スターチス(ブルー):消せない想い
ふっと吐き出した息が夜風に流れていく。
アパートの下で、拓斗の部屋を見上げる。
私が知っている拓斗のアパートは小学校のすぐそばにある古びた木造のアパートだった。階段とか錆びててところどころに穴が開いていたりしたけど、今日送っていったアパートは駅からわりと近くの住宅街の中にある白い壁の綺麗なテラスハウス。庭に咲いた立葵が街灯にたらされた闇夜に凛としている。
引っ越したことは聞いていたけど、実際に新しいアパートを見るまで実感がなかったから、なんか変なかんじがする。
電車の中、隣に座った拓斗は強いお酒の香りをまとったままずっと目をつぶっていた。駅前を歩いていた時の思いつめたような表情はなく、静かな表情だった。
私はもう一度アパートを振り返って見る。
あんな酔ってる拓斗も、なにかに絶望したみたいな自嘲的な雰囲気もはじめてで、気になって仕方がなかった。
って、いままでお酒飲める年齢じゃなかったっていうのもあるか。
私はまだ二十歳になってないからお酒飲めないけど、拓斗はもう二十歳の誕生日すぎてお酒も飲めるようになったんだな。
小学校からの付き合いだからお互い子供だと思ってたのに、もう私も拓斗も昔とは違うんだなって思ったら、なんだか切なくなる。
それだけで遠い存在に感じてしまう。
小学生の頃、拓斗のお母さんに言われた言葉を思い出す。
『あの子、ちょっと恋に臆病になってるんだと思う。でも、璃子ちゃんが側についててくれたらきっと拓斗もいつか分かると思うの、恋が悲しいものなんかじゃなく、素敵なものだって』
だから拓斗のことをお願い――
そう言ったおばさん。
だけど、ごめんなさい。
心の中で謝って、私は胸元でぎゅっと両手を握りしめた。
私なんかじゃ、拓斗の苦しさを和らげてあげることはできなかった。
愛に絶望しないように、友達としての好きでも誰かを好きになることが素敵なことだって思ってもらえるように、親友としてずっとそばにいた。
でも、ダメだった……
拓斗への恋心を隠すって決めたのに、どんどん気持ちは膨らむばかりで、拓斗にとってその気持ちが迷惑でしかないって分かってたのに気持ちを押し付けるようなことして、拒絶されて。親友としても側にいられなくなってしまった。
ずっとそばにいるって誓ったのに、私と拓斗はもう元には戻れないのかな――?
はぁ~~……
なんか疲れちゃったなぁ。このまま実家に帰っちゃおうかな。ってか、もうこの時間だと終電もいっちゃってて帰れないし。
時間を確認するために鞄から携帯を取り出して、はっとする。
ディスプレイに、たくさんの着信履歴とメール。
――――っ!
翔と約束してたんだった……
着信履歴を確認すると、翔から数分おきに着信があって。その合間にメールも来ていた。
もう翔のバイトが終わる時間はとっくに過ぎてて、それなのに私は翔に連絡することも忘れてて、さぁーっと背筋が震える。
メールを確認すると。
『璃子、いまどこ? 俺はバイト終わって待ち合わせのカフェにいるよ』
『もう電車に乗ってこっちにむかってるよな?』
『まさか、残業?』
『なんでもいいから、とにかく連絡くれ!』
『やっぱいい。慌てて事故にあったら困るしな。ゆっくりおいで』
『待ってるから』
メールを読んで、胸の奥が熱くなる。
私は慌てて翔に電話をかけ、携帯を耳に当てた。
コール音が鳴り始めてすぐに、翔が電話にでた。
『……璃子かっ!?』
焦ったような声に、罪悪感が押し寄せてくる。
「翔……」
『カフェにはいないし、連絡もつかないから心配してたんだぞっ?』
ちょっと怒った声。でも私のことを心配してくれてたんだって伝わってきて。
「ごめんなさい、連絡しないで」
『なにかあったのか?』
「ううん、あの……」
拓斗に会ったことを言うべきかどうか迷ったけど、ずっと心配して待っててくれた翔に嘘は言いたくなくて。
「バイト終わって駅に向かってる時に拓斗に会って……」
『…………』
「すごい酔ってて、友達が一緒じゃなくて一人だったから心配で、家まで一緒に帰ったの」
『………………』
「あのっ」
『事故にあったとか、そういうんじゃないんだな?』
翔の沈黙が怖くて、何か言わなければと思って口を開いたら、いつもより少し低い声で翔が尋ねてきた。
「うん」
『……ならいい』
「えっ?」
『璃子が無事ならいい。世良の家に送ったってことは、いま璃子の実家の近くなんだろ?』
「うん、そうなんだ。もう終電の時間も過ぎちゃってるから、今日は実家に泊まろうと思って」
『ああ、わかった。じゃあ、また明日学校でな』
「うん、気をつけて帰ってね」
『おう、璃子も夜道には気をつけろよ』
「うん……っ、おやすみ……っ」
『…………、おやすみ』
少しの沈黙を挟んだ後、翔の艶やかな声が耳にしみ込んできた。
私は必死に笑顔を浮かべて、おやすみと言った。電話だから見えないのは分かっていたけど、そうでもしないと、嗚咽がこぼれてしまいそうで。無理やり顔の筋肉を動かした。
通話の切れた携帯をしばらく眺め、ぽろぽろと堰を切ったように涙がこぼれ落ちていく。
翔はずっとカフェで待っててくれた。
それなのに、約束をすっぽかしたことも連絡しなかったことも怒らずに、私を心配する言葉だけを言った翔の優しさに、涙が込みあげてきた。
翔は言葉にはしなかったけど、拓斗を送ったと言った時、そのことを気にしていたみたいだった。ほんの少しの沈黙から翔の動揺が伝わってきて、こんなに自分を大事にしてくれる人を不安にさせてしまった自分が嫌になる。
翔を不安にさせてたらダメじゃない……
ただ。どうしても拓斗が心配で、翔との待ち合わせも連絡することも頭からすっぽりと忘れてしまっていた。
翔と付き合って一年。一緒にいると飾らない自分でいられて、穏やかな気持ちになれて、翔に惹かれている自分がいた。
でも。
酔ってふらついた拓斗を見た瞬間。
痛いくらい切なげな笑みと自嘲気味な影を落とした瞳を見た瞬間。
私の胸をついて、拓斗の事しか考えられなかった。
離れていた間でも、決して消えることのなかった想いが、急激に胸の中で溢れてくる。
翔は俺の彼女になれとは言ったけど、拓斗への気持ちを諦めろとは一度も言わなかった。
それは、翔も知ってるから――?
自分の気持ちが受け入れられなと分かっていても、同じように気持ちを返してもらえないと分かっていても。
消せない気持ちがあるってことを、知ってるから――?
『好きになっても、同じように気持ちを返してもらえなかったら? 好きになっても気持ちが変わってしまったら? 切望するだけ絶望するんだ……』
うん、そうだね。切望するだけ、絶望するんだ。
でも、だからって、消せない想いもあるんだ。




