なつなと浴衣
から…ころ、から…ころ。
彼女が歩く度に木が織りなす涼やかな音が、白王宮内に響き渡る。
その聞き慣れない、しかしどこか惹きつけられる音に、見えざる者達も興味を持ったように聞き入っている。
光に透ける硝子細工は、宝石とはまた違った輝きと色合いで、漆黒の髪を彩る。
そのなんともいえないあどけない妖艶さを纏う彼女は、とても楽しそうで、嬉しそうで。
この日、ルシェラザルトで初めて、異世界独自の衣装を身に纏うなつなの姿が、見られることとなる。
*
それは、私とレイの誕生日の朝まで遡る。
その日の朝も、目覚めた私はシェリアさんと共に、夜着から着替えるために自室へと戻っていた。
するとその時、自室のテーブルに見慣れない大きな2つの籐籠を見つけ、私は不思議に思いなシェリアさんに尋ねた。
「シェリアさん、あの籐籠は?」
「はい?…あら、なんでしょう。見慣れない作りの籠ですわね。」
「え…シェリアさんが用意したんじゃ?」
「いえ、わたくしは何も…。昨夜も、このような籠はありませんでしたし…」
そう言って首を傾げながらも、半身の居室に突如として存在するその籠を見つめ、怪訝な表情で私の前に立ち、シェリアさんが私を背に庇いながら距離を取ろうとした時、耳に囁かれた声に私はシェリアさんを止めた。
「シェリアさん、待って。」
「…なつな様?」
「翠月が、何か知ってるみたい…」
そう告げてから、いつものようにいつのまにか傍にいて、柔らかな微笑みを浮かべて自分を見つめている翠月に問いかけた。
「翠月、あの籠は誰がここに?」
『はい。あれは神界の長から届けられた、我が君への生誕を祝う贈り物ですよ』
「!え…、大神様…?」
その予想外の相手に私が驚きの声を漏らすと、それまで私の背後で意味深な微笑みを浮かべていたシオンが、私の肩に軽やかに着地して、その尻尾で私の頬を撫でる。
“キミへの贈り物だ。見に行ってごらん”
意味深な微笑みを浮かべたまま、そう促すシオンを肩に乗せたまま、私はテーブルへと近づく。
すると瞳に映ったその籠の中身に、私ははっとした表情で駆け寄り、その中身を確かめた瞬間、次々に込み上げてくる想いにどうすればいいか分からないまま、ただ浮かぶ涙を拭うことも出来ずに、籠の前に座り込んだ。
浮かぶのは、優しい笑顔と。
自分に語りかける、穏やかな声。
籐籠の中身は、私が大学を卒業して就職後、初めてのお給料で仕立てた浴衣と。
成人式のために、両親が誂えてくれた――たった一度しか袖を通していない振袖だった。
*
私がその浴衣を仕立てたのは、就職した会社のすぐ側にあった呉服店に、仕事が終わった後にたまたま足を運んだのがきっかけだった。
昔ながらのお店の佇まいと、店先のガラス窓から窺える華やかさに引き寄せられ、お店に入れば色とりどりの着物や小物に魅せられて。
幾度も足を運んでいる間に店主の奥さんと仲良くなり、初夏も近づいた頃に浴衣を仕立ててみないかと提案されて。
それまでの私はバイト代も貯める一方で、大きな買い物なんてしたことがなかった。
だから奥さんからの提案に、驚きながらもすんなりと、私は頷いてしまった。
その時にはもう、色鮮やかな生地達に魅せられていたから。
濃紫の生地に、色とりどりの菊や牡丹が描かれ、その中を黒蝶が優雅に舞う。
黄緑色に薄く白いラインが入った帯は、着てみた時に独特の色味を感じて、意外な組み合わせに驚いた。
簪も小物も、浴衣に合わせて、全部気に入って買ったもの。
長く着られるように、良い物をとこだわったそれは、仕立て上がったその夏から、私のお気に入りだった。
そして、この振袖は。
両親が成人式を迎える私のために、一から誂えてくれたもの。
柔らかな白い生地に、色鮮やかな牡丹に毬。
黄緑色の帯には、銀糸で全体的に細やかな刺繍が施されている。
