閑話 騒動の後で
間が空きまして、大変申し訳ありません。
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では、第2部最後の閑話となります。
お楽しみいただければ幸いです。
宵闇の中にぽっかりと浮かぶ満月。
月明かりと規則的に設置された灯りの魔導具によって照らされた、王城の鍛錬場。
無人であるはずのそこには、空気を切り裂くような鋭利な音と、規則的な呼吸音だけが響いている。
縦に、横に、斜めに。
まるでそこに見えない敵がいるかのように、鋭い殺気を纏わせながら剣が空中を裂いていく。
しかし、一心不乱に繰り返されていたその剣舞は、不意に投げられたタオルによって終わりを迎える。
「…っ!…ウィル。」
「僕に気付かないくらい集中しているなんて、キールにしては珍しいね。」
反射的に剣を持っていない左手でそのタオルを掴んだキールは、振り返った先にいたウィルクスを驚いたように見つめ、そんなキールの様子に薄く微笑みながら、その手に持っている水筒を掲げてみせた。
「飲むかい?」
「…ああ、貰うよ。ありがとう。」
滴り落ちてきた汗を拭い、手渡した水筒に口を付けて喉を潤し始めたキールを見るともなしに見つめて、ウィルクスは静かに口を開く。
「――心は静まった?」
その言葉に水を飲むのを止め、鞘に納めた愛剣の柄に手をおいたキールは、瞼を伏せて緩く首を横に振った。
「…どう、なんだろうな。静まったかと思えば、また騒ぐ。…怒りの感情とは、ここまで御し難いものなのだな。」
呟くようなキールの言葉に、ウィルクスは頷きも返さずに言葉を紡ぐ。
「それでもその怒りを“あの方”に悟らせなかったことは、幸いだったと思うよ。…あの時のキールは、彼女を殺しかねなかったからね。」
そう口にしたウィルクスの脳裏に浮かぶのは、今日の龍妃の間での光景。
その令嬢が起こした傲慢で自己中心的な騒動を、雷龍エドガーが施した不可視の魔術越しに、気づかれぬように息を潜めて見つめていた中で、すぐ傍にいたウィルクスと、そして騎士団長であるヴェリウス、同僚でもあるアンナレーナは、キールの異変を瞬時に感じ取っていた。
その身から漏れ出す濃密な殺気、いつも冷静なその眼差しに浮かぶ怒気、“あの方”から下賜され、大切に扱っている愛剣の柄を掴むその手にはどれだけの力が込められているのか、白く変化した手のひらは今にもその鞘から剣を抜き放ち、令嬢の命を無慈悲に刈り取りそうで。
けれどそれほどの憤怒の感情を向けながら、その激情を抑えつけているのは、一騎士として、そして騎士達の上に立つ総隊長としての誇りと矜持であるのは間違いなく。
何よりウィルクスは、個人として“あの方”を想う淡い恋慕が、その激情を阻みながらも煽っているのだとも理解していた。
「…あんなに苛烈な感情が込み上げたのは、初めてだった。今でも御しきれたことが奇跡のように思える。…サーナ様には、本当に気付かれなかったのだろうか。」
「心配ないと思うよ。翠月殿……いや、翠月殿だけではなくあの場にいたサーナ様の護人殿達が、君から溢れ出た殺気を、サーナ様には気取られないようにしていたようだから。彼らはきっとサーナ様に、そうした感情に触れて欲しくないんだろうね。」
「…俺とてそうだ。サーナ様には、どんな負の感情も極力知って欲しくない。…あの方が、これ以上心を煩う必要などないのだから。」
ぽっかりと浮かぶ満月を見上げ、呟くようにそう言ったキールの横顔は、1人の男のそれで。
もう戻れないまでに想いを深めてしまった幼なじみの姿に、それでもウィルクスはそれを口にしたりは決してしなかった。
「――今日は帰ろう、キール。明日からは事後処理に忙しい。…今日の二の舞にならないように、他の貴族の洗い出しをしなければね。」
「…ああ、そうだな。愚か者にはそれ相応の対応をしなくては。」
静かな口調で言葉を返したキールの表情に浮かぶその酷薄さは、今までキールが持っていた廉直さなどかき消していて。
七公家――フォンディール公爵家に生まれ、病弱ながら頭脳明晰な嫡男から次期当主となるように望まれ、そんな兄に応えようと励んできたキールが、唯一割り切れず持てなかったもの。
当主としての冷酷さと、キールとしての清廉さ。
表と裏の表情を持てなかったキールが、今日の出来事を経てそれを無意識に手に入れている。
そのことにウィルクスは、友としては悲しみ、けれど同じく七公家に生まれてきた者としては喜びや嬉しさと、相反する複雑な思いを抱えながら、鍛錬場を後にした。
*
「――戻ったようだね。」
