スイレン:純情
ふいに過去のことを思い出して、なんとも言えないもやもやした気分になる。
『好きになっても、同じように気持ちを返してもらえなかったら? 好きになっても気持ちが変わってしまったら? 切望するだけ絶望するんだ……』
だから、俺は誰も好きにならない。誰の好きにも応えられない。
無意識に心にブレーキをかけて、恋とかそういう感情を遠ざけて鈍感になるようにした。
傷つきたくなくて――
だれも、傷つけたくなくて――……
母さんを捨てた“父親”みたいに、俺も誰かを哀しい表情にさせてしまうかもと思ったら怖くて。
それなのに、気づいてしまった――
無意識に俺は人差し指で自分の唇に触れる。
お披露目パーティーでの出来事を思い出す。
璃子を紹介した時の祖父は、普段の猛禽類みたいな鋭い瞳に一瞬、おだやかな光が浮かんだと思ったのは俺の気のせいだったのか。
口調は相変わらず高圧的で嫌味だけど、その瞳が璃子を認めているように見えた。
必ずしも恋愛と結婚が結びつくものじゃないという言葉も、別に否定するつもりはない。
恋愛ってもの自体、俺には受け入れられないものだったから。
それでも、祖父の思惑通りになるつもりはなくて、璃子に彼女のふりを頼んだ。祖父も彼女を連れてくることにあっさり許可をしたのは、少しは母さんたちのことを反省したのかと思ったけど、そうじゃなかった。
結局は、すべての物事を自分の思い通りに進めようとしていた。その証拠に、祖父が連れてきたご令嬢。
天草銀行にはいろいろと融資を受けていて、そこの頭取のご令嬢と聞かされれば、彼女のことを無下に扱うわけにもいかない。
正式に跡取り選ばれたからといっても、橘家を継ぐかどうか、まだ迷っていた。初めて触れる食品会社の仕事は新鮮なことばかりですごく勉強になるし、働くのはすごく楽しい。ただ、血がつながっているからといって、いままで一切無縁だったのに俺を後継者にと言いだした祖父のやりかたが気に入らない。
母さんと父さんの幸せを壊した祖父が許せない。
絶対に、祖父の思惑通りにはならないと強く心に思いながら、なんとかないがしろにしない程度に彼女の相手をしておこうと思った。
それが、気がついたら、璃子とご令嬢の口論になっていた。
原因はご令嬢が璃子のことを見下したような態度をとったこと。
ついさっきまで、笑顔を浮かべて媚びるように終えに話しかけていた人と同一人物だとは思えないほどの豹変ぶりに閉口する。
そんな態度を俺の前でとって、俺が不快に思うとか考え付かないのだろうか……
そもそも、初めて会った俺に対して、好意を示してくるその態度がよく理解できなかった。
璃子も言っていたけど、彼女には自分の意志とかないのだろう。言われた通りにしているだけ。俺ではなく、橘食品の後継者の婚約者という立場に恋い焦がれているだけ。
「それがなに――? おじい様が認めようと認めなかろうと、肝心なのは拓斗の気持ちでしょ? そんなことも分からないのね、お嬢様は」
呆れたように言い、冷ややかな眼差しをご令嬢に向けた璃子の言葉が、胸をつく。
ほんと、みんな勝手なんだ。
祖父も、天草銀行のご令嬢も、俺の気持ちなんて無視して、理解しようともしないで。
俺の気持ちを分かってくれるのは、いつも璃子だけだ――
二人に気づかれないように、俺はふっと吐息をもらす。
「本物の恋人だっていうなら、ここで、証明してみせなさいよっ」
眉尻をつりあげて避けんがご令嬢の言葉に、やれやれと肩をすくめる。
いい加減、止めなければいけないな。そう思った瞬間。
スーツの襟をつかまれてぐいっと力いっぱい引っ張られて、気付いたら、璃子の唇と俺の唇が触れていた。
