閑話 二頭の守護者と水龍
30話の後のお話です。
私の願いはただ1つ。
敬愛し、守護すべき主――なつな様の幸せ。
この方の笑顔や、私を優しく撫でてくれる手に、私は初めて…魂が震えるほどの喜びを得たから。
だから、いつまでも満たされた幸せの中で、生きて欲しい。
それを傍で見守れる栄誉を、私は戴いたのだから。
「――2人とも、お待たせ。」
どれくらいの時間が経ったのか。
ふいに扉が開き、そこから現れた主は、喜びや幸せに満たされた微笑みを浮かべていて。
この部屋に来るまでは見られなかった、その晴れやかな表情。
それにただ安堵しながらも、その主を当然のように抱き上げる水龍殿には、やはりまだくすぶる想いもあって。
私はそんな相反する複雑な想いで、2人を見つめた。
“——ふむ、どうやらうまくいったようだね。なつなに笑顔が戻って良かった”
「シオン…ありがとう。」
“お礼なんていらないよ。僕達は君にいつでも幸せでいて欲しいし、心からの笑顔で笑っていて欲しい。それが何よりの願いだ。…そうだろう、コハク”
シオン様の言葉にはっとしながらも、私は頷き、主を見上げる。
心からの想いを、主が名付けてくれた名と同じ意味を持つ色の瞳に浮かべて。
《シオン様の仰る通りです。なつな様の笑顔が…私とシオン様に幸せを与えて下さるのです。主の幸せが…私とシオン様の願いです》
「コハク…」
《…!どうか泣かないで下さい、なつな様!また何か悲しいことが…?》
“そうじゃないよ、コハク。今のなつなの涙は、『嬉し涙』というんだ。悲しくて泣いているわけではないんだよ”
《そうなのですか…?》
突然瞳を潤ませた主に驚き、慌てふためいた私を落ち着かせようとかけられたシオン様の言葉に、目を瞬く。
同じように見える『涙』にも、どうやら違いがあるようで。
人の感情というものは、よく分からないものだ。
多彩で複雑で、そして眩しい。
私の主は純粋な方故、感情が豊かで、その感情に触れるたびに、初めて知ることばかりだ。
その主の涙を指で拭い、慰めるように髪を撫でた水龍殿は、ふいに主を抱き上げたまま私とシオン様の前に跪き、その膝に主を座らせてから、まるで許しを請うように語りかけてきた。
「――シオン殿、コハク殿。あなた方の大切な主であるなつなを、不本意ながらも傷つけ、泣かせてしまったこと…心から申し訳なく思っています。」
『……』
「けれど今日、そんな僕を彼女は許し…恋人として受け入れてくれました。その機会を与えてくれたあなた方に、御礼を。そしてまず、お2人に誓いを。」
「ライナス、さん…?」
戸惑うように水龍殿を見る主を、安堵させるように優しく見つめ返した後、水龍殿はそのままの姿勢で私とシオン様を見つめ、頭を下げた。
「――改めて、誓いを。水龍の血と魂に賭けて、生涯なつなだけを愛し…守り抜くことを誓います。どうかあなた方と共になつなの傍に在ることを…お許し頂きたい。」
『……』
「…もしまたなつなを泣かせてしまった時は、あなた方の断罪を受け入れます。けれど、死ぬことはなんとしても避けます。なつなが流す涙は僕が全て受け止め、その心を慰め傍にあるのも…生涯僕だけでありたいから。」
「ライナスさん…」
「なつなの心も一生も、永遠に僕のものです。故になつなが大切だと想うもの全て、僕も大切にしたいのです。あなた方お2人も、なつなが愛する家族。どうかその一員に…僕も。」
水龍殿の、主に対する真摯な想いや愛情は、私にも深く感じ取れた。
そして私やシオン様に告げた言葉にも、偽りはないのだろう。
私達を前に頭を下げたままの水龍殿を見下ろし、瞳に涙を浮かべている主も、傷ついている様子はない。
ただまるで感極まった様子で、一心に水龍殿を見つめている。
その2人の姿に、私はひと月前にシオン様が言っていたある言葉を思い出した。
“——いいかい、コハク。なつなは、水龍を想うが故に傷つき、涙した。けれどね、それは『愛』を知ったからなんだ。実はそれは人にとって、とても幸せなことでもあるんだよ”
そう語ったシオン様の言葉の意味を、私は最初は理解出来なかったのだ。
なつな様は水龍殿に心を傷つけられ、涙を流した。
その姿に、私は自分の心臓に牙を向かれたような鋭い痛みを覚えた。
あの水龍が、赦せなかった。
なつな様を傷つけた、忌まわしき龍。
出来ることなら八つ裂きにしてやりたかった。
けれどそれをしなかったのは、なつな様が悲しむと思ったから。
あの水龍を愛した主が、悲しむと思ったから。
それくらいは、私にも分かる。
まだ天虎としては子供である私でも、誰かを愛する気持ちは理解出来る。
龍に続き、聖獣の中でも愛情深い天虎の一族。
私達にも、番という存在はある。
けれど龍の番が人間で、そしてその眷族が生まれにくいこととは違い、天虎の番は同じ天虎であり、そして天虎は多産の種族なのだ。
本来天虎は、家族間での集団行動をする種族である。
ただ、ある周期で一族全てが集まる。
