素直な気持ち
「――レイ。話があるの。」
夜空に月が輝き出す頃、執務室から彼女が待つ居室に戻ってきて。
湯浴みを済ませ、日課となりつつある、髪を梳く櫛を持つなつなの手に、ゆったりと身を任せていた時。
意を決したように口にされた言葉に、僕はいよいよその時がきたのだと悟った。
「…ライナスのことだね。会いに行くの?」
「――うん。話をしようと思うの。ライナスさんと、2人で。」
「…2人で、ね。シオンやコハクは納得したの?」
そう問い返し、傍らにいる彼らを見やれば、二頭の守護者は事前に話をされていたのだろう。
シオンはともかく、コハクは渋々といった様子が見て取れる。
なつなの願いだからこそ、聞き入れたのだろう。
「…2人とも納得済みのようだね。僕も、なつなが考えて決めたことなら反対はしないよ。」
「レイ…」
「ライナスに宛てた勅命状にも、君が彼を許し、会いたいと望むまでと書いた。だからライナスは、自分からはなつなに会いにこれない。なら、君が会いに行くしかないしね。」
「……」
「…でもね、なつな。僕はまだ、本心では許せていないんだ。ライナスが君にしたことを。君を傷つけた事実を。」
滲む怒りが呟きに混じる。
そんな僕の様子になつなは髪を梳く手を止めて、背後から僕の前に歩み寄る。
その身体をいつものように横抱きにして、ぎゅっと抱き寄せる。
「…ライナスが、君に向ける想いは本物だろう。故意に傷つけたわけではないことも、分かっているんだ。だからこそ…許せない。なつなを傷つけたことも、あんなに泣かせたことも…」
「レイ…」
「——僕からなつなを奪う気なら、僕以上に大切にしてくれないとダメだ。僕以上に愛してくれないとダメだ。…それが出来ないなら、僕から奪う資格はない。」
「……」
「なつなは僕の宝だ。…漸く出会えた、僕の半身なんだ。23年間も離れ離れで、漸く取り戻せたんだ。まだ半年足らずしか傍にいないのに、一緒に過ごしていないのに。なつなの一番大切な存在でありたいのに、その位置をライナスに奪われたくないんだよ…」
子供じみた、我が儘だ。
まるで母親を取られそうになって、泣いて愚図る幼子のよう。
でも、それくらい大事なんだ。
なつなの存在が、心が、全てが。
僕から奪っていくつもりなら、己よりも大切にしなければいけない。
僕が愛するよりも愛さなければいけない。
僕が甘やかすよりも甘やかさなければいけない。
それが出来ないなら、近づかないで。
愛しているなど、容易く囁かないで。
——僕から、なつなを奪わないで。
なつなの身体を強く抱き締めたまま、その柔らかな髪に顔をうずめ、瞼を伏せてそう思い詰めていた僕の髪を、優しく撫でる手。
その動作に顔を上げて彼女を見れば、穏やかに微笑んでいて。
「私の一番は、レイだよ。それはずっと、私達が一緒に死んでいく時まで変わらない。私はそう、はっきりと言えるよ。」
顔を上げた僕の頬を撫でてから、優しく頬と頬をすりすりとすり寄せたなつなは、真っ直ぐに僕を見つめてそう言い切った。
躊躇うことなく、はっきりと。
「もしライナスさんとこれから話をして、想いが通じたとしても。レイが私の半身だってことは変わらないもの。レイはレイ、ライナスさんはライナスさん。私は2人とも、今と変わらずに大切にしていきたいから。」
「なつな…」
「ふふっ、私もレイに恋人が出来たら、そんな風に思うのかなあ。レイを取られちゃうってヤキモチ妬いちゃうのかなあ…」
そんな風に、起こるかどうかも分からない未来を思い浮かべて笑うなつな。
屈託のないその様子は、まるで僕の憂いが杞憂なのだと告げているようで。
「――それにね、無理に許さなくてもいいと思うの。」
「え…?」
「レイが怒るのも、当然だと思う。だって私も、レイと同じ立場になったら…もっと怒ると思うから。」
「なつな…」
「レイが怒ってるのは、それだけ私を大切にしてくれてるからでしょ?なら、ライナスさんは怒られるべきだと思う。レイが許してもいいって思えるまで、謝るべきだと思う。」
「……」
「私だって…ライナスさんに言いたいことがたくさんあるもの。言いたいことを言い合って、ケンカして仲直りして…初めて分かり合えるものがあるって、エドガーさんが私に教えてくれたの。私はそれをしたことがないから、ライナスさんとしてこようと思う。それにレイとも、そうしたいと思って。」
隠し事をしたり、気持ちや考えを偽ったり黙ったりしないで、話し合おうと思ったの。
そう言って笑ったなつなの言葉に、思い詰めていた感情が救われたように感じた。
彼女は、人の思いや感情を否定しない。
いつも受け入れ、肯定し、その上ですくい上げてくれる。
ああ、愛しい。
なつなが僕の半身で良かったと、あの日から何度思ったか分からない。
こんな彼女だから、万物は愛すのだろう。
役に立ちたいと、何もかもを奪い尽くして欲しいと願うのだろう。
