なつなと夕焼け
あの日、あの夕焼けの中で。
吐露された言葉、かけられた言葉。
何度思案を重ねても、未だに主の心の欠片すら、未熟な己は掴めないでいる。
「――ねえ、スオウ。今日は、2人で散歩に行こうか。」
なつなが唐突にそう切り出したのは、太陽がその陽の光を和らげ始めた、昼下がり。
なつなはルシェラザルトに還り着いてから、天候が優れない日以外は必ず、白王宮から出て散歩をしていた。
自分がこれから生きていく世界を、少しでも知ろうとするかのように。
その傍には必ず、レイやライナス、シオンとコハク、シェリアが付き添い、時折アルウィン達も付き添うこともあったが、ライラ達香龍やスオウが現れてからは、その習慣を知り、彼らも必ず付き添っていた。
それ故にスオウは自分だけが指名されたことに驚き、己の主を見つめて、再確認するように問いかけた。
【我と、だけか?】
「そうよ。たまにはいいかなあ…って思って。もうみんなには言ってあるの。行こう?」
そう言って居室の扉に向かって歩き出したなつなの背を見つめ、その真意を計りかねながらも、スオウは周囲を見回し、自分以外の誰もがついていこうとしない姿に、納得したように息を吐き、主の後を追った。
*
この日なつなが選んだ先は、白王宮から神殿へ向かう途中、脇道に逸れてしばらく歩き、木々のトンネルを抜けた先にある、王国を見渡せる拓けた丘だった。
少しずつ夕焼けが地平線を朱に染めていき、夜の闇を連れてくる。
空の青と雲の白、夕焼けの朱のコントラストの中を、色とりどりの鳥が飛んでいく光景を、なつなとスオウは、ただ黙って見つめていた。
その丘にたどり着くまでに、2人の間に会話はなかった。
主が何故自分だけを連れて、こうして散歩しているのか、何を思って、この場所を選んだのか。
その全てを推し量ろうと、スオウはただ何も言わずに、なつなの傍にいた。
「――夕焼けをね、見たかったの。」
ぽつりと、なつなは静かにそう呟いた。
その声にスオウは視線を向けたが、なつなは真っ直ぐに前を向いたまま、その言葉通りに夕焼けを眺めている。
「…今日ね、夢を見て。怖い夢でもなんでもないんだけどね…向こうの世界で暮らしていた時の、夢。」
【……】
「両親が、私の名前を決めた時…ううん、『彼女』の名前を決めた時、ちょうど夏が終わるくらいの季節で。家から近い海を散歩しながら、穏やかな海に映った夕陽がすごく綺麗で、その夕凪が印象的だったから…『夏の夕凪』から取って、『なつな』って名付けようって、2人で決めたんだって。」
そう、それはまるで今目の前に広がる夕陽のように。
過去を慈しむような眼差しで、思い出の海から望む夕陽を見つめながら。
手を引かれる自分がどんな気持ちで聞いているのか、そんな内心を想像だにしない父は、穏やかに語ってくれた。
身重の母の手を取り、砂浜をゆっくりと歩きながら、父はまだ見ぬ娘を想い――母と共に名前を考えたのだと。
それから、時を待てずに生まれようとした『彼女』に起きた…悲しい出来事。
そして、父母の想いが詰まったその名は、『彼女』ではない『彼女』に、与えられた。
「不思議ね…向こうで暮らしてた時には思い出したこともなくて、なのに今になって夢に見るなんて。…でもきっと、この夕焼けみたいに綺麗だったんだろうな。」
【……】
「…夢を見て、そのことを思い出して。そしたらなんだか、たまらなくなって。無性に、夕焼けが見たくなったの。」
静かに話すなつなの言葉を、スオウはただ黙って聞いていた。
頷きもせず、言葉をかけることもせず、ただその耳を傾けていた。
その姿勢こそが、今のなつなが求めるものだった。
「ごめんね、急なことで驚いたでしょ?……けどスオウなら、私の話をただ黙って聞いてくれると思って。ついてきてくれるみんなには申し訳なかったんだけど、あなたと2人にして欲しくて…お願いしたの。」
【…翠月殿や見えざる者達も、聞いているだろう】
「…うん。翠月達にも聞かれてるけど、でも私はスオウに聞いて欲しかったの。頷いて欲しいわけじゃなくて、慰めて欲しいわけでもなくて…ただ、聞いて欲しかったから。」
