ヒヤシンス:遊戯
数日後。明日からのサークルの夏合宿の準備をしていたら、家のインターホンが鳴った。
「はーい」
こんな時間に誰だろう?
もう夜の八時をまわっていて、勧誘とかはないよね。
私は、荷造りの手を止めて立ち上がり、玄関に向かった。
ドアを開けると、そこにいたのは翔だった。
「翔……?」
今日は別に約束とかしてなかたよね……?
それともなにかあったかなと思って、首を傾げてしまう。
私はちょこっと開けていた扉を押し開いて、翔を家の中に招き入れる。
「どうしたの? もしかしてメールしてくれた?」
荷造りで家の中をあちこち移動してたからメールの着信に気づかなかったのかと思って携帯を確認したけど、メールはなくて、ますます首を傾げる。
「あー、突然来て悪い」
「ううん、別に大丈夫だけど、どうしたの?」
「うちの洗濯機が壊れたんだ、だから貸して」
「ええー!?」
翔の憮然と言った言葉に、思わず不満の声をあげてしまう。
「うちはコインランドリーじゃないですよ~」
「いいじゃんか、家近くなんだし」
「そういう問題じゃないし……」
私はため息をつきつつ、もう諦めモード。
だって、翔の強引なところはいつものことだし。
まあ、洗濯機くらい貸してもいいか。
「わかった、ちょっと待ってて」
そう言って私は、お風呂場に向かう。いちおう普段から掃除はしてるし綺麗にはしているけど、まあ、見られたら恥ずかしいものとか出てないか確認して、洗濯機を使うのに邪魔になりそうなものをどかした。
※
バイトを終えた俺は、図書館でレポートをやっている璃子を探して書架の間を歩いていた。
仲間と一緒に図書館に来る時は大きな机やソファーなんかが置いてある二階の談話室を使うけど、一人の時、璃子は書架の奥のあまり目立たない一人掛けの机を利用することを付き合い出してから知った俺は、まっすぐに璃子がいそうな場所に検討をつけて歩いていたんだが、その足がふっと止まって、その場から動けなくなる。
俺の視線の先には、予想通り、一人掛けの机に璃子がいたのだけど、璃子は机に頬を伏つけて寝ていて。そんな璃子を愛おしそうに見つめ、壊れ物に触れるようにそっと優しく頭を撫でている世良の姿だった。
瞬間、胸の奥がツキンっと痛む。
璃子は自分が思っているより素直で、気持ちが表情に現れやすい。だから、小学校からの腐れ縁と言いながら、ずっと世良を好きで、いまでも忘れられないでいることに、俺は気づいていた。
でも、世良の気持ちはずっと分からかった。
璃子から聞く限り、世良だって璃子を好きになっていてもおかしくないような状況なのに、一年の時はじめて食堂で会った時、「俺と璃子は親友だけど……?」と不思議そうに首を傾げた世良の表情を思い出す。
本当に、璃子のことを親友としか思っていないような、甘さのない涼やかな顔だった。
だから、璃子があいつのことを好きで忘れられなくとも、世良が璃子を好きじゃないなら俺が璃子を守ろうと思った。
世良のことを話す璃子の笑顔は切なくて、俺には泣いているようにしか見えなくて、そんな表情させたくなくて。
絶対に、俺に振り向かせると思った。
でも、世良が璃子を好きなら――?
いままでの世良の態度からはそんなふうには思えなかったけど、上手く隠していただけなのか、本人が無自覚だったのか。
でも、好きなんだろうが……
あんな愛おしそうに見つめて――
※
図書館での出来事を思い出した俺は、ぎゅっと奥歯を噛みしめた。
ずっと決心がつかなかった俺の心に決定打を打ち込んだ出来事。
世良が璃子を好きなら、璃子が世良のところに行けるようにしてやるのが俺の最後の役目なんだ。
自分がこれからしようとすることを思うと、苦虫をかみつぶしたような渋い表情になってしまう。
俺は自分の決心が鈍らないように、璃子に連絡もせずに璃子のアパートに来ていた。
璃子は明日からサークルの合宿といっていたから、家にいるだろうと思った。それに、合宿ではきっと――……
理由は何でもよかった。
あまりない頭をひねって考えたのが、洗濯機が壊れたから洗濯させてくれって口実。
璃子ははじめは渋い顔をしながらも、諦めたように苦笑して洗濯機を貸してくれた。
洗濯機を回している間、俺の差し入れに持ってきたケーキを食べながら、璃子が借りていた映画のDVDを見る。
狭い一LDKの部屋。ベッドに寄りかかるように並んで座って、向かい側の十九インチのテレビに映し出される映画はラブサスペンス。
映画の中盤で洗濯機の終了を告げる音が鳴って、俺は洗濯物を持ってきていた袋に洗濯物を突っ込んで、また璃子の隣に座った。
終盤、事件が解決してヒロインとヒーローのラブシーン。
触れた指先に指先を絡めたら、ぴくっと揺れた肩。璃子が驚いたように俺を振り仰いだ。
俺はそのまま手をつなぎ、覆いかぶさるように璃子を床に押し倒した。
お風呂上りなのか、いつもポニーテールに結わかれている髪はおろされていて、シャンプーのいい香りが鼻孔を刺激する。床に扇状に波打って広がる栗毛、もともと大きな瞳を更に見開いた瞳。
俺は顔を傾けながら二人の距離を一気に詰めた。
息のふれる距離。
唇と唇がもう少しで触れそうになったところで、璃子が身をよじる。
「……ゃぁ……」
小さな悲鳴と、拒絶するようにぎゅっと瞳をつぶり顔をそむけた璃子を見おろし、俺は口元に浅く笑みを浮かべる。
今の俺はどうしようもなく惨めで、自嘲気味な笑みだった。




