もたらされた変化
さらさらと、柔らかい音がする。
その場に残る誰もが、瞳を逸らさずにある一点を見つめたまま、動けずにいた。
彼らの瞳の先に佇む、聖樹。
くすんでいた木々は青々と輝き、まるで与えられた力を行き渡らせるように、その葉を風に揺らしている。
それは、聖樹の再調整が無事に済まされた、何よりの証で。
「なつな…」
それでも、自らの半身の気配を探れない不安を紛らわせるように、小さく漏らされた龍王の声は、静まり返った森に、いやに大きく響き渡る。
そんな龍王に歩み寄った銀色の猫は、その足元に座り、言葉をかけた。
“…龍王、なつなは無事だ。なつなにしか出来ない、その役割を立派に果たしている。キミにも、そして守護者である僕達にも変化がないのが、何よりの証拠だ”
「……」
“しかし…何とも歯がゆいね。数ヶ月前まで何も知らなかったなつなが、こうして重すぎる役割を背負い、それを受け入れている。不安や恐怖を抱きながら立ち向かう主を、見送ることしか出来ない自分が…”
その言葉にはっとしたように自分を見下ろした龍王に、神は見返すことなく瞳を聖樹に向けたまま、言葉を続ける。
“キミも分かっているのだろう、龍王。なつなが抱える想いを。半身であるキミや、守護者である僕達にだけ、鮮明に感じ取れる感情を”
「シオン…」
“自分の身体を自ら傷つけねばならない恐怖、未知なるものへの恐れや不安、それでも立ち向かおうと自らを鼓舞する想い…全ては、自分が愛する者達のために”
「……」
“守りたい、救いたい、この世界を壊したくない…その想いだけが、なつなを動かしている。――本当に、優しい娘だ。…だからこそ、彼女にばかり重い責務を押し付けねばならない自分が…歯がゆくてならないよ”
神から漏らされる想いに、同じ想いを抱えながら、龍王は聖樹を見つめる。
課された責務は同じだ。
この世界を維持し、見守り、時には導いていかねばならない。
それだけの精神を持っているし、多少の無理は何ともない。
けれど、自分は龍で…彼女は、人だ。
それも、魔力も何も持たない、ただ唯一の。
容易く傷ついてしまう、人。
——僕はまた1人で、夜を明かすのか。
あの抑え切れない衝動と絶望を、また味わうのか。
失いたくない、失いたくない。
23年間味わった孤独を思い出し、龍王はただ、己の半身が無事にその役目を果たし、自分の元に戻ることだけを願い続けた。
「――エドガー兄。僕はこの先も、なつなに相応しくあれるでしょうか。」
ふと漏らされた水龍の言葉に、雷龍は聖樹を見つめていた瞳を義息へと向ける。
そこで、交わり合ったその瞳に浮かぶ不安や恐怖を感じ取って、彼は目を見張った。
「…驚いたな、君がそんな弱音を吐くとは。」
「…僕も、思ってもみませんでした。こんな感情を知ることになる日が来るとは。」
「……」
「僕は今まで…ただ与えられた『役割』を果たせばいいと思っていました。僕は『六属龍』の一角であり、自分にはそれだけの力があると。…でもそれは裏を返せば、自分の力量以上の役割は果たす必要がないと思っていたということです。」
水龍が口にする懺悔にも似た言葉を、雷龍はただ黙って聞いている。
それに促されるように続けられる言葉には、回想のようなものも含まれていた。
「魂が生まれ変わり、引き継がれる役割や責務を果たす内に…どこか感覚がマヒしていたのかもしれません。けれど、なつなに出会い…彼女の姿勢や態度を見ている内に、自分の間違った感覚に気づきました。」
「ライナス…」
「なつなは、たとえそれがどんなに辛く、苦しいことでも…戸惑いながらも受け入れ、立ち向かおうとします。自分のためにではなく、誰かのために。」
「……」
「それが眩しく、そして尊く思えた。けれど何より…自分の姿勢を恥じました。」
彼女のその姿が眩しくて。
自分は決して持ち得ない、他者を等しく思いやる心、重責を受け止められる姿勢、困難に立ち向かおうとする勇気。
だから、不安は尽きない。
自分は彼女に相応しいのか、これからも愛されていいのか。
「気づいたのです。僕は、なつなに求めるばかりか…むしろ自分の想いを押し付けてばかりなのではないか、と。」
漏らされた言葉が途切れ、縋るような眼差しで聖樹を見つめる水龍の耳に、柔らかな笑い声が響く。
その声に驚いて視線を向ければ、次第に笑い声は収まり、変わりに穏やかな眼差しが向けられる。
「――全く、なつなには恐れ入るね。君をこうまで変えてしまえるとは。それも、いい方向に。」
「エドガー兄…?」
「何も可笑しなことはないのだよ、ライナス。君が抱く感情は、誰しもが当たり前に持つものだ。誰しも、未知なるものには恐れを抱くもの。それは龍とて、例外ではない。」
「……」
「人も龍も、護るべきものを持つと…立ち向かう勇気を得るのだね。なつなのように。」
雷龍は瞳を細めながら語り、水龍の肩を叩く。
それは弱音を吐く義息を叱咤するように、そして安堵させるように。
あたたかく柔らかく、水龍を包み込む。
「そう考えられるようになったなら、これからも君は、なつなに相応しくあれるだろう。——その気持ちを忘れてはいけないよ、ライナス。」
「…はい。」
「なつななら、大丈夫だ。私達は…信じて待つしかない。彼女の想いを、信じて。」
「…はい。きっと、大丈夫です。僕のなつななら。」
力を取り戻した瞳に頷き、2人がまた聖樹に視線を向けたその時、その場に突如として満ちた強い魔力の気配に、水龍と雷龍は反射的に地を蹴り、龍王の傍に立つ。
警戒を強める彼らの前で、濃密な魔力が凝縮され、形となった時。
その場に佇んでいたのは、白銀の髪と銀色の瞳をした少女。
実体なく光にその身体を透けさせる少女は、唖然とした様子の龍王達を見つめて、柔らかく笑んだ。
『——お初にお目にかかります、皆さま。わたくしの名はフォルーン、聖樹フォルーンの化身にございます』
「君が…」
“何故キミが、龍王達の前に姿を現した?なつなは今、どこにいる?”
