波紋
爽やかな微笑みを浮かべる目の前の彼と、引きつらないように意識して、柔らかく見えるように微笑んでいる私の、この笑みの違いはもう致し方ないように思う。
「――ご機嫌よう、姫君。本日も愛らしいですね!」
「…ようこそ、王太子殿下。ですが、今日は龍王との謁見の筈では?それから何度も言いますが、私は姫君などではありません。」
「愛する僕の姫君なのですから、間違ってなどおりませんよ。それに、ご心配には及びません。龍王陛下とは、既に謁見を果たしてからこちらに参りました。麗しの姫君に一目会いたくて。」
「…ご冗談がお上手ですね。」
「冗談などと、僕はいつでも本気ですよ?愛しい姫君。」
にっこりと微笑まれ、ああ言えばこう言うとはまさにこの人のことだといつも思う。
そしてそう思えるくらい慣れてしまっている状況を自覚してしまって、ああ嫌だなと表情に表れそうになる。
思わず崩れそうになった微笑みをなんとか保ちながら、私は心の中で深い深いため息を漏らした。
冗談だったらどんなにいいかと、何度思ったことか。
私は、ここ半年以上――この、ルシェラザルト王国王太子、クラウス・ルシェラ・フォミナ・アウリール殿下から、プロポーズを受けているのだ。
*
事の発端は、半年前。
私がこの世界にやってきた、翌日。
レイから、眷族を通して麓の王城へ国王陛下宛てに届けられたある手紙から、ことは起こる。
『我が半身サーナが、舞い戻った』
たった一文のみの手紙。
しかしその効果と、王国内に広がった国を揺るがすほどの動揺と歓喜は、凄まじかった。
23年間行方不明だった、龍王の半身。
私がいない23年間に、王国は幾度となく異常気象や、不作や不漁などに見回れたのだという。
シオン曰く、それは見えざる者達の嘆きや怒り、そして何より龍王であるレイの悲しみや苦しみが大きいという。
『見えざる者』達は、『世界』そのものであるのだそうだ。
空に、大地に、風に、海に。
世界に存在する全てに、見えざる者は宿っている。
彼らは何よりも『愛し子』のため、その力を振るおうとする。
『愛し子』——それはすなわち『龍王の半身』であり、私のことなのだ。
私が存在する世界のために、見えざる者達は私が暮らしやすく環境を整えようとするし、美味しいものを食べさせようとする。
美しい景色を見て欲しいと、世界をより良くしようとして、大地を豊かにする。
要するにこの世界に暮らす人々は、私がいることでその恩恵を無条件で受け取っているのだ。
この重大かつ重過ぎる彼らの愛が、はっきり言ってしまえば私にはとんでもないことなのだ。
そして忘れてはいけない私の半身——龍王レイ。
今まで私が語った内容から、レイの存在よりも見えざる者達の方が影響を及ぼしているように思えるかもしれない。
ところがとんでもない、一番世界に影響を及ぼしているのはレイの感情だったのだ。
理由は——レイが持つ余りある魔力にある。
『龍王』が持つ魔力は、ある意味『最強最悪』であると言ってもいい。
本来『龍王』やライナスさん達最上位の龍『六属龍』は、まるで呼吸するかのように魔力を操る。
そして彼らの強過ぎる魔力は、司る属性に多大なる影響を与える。
時にそれそのものに宿る——『見えざる者』よりも。
『六属龍』はそれぞれ司る属性の、最上位の強さを持つ。
しかし『龍王』は彼らの属性の全てをたった1人で操り、そしてその強さたるや彼らとは一線を画す。
——要するに、レイはたった1人で世界中で天変地異すら起こせるのだ。
その感情次第で、一瞬で。
レイは23年間、苦しんで悲しんで、でも決して理性を失わなかった。
失ったら最後、その身体から溢れんばかりの魔力が暴走し、世界は大混乱に陥ることが、分かっていたから。
でも理性は失わなくても、その身体から漏れ出す魔力だけは完全に抑えることが出来なかったようで。
龍王から漏れ出す魔力なのだ、その濃度たるや最上級だった。
それは聖域を越えて、この国中を包み込んだ。