その際に、多数の天虎の雄がその中から番を見つけ、愛を育むのだ。
一心に番を愛す天虎の雄。
その愛を受け入れた天虎の雌は、たくさんの子を産む。
そして生まれた初めての子は、天虎の中でも圧倒的な力を持つのだ。
そうして生まれた、私。
父と母の第一子として生まれた私には、たくさんの弟妹がいる。
故に愛し合う両親の姿を一番長く、一番傍で見てきたのだ。
穏やかに愛し合い、満たされ合う両親の姿を。
《何故、傷つけねばならないのですか?愛しているのなら、傷つける筈がないでしょう?》
“天虎はそうだね。キミ達の種族は、他種族との交流を望まない。互いだけを見て互いだけを愛し合う種族だ。でも、龍と人間はそうではないんだ”
《そうでは、ない…?》
“龍というよりは人間だね。彼らは交流を好む種族だ。人間にも様々な一族がいてね、多様な考え方を持つ。故に龍は嫉妬する。番である人間を愛すれば愛するほど、他の人間に嫉妬し、愛する番を独占しようとする。——彼らは、恐れてもいるんだ。自分と番は違う種族であり、だからこそ番と同じ人間の雄に危機感を覚える”
《…そうして、傷つけ合うのですか?》
“本意ではないだろうけれどね。人は、感情を伝える『言葉』を求める。龍や聖獣は、『行動』で感情を伝える…その違いさ。だから互いに誤解が生じ、傷つけ合うことになる。互いにどんなに愛し合っていてもね”
シオン様は神、人間や龍の感情の機微も手に取るように分かるのだろう。
けれど天虎である私には、そのどれもが分からないことばかり。
だからシオン様は、水龍殿をあまり責めないのだろう。
その気持ちが、理解出来るものであるから。
ならば私も、知っていかなければならない。
なつな様の想いを、龍と人間の番との関係を。
我が主は水龍殿の番となり、そして主は水龍殿を愛したのだから。
なつな様の守護者となった私は、主であるなつな様も、その想い人である水龍殿も、見守り…支えていくのが天命なのだから。
《――どうか、頭を上げて下さい。水龍殿》
「コハク殿…?」
《正直…まだ複雑な気持ちではあります。でも、なつな様があなたを愛し、許すことを決めた以上…水龍殿は我が主の大切な存在となった。…ならば、私もあなたを許す必要があります》
「コハク…」
《水龍殿の主への想いは、よく分かりました。——私は、なつな様の守護を務める者。主が愛した水龍殿も、また支えるべき存在。…これから、何事も協力していきましょう》
そう言った私を、涙を浮かべたままあたたかく見つめてくれる主の瞳。
そしてどこか安堵したように息を吐く水龍殿。
シオン様は私を見つめ頷き、優しく言葉をかけてくれる。
“また1つ大人になったね、コハク。僕もキミの答えに異存はないよ。それでこそ、聡い天虎だ。キミが気づいてくれるのを待っていたんだ”
《シオン様…》
“責めるだけではダメだ、許すことも時には必要なんだよ。キミはそれに気づけた。——きっとキミの両親のような、偉大な天虎となれるだろう”
《なれる、でしょうか…?》
“なれるさ。僕が見初めた天虎だ。キミは誇っていい、なつなに名を与えられたことを。神の一柱である僕に、認められていることを”
そう言ってその尾を揺らし、私を見つめるシオン様に、湧き上がる想い。
そして手を伸ばし、私の躯を優しく撫でる主に満たされる心。
そんな私達をあたたかく見つめていた水龍殿に、シオン様は言葉をかけた。
“水龍、僕達は味方をしてあげよう。…でも、王や他の五龍はキミが納得させることだ”
「…心得ています。」
“キミが、真に望む結果を得られるといいけれど。目障りな王太子は僕も排除したいしね”
「――策はあります。」
“ならばいいよ。なつなも納得してくれるといいね”
水龍殿とシオン様の会話に、主は首を傾げる。
そんな主を見つめる龍と神の表情は、まるで似た者同士のようで。
それを私は、ただ黙って見つめる。
なんだかとても、尊い光景に思えたのだ。
「なつな、居室まで送らせて下さい。少しでもあなたと共にいたいのです。」
「それは嬉しいです、けど…今の話、なんのことですか?」
「それはまた、明日にでもお話します。シオン殿の同意は得ましたから。」
“なつなは気にしなくていいよ。これは、龍の独占欲が為す欲求だからね”
そしてまた主を腕に抱き上げ、歩き出した水龍殿とシオン様の後ろを歩きながら、私は思う。
この穏やかな時が、ずっと続けばいいと。
主と私を引き裂く、死が――少しでも遠のくことを。
今宵の月は私の瞳と同じ色に輝き、柔らかく世界を包んでいた。
ライナスとコハク、和解するのお話でした。
まあ、一方的にコハクが怒ってたんですが…ライナスも義理を通したわけです。
そんなライナスを受け入れたコハクも、大人の階段を登ったわけで(笑)
しかしライナスもシオンも、似た者同士だなーなつなちゃんのことになると。
まあ、天虎の習性も書けたので、閑話の役目は果たせたかな?