牡丹と鞠の柄を選んだのは、母だった。
成人する娘の、これからの『幸福』を祈り、この先の人生の『お守り』になればいいと。
きっと、父も母も気づいていたのだ。
私が、両親と兄との間に一線を引いていたことを。
どこか他人行儀な娘に、問い正すことも距離を取ることもなく、いつも穏やかに優しく、まるで包み込むように受け入れてくれていた。
成人して、そのことに安堵するように自分達から距離を取ろうとする娘に、せめてもの手向けになればいいと。
『自分達はいつでも、娘の味方である』。
そんな両親の想いが、この振袖には込められていただろうから。
成人式のあの日、振袖を見に纏った私を見て、嬉しそうに頷いた母と、泣き笑いの表情で眩しそうに私を見つめる父と兄を見て。
私は、そのことを思い知ったのだ。
だからこそ、成人式が終わってから大切にしまわれていたそれを、私は一人暮らしを始めた家に、持ってきてしまったのだから。
どうしても、実家に置き去りにすることが出来なかったのだ。
「これ、どうして…」
この世界に来ると決めた時、その思い出だけを胸に、元いた世界に切り捨ててきたもの。
それが今、自分の目の前にある。
まるで夢のようで、信じられない思いで振袖を見つめて浴衣を撫でながら、呟くように声を漏らした私に答えてくれたのは、シオンだった。
“僕となつなが出会えたあの日――大神様もなつなを知った。キミがどんな生活をして、何を考え、何を好み、生きてきたのか”
「……」
“…その浴衣と振袖は、あの方からの心ばかりの贈り物だよ。キミがこの世界に戻るために切り捨てようとしたものは、キミがとても大切にしていたものだ。だからこそ境界でなつなの望みを受け入れても、大神様は今日この日にキミを祝うために何かをしたかったんだろう。――大神様はなつなを、とても愛していらっしゃるからね”
まるで私を慰めるように、尻尾で頬を撫でるシオンの言葉を聞きながら、私は震える指を伸ばして振袖を持ち上げて、皺にならないように気をつけながら、抱き締める。
込み上げる色々な想いに、胸がいっぱいになりながら。
(大神様…ずっと、ずっと大切にします。ありがとうございます…)
伝えたいことはたくさんあったけれど、言葉にならなかった。
ただただ心の中に、優しげな金色の瞳を持つ、大神様の姿を思い浮かべて、お礼を伝えることしか出来なかった。
◇◇◇◇◇
生誕祭の翌日、私が袖を通したのは、その浴衣だった。
どうしても着たくなって、昨日の内に衣装部屋の奥で、籐籠に一緒に入っていた浴衣用のハンガーに掛け、虫干しをしておいた。
振袖は、皺にならないように大切にしまってある。
あの後シェリアさんが、保護の魔術をかけてくれたのだ。
一年ぶりの着付けは、着方を思い出しながらになった。
それでも仕立ててから、何度も着付けた癖は忘れていなかったようで、自分の姿を鏡で見た瞬間、自然と笑みが浮かんで。
「まあ…なんて素敵な衣装なんでしょう。この世界にはない色彩や形ですわね…」
私の後ろで、着付けを見守っていたシェリアさんが、ほうっとうっとりとした息を漏らしながら、私が着る浴衣に見とれていて。
そんなシェリアさんに笑いかけながら、私は帯や裾や襟首を正した。
「私がいた国では、行事の時に着る人がほとんどでしたけど、普段着で着ている人も少なくなかったんですよ。男女関係なく。」
「まあ…男性も着れるものがあるのですね。」
「そうなんです。ふふ、アルウィン兄さんとか似合いそう…」
そんな想像を話しながら、私は手に取った簪で、髪を手早く右耳の後ろに纏めてしまう。
あっという間に髪を纏めた私を、シェリアさんは驚いたように見つめた。
「その髪留めで、そんなに簡単に髪が結えるのですか…マリエラがまた飛んで帰ってきますわね。」
「ふふ、マリエラさんに作って貰えたら、はさみみたいにまた普及しそうですね。」