いくら世界が魔力で成り立っているといっても、あまりに濃過ぎる魔力は毒となる。
それは世界中のありとあらゆるものに変調をきたし、見えざる者達の嘆きや怒りも加わり、23年間に渡る世界の混乱へと繋がったのである。
ちなみにこの事実は、エドガーさんの見解であり、そして麓の王城に勤める研究者の方々も同じ見解に至っているらしい。
この国に暮らす全ての民達へも、この見解は公表されているそうだ。
龍王と半身が揃ってこそ、王国は繁栄する。
それを身を持って知っていた人々の喜びたるや凄まじく、数日間は国中のありとあらゆる場所で祭が催された程だった。
そんな時だ。
王太子殿下から、レイと私に王族を代表して一足早く謁見の申し出があったのは。
実はこの謁見の申し出があった3日後には、麓の王城にて民達へ私のお披露目が行われる予定となっていて。
既に宰相閣下を通してライナスさんが打ち合わせをしていたところ、国王陛下より王太子殿下をお披露目より前に打ち合わせを兼ねて、次代として目通りさせたいと申し出があったのだ。
国王陛下や宰相閣下と面識はあっても、レイは一度も王太子殿下と会ったことはないらしく。
だからこその申し出をレイはかなり嫌がり、お披露目まで待てばいいと言った。
そこを私がなんとか宥め、謁見をすることになった。
——思えば、この選択が間違いだった。
謁見当日、現れた王太子殿下は――まさに王道そのままの王子だった。
金髪碧眼、さらりとした肩までの髪。
切れ長の瞳が印象的な、イケメン王子がそこにいた。
そう、その時までは確かにそこにいたのだ…王道の王子様が。
けれどその後は、まさにデジャヴだった。
跪いて挨拶をする王太子殿下が、私を見た瞬間――とろりとした熱がその瞳に籠もったのを私は見た。見てしまった…
初めて会った時の、ライナスさんのような瞳を。
そして私に詰め寄らんばかりの王太子殿下に、シオンとコハク、更にはレイまで加わっての防衛戦。
その場にライナスさんがいなくて、ホントに良かったと思う。
そんな状況の中、王太子殿下は熱を孕んだ瞳のまま私を見つめ、言い放った。
『一目で恋に落ちました。是非あなたに、私の唯一の妃になって戴きたい』
私は思った。
何故この数日間で、2度も別の男からプロポーズをされねばならない…!
恋愛経験皆無の私は、くらりとする頭を抑えながら、守るように隠すように横抱きにされた、レイの胸に凭れるしかなかった。
*
「王太子殿下、何度も申しますが…こうして何度も足を運ばれても、あなたが喜ぶ返事など出来ません。お時間のムダかと。」
日本で培った営業スマイルを、幾重にも幾重にも貼り付ける。
だが敵は手強い、にっこりとした完璧な王子スマイルで微笑まれる。
「無駄などではありません。むしろ喜ばしいことです。こうして、何度でもあなたに会えるのですから。それに王太子殿下などとお呼びにならず、クラウスと呼んで戴きたいのですが…」
「お呼びする理由がございません。私は龍王の半身です。王族に深く関わる気はありません。」
「それは、僕の愛を失わせる理由にはなりません。僕の妃はあなただけ。今ですら、その柔らかな手に触れたくてたまらないというのに…」
そう言って跪き、私に伸ばされる手。
でもそれもまたいつものように、すぐに私の目の前に立ち塞がったコハクの身体によって遮られ。
そして忌まわしそうに、そのしっぽで強く手をひっぱたかれるのだ。
「いやいや、今日も姫君の聖獣殿は手厳しい…」
「――王太子殿下、お時間にございます。サーナ様は、多くの執務を抱える身にございます。どうぞお引き取りを。」
「…残念だが、今日は侍女殿に従うとしよう。ですが、僕は諦めません。いつかあなたの心を射止め、その真名を呼べる日がくることを祈ります。――では。」
そう言って恭しく騎士の礼を取ると、颯爽と王太子殿下は執務室を出て行く。
その背中を見送って、扉が締まった瞬間、私は大きなため息を漏らして、机の上に身体を倒した。
「もうホントにやだー!あの人私の話聞いてないよ!あんなにはっきり嫌だって言ってるのに!」
