伝えあう心と心《1》
ふとこの私室に近づく気配を感じて、それが誰なのかに気づいた瞬間、僕ははっとして顔を上げる。
このひと月、感じたくても感じ取れなかった気配。
サーナの、気配。
どんどん近づいてくる気配に胸が否応もなく高鳴り、僕は待ちきれずに手にしていた書類を机に投げ出し、早足になるのも構わずに、私室の入口へと向かう。
そして震える手で扉を開ければ、今まさに扉を叩こうとしていたのか手を上げたまま、驚いた表情を隠さずに僕を見上げる、夜空を思わせる瞳。
会いたくても会いに行けずにいた、愛しい女性。
「なつな…」
その姿に感極まって思わず、彼女の真名の一部を口にしてしまう。
柄にもなく泣きそうな、震える声にも気づいたのだろう。
サーナはその様々なことに更に驚いた様子で、それでも微かに微笑んでくれた。
「あの…こんばんは。ごめんなさい、こんな時間に突然来てしまって。」
「…いえ、構いませんよ。僕に何か用があったのでしょう?どうかされましたか…?」
「…はい、その…お話がしたくて。今からお部屋にお邪魔しても、構いませんか…?」
「!」
私室に近づく気配が彼女のものだと気づいた瞬間から、どこかで考えていた。
でも、もしかしたら違うかもしれないとも、思っていて。
——でも彼女は、自分の意志で僕の前に現れたこと。
それは、王の勅命状が破棄されたことを意味していた。
そして何よりサーナに付き従い、あの日あれだけの害意を僕に対して向けてきた二頭の守護者が、何も言わず黙っているのだ。
漸く待ち望んだ時が訪れたことを理解し、僕は思わず歓喜に心が震えて、彼女の問いに答えるのが遅くなってしまった。
「…ライナスさん?」
「っ、もちろん構いませんよ。さ、どうぞ…」
不安そうに僕を見上げる彼女にぎこちなく微笑みかけてから、身体をずらし、私室へと招き入れる。
するとどこか緊張した面持ちで足を踏み出そうとしたサーナは、ふと思い出したように後ろを振り返ると、守護者達に向かって声を掛けた。
「…じゃあ、さっきも言った通り、あまりに遅かったら先に部屋に戻っていてね。」
“問題ないよ、待つことくらい”
《そうです。なつな様が戻られるまで、お待ちしています》
はっきりと言い切った二頭に彼女は苦笑いを零してから、そのまま私室の中へと入ってくる。
そんなやり取りに僕は目を見張り、扉を締めてから思わず聞いてしまった。
「シオン殿達も、一緒ではないのですか…?」
僕の問いに苦笑いだけを返しながら、ふとソファーに目をやると、座ってもいいですか、と問うサーナに戸惑いながら頷き、腰掛けた彼女を追うように、向かいのソファーに腰掛ける。
そしてどこか俯きがちに、躊躇うように何度か口を開きかけ、暫くののち、不意にその視線が僕に向けられ、告げられた言葉。
「…2人で、お話がしたくて。なのでシオン達には、外で待って貰うことにしました。」
「2人で…?」
「2人きりじゃないと、意味がないと思って。」
「サーナ…?」
「ライナスさん。私…この1ヶ月間だけじゃなくて、ずっと悩んでました。…ライナスさんと、アナマリア王女殿下のこと。そんな時に、あの日ライナスさんと王女殿下のやり取りや雰囲気を間近で見て。その親密な雰囲気に、余計にライナスさんの気持ちが、分からなくなってしまって。そしたら会うのが怖くなって。ずっと今日まで会えずにいて、ごめんなさい…」
「…っ、」
唐突に口にされた内容に、ずっと前から覚悟はしていたものの、僕は息を呑んで。
サーナの言葉に滲む、苦しさや切なさを否応なしに感じ取ってしまい、僕は俯いた彼女を見つめたまま、何も言えずにいた。
「…私、あの日ライナスさんにプロポーズされて。好きだって言われて、思い返してみると出会ってからライナスさんの気持ちを疑ったこと、不思議となかったなって…そう思ったんです。私に親切にしてくれて、大切にしてくれて、笑いかけてくれて気にかけてくれて。好きだって、言ってくれて。初めは戸惑ってばかりだったけど、嫌だなって思ったことは…不思議となかったんです。」
「……」
「…でも、私が王太子殿下と会うようになってから、ライナスさんも突然…王女殿下と会うようになって。それから、どんどん会える時間が少なくなって…いつの間にか、会うこともなくなって。」
「…っ、」
「それを寂しいって思いながらも、ライナスさんと会わなくなったこと以外、いつも通りに過ごしていて。…でも仕事をしながら私、気づいたらいつからか…ライナスさんと王女殿下が会えるように、名を呼ばなきゃいけないんだってことが、凄く嫌になって。どうしてライナスさんは、こんなに頻繁に王女殿下に会うんだろうってもやもやして。…その時、やっと気づいたんです。――私、いつの間にかライナスさんのこと…好きになってたんだって。」
