恋浪漫 -コイロマン-
束髪くずしに大きなリボンを結びつけ
矢絣模様の着物と海老茶袴を身につけて
紐で編み上げた革靴に足を通した私は、世の流行を追うハイカラな女学生だ。
「ごきげんよう。」
「ごきげんよう。」
夕暮れの下校時刻。
おしとやかに歩きながら女学生たちは家路に帰っていく。
「梢様、よろしければ甘味屋に寄って行きませんこと?」
友人に呼ばれて振り向いて、私は微笑を称えながら彼女に答えた。
「ごめんなさい。今日は書道のお稽古の日なの。また誘って下さいな。」
「あら、そうなの。ではまた明日。ごきげんよう。」
「ごきげんよう。」
なごやかに彼女と校門で別れた私は、子供のころから通っている書道教室を目指す。
女学校からほど近い教室は、古く広い平屋の中。
勝手知ったる平屋につくと玄関で靴を脱いで、古い板張りの廊下を歩いていく。
左側の襖を開けた部屋が、私が通う教室だ。
「こんにちは。」
縁側へと続く障子戸は常に開け放たれていて、庭が見られるようになっている。
そんな緑を背景にした空間の中、ピンと背筋を伸ばして筆を持つ和服の男性。
集中しているのか襖を開けた音にも私のあいさつの声にも気付かないようで、真剣な眼差しで彼は懐紙を見つめていた。
端正な顔をした、20代後半の彼は3年前に師からこの教室を継いだばかりの書道家だった。
「……。」
その凛とした横顔が恰好良くて、思わず頬を緩ませてしまう。
彼の集中力を切らさないようにそっと襖をしめて、書を書く彼の斜め向かいまで歩いて行くとそっと腰を降ろして正座をした。
少しだけ身を乗り出して覗いてみる。
どうやらもう書き終わる所らしい。
最後のひと払いまで丁寧に。気を抜かず。
その筆使いは先生の性格そのものを表わしているようで、私は先生が書を書いている所を見るのが大好きだった。
「……っ。」
筆の先が紙から離れ、書き終えて気が抜けたのかふっと先生の周りの空気が柔らかくなる。
顔を上げた彼の目と視線が噛み合うと、私は満面の笑みで視線を返した。
「こんにちは、先生。」
「梢さん。来たなら声をかけなさい。」
「挨拶しましたよ?先生が集中していて気付いてくれなかったんです。」
「それは…すみません。」
集中した自分がどれだけ周りが見えなくなるのか自覚しているだけに疑うことはせず、先生は私に素直に頭を下げる。
男尊女卑が当然の世の中。
たとえ男性が悪かったとしても女に頭なんて下げられるかというおごり高ぶった者は多かった。
女性に素直に頭を下げられる。そんな潔い所が好きだなぁと思う。
そう。私は彼に恋をしている。
3年前、彼がこの教室の先生になったその日からひそかに思い続けいてた。
「いいえ、先生が書いているの見るの好きですから。恰好いいです。」
「それはどうも。授業を始めますよ。」
「……。」
うーん。これも駄目か…。
『好き』『恰好いい』と言った単語を、私は先生に向けてよく使う。
気付いて欲しいと心を込めて。
でも先生がそんな言葉にまともに反応してくれた事は一度だってなかった。
教師と生徒。
大人と子供。
何をどう考えたって、望みのひとかけらも無い恋。
こんな感情はそろそろ捨てるべきだと重々分かっている。
------だから、丁度いいの。
お腹に力を込めて、背筋を伸ばして、声が震えてしまわないように注意して。
私は用意して来た台詞を先生に告げる。
「今日は授業に来たんじゃありません。先生、お話があるんです。」
「話?」
「私、婚姻が決まったんです。だからお稽古はやめさせて頂こうと思って。」
「っ…そう、ですか。」
婚姻の話は本当のこと。
無理やり婚姻を進めるような両親ではないけれど。
私だって年頃だし、そこそこの家柄でもあるので、そう言う申し込みはあるのだ。
婚姻の申し込みを貰った時、丁度いいと思った。
先生を諦める丁度いい機会だ、と。
稽古を止めるのはもっと先でも良かったけれど、どうせなら斬り良くきっぱりと辞めてしまいたかった。
…止めてくれないかな、と言う小さな希望は少しだけ持っていた。
けれど先生は少し驚いた程度の反応。
どう考えても私への恋情は垣間見えない。
動揺なんて見せずに、静かに笑って平然と彼は言うのだ。
「おめでとう。梢さんならきっと良いお嫁さんになるよ。」
「っ…!」
うん。
駄目だ。
これでおしまい。
気付かれないように小さく深呼吸して、無理やり笑顔を作って三つ指をつくと、丁寧に頭を下げた。
肩から流れた黒い髪がさらりと落ちて揺れる。
「長い間、ありがとうございました。」
「…こちらこそ。君は真面目な生徒だったから、教えがいがあったよ。」
「っ…。」
「梢さん?」
「いえ、それでは…失礼しますね。」
出来るだけ顔を見せないように立ち上がると、私はもう一度頭を下げて襖へと向かう。
廊下へ出て、襖を閉める。
同時に、ぽとりと廊下に小さなシミが浮かびあがった。
「っ…!」
