箱庭の世界(前編)
『忘れるといい』と彼女は言った。
『それは出来ない』と僕は言った。
『忘れれば傷は出来ない』と彼女は言った。
『忘れることは罪だ』と僕は言った。
『覚えていることは罰だ』と彼女は言った。
『覚えていなければこの世界はなかったことになる』と僕は言った。
『それでいいじゃないか』と彼女は言った。
『それじゃ、いやだ』と僕は言った。
『僕らが目指した世界とは究極的にそれだったじゃないか』と彼女は言った。
『……』僕はそれに対して何も言うことが出来なかった。
『互いの関係が希薄になり……互いに傷つくことがなくなる世界。一人で世界を完結させること。それが僕ら……いや僕が目指した世界だった』と彼女は続けた。
『……』僕はやはりそれに対して何も言うことが出来なかった。
『傷つくのは嫌なんだ』と彼女は言った。
『傷つけたつもりはない』と僕は言った。
『傷つけるのも嫌なんだ』と彼女は言った。
『傷ついたつもりもない』と僕は言った。
『だから、僕のことは忘れるんだ』と彼女は言った。
『……忘れたくない』と僕は言った。
彼女は最期に僕に笑って、言った。
『僕だって、忘れてほしくはない』
保健室には相も変わらず、僕一人だけだった。
今日も怪我人は一人も来ない。平和な世の中だった。
平和で、僕に何の仕事もないから、僕は先程の識桜の言葉を思い出していた。
『笑顔でいることが、多くなったよ』
そう彼女は僕に言った。
あの頃を知っている彼女が、僕にそう言った。
僕はあの頃に戻っているのだろうか?
大好きな人たちが存在し、毎日が人生で一番楽しい日々だと誇れて言うことが出来たあの頃に、戻っているのだろうか?
それは良いことなのだろうか?悪いことなのだろうか?
良いことだと識桜は言うだろう。
しかし、僕はどうだろうか?
あの時と同じ思いをするというのなら、あの時と同じ目に会うというのなら、僕は……
僕は、どうするのだろうか?
がらら、と保健室の扉が開いた。
必然的に僕は思考を止めざるおえなくなった。
紅糸さんかと思ったが、そうではなかった。
現れたのは、よく治療に来るバレー部の女の子だった。
名前は知らない。
「失礼します」と彼女は言いながら扉を閉めた。
再び、がららという音が保健室に響き渡る。
「また怪我をしたの?」
彼女が怪我をする部位はほとんどが足だ。自分の限界を考えずに飛ぶものだから直ぐに怪我をしてしまうのだ。
僕は彼女の足を視るが、痛んでいる様子はなかった。
「?違うみたいだね」
「今日の用件はそれじゃないっす」
「そういえば最近はあまりここに訪れることもなかったね。もしかして怪我をしないコツでも掴んだの?」
言った後に後悔。何だ、怪我をしないコツって。
そんなものがあるのならば僕は用無しだろう。
まあ、それこそが世界の正しい姿なのだろうけど。
「いえ。そうじゃないっす」
「だよね」
やっぱりそんなことはなかった。
「ちょっと風邪をこじらせてしまって、学校を休んでいたっす」
「へぇ、大変だったね」
「蒼巳君は……いえ何でもないです」
「?」
目の前の彼女の様子がいつもと違うように僕は感じたが、しかしながら僕はそれほど彼女のことを知っているわけではないのでこれも彼女の一面なのだろうということでまとめた。
「蒼巳君。あの紅糸さんのことなんですけど」
「うん?紅糸さんがどうかしたの?」
「…………あの、紅糸さんが蒼巳君を呼んでいたっすよ」
「え?本当に?」
紅糸さん、目が覚めたのか。
でもおかしいな。識桜に言伝を頼んだのだから、紅糸さんは僕なんて呼ぶことなくここに来ればいいだけなのに。
識桜たち、意外と早くに談笑を終えて帰ってしまったのだろうか?
それなら仕方がないけれど。
「仕方がない。今日はこれで終わらせて紅糸さんを迎えにいくか」
「……それがいいっすよ」
僕は立ち上がって、そして彼女に訊いた。
「それで紅糸さんは何処にいるって?」
「え?」
「いや、場所。紅糸さんは何処で僕を待っているって言ってたの?」
「えっと」
まさか紅糸さん、場所を言い忘れたのか?