『わたくしは、ジェードムーンからの伝言を、皆さまにお伝えにきたまで。一度しか申しません。“我が君、その務めを果たされ…聖樹アルノディスの護りの元、一夜の安らかな眠りを得た。何人たりとも、それを破ること許さぬ”。――ジェードムーンからの伝言は、以上です』
淡々と告げ、最後に微笑むとその姿を光に溶かすように消えようとした少女を、焦ったように龍王が呼び止める。
「フォルーン、待って欲しい。なつなは無事なのか…?」
『ご無事です。姫さまは、ジェードムーンと共に聖樹ノウサンディア、聖樹アルノディスの元へ転移され…その血を与えてくださいました。今や、全ての聖樹は正常な力を取り戻しています』
フォルーンの言葉に全員が安堵の息を吐く中、それでも不安を瞳に映した水龍は、少女に問いかける。
「無事なら何故、なつなは聖樹アルノディスの中で眠りにおちているのですか?」
『肉体の疲労と精神の疲労は、異なったもの。御傍にいたアルノディスとジェードムーンが、姫さまのためには、今は眠りにつくことが必要だと判断しました。一夜、このまま夜が明けるまでは…会わせることは出来ません』
「…!」
「せめて…せめてなつなが無事な姿を見たい。翠月達に、取り合っては貰えないだろうか?」
『――お待ちください』
龍王の言葉にそれだけを告げ、フォルーンは瞼を伏せる。
暫く会話をしていた様子だった彼女は、不意に瞼を開けるとその両手を上げ、何かを掬うような手の形を取ると、そこに水鏡のような球体が現れた。
『なつな…!』
「なつな様…!」
《なつな様!》
そこに映る姿に、龍王を始め誰もが彼女の名を呼ぶ。
しかし、水鏡に映るその寝顔が安らかなものであることに、誰もが安堵の息を漏らし、龍王はその視線をフォルーンに移すと礼を述べた。
「…感謝する、フォルーン。これで、漸く本当に安心出来た。」
『構いません。皆さまに無事な姿を見せることは、姫さまも望まれることでしょうから。——この水鏡をお持ちください。夜が明けるまでならば…姫さまの姿が見られるでしょう』
差し出された水鏡を龍王が受け取った瞬間、フォルーンは躊躇いなく姿を消した。
そして、代わりに水鏡を受け取った水龍が、そこに映る己の番の姿に釘付けになっていることに苦笑いを零しながら、雷龍は龍王に問いかけた。
「どうされますか、王。聖樹アルノディスに向かうにしても、野営の準備をせねばなりますまい。しかしそれも、シェリア殿には辛いのでは…」
「そうだね。でもシェリアなら…」
「問題ありませんわ。わたくしはなつな様が戻られるまで、白王宮には帰りません。野営など望むところですわ。」
「…だ、そうだよ。——ひとまず、聖樹アルノディスに向かおう。エドガー、申し訳ないが頼んだよ。」
「お任せを。」
そうして一行は、聖樹アルノディスへと飛び立った。
水鏡に映る安らかな寝顔が、夜が明けた時、彼らがよく知る彼女の笑顔に変わることを願いながら。
これにて聖樹篇、終了しました。
裏テーマでもありました、“成長と変化”は、なつなちゃんだけではなく、レイさんやライナスに向けてのものでもありました。
なんとか私の中の、第一の山場はクリア出来たかなーと安堵してます。
色んな伏線、また張りまくっていますけどね…。
さて、次回からは第2章が開始となります。
閑話を挟むか迷いどころですが…。
ひとまず、章タイトルだけでも。
2章は“香龍篇”となります。
お楽しみにしていただければ、幸いです。