ぽとぽとと、シミはいくつも増えて行く。
私が泣いているせいだとは分かっていたけれど、止めるすべが見つからない。
「先生のばか。」
呟いた時。
何故か勢いよく、私の背後の襖が開いた。
驚く間も無く腕を大きな手に掴まれ、引き寄せられる。
「え!?」
勢い余って足を縺れさせて、その場に倒れてしまった私は、気がつくと同じように畳の上に倒れている彼の胸の中にいた。
私を支えながら半身を起した先生は、私の顔を覗き込んで目を丸くする。
「ど、どうして泣いているんだ!どこか打った?!痛い?!」
「……ど、して。」
「え?」
どうして。
どうしてどうしてどうして。
「どうして襖開けるのですか!泣き顔なんて見られたくなかったです!!」
「はい?」
先生は意味がわからないと言うふうに、あっけにとられているけれど私にとっては大切な事なのだ。
先生の前では良い子でいたかった。
愛想のいい笑顔の可愛い明るい子でいたかった。
いい印象を持たれたかった。
大好きだから。 大切だから。
涙でくしゃくしゃに汚れた顔なんて、絶対に見せたくなかった。
綺麗で恰好良い自分で最後を飾りたかった。
なのにどうして。
最後の最後に、こんなみっともない顔を晒さなければならないのだ。
女としての矜持くらい守らせてくれてもいいじゃない。
「ほんっと有り得ない!先生は女心が分かって無さすぎです!私がどんなに好きだっていっても答えてくれないし。なのにいつも優しくして、にこにこ笑ってくれて、うっかり期待させて紛らわしい!いっその事突き放してくれればいいのに!!」
そうすれば、もしかしたら。 ここまで好きにならずに済んだかもしれないのに。
思わず感情的になってわめく私に、しばらく先生は茫然としていた。
けれど意味を理解すると、いつも筆をやさしく持つその綺麗な手で、私の両肩を掴んできた。
着物を隔てていたけれど、なぜだかその手がやけに熱をはらんでいるように感じて、思わず顔を上げて彼を見上げる。
「……それ、本当?」
「は?」
「俺のこと好きって、本当?」
「い、いつも言っているじゃないですか。」
「は?聞いたことないけれど。」
「言っています!さっきだって書いているとこが恰好良くて好きって言いました!」
「………それか。」
あれ、先生。なんだか凄く難しい顔をして脱力している。
「先生?」
先生は深いため息を付いてから私の顔をじっと見つめて、柔らかく幸せそうに笑う。
凄く綺麗に笑ったまま、彼は大きな腕で私をきつく抱きしめた。
身体を包む大きくて熱い感触にどうして良いか分からず固まってしまった私をほぐすかの様に、先生は背中に廻した手で私の背を優しく撫でてくれる。
「せん、せ?」
「君は、書を見るのが好きなのだと…。まさか君の言う『好き』が俺を指してるのだとは露とも思わなかった。」
「……。」
「好きだよ。愛してる。誰にも、渡したくない。」
「うそ。」
「本当。さっきだって、駄目もとで告白しようと君を追いかけようとして…。」
あぁ、だからあんなに勢いよく襖が開いたあげく引っ張り込まれたの。
妙に納得してしまった私を抱く先生の腕。
更に力を込められて、かつてないほどの密着具合にどうして良いのか分からない。
「先生。本当に?」
「本当に。真剣に書に向き合う姿が凛としていて綺麗で何度も見惚れてたよ。芯が通っていて真っ直ぐな心根も格好いいと思っていた。
ずっと手に入れたかったけれど、降られてもう会えなくなる位なら慕われる教師で居ようとしていた。
でも、俺のものになってくれると言うのなら我慢なんてしない。君を愛してます。」
「…嬉しい。」
恥ずかしかったけれど、気持ちを返したくて私も先生の背中に腕をまわした。
暖かくて気持ちいい。
大好きな先生の匂いが近くに香る。
「あのね…、お願いがあるの。」
「何?」
「私、婚姻受けちゃったの。だから断るにはきちんとした理由が必要で…。」
一度決まった婚姻の破棄。
両親は無理やり婚姻を推し進めるような人間ではないけれど、それでも相手方に申し訳ないと、良い顔はしないだろう。
その為には協力者が必要だった。
だから何らかの口添えをしてもらえないだろうかと思ったのだ。
「うん。梢さんのご両親に挨拶に行こうか。娘さんを下さいって頭を下げるよ。」
「いいの?突然すぎない?」
そこまでしてくれるとは思っていなかった。
いくら何でも想いが通じ合ったその日に、親に結婚を申し込む意気込みのある男はそうそう居ないだろう。
気後れしてたじろぐ私を先生は真剣なまなざしで見つめて言う。
「ずっと、欲しかったんだ。もう誰かに持っていかれないように、一日でも早くお嫁さんになって欲しい。」
「…ありがとう。」
ずっとずっと恋をしていた。
片思いだと信じていた人。
彼の元へ嫁げるなんて、夢のようだった。
この人の傍に永遠にあり続けたい。
素直にそう思った気持ちのままに、私は彼に寄り添い体をあずけた。