スオウと出会い、一緒に暮らす内に、なつなは彼がシオンやコハクとはどこか異なった存在だということを、少しずつ理解していた。
シオンやコハクが感情をよく言葉にし、会話をするなら、スオウは逆に感情を明らかにはせず、必要最低限の会話しかしなかった。
しかし、最低限の会話や言葉しかなくても、スオウが主を案じているのだということは、とても良く分かった。
何故ならスオウはいつも、なつなを見ている。
邪魔にならないよう、適度な距離を保ちながらも、その瞳を主から逸らすことはない。
その感情も、行動も、何もかもを、正しく理解しようとするように。
なつなの言葉に込められた意味と、この散歩に己だけが選ばれた理由を知り、スオウは視線を逸らすことなく、その口を開いた。
【…主が我を頼ってくれたこと、有り難く思う。我で良ければ、幾らでも話を聞こう。ただ…】
「うん?」
【主は何故、大神を恨まない?大神が過ちを犯さなければ、主は不要な苦労も悲しみも、憂いも…味わわずに済んだ。この世界に正しく生まれ、愛され、生きられた。——何故、許せる?】
その瞳と言葉が問いかけるのは、誰しもがなつなに問いたくて、でも誰しもが問いかけられなかったこと。
魂が生まれ変わり続けるその中で、ただ1人異世界へと引き寄せられ、そこで生を受けることとなった龍王の半身。
まさしく、それは偶然が起こした『悲劇』と言える出来事。
なつなが感じた違和感も、孤独も、苦しみも、悲しみも、なつなだけにしか分からない。
理解は出来ても、共感することなど誰にも出来ないのだから。
あのレイですら、なつながいない23年間を過ごす中で、大神を恨んだことなど数え切れないほどなのだ。
六属龍も六香龍も、この世界に生きる全ての者達が、大神の行いを問い、嘆いていたのだから。
けれどその中で唯一なつなは、大神を恨まなかった。
一度たりとも大神を責める言葉も、恨みも口にせず。
今が幸せだからいいと、そう言った。
己の半身や六属龍、六香龍や専属侍女の前でも。
そして“境界”で、大神を前にしても、はっきりと。
あの境界での出来事は、見えざる者や聖獣、彼らだけが知っている。
大神の前では、嘘偽りが口に出来ないことも。
心の奥底に隠された本心さえ、大神の前では明らかなことも。
だからこそ見えざる者達や聖獣が、あの“境界”での出来事を機に、漸く納得したことも。
彼らを生み出したのは、大神だとしても。
『愛し子』の感情が、何よりも彼らにとっては優先されるのだから。
それは、今でもなつなだけが知らない事実。
『彼ら』は己の存在を賭けてでも、そこに何の結果も得られずとも、『愛し子』のためならたとえ“創造主”にさえ、牙を剥くということを。
「恨まないんじゃない、恨めなかったのよ。」
スオウの問いかけに静かに、なつなは言った。
夕焼けを見つめていたその瞳を、今度はスオウに向けながら。
「あの日、元いた世界でシオンと出会って、『神』だと名乗られて。夢か現実か信じられない状況で、次々に思ってもみなかった話を聞いて。色んなことを思った。」
【……】
「混乱したし戸惑ったし、聞いた瞬間は確かに怒りもあった。大神様が間違えなければ、シオンじゃなくても、他の誰かが少しでも早く、私を見つけてくれてたらって…そう思わずにはいられなかった。」
【……】
「……でも、色んな感情で頭がごちゃ混ぜになりながら、シオンに選択を迫られた時、結局最後に心に残ったのは――レイへの愛しさと安堵だったの。」
幼い頃から何度となく見た、夢に出てくる彼が、ずっと自分を待っていると知った。
他の夢は目覚めてしまえば忘れているのに、どうしてか強烈に脳裏に残っている夢。
『あの夢が現実だった』。
そう知った時、感じ続けていた違和感の正体も、孤独の理由も、知れた。
私は1人じゃなかったんだって――知った。
その真実に、より鮮明になつなの心を占めたのは、大神への怒りや恨みよりも、己の半身への愛しさと心からの安堵だった。
