チューリップ(ホワイト):二度目の失恋
「璃子に頼んだ俺が間違いだった――……」
吐き捨てるような掠れた声が、ナイフみたいに鋭く胸に突き刺さって泣きそうになった。
全身に冷水でもかけられてように、すぅーっと冷えていく。それと同時に、思考だけが冷静になっていく。
拓斗の婚約者だという彩愛さんの態度にカッとして、つい口論になってしまった。
私は拓斗の彼女じゃなくて頼まれて今日だけ偽の彼女を演じてただけなのに、あの時の私はそんなことも忘れて、まるで彼女きどりであんなこと……
冷静になると、自分のしたことがどんなに愚かだったか思い知ってしまって、言い訳すらできない。
「もう、今日はここまででいいから。俺はまだ会場に戻らないといけないけど、璃子は先に帰ってて……」
言葉を選ぶように途切れ途切れに言う拓斗の声は、直前の激情にかられたような熱は帯びてなくて、私のことを気づかうように優しかったけれど、視線を合わせようとしない態度が拒絶されているように感じた。だから。
「わかった……」
素直に頷くしかなかった。
反論する余地もなくて、無言で歩き出した拓斗の背中を見送ることも出来ずに、その場に立ち尽くした。
さわさわと、夜風に揺れる葉擦れの音だけが響く。
ぽろっと涙がこぼれて、頬をはらはらと伝い落ちていった。
拓斗の不愉快そうに顰めた表情、激情に揺れた瞳を思い出して、その視線から顔をそむけるようにぎゅっと瞳をつぶった。
彩愛さんに本物の彼女だって証明しなさいって言われて、ついキスしていた。
そのことで、私の胸の奥深くに隠した気持ちを拓斗に見透かされてしまったのかもしれない。
だから、私を拒絶するように視線をそむけて――
ズキンっと胸の奥が痛む。
切なくて、苦しくて、ぎゅっと自分の体をかき抱くように両腕で抱きしめる。
あの時の自分は冷静じゃなかったと思うけど、冷静だったとしてもああするしかなかったと思う。
そうすれば彩愛さんだって彼女の存在を認めるしかないから。
でも、そのせいで拓斗を怒らせてしまった。
私の勝手な判断でしたことだけど、それであんなに怒らせてしまうとは思わなかった。
選んだことを間違いだと言われるなんて……
じゃあ、私はどうすればよかったの――?
偽物の彼女としてすら気持ちを受け入れてもらえないことが悲しかった。
やっぱり、私の気持ちは拓斗にとって迷惑でしかないんだ……
この気持ちはなにがあっても絶対に隠さなきゃいけないんだ……
胸にやるせない思いが渦巻いて、どうしようもなくて。
私はとぼとぼとプールサイドを歩き出した。
※
どこをどうやって歩いたかなんてぜんぜん記憶になくて、ただ、拒絶するような拓斗の表情だけが脳裏に張り付いて、胸をえぐられたように苦しかった。
もうすぐアパートというところで、半分意識を手放してふらふら歩いていたからちょっとした段差に躓いて――
転びそうになった私は、突然、真横から飛び出してきた人影に抱きとめられていた。
「大丈夫か、璃子?」
その声に、緩慢な動きで顔を上げると、そこには心配した表情で私を見下ろす翔の姿があった。
「…………」
私は何も答えることが出来なくて、すぐに俯いた。
翔も大学の近くに一人暮らししてて、最近になって、実は私のアパートをすごく近いことが分かった。それ以来、時々、アパートの近くで待ち伏せされていることがあった。
「璃子、なにかあったのか……?」
探るように深い声で尋ねられて、私は込み上げてくる想いを抑え込むように、そっと翔の胸を押しやって、私の肩を支える翔から離れるようにした。
きっと、いま、ものすごく情けない顔をしてると思う。
いつもは強引で、私の気持ちなんてぜんぜん考えないでぐいぐい引っ張って行くのに、こういう時はちゃんと私の気持ちを気づかってくれる翔の優しいところを知ってしまったから。
こんな時に優しくされたら、甘えたくなってしまう。でも。
「なんでもないから……」
俯いたまま言って、翔の横を歩き出した私の肩を、翔が焦ったように掴む。
「おい、璃子」
「ごめん、今日は一人にして……」
自分でも自分の声が泣きそうに震えているのが分かるくらいだから、翔も私の言葉を信じれないのだろう。でも、翔に甘えたらきっと後悔する。翔を傷つけて、私もきっと傷つくことになる。
「…………っ」
何か言いたそうな翔の視線は感じたけど、翔は何も言わずに、そっと肩を掴んでいた手を離してくれた。
私は泣きそうになるのをぐっとこらえて、翔の横を足早に通り過ぎた。
※
翔の横を足早に通り過ぎ、しばらく歩いた私の足は自然に止まっていた。
ついさっき、翔の優しさに寄りかかりたくなったばかりなのに、私の心を占めるのは拓斗の事ばかりだった。
久しぶりに、学生の頃みたいにくだらないことでじゃれ合うように話して。
艶やかなスーツに身を包んだ拓斗にドキドキして。
たった数時間だけど、拓斗の彼女としてそばにいられることが幸せで。
初めて踊ったダンスは夢心地で。
その全部、ぶち壊してしまった拓斗とキス――
鍵をかけたのに溢れ出してしまった私の気持ちを見透かしたように、私を拒絶した拓斗。
それでも、拓斗のことしか考えられなかった。
ふっと瞳から涙がこぼれ落ちる。
瞬間、強く後ろから抱きしめられて、息を飲んだ。
「心が痛がっている時は、泣いていいんだ。我慢するなよ。泣きたいなら、泣けばいい。涙を見られたくないなら俺が隠してやるし、その涙は俺がぬぐってやる。だから、一人で泣いたりすんな……」
そう言った翔の方が泣きそうに声が掠れていて、私の胸をついた。
なんでもないって、一人にしてって拒絶した私を追いかけてきてくれた翔の優しさに今は甘えてしまいたかった。
「俺の彼女になれよ、な?」
射止めるような真剣な眼差しで見つめられて、私は頷いていた。