紅糸さんならそれは大いにありうることなのだけれど。
いや、待て。おかしい。
何かが絶対的におかしい。
でも何だ?何がおかしいんだ?僕にはそれがわからない。
「あ、教室で待っているって言ってたような気がするっす」
「ふーん。わかった」
違和感の正体。
結局、僕はそれを明らかにしないまま保健室を後にした。
保健室の扉を開けて、廊下に。
出なかった。
保健室の扉の先に廊下があるのは当然のことなのに、それがなかった。
僕の眼前に広がった光景。
それは小さな庭と、そしてそれに見合う小屋だった。
僕の背後で扉が閉まる音が聞こえた。
先程の引き戸の音ではない。
ぎー、というノブがついているドアの閉まる音であると僕は聞き取った。
そして、がちゃんと扉は閉まった。
僕は振り返った。
彼女は笑っていた。否、嗤っていた。
そして現状についていけない僕に向かって、彼女はその嗤いを隠すことなく、言った。
「ようこそ。私の『箱庭』へ」
「ぅなぁ。ぅなぁ。クリフト、ザラキを自重しろ。お前はスクルト要員なんだからなぁ。勘違いするなぁ。うな!命を大事に、にしてるのにザラキ撃つな!くっ!ドラクエⅣのCPUはポンコツかっ!って、うな?」
「あ、紅糸さん起きましたね」
目が覚めた紅糸紬に識桜桃花は近づいていった。
その理由は勿論、蒼巳観凪の言伝を伝えるためだ。
「ぅなぁ。何だか理不尽な夢を見ていた気がするなぁ。意味もなく、緑色の神官を殴りたいなぁ」
「あの、紅糸さん」
「でもあいつ、メタル系の装備をフルで装備できるからなぁ。それにスカラで防御力をありえないほど強化出来るし、殴るとこっちの拳を潰されるかもしれない。うな、私の乙種対人能力『でっかいパンチ』ならダメージを与えられるだろうか?微妙だな。天空の装備よりも強いからな、メタル系装備」
「あの、紅糸さん」
「うな?」
そこでようやく紬は近づいてきた識桜の存在に気がついた。
「おはようございます。紅糸さん」
「うな。おはよう。えっと、確か識桜桃花、さんだったか?」
「うん。そうだよ。えへへ、覚えていてくれたんだ?」
「うな。それはそうだ。世界征服のためには人一人ひとりを覚えていることが重要なのだ?」
「世界征服?」
識桜は可愛らしく首を傾げたが、やがてその単語を聞かなかったことと無理矢理自分の脳に認識をさせた。
「うな。ところで、今は夕方だから『おはよう』はおかしいのではないか?」
「え?でも、紅糸さんさっきまでお眠りしていたんだから、『おはよう』なんだけど」
「うな、成るほどなぁ。そういうことか。納得いった」
「それで紅糸さん。蒼巳君から言伝があるんだけど」
「うな、ミナギンから?」
紬は首を横に振って、周囲を見回した。
「うな!ミナギンがいない!さてはあいつ、先に帰ってゲームの修行をする気だな!ひまわりに稽古をつけてもらって、私をあの中で一番弱くする気だな!そうはさせるか!」
「ふふふ、やっぱり。紅糸さん、変わったね」
「うな?」
「蒼巳君と付き合うようになって、紅糸さん変わったよ」
「うな?そうなのか?」
紬は首を傾げた。
自分自身、どこがどう変わったのかわからなかった。
そこは蒼巳観凪と同じであった。
「私、紅糸さんはちょっと怖い人だって思ってたんだ」
「うな?今は怖くないのか?」
「うん。今は楽しい人だって思ってるよ」
「ほうな。よくわかっているではないか。私は楽しい人間だ」
「ふふふ、やっぱり楽しい人だ」
識桜は口に手を当てて、少し上品に笑った。
「ねえ、紅糸さん」
「うな?」
「紅糸さんは蒼巳君のこと、どう思ってるの?」
「うな。ツッコミのプロだな」
「へ?」
「ミナギンのツッコミは、私を引き立ててくれる。ミナギンがいるから私のボケは輝くことが出来るのだ」
「いえ、そういうのじゃなくて、好きとか嫌いとかで」
「うな?好きだぞ」
あっけらかんとそう答える紬。
その言葉が発せられると、識桜の背後が騒ぎ出した。