「ねえ、レイ?見せて欲しいの。ライナスさんのホントの姿を。私に出会う前の、過去のライナスさんの姿を。」
「なつな…」
「ライナスさんが何か隠そうとしてることには、気づいていたの。でも、知らなきゃいけないと思うの。…じゃないと私とライナスさんは、いつまでも分かり合えない気がするから。」
「……」
「…私を愛してるって、そう言ってくれるライナスさんを、心のどこかで疑ったままではいたくないの。だからレイ、お願い。私に教えて…」
真っ直ぐに僕を見つめ、乞うなつなに僕は頷き、額同士を触れ合わせる。
与える記憶の代わりに流れ込む、なつなの想い。
ライナスへの恋情、会いに行くことへの恐れや不安、知ることへの恐怖、晴れない疑念、そのことへの罪悪感や憂い。
——そして、僕への揺るぎない信頼。
こんなに鮮やかに、彼女の気持ちを知ることは、僕以外の誰にも出来はしないだろう。
その事実が自分の心を満たしていくのが分かって、僕は苦笑いを零しながらも、酷く満足して。
瞼を開いたなつなと視線を合わせた時、漸く凪いだ心で向き合うことが出来た。
「――これが、ライナスさんのホントの姿なのね。」
「…そうだよ。だからライナスが君に向ける瞳も表情も、尽くし愛されようとする行動も、なつなに出会って変わった彼の真実の姿だ。」
「……」
「それだけは僕も、ライナスを擁護出来るよ。…その後の選択は、誤ってしまっているけどね。」
「やっぱり知らないままでいたら、私…ライナスさんのこと、心から信じきれなかった…」
そう呟いたなつなは、どこか晴れ渡った表情で僕を見上げて、柔らかく微笑む。
その頬をゆっくりと撫で、なつながしてくれたように頰と頬をすり寄せてから僕は彼女に告げる。
「行っておいで、なつな。ライナスの元へ。話し合ってくるといい。きっと、悪い結果にはならないから。」
「レイ…」
「でも、まだ交際を認めるだけだからね。婚約や結婚など以ての外だよ。」
「…やだ、レイったらお父さんみたい。気が早いよ…」
「早いものか。ライナスはなつなを手に入れたら、必ずそれを迫る筈だ。そんなこと許さないよ、僕は。まだなつなを完全に渡すつもりはないからね。」
「…なんか、矛盾してない?」
おかしそうに笑うなつなに目を細め、僕も微笑む。
やっぱりなつなには笑顔が似合う。
…あんな風に泣いている姿なんて、もう見たくないから。
「…あ、それから。これはあの王太子にも言えるね。」
「あー…」
途端に嫌そうな声を出すなつなに、苦笑いを浮かべながらも同意するように頷き、言葉を続ける。
「あれは、人の話を聞かないからね。国王も、その部分には手を焼いているようだけど…」
「でも、最近は謁見の申請はないよね。どうしてだろう?」
「ああ、言ってなかったね。国王に頼んでこのひと月の間、白王宮に出入りする以外での公務に駆り出して貰ったんだ。謁見などする暇がないようにね。国王も宰相も、喜んで協力してくれたよ。」
「レイ…職権乱用じゃない?」
「いいんだよ、僕だって目障りだったからね。ただ、それももう限界だろう。何か別の手立てを考えなくてはね…」
そう呟いた僕に、深く頷いたなつなをその場に立たせ、見上げる形になったその瞳を見つめる。
夜空の藍と漆黒を混ぜた瞳。
鎖骨までの長さの黒い髪。
目鼻立ちがはっきりしているわけではないのに、どこか印象的で。
可愛いらしい、愛する僕の半身。
——きっといつかは、ライナスの伴侶となるのだろう。
でも、僕達は共に長い時を生きる。
なら暫くの間は、僕だけのなつなで在ってもいいよね?
そんな想いを瞳に混ぜながら、僕は彼女に微笑んだ。
「さあ、なつな。行っておいで。僕の気が変わらない内に。」
「レイ…ありがとう。」
「御礼なんていいんだ。ただ、話が終わったら帰ってくるんだよ?どんなに遅い時間になっても。ライナスの部屋に留まったらいけないよ。」
「うん、分かってる。ライナスさんにも迷惑になるもの。ちゃんと戻るから。」
そう言って笑うなつなに、ああ分かってないなあ、なんて思いながらも、口には出さない。
それこそ、ライナスの思う壺だ。
そんなこと、許せないからね。
そして、シオン達と共にライナスの元へ向かうために部屋を出て行くなつなを見送り、僕は窓から夜空を見上げる。
久方ぶりの晴れ渡った夜空に、なつなの憂いは確かに晴れたのだと確信出来て。
僕はそれでも居心地悪く、逸る心をごまかすように、ソファに座り本を読むことなく眺めるのだった。
さて、いよいよなつなちゃんが動き出しました。
結局月間になったね、ライナス(笑)
しかしレイさん、大人気ないのか大らかなのかどっちですかあなたは!
気に食わないのは変わらないんだけど、結局はなつなちゃんに逆らえない、レイさんとコハクなのでした(笑)
さて次回、いよいよライナスが報われます。
恐らく、シリアスが甘甘になるかと…