背後から感じた気配に、シンシアナは閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
夜の帳も深まった今、軍務塔の最奥にある執務室には、今はシンシアナ以外の姿はなく、彼女はただゆったりとした革張りの執務椅子に腰掛けている。
瞑想していた思考を切り替え、背後に声をかければ、その人物は楽しげな口調で切り出した。
『お主の一族の長となる者は不思議だのう。その“感覚”は、たとえ『見えざる者』の我とて誤魔化せぬのだから。』
「私自身よりこの“感覚”の正体を知っていて、そんなことを言うのか、貴方は。――これは、『誓い』なのだよ。初代ガルブレイスが身命を賭して成した誓い。『その時』がくるまで、我らガルブレイスに連なる者が決してその『意志』を忘れぬようにと、ね。」
『…義に厚い者であったからな、あの娘は。余程赦せなかったのであろうの…自身の弟の行いが。』
シンシアナの言葉にその人物は中空を見つめながら、何かを思い起こすような口調で呟いた。
その言葉に込められた憤怒も、憐憫も哀愁もない交ぜにしたそれは、遙か遙か遠い時を思い起こすようなもので。
それをこの世界に生きる人間の中で、ただ1人理解しているシンシアナは、ふっと吐息を漏らしてから話題を変えた。
「…それで、様子はどうだった?」
『不審な様子はないの。誰かに操られた形跡もない。…あの娘自身の嫉妬による凶行であるのに、間違いはないだろうて。』
「そうかい…」
『やはり予兆ではなかったの。“長”がまだ目覚めておらぬこの時に、“闇”がこの世界に入り込める余地はまだない筈であるからの。』
「まだ…“あれ”は気付いてはいないということかい?」
『その通り。“長”が目覚めぬ限り、“堕ちた者”がこの世界の出来事に気付くことはない。結界はそのためにあり、我ら“見えざる者”は歯車の一つに過ぎぬよ。』
「……」
『“姫”の枷は、『創世を見届けた四柱』であり、“主”よりも優れた資質を持っておられる。既に“姫”は“扉”の前に立たれた。後は“鍵”を開けるだけ――それを四柱が許すかどうか、それだけだの。』
そう呟いた彼の瞳から、一滴の涙が流れた。
万感の思いが溢れだし、けれどその胸中は決して喜びだけではなかった。
『“主”よ…漸く貴女の想いを叶えてくれるやもしれぬ者が現れましたぞ。…けれど我は、“主”でもある“姫”を想うと、苦しくなるのです。我らは貴女のため、この道を選びながら…』
瞼を伏せながらそう呟いてから暫し、彼はその場に立ち竦んだまま動くことはなかった。
けれどその瞼が開かれた時、その瞳には一切の憂いも映ってはいなかった。
『――そろそろ参るかの。シンシアナよ、我の代わりに“赤”が来る。次の調査はあの娘に任せよ。』
「貴女はどうされる?戻られるのかね?」
『…戻らぬよ。我らは“主”の願いを叶えるため、“見えざる者”としての存在から逸脱した者。“長”以外、お主しか今は存在することを知らぬ、影。――時が来るまで、我らの在り方は変わらぬよ。』
感情が一切窺えない平坦な口調でそう返した彼は、宵闇に溶け込むようにその姿を消した。
また一人きりになった執務室で、シンシアナは立ち上がり開けていた窓に近寄ると、ゆっくりと窓を閉める。
冷たくも穏やかな風に頬を撫でられてから、シンシアナは振り返り、執務卓の上に存在する“それ”を見つめ、呟いた。
「貴方の行いが、“かの方”の存在をこの世界より消し去り、長きに渡りこの世界の在り方を歪めたまま、貴方は今も狂った“想い”を抱き続け固執している。私は…“ガルブレイス”は、必ず貴方を殺してみせる。どれだけの時がかかろうと、必ず。――エヴァン・モルクスサーゼ、“闇”になど、何も奪わせはしない。」
シンシアナの誓いとも言えるその言葉を聞き取る者は、誰もいない。
ただその視線の先で、月明かりに照らされた二つの“伝想珠”が、その存在を主張するかのように鎮座していた。
まるでいずれ訪れる対峙の時を、シンシアナに伝えようとするかのように。
まだ一部の者しか知らないルシェラザルトの真実が、ゆっくりと知らされる時を告げるように、迫ってきていた。
お送りしました、騒動の後で。
複数視点での閑話は初めてのような気がしないでもないですが、今回のこの閑話にて色々な謎を新たに明らかにしています。
明言は避けさせていただきたいので触れませんが、シンシアナにしろ彼にしろ、第3部の鍵を握る人物達です。
いよいよ、核心に迫って参ります。
ゆっくりとした執筆になってしまいそうですが、お待ちいただければ幸いです。