「!」
サーナが紡いだ、僕への想い。
漸く実った初恋、なのにこの胸を締め付ける切ない痛みはなんなのか。
サーナの声に今も纏う苦悩が、歓喜する僕の心に歯止めをかける。
「…王太子殿下にも、プロポーズされて。好きだと言われてるのに、それははっきり嫌だと思ってる私がいて。だけど、ライナスさんの気持ちは嬉しいって感じているのにって考えた時に…やっと気づいたんです。」
「サーナ…」
「でも…あの日ライナスさんと王女殿下が一緒にいるところを見た時に、思ってしまったんです。お似合いだな、って。歳も近くて、美男美女で。――私より、釣り合うんじゃないかって。」
「…!」
あまりの内容に反論しようとして、口を開きかけた時。
目にしてしまった。
その瞳からぽろぽろと零れ落ちる、透明な雫を。
「――私、嫉妬したんです。王女殿下に。ライナスさんは私の好きな人で、私のことが好きなのに…って!そう思ってしまったんです!」
「嫉妬…?」
「親しげな様子にも、王女殿下がライナスさんに触れる姿にも、全部!ライナスさんが好きなのは私じゃないのって、そう自惚れている自分に気づいて。…恥ずかしくなりました。ライナスさんの気持ちに甘えきって、はっきりとした答えを出していないのは私なのに。」
「サーナ…」
「…それに、思ってしまったんです。ライナスさんは、私を自分の番だというけど、心変わりなんて幾らでも出来るんじゃないかって。番じゃないと眷族は産めないけど、愛し合うことは出来るから…私より王女殿下を愛したんじゃないかって。」
「!そんな…!」
「でもアルウィン兄さんは、番は生涯でただ1人だけって言うし。じゃあライナスさんは…私に自分の眷族を産ませたいから、今でも私を好きだって嘘をついていて、でもきっとホントは王女殿下に心変わりしたんだって、疑う気持ちが消えなくて…!」
とんだ勘違いと誤解を招いていた事実に愕然としながら、反射的に思わずサーナの元に駆け寄っていた。
その足元に跪くように座り込む僕に、まるで自分の姿を見せたくないというように、顔を隠そうとする彼女の両手を掴むと、それを拒むようにいやいやと振られる頭。
「私、最低なんです…!ライナスさんの気持ち、信じきれないくせに…自惚れて嫉妬して疑って、何も言えないのに自分勝手に傷つくだけ傷ついて、みんなに優しくされてることに甘えきって、いつまでも会いに行く勇気も持てなくて…!」
「いいえ、サーナ。あなたに疑念を抱かせてしまった僕が悪いのです。…僕はこれまで、あなたに誠心誠意愛を伝えてきたつもりでした。だからこそ、僕自身の苛立ちよりもあなたを…愛する番のことを一番に思いやらなければならなかった。…でも、だからこそ僕達はまず、話さなければいけなかったのです。お互いのことを、気持ちを。何を考え、どんなことを思っているのかを。」
「ライナス、さん…」
「気づくのが遅くなってしまいましたが、愚かな僕の過去を…想いを聞いてくれますか?」
懇願するような僕の声に、サーナは涙を滲ませながら、何度も頷いてくれる。
そんな彼女が愛しく、そして触れる手が温かくて、僕はその瞳を見つめたまま、語り始めた。
「――僕は、人間の女性が嫌いです。今も昔も、ずっと。価値がないとすら思っています。」
「どうして、ですか…?」
「それを説明するにはまず、どうして僕がそう思ったのか、その経緯を話さなければいけませんね。サーナ、何故この白王宮には人間が1人もいないのか分かりますか?」
「え…?それは、聖域に人間が短時間しか入れないからじゃ…」
「それもあります。けれど遥か昔には、通いの使用人や側仕えとして、貴族の子女や子息がいたのですよ。眷族は少ないですから。聖域への長時間の滞在を可能にする魔術も、王や六属龍だけが行使出来るものですが、今でも存在しています。…けれど、当時の龍王と半身、六属龍が取り決めたのです。未来永劫、白王宮に人間は仕えさせぬと。」
「どうして…」
「それは、龍王や半身、六属龍や龍、眷族の寵愛を得ようと――貴族の子女や子息が、公に争ったからです。白王宮に長時間滞在出来ることを利用し、白王宮から聖域内へ出ることを禁じているにも関わらず、龍達がいる宮にまで無断で近づこうとした。その争いの醜さを、王も僕達六属龍も、初代から受け継ぐ記憶から知っています。故に仕えさせぬと決められているにも関わらず、今代でも謁見や面会という名目で、愛を乞う人間が少なからずいたのです。——サーナが行方不明となり、王が幼体のまま、不安定な状態にも関わらずです。」