「その浴衣も、針子長のルチアが知ったら、きっと喜び勇んで作りを解き明かそうとしそうですわ。」
シェリアさんの言葉に、桃色の髪をしたルチアさんの姿を思い出して、私は笑う。
きっと浴衣の話は、すぐにルチアさんにも知れ渡るだろう。
そんな予感を胸に、下駄に足を通した私は、傍で私の姿を褒め称える翠月に、照れながらお礼を言うと、シェリアさんと共に衣装部屋を出る。
そして自室に入った私の姿に、待っていたライラさん達やコハク達が、驚いたように目を見開いた。
「なつな様…なんてお美しい!それが異世界の衣装なのですか…!」
「見たことのない形をしていますわね…よくお似合いです、なつな様。」
うっとりとした瞳で私を見つめるライラさんと、初めて見る浴衣に驚きながらも、誉めるのを忘れないシェリーンさんにお礼を言っていると、シオン達が近づいてくる。
“うん、いいね。よく似合っているよ、なつな”
《素敵です、なつな様》
【……美しいな】
三者三様に褒めてくれるシオン達に笑いかけ、全員の躯を撫でる私に、シオンはまるで促すように扉へと視線を向けた。
“龍王達が待ってる。先に行くといい。僕達は、少し時間をおいてから行くよ”
「どうして?」
“なつなのその姿を見たら、龍王達が愛でないわけがないからね。水入らずの方がいいだろう”
そう言って、どこか呆れた眼差しで息を吐くシオンに、同意するような苦笑いを漏らすシェリアさんやライラさん達に、私も苦笑いを浮かべて、レイ達が待つ大広間へと向かった。
◇◇◇◇◇
「…!なつな、支度が出来たんだね。」
「へえ、なんとも変わった衣装だな…」
白王宮の大広間は、龍王や半身、六属龍が寛ぐ部屋。
完全なるプライベートスペースのため、入室出来る者は限られていて。
そんな部屋で寛いでいたレイ達は、部屋に入ってきた私の姿に思い思いの声を上げた。
「それが、大神が届けたなつなの浴衣なんだね?」
「うん。どう、かな…?」
「凄く綺麗だよ…よく似合ってる。着るものによって、こんなに雰囲気が変わるものなんだ。」
慈しむような瞳と穏やかな微笑みを浮かべて、レイはそう褒めてくれた後、少し距離を離して眺めてくる。
「レイ…?」
「なつな、そのままその場で回って見せてくれる?後ろ姿も見てみたいから。」
そう言われて、私がその場でゆっくりと一回転してみせると、レイやアルウィン兄さん達が、思い思いの微笑みで頷いてくれる。
「…うん、いいね。その背中の布の形が凄く合ってる。」
「なつなは、紫もよく似合うんだね。」
「なつなが履いているその靴はなんだい?」
「下駄っていって、木で出来てるの。」
「…歩いた時に響く、独特な音がいい。涼やかに聞こえる。」
「袖がひらひらしてて、可愛い…その髪留めも姉さんにとっても似合うね。」
口々に質問されたり、褒められたりして、それに答えていた私は、ライナスさんがすぐ傍に近づいてきていることに気づかなかった。
「きゃ…!」
急に腰に手を回されて、抱き寄せられる。
緩い力加減だったけど、それでも驚いて見上げれば、甘い甘い、蕩けそうな熱を孕むサファイアの双眸と視線が絡む。
「…なんて美しいんでしょうか、僕の番は。誰にも見られないように、どこかに閉じこめてしまいたい…」
「ライナスさん…」
「まるで闇夜に羽ばたく蝶のようです。艶やかで、どこか神秘的で…ああ、幾らでも賞賛の言葉が口に出来そうだ。」
引き寄せられたことで、ほどけて頬にかかった後れ毛を、自分の指に柔らかく絡ませながら、甘い言葉を囁くライナスさんに狼狽えていれば、そんな私を取り戻すように、また腰に別の腕が回された。
「…っ、アルウィン兄さん!」
「可愛いぞ、なつな。いつまでも見ていたくなるくらいにな。」
「アルウィン…邪魔をしないで貰えますか。」