『きゃー』とか『でもお似合い』とかそんな声が紬に聞こえてきたが、紬はその意味がよくわからなかった。
よくわからなかったので、スルーした。
「好きだと、何かあるのか?」
「ううん。別に何もないんだけど。ねえ紅糸さん。紅糸さんは蒼巳君のことをどれぐらい知っているかな?」
「知っていることもあるが、知らないこともあるというのが現状だな」
「それじゃあ、蒼巳君が今一人で暮らしているっていうことは知っている?」
「うな?今は三人だぞ……って今の無し!知ってる!ミナギン今一人で暮らしてるんだ。きっと寂しいだろうな!ミナギン!」
紬及び橙灘ひまわりと蒼巳観凪が一緒に暮らしていることは秘密にするようにと、紬は何回も釘を刺されていた。
それが功を奏して、ぎりぎりのところでそれを思い出した紬だった。
「どうして一人で暮らしているのかも、知っているかな?」
「一応は、な」
蒼巳観凪から直接その情報を聞いたわけではない。
紬が蒼巳観凪のことを調べた時に知った情報であった。
蒼巳観凪は十二の頃に、蒼巳夫妻に引き取られた。
その前の名は蒼巳観凪ではなく、蒼巳観凪とは蒼巳夫妻から付けられた名であった。
蒼巳夫妻は蒼巳観凪が十四の時に亡くなった。
寿命などではない。
殺人だった。
当時十四だった蒼巳観凪が帰宅すると、そこにいたのは一人の殺人鬼と、二つの、蒼巳夫妻の死体だった。
何故、蒼巳観凪が殺人鬼と出会ったのに生きているのか?
その理由についてはわかっていない。
わかっていないが、その日蒼巳夫妻は殺され、蒼巳観凪は一人になった。
一人で暮らしていくことになった。
そういう情報を、紬は得ていた。
「蒼巳夫妻が亡くなった後、蒼巳君は変わった」
「……どう変わったのだ?」
「傍目には何も変わらなかったよ。でもそれが異常だった」
「うな?」
「血は繋がっていないとはいえ自分の両親が殺されたのに、いつもどおり接しようとしたんだよ。それは異常な光景だったよ。変わらずに、いつもどおりに、でも着々と蒼巳君は動いた。誰にもわからないように、着々と。でも確実に、彼は親友を減らしていった。その兆候はあったんだ。両親が亡くなって、蒼巳君の友人も彼に近づきにくくなっていたの。そして蒼巳君に親友と呼べる人間がいなくなり、また彼は親友を作らなくなった」
「……ミナギン。怖くなったのだな」
「うん。そうだね。きっとそう。蒼巳君は大事な人を失うことを恐れていたんだと思う。恐れて、そしてそれを失わないように自ら親友を遠ざけて、更には作らないことで失うことを防いでいたの。でもそれはきっと、とても悲しい選択だった。正しいかもしれないけれど、悲しい選択だった」
「……」
「それからはずっとあの蒼巳君だった。八方美人で誰にでも優しくて、でもある一線は必ず踏み込ませない。それが、今までの蒼巳君だった」
「うな?今まで?」
「紅糸さんが蒼巳君と接して変わったように、蒼巳君も紅糸さんと接するようになって変わったんだよ。きっとね、紅糸さんは蒼巳君の大事な人になっていると思うよ」
「うな。そうか。私にとってもミナギンは大事な人だ」
その言葉は自然と出た。
それは好きあう感情から発せられたものではないが、相手を思いやる気持ちがあるからこそ発せられたものであった。
「よかったぁ。そう言ってもらえて」
識桜は笑みを浮かべた。
それは安堵の笑みであった。
長年見てきた蒼巳観凪の氷はようやく解けたのだと、ここで初めてそう思えたのだった。
「……うな。しかし一つだけ納得いかないことがあるな」
「え?」
「ミナギンの選択についてだ。まったく大事な人を作らないことの何が正しい選択だ。人は一人では生きていけないのだぞ」
「……それほど」
「だから!」
識桜の言葉を最後まで待たずに、紬は続けた。
「大事な人を作ることが正しい選択だったと思わせてやる。ミナギンが選択した答えが間違っていたとわからせてやるぞ」
紬はそう言って、いたずらを思いついた子供のように笑った。
