名を授けるという意味
「サ、サーナ?」
「あらあら、まあまあ!動物がお好きなのですわね、サーナ様。」
「ああ、あんなに無邪気に喜んで…全く、サーナは本当に可愛いですね。」
“やっぱりね…。好きだと思ったんだよ、サーナ。だから連れてきたんだけど”
もこもこに顔をうずめてすりすりしながら、両手でその躯を撫でて至福を味わう。
そんな私の背後や隣りで交わされる会話に構うことなく、頰で両手で毛の感触を確かめる。
(ううう、夢みたい…!こうやって思う存分虎に触れる日がくるなんて…!)
どうしてだか私は、この子と目が合った瞬間から、本来猛獣を前にしたら感じる恐怖感が全くなくて、咬まれるとか傷つけられるとか、全く感じなかった。
それどころか、その瞳からは好意のようなものを感じて。
だからこうして、遠慮なく触れるのかもしれない。
《あの…半身様…。ご挨拶が、まだ…》
「!」
そんな至福を味わっていた私の脳裏に突然直接響いた、遠慮がちな幼い少女の声に、私は思わず目の前の天虎を凝視する。
必然と重なる視線に、私も思わず反射的に心の中で問いかけてしまった。
(あなた、天虎さん…?)
《そうです。突然声を飛ばしてしまって、申し訳ありません…》
(これって、私の心に直接話しかけてるの?)
《はい。私達聖獣は、龍や人のように話すことも出来ますが、今は半身様にだけ聞こえるように語りかけています。それに本来、聖獣は人や龍と会話をしません》
(話せるのに話をしないの?どうして?)
《その必要がないからです》
(必要が、ない…?)
私の質問に頷くようにゆっくり瞬きをした天虎に、私は更に問いかける。
(どうして、必要がないの?)
《私達には、それぞれ役割があるからです。『龍』は人を導く存在、私達『聖獣』は神の意志を汲み、守る存在、『見えざる者』は『愛し子』のため、世界の在り方を定める存在、『人』は弱き故に慈しまれる存在。人に関わるのは龍の務め、私達聖獣は関わる必要がないのです》
(じゃあ、どうして私のところに?私も人だから、あなた達が関わる必要はないんじゃ…)
《それは違います。『龍王の半身』は、万物に愛されし存在。神や私達聖獣、見えざる者にとって、半身様は特別な存在なのです。お傍に寄り添えることは、何よりの誉れであり誇りです》
幼い少女の声が紡ぐ言葉は、何故かとても神聖な響きを持っていて。
紛れもなくこの子が神の御使いなのだと、私に感じさせた。
《昨夜、半身様の気配をこの聖域で感じた時――心がとても震えました。お傍に在りたい、お力になりたいと、強く想いました》
(天虎さん…)
《故に私は、父に頼みました。一族の誰もが半身様のお傍にと望む中、無理を通しました。そしてこちらの神様の御許へと参り、お目通りを願ったのです》
(……)
《どうか、半身様…。私が半身様のお傍に侍ることをお許し願えないでしょうか。もしお許し下さるならば、どうか『御名の盟約』を私と…!》
「御名の盟約…?」
語りかけられた初めて聞いた言葉を思わず声に出して呟いていた私に、今まで黙って私達を見守っていたレイ達が動揺する気配を感じた。
けれど私は気づかなかった。
何故、レイ達が会話に割って入れなかったのかを。
私と天虎、そして神である彼が作り出す空気が、とても神聖で厳かであるが故に、立ち入ることが出来ずに、見守るしかなかったのだということに。
“——ああ、ちょうどいい。僕とも御名の盟約を交わそうか、なつな”
真名を呼び、目の前にいる彼女と同じように直接心に語りかけてきた彼に、私は心の中で問い返す。
(御名の盟約って、なんなの?)
“僕達神と聖獣には、真名がない。僕達は、支配される存在ではないからね。故に、誰かの支配を望む時――主になる者から名を与えて貰うんだよ”
《与えられた名は、主が召されるまで私達を縛り、魂で結ばれるのです。魂によって、裏切りや偽りは決して有り得ない…それが御名の盟約です》
“そして、キミ達の真名と違うのは、主以外の者に名を呼ばれたとしても、資格なき者に名は縛れない。永久に主だけとの盟約になる”
(そ、そんな重大な契約を、あなた今さらっと自分とも交わそうって言ったよね?!)
“僕が言った加護を授けるというのは、そういう意味なんだよ…なつな。キミはそれ程この世界には重要な存在で、そしてキミがあの世界に誤って生まれた事実は、それ程重大な過ちなんだ”
普段の鷹揚さは見る影もなく、威厳ある声でそう諭す彼に、私は思わず息を呑む。
そんな私を真っ直ぐに見つめ、彼は続ける。
“なつな、キミはこれから気の遠くなる程の時を生きる。キミの存在は、この世界に強い影響を与えるだろう。そして、そんなキミを害そうとする存在が、現れないとも限らない”
(そんな……)
“僕はキミを不安にさせたいわけじゃないんだ。キミが大切だから、心構えだけは持っていて欲しい。キミは慈しまれる人の身だ。僕もこの子もなつな、キミを護りたいんだよ”
《半身様、この世界に生きる聖獣も見えざる者も、全てが半身様を愛し…味方です。どうか配慮などなされずに、私と神様の願いをお聞き届け下さい…》
そう言って、恭しく頭を下げた天虎の少女と、堂々とした様子でしっぽを揺らす彼の姿に、私は暫く戸惑ったまま呆然としていたけれど、気持ちを落ち着かせようと瞼を伏せて、ふと思い出す。
この猫の姿をした神様と出会って、選択を迫られて、この世界に行くと決めた時。
何があっても、全部受け入れるって決めた。
不安がなかったって言ったら、怖くなかったって言ったら、嘘になる。
でも、日本で過ごした23年間で、味わった気持ちに比べたら。
そんなもの、屁でもないと思った。
私の半身が待ってる、もうあんなに悲しんでる姿を見ることもなくなる。
向かう世界でまた選択を迫られたとしても。それが良いことでも悪いことでも、全部。
自分で考えて、決めるんだって決めたじゃない。
そのことを思い出して、私は。
改めて、覚悟を決めた。
「――琥珀。あなたの瞳の色は、私がいた世界では琥珀というの。そしてその文字には、天虎の虎という文字も含まれているの。」
あえて私は、声に出して告げた。
それは、自分の覚悟をみんなの前で宣言するために。
この世界で生きていくのだと、証明するために。
「――そして、あなたの名は紫苑。あなたの瞳の色は、あの世界ではそう言うの。そして…私の1番好きな色。」
2つの名を告げて、やりきったような気持ちに深く息を吐き出した私の目の前で。
恭しく下げられる、2つの頭。
二頭の獣は、厳かな響きを纏い、言葉を発していく。
“盟約は交わされた”
《今この時より我らは、無二の主を得る》
“主が召されるその時まで”
《この身全て、主に捧げよう》
幼い少女が、幼さを感じさせない獣の咆哮を上げる。
悦びを知らしめるように、誇らしく厳かなそれは世界へと響き渡り、染み渡るように消えていった。
漸く神様の名が決まりました。
これからは、カタカナ表記になると思います。
この世界では漢字じゃ通じませんしね。
久しぶりに気合の入ったシーンでした。
さて、そろそろ第3章に入りましょうかね。