力いっぱいっていっても璃子の力だから転ぶほど強い力でもないけど、あまりにも突然のことに体が前屈みになる。
驚きに、これ以上開いたら瞳がこぼれ落ちるんじゃないかってくらい目を見開き、微動だにできなかった。それなのに頭の中では、高いヒールを履いてもまだある俺との身長差を埋めるために、必死につま先立ちになる璃子の姿が可愛くて仕方なくて。
そっと口づけた唇。やけに鼓動だけが大きく響いて。
瞬間、胸の奥から熱いものが湧き上がる。
『姿を見られただけで、声を聞けただけで、目があっただけで、幸せ。それが恋だよね』
なにかの時そう言っていた園城の言葉がふっと脳裏をよぎる。
オリエンテーションの日以来数ヵ月ぶりに話して、話しかけるまではなんて話しかけようとかどんな態度でとかぐだぐだ考えていたのに、璃子の姿を見ただけですぅーっとそれまで考えていたことが消えていって、自然に話しかけていた。
些細なことでもやもやして悩んでても、璃子の笑顔を見たらもやもやがなくなっていた。璃子に会えなくて寂しく思って、会いたいって思って、声が聞きたいを思った。
いままでずっと、理解できないと思っていた気持ちが、分かってしまった――
知ってしまったら、なんて単純な気持ち。
たぶん、璃子と初めて会った時から、俺は璃子に惹かれていたんだ。
小学校の入学式で、ピンクのワンピースを着た栗毛色の髪のポニーテールの女の子。くりくりの栗色の瞳がビー玉みたいに透き通った瞳から目がそらせなかった。
かぁーっと自分でも分かるくらい顔が赤くなって、思わず片手で顔を覆ってしまう。
自室で、誰もいないっていうのに、赤くなったことに恥ずかしくなる。
気づいたらどんどん加速していく気持ちに、自分の気持ちなのに自分でもどうすることもできなくて持て余してしまう。
どうしたらいいんだ……
って、どうするもなにも、璃子には彼氏がいて、俺も焦ってたからってあんな態度とって、最悪だ。
はぁーっと、この世の終わりのような重いため息がもれる。
気づいてしまった自分の気持ちに、初めての恋心に戸惑って、いっぱいいっぱいだったからって璃子に酷い態度をとってしまった。
いまさら、自分の口から出た言葉は取り消せないのは分かっているけど、後悔するばかりで、またため息が出る。
中学高校の頃、よく俺と璃子の関係を友人――特に女子に聞かれることが多くて、そのたびに、俺も璃子も声を揃えて「親友」と答えていた。その時はまったく他意はなくて、本当に俺と璃子は親友だと思ってた。
親友のよしみだと言って、彼女役を引き受けてくれた璃子。
俺のことを親友と思っている璃子に、俺の気持ちを気づかれたらいけないと思った。
そんなの璃子を困らせるだけで、その結果、友達としても一緒にいられなくなるのが嫌だった。いまだって、大学で会うことが少なってきているのに、嫌われて避けられたら――
想像しただけで、胸を刃物で突き刺されたようにずきんっと痛んだ。
気づかれてはいけない。上手く誤魔化さなければ。
そんな想いにかられて周りの状況も視界に入らなくて、緊張で顔が強張って、出た言葉が。
『璃子に頼んだ俺が間違いだった――……』
はぁ~~~~…………
静まり返った自室に、ため息が響く。
自分の気持ちばかり囚われて、焦って、誤魔化した言葉がこれなんて情けなさすぎる。
あの時の璃子の泣きそうに揺れた瞳が脳裏から離れない。
たまらないといったようにぎゅっと眉根を寄せ、顔を俯けた。
あの時、もっと冷静だったなら、もっと違う言葉で上手く誤魔化せたのに。
璃子を傷つけてしまったことが悔やしくてたまらない。
なんとかしなければと思うのに、季節は一気に夏休みに突入し、璃子に一度も会えないまま。




