。

「そ、それ以上近づくと、この箱を破壊するっすよ!」

「うな!」

詩那さんは箱を手に取り、そしてそれに力を込める仕草をした。

「ま、まさかその箱を壊すとミナギンが?」

「そ、そう!た、助からないっすよ!」

「うなんだと!」

ちょっと待って。今のはなんだろうか?

『うなんだと!』と言っていたような気がする。そんな変化があるだろうか?

突っ込みたいなぁ。

でもそんなこと考えている場合じゃないしなぁ。

今の詩那さんの言動。

あれは明らかに虚言であった。

詩那さんにあの箱を壊すことは出来ない。そういう能力なのだ。

僕はその能力をほぼ理解したからわかる。そしてその当事者である詩那さんもそのことをわかっているはずであった。

詩那さんは嘘を吐いたのだ。

「蒼巳君を助けたければ、私の邪魔はするなっす!でないと、私、やるっすからね!」

自分の計画を遂行するために、嘘を吐いたのだった。

でも僕、その箱の中にはいないんだけど。

詩那さんの要求に対して、紅糸さんは……

「乙種対人能力『でっかいパンチ』」

何故か臨戦態勢に入っていた!

ここは普通、たじろいでどうするか悩んだりするところではないのだろうか?

詩那さんの話を聞いていないのか?聞いていないような気がした。

「あ、あなた人の話聞いているっすか!?蒼巳君、助からなくなりますよ!」

あ、当然のことかもしれないけれど、詩那さんもそのことについて疑問に思ったようだ。

「うな?聞いているぞ。お前その箱壊すんだろ?そうするとミナギンが大変なんだろ?」

割と正しく話を理解している紅糸さんだった。

それなのに具現化をやめない紅糸さん。

「わ、わかっているのならどうして?」

「どうして?そんなことは簡単だ。私は一度決めた信念は曲げはしない。ミナギンを取り返すったら取り返すんだ」

そうだった。紅糸さんは迷わない人であった。

そしてその選択はいつもとんでもない方向にいったりするのだ。

「あと、何かお前の言うことに従うのは腹立たしいから反抗したいんだ」

「本音はそこか!」

いけない!

紅糸さんを止めないと、本当に詩那さんを攻撃してしまうかもしれない。

傍観を決め込んでいた僕だけど、流石にそれは止めなくてはならない。

詩那さんは強化系の能力者でないのだから、紅糸さんの『でっかいパンチ』を喰らったらひとたまりもないだろう。

「紅糸さん!やめて!それは詩那さんが死んじゃうよ!」

「うな!止めてくれるな、ミナギン!ミナギンを助けるために必要なことなんだ!」

「いや、とりあえず二人とも落ち着いて!」

「あ、蒼巳君が何と言おうと、ふ、二人で築く世界を侵させはしないっす!」

「だから!落ち着け!現状をしっかりと把握しろ!」

「うな!うるさいぞミナギン!…………うな?」

「蒼巳君は黙っていてください!…………蒼巳君?」

二人の注意がようやくこちらに向いた。

「うな!ミナギンがここにいるぞ!何でだ!?」

「蒼巳君が何でここにいるっすか!?」

「本当に二人とも周りが見えていなかったんだね。ある意味凄いよ」

「うな!そんなことよりどうしてこんなところにいるんだ!捕まっていたんじゃないのか?」

「まあ確かにあの箱の世界に閉じ込められてはいたんだけど、ちょっと限界が来ていたから自力で出てきた」

「ミナギン自力で出れたのか!?」

「うん。まあ」

「ならさっさと出て帰ってこい!こちらは心配したじゃないか!」

「こちらにも少し事情があったんだよ」

「そんな事情知るか!」

怒られた。

僕はきっと悪くないのに、紅糸さんに怒られた。

でも僕はそれを甘んじて受けた。

何故なら紅糸さんが笑顔であったから。僕のことを心配していたのは本当のようで、無事がわかったとたん笑顔を見せてくれたのだ。

だから、まあ怒られてもいいかと思った。

断じてMではないので悪しからず。

「嘘だ」

俯きながら、詩那さんが言った。

あぁ、そうだ。問題は紅糸さんなんかじゃない。

詩那さんこそが、詩那さんをどうするかが今回一番の問題なのだ。

「出られるわけがない。私の『箱庭』は完璧だ。誰もあの世界から出ることは出来ない。出来ないのに」

信じられないことがおき、混乱しているのかいつもの口癖はなかった。

「どうやって出たの?」

「答えは簡単だよ。それが僕の能力だから」

「違う。蒼巳君の能力は傷を治す能力だ。空間を出る能力じゃない」

「その認識が誤っているんだよ」

そう、僕は自分の能力を正しく他人に教えていない。

学校の生徒には傷を治す能力だと簡単に説明しているだけだ。

だから詩那さんは勘違いした。

僕の能力が傷を治す能力であると。

だけど実際に傷を治している僕の能力は『時観』と『時戻』だ。

時観で過去の状態を視認し、時戻でその状態までに戻す。

そうやって僕は傷を治している。そうやって僕はモノを直している。

しかしそれは治すだけ以外にも使い道はあるのである。

僕はあの時、扉が開いた状態の過去を視認し、その状態まで戻したのだ。

「実際の僕の能力は、あの世界から出ることが出来る能力だった。それだけだよ」

詳しく詩那さんに説明するつもりはなかった。

何故ならそれは意味のないことだから。

彼女との関わりはもうすぐ終わる。

次の問答をもって、それは終わりを迎える。

「さて、君の目指した世界を終わらせようか」

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