カランコエ:君を守る
小さい頃からずっと俺と母さんは二人だった。
父親という存在がいないことに違和感を覚えたのは、四、五歳くらいだった。
保育園の他の子にはお父さんとお母さんという存在が当り前にいて、物語にもかならずお父さんとお母さんが出てきて。
ふっと尋ねたことがあった。
「ねえ、僕のお父さんはどこ?」
母さんはくしゃっと顔を泣きそうに歪めて床に膝をつき、俺を強く書き抱くようにした。
その時の俺は、母さんが泣いていることにも気づかないくらい幼くて。ただ、悲しげな母さんの表情だけが瞼に焼きついた。
それ以来、なんとなく父親については母さんには聞けなくなって。
父親がどんな名前で、どんな人で、どこで何をしているのか。俺は何一つ知らない。
大きくなるにつれ、周囲の噂話が耳に入るようになり、母さんが学生時代に付き合っていた人の子をお腹に宿して、でも相手の両親に結婚することを反対されて、結局、その男にも捨てられて、一人で俺を生んだらしいということを知った。
悲しいという感情よりも、怒りに近い感情が、腹の内からぐらぐらと湧きあがった。
いつも、俺のために朝から夜遅くまで働いている母さん。それでも、朝には必ず笑顔で俺を「おはよう」って言って、美味しい朝ごはんを作ってくれる。辛いなんて、一切表情に出さず、つつましやかで花を愛する可憐な人。
母さんを捨てるような薄情な男、父親だと思わないし、写真ですら顔を見たことのない男を父親だとも思えなくて、母さんさえいてくれれば父親なんて必要ないと思った。
俺が母さんを守るんだって決意した。
それと同時に、心の中で、黒い闇が広がっていった。
愛とか恋なんて、どうしようもないものなんだ。
誰かを好きになってもすぐに心変わりしてしまうような気持ちなら、俺にはいらないものなんだ――
※
あの日も、いつものように拓斗のアパートの前の空き地でかくれんぼをしていた。
公園は近くにもあるんだけど、小学校から近い拓斗のアパートの前の空き地がみんなのかっこうの遊び場となっていた。
その日も、遊びはかくれんぼで。
たまたま同じ茂みに隠れた拓斗が、釈然としない様子で首を傾げてるから、私はどうしたのって尋ねた。
「だって、はーちゃん、じゃんけんで勝ってたのに鬼やりたいなんて、変じゃない?」
んーんー、首をひねる拓斗を、私はまるで化石でも発見してしまったみたいに驚いて、ぱちぱちと目を瞬いてみてしまった。
つい昨日の出来事、今日の一日であっというまにクラス中だけでなく学年中に広まった噂を知らない人がここにいるから。
「はーちゃんとたつきくん、昨日から付き合い出したんだって」
たつきくんというのは、じゃんけんで負けて鬼になった男の子。はーちゃんは、じゃんけんで勝ったけどたつきくんと一緒がいいって言って、鬼になった女の子。
二人は好きあってて、両思いだってお互いに知って、昨日から付き合い始めた。
女の子が好きな男の子と少しでも一緒にいたいって言う淡いふわふわした気持ちを、私も分かるようになってしまった。
わずかに頬を染めてちらっと横目で拓斗を盗み見ると、未だに理解できないように首をひねっている。
だからなに? とでも言いたそうな不機嫌な表情に唖然とする。
「えーっと、だから、はーちゃんはたつきくんのことが好きで……」
これ以上、どうやって説明したらいいか頭を抱えて悩んでいたら、私の言葉を拓斗が遮った。
「好き?」
そう言った拓斗は、小学生とは思えないような酷薄な光を瞳ににじませているから、私は息を飲んだ。
「それって、そんなに大事なこと? ずっと変わらない気持ちなんてないのに、その気持ちを信じるの? なんかそれって、虚しいね」
俯いて呟いた拓斗は、自嘲気味に微笑んだ。
好きって気持ちが虚しい……?
私は拓斗の言葉に、完全に思考が停止してしまった。
私もちょっと前まで、好きって気持ちなんてよく分からなかった。友達の好きと異性の好きの違い。
でも、拓斗と一緒に児童会をやるようになって、拓斗の側にいる時間が増えて、好きって気持ちがどんなものか分かってしまった。
側にいられるだけで嬉しくて、その人のことを考えただけでドキドキして眠れなくて。
キラキラした宝物みたいな気持ち。
それが虚しい――?
そう言った拓斗は俯いて、その表情は前髪に隠された。
好きって気持ちが虚しいって言う拓斗が悲しくて、そんなことないって教えてあげたかった。でも。
「好きになっても、同じように気持ちを返してもらえなかったら? 好きになっても気持ちが変わってしまったら? 切望するだけ絶望するんだ……」
悲愴な声音で言った拓斗に、なにも言えなかった。
風がさぁっと吹いて、拓斗の黒髪をゆすって通り過ぎ、一瞬、俯いていた拓斗の眼差しが見えた。空を見つめる瞳の中には切なげな光が静かに揺れてて、胸が苦しくなった。
なんて、悲しみに満ちた瞳なんだろう……
いつもキラキラの笑顔を浮かべてて、男子からも女子からも慕われて、たくさんの友達に囲まれているのに。その笑顔の裏で、他人と一線を引いて接していることを知ってしまった。
怖いんだって言っているように思えた。大切な人が側からいなくなってしまうのが怖くてたまらないって。だから無意識に、大事な人を作らないんだって諦めているような顔をしていた。
呆然と立ち尽くしていた私は、拓斗がいつの間にか移動して違う場所に隠れていたことに気づく。
なんだか胸の中にもやもやとしたものが溜まって、上手く消化できなくてその場から動けないでいると、ガサガサと茂みをかき分ける音が背後から聞こえて、びくっと肩を震わせた。
振り返ると、そこには鬼のはーちゃん達ではなく、拓斗のお母さんが気まずそうに苦笑して立っていた。
「えーっと、ごめんなさい、立ち聞きするつもりじゃなかったんだけど、拓斗の声が聞こえて……」
おばさんが歯切れ悪く言うから、あーさっきの私と拓斗の会話聞こえてたんだって、すぐに理解する。
「そんな悲しそうな顔しないで」
そう言って、おばさんは私の側で腰を折って目線の高さを合わせると、そっと私の頬に触れた。
「拓斗があんなこと言うの、たぶんおばさんのせいなの。おばさんのせいで、あの子、ちょっと恋に臆病になってるんだと思う。でも、璃子ちゃんが側についててくれたらきっと拓斗もいつか分かると思うの、恋が悲しいものなんかじゃなく、素敵なものだって」
だから拓斗のことをお願い――
そう言ったおばさんの心の声が聞こえた気がして、胸が切なくなった。
私なんかで、拓斗の苦しさを和らげてあげることができるかどうか自信はないけど、ずっと拓斗の側にいようって誓った。
私の気持ちが、拓斗にとっていまは迷惑以外の何物でもないのなら、この気持ちは胸の奥底に厳重に鍵をかけて閉じ込めて。
拓斗が愛に絶望しないように、親友として側にずっといようと。