識桜はその言葉にきょとんとしていたが、やがて優しい笑みを浮かべた。
「やっぱり、紅糸さんは楽しい人だね」
「うな。私は楽しい人間だぞ」
「それに、素敵な人だよ。紅糸さん……蒼巳君をお願いね」
「うな。任せておけ」
紬は走って教室を出て行った。
蒼巳観凪の所に向かうために。
「ふふふ、いい感じの二人だなぁ。いつまでも……仲良くいてほしいなぁ」
「あの他人の幸せを見て、さらに幸せになるのはいいんだけどさ。識桜、いいの?」
識桜が紬との会話を終えたことを確認すると、桔梗は識桜に近づいた。
「ふえ?何が?」
「言伝、言伝。蒼巳君からの言伝」
「コトヅテ?」
首を傾げる識桜。しかししばらくして思い出したかのように「あっ!」という声をあげた。
「わ、忘れてたよ!ど、どうしよう!」
「紅糸さん。凄いスピードだったね。運動神経すごく良いから、あの走りも納得だわ」
「わ、私追いかけるよ!追いかけて伝えてくるよ!」
「……あの、今なんで私が紅糸さんの運動神経の良さをわざわざ提言したのかわかる?識桜には無理。勿論、私にも無理。っていうかこの学校には紅糸さんに追いつける人間は存在しないと私は思うわね」
「そ、そんなぁ」
シュンとうなだれる識桜。
自分には言伝も出来ないのかと、酷く落ち込んでいる様子である。
「はぁ。識桜は考え方が何で原始的なのかなぁ。私たちにはアレがあるじゃない」
「アレ?」
「ちゃららちゃっららー。携帯電話」
桔梗はそれを取り出し、携帯電話を高らかに上げた。
「おぉ!」
「これならいくら紅糸さんが早く移動したって連絡がつくでしょ?」
「凄い、凄い!きっちゃんは天才だね!」
きっちゃんとは桔梗の愛称であった。親しい人はそう呼ぶのだ。
「イエーイ!」
得意気にピースサインを作る桔梗だった。
「それで、メールと電話どちらで連絡するの?」
「電話のほうがいいんじゃない?緊急を要するし」
「そうだね。そうしよう」
「……」
「……」
「識桜。早く電話しなよ」
「え?私?だって私、紅糸さんの電話番号知らないし…………え?もしかしてきっちゃん」
「当然私も知らないわ」
頓挫した二人だった。
打つ手が無くなった二人が出した回答は、『まあ大したことないか。あの二人仲がいいんだし、きっと蒼巳君が保健室にいるって知っているはずだよね。うんきっと知っているよ』という無理矢理に楽観的に物事を考えることであった。
「おかしいとは思ったんだ。紅糸さんはこの学校では孤高と呼ばれるほどに他人と接しない。識桜は、僕と接したことで紅糸さんは変わったというけれど、しかしそれにしたっておかしかったんだ。紅糸さんが他人に言伝を頼むわけが無い。それが別のクラスメイトで知らない人間なら尚更だ。他人に言伝を頼むぐらいなら、自ら動いて探す。そう、あの時、最後に君を治した時のように自分から動くのが紅糸さんなんだ。そして君が紅糸さんから待っている場所を聞いていないというのもおかしな話だった。いや、紅糸さんはかなりそういうのを忘れる人間ではあるけれど、しかし君もそれについて何も聞かなかったというのはやはりおかしな話だ。二人もいればどちらかが気づくはずだ。それなのにそれがなかった。そして提示された情報はかなり曖昧なものだった。今回の言伝で一番重要な部分は場所であるにもかかわらず、それが曖昧だなんておかしいにもほどがあった。以上のことから、君は嘘をついていたと僕は推測する。紅糸さんが呼んでいたのは嘘。場所ももちろん嘘だったというわけだ」
「と、今更そんな誇らしげに語られても後の祭りなんすけど」
「ごめんなさい。惨めに策に嵌ってしまった僕にも少しだけ格好がいいところをアピールしたかったんです」
そう僕は彼女の策に嵌ってしまった。
彼女がどうしてこのようなことをしたのかはまだ聞いていないものの、しかしこの空間が能力によるものだということは視てわかった。
そしてこの能力が意図すべきことも理解した。