「……私ね、確かに日本での生活…辛かったよ。ずっと馴染めなかったし、自分の存在がすごく曖昧に思えて…苦しかった。でも、だからこそルシェラザルトでの今の生活が、どれだけ恵まれてるのか分かるから。」
【恵まれている…?】
「『私』が『私』であるだけで、支えてくれる人達がいる。傍にいてくれる人達がいる。…それって、決して当たり前なんかじゃないと思うの。」
【……】
「レイやライナスさん達『龍』も、シェリアさん達『眷族』も、リオレイ先生達『人』も、翠月達『見えざる者』も、ライラさん達『香龍』も、シオンやスオウ達『神様』や『聖獣』も、みんなが私を愛して…支えてくれる。だから、私はみんなのために、自分のために生きられるんだ。」
【主…】
「それって、ホントに奇跡みたいなことだって…そう思うの。」
そう言って微笑むなつなは、またその瞳を夕焼けへと向ける。
そして、まるでその景色を脳裏に焼き付けるように、真っ直ぐに見つめ続ける。
「私がいない23年間に、この世界で起きたことも、レイが苦しんだことも、ライナスさん達に大変な思いをさせたことも、国王陛下や民達を心配させたことも…なかったことには出来ない。…過去は変えられないもの。」
【……】
「だから、何もかもを受け入れることにしたの。恨みもない、だから許すこともない。起きてしまったことは、取り返せばいい。そう、決めたの。」
【主…】
「それにね、結果論かもしれないけど…私にとっては必要なことだったのかもしれないって、思うんだ。自分の立場も、負わなきゃいけない責任も、この23年間があったから…自惚れや驕りを持たずに、向き合えてると思うの。自分なりにね?」
【……】
「だってもし何も起きずにこの世界に生まれていたら、私は今の私じゃなかったかもしれない。『龍王の半身』として、相応しくない傲慢さを持ったかもしれない。…こうやってもしもを考え出したら、キリがないもの。」
そう話しながら苦笑いを漏らして、なつなはまたスオウを見つめる。
偽りのない、どこまでも真率な瞳で。
「――だから、私は忘れないわ。あの世界で、『澤木なつな』として生まれた偶然を。過ごした日々を。感じた、色んな感情を。忘れずに受け止めて…活かしていくわ。護るべき、この世界のために。私を愛してくれる、みんなのために。」
【……】
「だからスオウも、私のために大神様を恨まないで。私を理由にして、恨まないで。そうじゃないあなたの気持ちとして、向き合って欲しい。そしていつか、事実をありのままに受け止めてくれたら…嬉しい。」
【……】
「…もう陽が暮れるわね。帰ろうか。付き合ってくれてありがとう。」
そうして踵を返し、丘を下り始めたなつなの後ろ姿を見つめて、スオウは言葉を紡いだ。
【…主よ】
「…?」
【我は…やはりまだ子供のようだ。主のような考え方は、今の我では出来ぬ】
「……」
【…ただ、理解する努力を惜しまずに、受け止めてみようと思う。それが、主の傍に在ることを許された…我に必要なことのように思うのだ】
「スオウ…」
【今の我には、これ以上何も言えぬ。…許して欲しい】
そう言って瞼を伏せたスオウとの距離を詰めるように、なつなはまた丘を上り、その頭を優しく撫でた。
慰めるように、励ますように。
「――ありがとう、スオウ。」
たった一言、なつなが紡いだ言葉。
それだけで通じ合える絆が、今のなつなとスオウにはあった。
そうしてまた主と守護者は、来た時と同じようにお互いに言葉を交わすことはなく、元きた道を戻っていく。
その背を、色を濃くした夕焼けの朱に染めながら。
なつなちゃんとスオウの交流の一幕…だったんですけど。
あれ、あれれ……ほのぼのした話を書きたかったはずが、なんでこんなシリアスな感じ、に…?
……どこで間違った_| ̄|○
予定と大きく違いますが、いや、あのでも…これも書きたかったお話ではあるんです。
きっと誰もが聞きたくて、でも聞けなかった話だと思うので…。
でもまさかここでかと、私が1番びっくりです…
でも、なつなちゃんの名前の由来も明かせたので、良しとします!(無理やり納得)