この前代未聞の状況の中、どうして王の苦しみを、僕達の絶望を理解しない者達がいるのか、言葉にならないほどの怒りと嫌悪感が、体の奥底から湧き上がってくるようだった。
王がまず、半身を探すために謁見をしたのは貴族の子女達だった。
王が生まれたその日に、生まれてきた娘達。
幼い娘を抱え、敬意に跪く親達がほとんどの中、うまく謁見に家族として紛れ込み、王ではなく謁見に立ち会う僕達属龍へ、真っ直ぐに向けられる邪な感情。
跪く間際まで向けられる、まとわりつくような媚びた瞳。
なんとか気を引こうと、寵愛を得ようと企んでいる感情が見え隠れする、その所作に。
怒りを感じたのは、僕だけではなかった。
高等教育を受けている筈なのに、頭の足りない女達。
その頃は国王も宰相も、半身が行方不明という事実に、国内の事態を収束させるために奔走しており、白王宮へ立ち入る者達の審査が疎かになっていた。
それ故に起こった、異例の事態。
目の前にいる女達の醜さが、受け継いだ記憶の中にある、過去の王や六属龍達が経験した嫌悪を、僕に改めて実感させたのだ。
本来、龍は愛情深い性質を持っている。
けれどそれは、番や同族に対するものだ。
龍は多情ではないのだ。
奇跡のような出会いを経て、手に入れる番だからこそ、龍は生涯愛を注ぐ。
そんな龍の生態も拍車をかけ、僕の人間の女に対する嫌悪は日に日に増していった。
「どうやら人間にとって、龍の寵愛を受けることは、誉れになるようです。一度愛されれば死ぬまで全て、龍が面倒をみるのです。それだけで安泰だと。」
「そんな…」
「女性の扱いに慣れているアルウィンも、穏やかなエドガー兄ですら、鬱陶しがってましたからね。」
「エドガーさんまで…」
「故に僕は、人間の女性に嫌悪を抱いても、好意を持つことはありませんでした。同じ部屋にいることも苦痛で、触れ合うなど想像したこともなかった。――サーナ、あなたに出会うまでは。」
「…っ!」
その言葉に見開かれる瞳、それによって零れる涙。
僕の手の甲に落ちた涙を舐めとり、愛しげにサーナを見つめれば、その頬は羞恥からか赤く染まり、そんな姿さえ可愛くてたまらない。
「サーナ、あなたとの出会いは奇跡です。王が待ち望んでいた半身。そのあなたが、僕の番だった。そして何より、あなたは僕が嫌悪していた人間の女性。この巡り合わせを奇跡と言わず、なんと表現したらいいのか僕には分かりません。」
「ライナスさん…」
「あなたに伝えていた愛も、尽くしてきた全てに、偽りなどありません。僕は出会ってからずっと、変わることなくサーナを愛しています。」
「っ…」
「そもそも、僕があの王女に会っていたのは…王太子を排除するための情報を得るためだけでした。」
「!え…」
「サーナに求婚する、あの王太子が目障りでたまりませんでした。あなたは僕の愛しい人…愛を囁くのは僕だけでいいのです。王太子など邪魔でしかない。」
「……」
「僕も、嫉妬していたのです。サーナと王太子が並ぶ姿に。悔しいですが、似合いの2人だと…僕も思ってしまったのですよ。」
まさかの話だったのだろう。
驚きに涙が止まった様子のサーナに苦笑いを零すと、僕は自嘲するように瞳を細める。
その姿に、それが偽りじゃないと感じ取ってくれたのだろう彼女は、心外そうに眉根を寄せる。
素直なその仕草にまた苦笑いを浮かべながら、宥めるように語りかける。
「サーナの心が、王太子にないことは分かっています。…でも、理屈ではないのです。あなたが、王女に嫉妬したように。」
「あ…」
「いくら王やサーナ、僕達龍が王族との繋がりを求めずとも…身分的には釣り合うのです。あれも、人間の王になる男ですから。」
「それは…!」
「分かっています。サーナが望んでいないことは。…でも、嫉妬する事柄は幾らでもあるのですよ。どうやら僕は、サーナのことになると狭量になるようなので。」
だからどうしても排除したかった。
目障りな王太子を。
サーナに愛を囁くのも。
サーナに触れるのも。
サーナを喜ばせるのも。
僕だけでいいのだから。
さ、いよいよ第3章ラストスパートに入りました。
ライナスとなつなちゃんが想いを寄せ合う回なので、数話に分けます。
しかしライナス、早速本調子か!(笑)
なつなちゃんの心情をかけたので満足ですが。
初恋と共に、嫉妬の感情も知ってしまったので、そりゃ逃げるよねー(苦笑)
さて、ちょっとお砂糖集めてきます…