これは閉じ込める能力だ。
空間を作り出し、彼女の許可なしには出口の扉を開けることが出来ない。そのような作りになっているようだ。
空間に入る条件は彼女が繋いだ扉を開けること。
開けて入ってしまえば、それこそ後の祭り。
彼女以外はこの空間を出る術を持たないのだ。
つまり現状で僕はこの空間を出ることが出来なかった。
そういうわけでどうしようもないので、先程の違和感について考えて、ちょっとインテリっぽいところをアピールしてみたのであった。
でも結果は余計惨めになっただけだった。
この空間は小屋と庭で形成されていた。
緑の芝生が敷き詰められ、そして真っ白な小屋。
庭には二羽の鶏はいなかったが、しかし丸く白い小さなテーブルが一つ、そしてその周りに同じく白い椅子が二つ存在した。
僕と彼女はその椅子に座り対面しながら話していた。
「はぁ、それで君は誰なの?」
「え?あぁ、そうっすね。そういえば私の名前を言っていなかったっすね。詩那夜仲っす」
「詩那さん?」
「夜仲でいいっすよ」
「いや、僕は女性を下の名前で呼べるほどの勇気はないし」
しかも詩那さんはどう控えめに見てもサド属性を持っている人物である。
Sな人間を下の名前で呼ぶなど恐れ多い。
たとえ相手がそれを了承してくれようと、僕の中には自然と上下関係が出来上がっているのだった。
「ふふふ、そんなの意味ないっすけどね」
また詩那さんは嗤った。
うーん。これは長い間この空間に居続けるのはいささかきついかもしれない。
詩那さんの嗤いは、彼女にそっくりであった。
だから僕はこれ以上の戯れを終わりにしたかった。
「それで詩那さん。僕への用件は?」
「用件?」
首を傾げてわからないとの意思表示をする詩那さん。
は?わからない、だって?
それこそ意味がわからない。
用件もなしに僕をここに閉じ込めた意味がわからない。
もっとわかるように、剣呑に言ったほうがいいのかな?
でも詩那さん、少し怖いしなぁ。小さいけれど気が強いしなぁ。あぁ、無理。僕には無理です。強く言うなんて無理なんです。
「だからね、あの、どこの組織、または誰の差し金さ?」
紅糸さんのように、そして風雲さんのように、僕能力が目当てなのだろうと思った。
実は、紅糸さんから世界征服の誘いを受ける前から、いくつかの組織やまたは個人が僕を誘うことは何度かあった。
それだけ僕の能力は特殊だった。
ある一時を過ぎて勧誘はなくなったが、それがまたやってきたのだと思った。
しかし、またもや首を傾げてわからないとの意思表示をする詩那さん。
「組織とか用件とか、何を言ってるですか?蒼巳君が何を言っているのかよくわからないですよ」
「わからないって……それじゃあ何でこんなところに僕を閉じ込めてるのさ?」
理由無く僕をここに閉じ込めているというのか?
そんなわけがない。理由無く人がここまで動くわけが無いのだ。
「閉じ込めている?ふふふ、また蒼巳君がわけわからないことを言っているっすよ」
「わけがわからないって……現に僕はここから出ることは出来ない」
「ふふふ、出来ない?出来ないじゃないっすよ、蒼巳君」
「え?出来るの?」
おかしいなぁ。僕の見立てでは出来ないはずなのだが。
詩那さん、嘘ついているのか?
僕の能力は傷を治すことだと勘違いをしているから、そういうことが出来ないと思って騙そうとしているのかな?
しかし、そんな嘘に何の意味がある?
出来ると嘘をつき、僕がこの空間を出ようと四苦八苦するところを詩那さんはみたいのだろうか?
いやサドキャラの詩那さんではあるが、そのような陰湿なことをする人物ではないだろう。
では、何故そのような嘘を?
「閉じ込めている、出ることが出来る、出来ない……ふふふ。蒼巳君は少しずれているみたいすね?」
「僕が、ずれている?」
「この空間はですね、これから蒼巳君の世界になるっすよ」
「ここが、僕の世界に、なる?」
何を言っているんだ?彼女は?