“厄介な男に好かれたものだな、なつな。あれならまだ、水龍の方がましだ”
「うう…」
「なつな様、お疲れさまです。今、紅茶をお入れしますね。」
「ありがとう、シェリアさん…」
《…なつな様、あの男を切り裂いてはダメでしょうか》
「!!だだだだめだよ!まがりなりにも王太子殿下だから!」
不穏なことを言い出すコハクを必死に宥めながら、私は目の前の書類を手に取る。
それは、明日のレイや私を含めた龍への面会希望者のリスト。
この世界に落ち着いて、1ヶ月が経った頃。
私はレイにあるお願いをした。
それは、私にもなにか出来る仕事があればしたいということだった。
龍王とその半身には、長い間受け継がれてきた資産がある。
更に驚いたことに、私がこの世界にきて2日目の朝。
なんと寝室のテーブルの上に、これでもかと、宝石の原石が無造作に積まれていたのだ。
レイは、極真面目にこう言った。
『きっと、見えざる者からなつなへの、プレゼントじゃないかな?』
そしてその発言に固まる私に追い打ちをかけるかのように、一部始終を見ていたコハクとシオンが説明してくれた。
どうやら見えざる者と聖獣の、共同作業の結果らしい。
見えざる者が鉱山に聖獣を案内し、そして聖獣が鉱山を掘る、そして掘り当てた原石をここまで聖獣が運ぶ。
聖獣も龍と同じく人化出来るようで、気配を悟られず部屋に入ることなど容易いらしい。
シオンは散歩中にその光景を見つけ、部屋に戻ってきて暫くするとやってきた聖獣達の行いを止めることなく、コハクと2人で見ていたようだ。
《見えざる者と聖獣が協力するなど、有り得ないんですよ。なつな様だからですね》
要は、私は。
この世界にいる限り、何もしなくてもお金に困らないのだ。
だけど、そんなの困る!
1000年も生きるらしいのに、何もせずにいたら病む!
優雅な暮らしなんて、私にはムリだ。
簡単な仕事でもいいから、何かしていたい。
そう訴えたら、レイは。
面会希望者の選別と、王城への通達、名を呼ぶ仕事をさせてくれたのだ。
この聖域には、入るための手順がいるのだ。
聖域には、人間は勝手に立ち入れない。
何故なら結界の強さに身体が耐えきれず、死に至るからだ。
入るためには、龍王とその半身に真名を明かさなければならない。
その真名を龍王か半身が呼ぶことで、結界内に短時間だけ入ることが許される。
それは、絶対的な忠誠。
人を導く龍王と半身の恩恵を受ける人々からの、明確な意思。
だからまず、前日に面会希望者の中から、それぞれの龍に面会者を決めて貰う。
そして私は王城にいる宰相閣下宛ての通達リストを書いて、眷族に知らせて貰う。
そして翌朝、面会希望者の真名を口にするのだ。
これは、私とレイにしか出来ない仕事。
「……」
そのリストを見つめて、あるところで視線が止まる。
そこにある名前の横に、彼らしい綺麗な文字で『承諾』の一言が書き添えてあるのを見て。
また心に、波紋が広がる。
“…なつな?どうかしたかい?”
「!え、あ…ううん。何でもないの。」
シオンの問いかけに慌てて首を振りながら、私はリストから目を逸らす。
そしてシェリアさんが入れてくれた紅茶を飲みながら、コハクの柔らかな毛を撫でて、息を吐く。
それでも脳裏にちらつく名前と、彼の顔。
私が目を逸らしたリストには。
ライナスさんへの面会希望者――アナマリア・ルシェラ・メルヴィノ・アウリール王女殿下の名前と。
彼女と会うことを承諾する、ライナスさんのサイン。
それは、ここ連日ずっと見る…2人の逢瀬の証拠。
そのために私は――彼女の名前を呼ばなければならない。
それが、どうして辛いのかも分からずに。
私の心には、日に日に波紋が広がっていくのだった。
さあ、出て参りました。
空気の読めない男、クラウス王太子殿下。
彼はこの章のキーの1人です。
そして、なつなちゃんの心の波紋。
さあ、どうするライナス!気づくのかライナス!
すれ違い、スタートです。