いつものように私を軽々と抱き上げたアルウィン兄さんは、ライナスさんの不満げな低い声にも構わずに、私を見つめて満足げな笑みを浮かべている。
「艶やかっつーか…色っぽくなるもんなんだな。そういう衣装なのか?」
「色っぽ…っ!兄さんが着るならそういう風に感じるのも分かるけど、私は別に…!」
「ん?女だけが着る衣装じゃないのか?」
「男の人も着れるのよ。柄だったり、着方はちょっと違うけど…」
「ほう、応用が利くんだな。」
興味深げに頷いた兄さんは、私を抱き上げた時に乱れた髪を背に流す。
その姿に浴衣を着流した兄さんの姿を想像して、あまりに似合う姿に思わず笑った私を、兄さんは不思議そうに見る。
「ん、なんだ。随分楽しそうだな、なつな。」
「ふふ、兄さんが浴衣を着た姿を想像してみたの。絶対似合うだろうなあ…って思って。」
「ルシェラザルトにはこの衣装はないぞ?」
「うん、そうなんだけど…さっき、早速聞きつけたルチアさんに廊下で捕まってね…。『絶対作ってみせますわ!』って、意気込まれちゃった…」
「ほう、ルチアか…」
「なら、なつなの想像が実現するのも、そう遠い話じゃなさそうだね。」
私と兄さんの話に、苦笑いを浮かべながらレックスさんはそう言って、私に笑いかける。
その手は私の腕から伸びる袖を柔らかく掴んでいて、その柄に興味を引かれているのか、生地を撫でていた。
「この花は、なつながいた世界の花かな?」
「うん、牡丹に菊…秋に咲く花なの。私が生まれた季節の花を選んだから。」
「生地にこんな柄を写せるなんて…なつながいた世界は凄い技術を持っていたんだね。」
そう言って生地を撫でながら、しげしげと袖を見つめるレックスさんに、色々と説明していた私は、突然背後から感じた気配にびくりとして。
「わわ…っ!」
「!おい、ライナスお前…!」
私の悲鳴と兄さんの非難をものともしないで、半ば強引に私を兄さんから奪い、抱き上げたライナスさんは、兄さんやレイ達が止めるのも聞かずに、足早に大広間を出て行ってしまう。
「ラ、ライナスさん…?」
「…もう限界です。こんなに艶やかで魅力的ななつなを、僕以外の瞳に映したくはない。」
「…!」
「僕の居室に行きましょう、なつな。――そしてゆっくり、美しいあなたを堪能させて下さいね。」
陶然とした表情で私を見上げたライナスさんは、私の戸惑いにも構わずに、足早に廊下を進んでいく。
(嫉妬深い婚約者だって、忘れてた…)
この後に待ち受ける出来事を想像して、私は気のせいじゃない自分の背中に流れる冷や汗を感じながら、それでも抵抗することは出来ずに、ライナスさんに身を任せるしかなくて。
「――ライナス、覚悟は出来ているんだね?僕に断りもなく、なつなを自室に連れ込むなんて…」
「無粋な真似をなさいますね、王も。愛する婚約者の美しい姿を独り占めすることの、何が悪いんでしょう?」
そうしてやっぱり始まったやり取りは、レイだけじゃなく兄さん達までを引き込んで、ライナスさんの部屋に響く。
その光景を、少し離れた場所からエドガーさんに抱き上げられたまま見つめて、私は深く深くため息を漏らす。
そして、ルチアさん率いるお針子さん達が、寝る間も惜しむように私の浴衣の作りを研究し、レイやライナスさん達のための浴衣を作り上げたのは、この日からひと月も経たない秋深まる、そんな日だった。
なつなちゃん、ルシェラザルトに異文化を持ち込むの巻でした。
この話が浮かんだ発端は、なつなちゃんへの誕生日プレゼントでした。
大神様は確実に用意するよなあ…でも用意するならなんだろうと考えて、更にふとレイさん達が浴衣を着た姿が浮かんでしまい、このお話になりました。
そして、なつなちゃんがレイさんのために切り捨ててきたものの一部を描きたかったのもあります。
完全にわたしの趣味に走った話ですみません…でも楽しんでいただけたら嬉しいです。