理解できない。
言葉は日本語なのに、意味は全くもって理解が出来ない。
要領を得ない彼女の言葉。
しかし次の言葉をもって、僕はその意味を理解することになった。
「そう。ここで私とずっと、二人だけで暮らしていくっすよ」
彼女は嗤みを崩さぬまま、そう言った。
あぁ、これは、気付いてはいたが、気付きたくはなかった。
詩那さんの嗤みは、あの時見たものと同じ、狂気の嗤みであった。
さて、僕は詩那さんからこの閉じ込めている能力について何の説明も受けていないが、まあ僕はこの能力の大半を理解した。
中にいるだけだが、外の状況も把握した。
それだけ僕の能力は特殊だった。
この能力はまず詩那さんがこちらの扉と外の世界の扉を繋げることから始まる。これは詩那さんしか出来ない。今回繋げたのは、言うまでもないが保健室の扉であり、繋げられると一時的にこの『箱庭』という世界に入ることが出来る。
繋げられている間は出入りは自由である。
しかし一度彼女が鍵をかければ、そうはいかない。
そうなると、この『箱庭』という世界を出るには詩那さんの許可が必要となるのだ。そうしないと外の世界に繋がる扉が開かない。
そういう仕組みになっているようだ。
先程の段階で僕はこの空間を脱出することは不可能だった。
これが出入りの話。
次にこの能力の外からの観測についての話だ。
一見、この世界は外からは何処にもない世界のように思えるが、実は違う。
これは具現化された能力であり、この世界は外からの観測が可能であった。
外に出てこの能力を見たわけではないが、外からのこの世界を観測するとそれは箱のようなものであるようだ。
一辺10センチメートルにも満たない、立方体の箱。
それがこの世界の外見である。
普通に考えて、そんなところに人間が入れるわけがないのだが、それが新たな能力。
普通では考えられないことが普通に起こるのだ。
簡単に説明すると箱とその中に世界を形成し、こっちの扉とあっちの扉をつなげる。この箱の中の世界は小さいが、それは扉と扉の間にガリバートンネルみたいなものがあって、それで問題なくこの箱の世界に入れるというわけだ。
そしてこの箱は、扉を繋げている間はその扉の直ぐ側に置かなければならないようだ。
あの時は確認しなかったが、おそらく詩那さんはその箱を手にでも持っていたのだろう。
ここからが本題である。
この箱を外の世界で動かすには、物理的に動かしてやらなければならない。つまり手で持って、そして自らと共に移動させなければならないのだ。
詩那さんは自分の家に帰るため、一時的にこの空間から出て行った。
僕を閉じ込めておいて、自分は外の世界も大事にしたかったのだ。
ようするに僕は彼女にとってペットのようなものなのだろう。
さながらこの世界は檻のようなものなのだ。
さて、詩那さんがいないのだから僕は考えなければならない。
詩那さんが何故僕をこんなところに閉じ込めておくのか?ではない。
その理由はいくら僕が鈍感だとは言えわかった。彼女の口から直接語られたわけではないが、珍しく僕は察しがついた。とは言ってもあれだけあからさまに態度で示され、更にこんな待遇にされれば嫌でも気づく。
彼女が僕をここに閉じ込めておく理由。
それは僕のことを嫌っているからであろう。
うーん、初対面で嫌われてたことはなんとなくわかっていたけど、まさかここまでされるほど嫌われていたとは。
それなりに仲良くなれた気がしたのだけれど。それはどうやら僕の勘違いだったようだ。
要するに、僕のことが嫌いで嫌いで、嫌いだから、世界に存在して欲しくないからこんなところに閉じ込めておくのだろう。
そう、彼女の能力はそんな相手にうってつけなのだ。
何故なら彼女の許可なしではこの世界から出ることは出来ないのだから。
彼女の許可なしでは向こうの世界に関わることが出来ないのだから。
そこまでされる言われは僕には無いような気がするのだけど、まあ人間どこで恨みを買うかわかったものじゃない。
だから今は彼女がどうして僕を嫌ったか、何てどうでもいい。
酷くどうでもいい問題だ。
そして閉じ込められた理由も酷くどうでもいい。
まったくもって関係ない。
僕が考えなければならないもの。
現実逃避を行いながらも考えなければならないこと。
それは今後のことである。
この物語は始まったばかりの物語であるが、しかし僕にとっては同時に終わり始めた物語でもあった。
終わりの形は見えている。
僕が彼女に向ける感情は一つしかないのだから、その形は必然的に一つになる。
しかし終わりの形は見えているものの、まだピースは足りていない。
物語を終わらせるには、まだ圧倒的に何かが足りない。
僕は、もう一度彼女と対峙しなければならない。
対峙して、きちんと話をして、それから彼女にも結論を出してもらわなければならない。
その結論の結果は目に見えているが、しかしやらなければならない。
それをやらない限りは根本的な解決にはなりえないのだから。
「とは言うものの……」
詩那夜仲……
おそらく一筋縄でいく相手ではないだろう。
『時観』『時戻』。
この二つが僕の一般的に使用している能力であるが、更にもう一つ、彼女に対しては使用しなければならないだろう。
出来れば使用したくはない。
使用すれば僕はあの時のことを思い出さざるをえないだろうから。
だが、今日は一度その時のことを思い出している。
一度も二度も変わりはしない。
僕は意を決して、彼女が戻ってくるのを待った。
「うなぁ!ミナギンめ。私を置いて先に帰るだなんて、よっぽど昨日パーフェクトで負けたことが堪えたのだな。しかし!一朝一夕で何とかならないのがあのゲームの醍醐味なのだ!」
そう言いながら紬は急いでいた。
蒼巳観凪が現在一人で住んでいるのなら、そのようなことにならなかっただろう。
だが、今は家に橙灘ひまわりがいる。
ひまわりは紬を越えるゲームの達人であった。
そのひまわりが蒼巳観凪にあのゲームのコツのようなものを教えたら、もしかしたら自分は蒼巳観凪に負けるかもしれない。
そのようなどうでもいい思いが紬の足を動かしていた。
廊下は走ってはならないという校則はあるが、そんなものは勿論無視していた。
放課後のこの時間、それを咎めるものなどこの世界には存在しなかったのだ。
紬は驚くべきスピードで下駄箱まで到着した。
下駄箱に上履きを入れ、靴を取り出す。
そして靴を地に置き、それに足を入れようとしたところで、ふと紬は動きを止めた。
「うな。いや、待て。もしかしたら、ミナギンまだ学校に残っているかもしれないな」
蒼巳観凪が放課後、保健室で治療を行っていることは紬だけでなくこの学校の人間ならば誰でも知っているぐらい有名な話である。
紬は携帯電話を取り出し、今の時間を確認した。
「残っている可能性、あるな」
紬はそのままの格好で少し歩くと蒼巳観凪の下駄箱の前までたどり着いた。
そして躊躇いも無くそれを開けた。
「……うな?」
そこにあったのは外履きの靴。上履きはそこにはなかった。
「ということは?」
頭の回転が早いとはいえない紬でもそれが意図するものがわかった。
「ミナギンはまだ……」
「紅糸さん」
「うな?」
紬が自分の中で纏まった結論を口にしようとしたとき、声をかけられた。
女性の声であった。
声のほうに振り向いてみると、そこには見知らぬ女生徒が立っていた。
「誰だお前?」
相手に気を使うという言葉など知らない紬は単刀直入にそう訊いた。
「詩那夜仲っす。バレー部で、よく怪我して蒼巳君に治してもらっているっす」
「詩那、さん、か?その詩那さんが私に何か用か?」
声をかけたということは用があるということだろうと紬は推測した。更には蒼巳観凪の名を出したことから、その用とは蒼巳観凪関連であろうとも考えた。
「あのっすね、蒼巳君から言伝があるっすよ」
「うな?」
「どうかしたっすか?」
その言葉をついさっき紬は聞いたような気がした。
聞いたような気がしたのだが、言伝の内容を思い出せないことをみると気のせいなのだろうということで無理矢理自分を納得させた。
「うな。なんでもない。それで?ミナギンの言伝って何なんだ?」
「蒼巳君、今日は先に帰るって言ってたっす。それを紅糸さんに伝えて欲しいと頼まれたっす」
「ミナギンが先に帰る?うな、それはおかしいだろ?」
「え?」
詩那夜仲は面を食らったように驚いた顔をした。
「ど、どうしておかしいっすか?」
「うな?だってほら」
紬は蒼巳観凪の外履きを取り出して詩那夜仲に見せた。
「ミナギンの靴はまだここにある」
「あ」
「ということは、だ。ミナギンはまだ上履きを履いているということになる。ということは、だ。まだミナギンは学校にいるということになる。ということは、だ。お前の言っていることはおかしいということにならないか?」
「……あ、えっとっすね」
「うな……いや、ちょっと待て。そうはならないか。ちょっと早とちりしちゃったみたいだな。すまない」
「え?」
「ミナギンの靴がここにあるからって、ミナギンが学校にいるとは限らないな。あのミナギンのことだ。物凄い急いでいることがあったら、きっと上履きで外を歩いてしまうに違いない」
「そ、そうっすかね?」
そして紬は思い出した。
蒼巳観凪はきっとひまわりに格闘ゲームのコツを教えてもらっているのだという自論を。
そんな間違った解答を難なく導き出してしまうのであった。
「こんなことをしている場合じゃない!ミナギンめ!」
紬は急いで靴を履くと一目散に下駄箱を後にした。
破綻している自論が間違っていないと信じて。
結果、この紅糸紬の選択が、彼女たちが蒼巳観凪に到達するのに数時間の遅れを生じさせる原因となるのであったが、本人はそのことを知る由もなかったり。
危なかった。今のは危なかった。
紅糸さんの背中を見つめながら、私は必死に早鐘をあげる心臓を押さえ込もうとしていた。
大きく深呼吸をする。
それでもこの心臓はいつもの動きに戻ってくれなかった。
「……どうして」
どうして私は紅糸さんに声をかけてしまったのだろうか?
声をかけなくても良かったはずだ。
彼女に、紅糸さんに、嘘の情報を教えようが教えまいがどちらにせよ結果は変わらない。
変わらないはずだ。
それなのに、
それなのに私は紅糸さんに声をかけてしまった。
そして嘘をついた。
蒼巳君がもう帰宅していると。
吐かなくてもいい嘘を私は吐いたのだった。
どうして私はあのような行動に出てしまったのだろうか?
自分の心がわからないわけではなかった。
ただあれはかなりリスクが行動であったし、そしてそのリスクに見合うリターンは得られないものであった。
それでも、それでも私は紅糸さんに接触した。
私は知りたかったのだ。蒼巳君と好き合っているという紅糸さんがどのような人物か。
私の知っている紅糸さんの情報は、無口で誰とも話さない、ということぐらいであった。
そのどの部分に蒼巳君が惹かれたのかはわからない。
もしかすると私の知らないところに蒼巳君は惹かれたのかもしれない。
だから私は紅糸さんに声をかけようと思ったのだろう。
……という建前の理由を、今急遽作った。
本当の理由は、酷く醜いものであった。
そう、嫉妬したのだ。紅糸さんの姿を見ただけで、私は嫉妬の気持ちを隠せずにいたのだった。
蒼巳君の下駄箱の前に立つ紅糸さん。何をしているんだ、と思った。私の蒼巳君の下駄箱の前で何をしているんだと思った。
そう思ったら、止められなかった。
嘘を吐いてやりたかった。
もう、彼女は蒼巳君と出会うことはないのに、それなのに更に遠ざけてやりたかったのだ。
結果的にその思惑はうまくいった。
でも危なかった。
あと少しで私は墓穴を掘るところだっただろう。
「……落ち着かなきゃ」
私は深呼吸を続ける。
そうすることで、段々と胸の鼓動はいつもどおりのリズムに戻っていく。
嫉妬や感情は行動を鈍らせ、曇らせる。
大丈夫。私の計画は完璧なのだ。
誰にも気付かれることはない。私はこの能力を誰にも喋っていないのだから、蒼巳君が私の『箱庭』の世界にいるということは誰にも気付かれることはない。
この計画に穴はない。
だから、だから決して余計な行動を起こしてはならない。
この先何があろうと、私は余計なことをしないと心に決めた。
余計なことをしなければうまくいくのだ。
私と蒼巳君。
二人の世界は永遠に続くことが出来るのだ。




