ムラサキツユクサ:友達以上恋人未満
「璃子、俺の彼女になって――」
腕をつかまれて、熱い眼差しに見つめられて、私は胸の奥がきゅっと苦しくなって息が詰まる。
はじめはただ驚きに拓斗を見つめ返すことしかできなくて。
だんだんと言葉が脳に浸透していって、でも意味が理解できなくて、言葉を紡げなくて。
黙り込んでしまった私に、拓斗はちょっと困ったような苦笑を浮かべて、こくんと首を傾げて居心地悪そうに視線を伏せた。
「あーっと、そのつまり、付き合うとかそういうことじゃなくて、彼女のふりをしてほしいってことで……」
ボソボソと呟くように言った拓斗の頬はほんのり赤くなっていて、こんな照れた表情を見るのは初めてで可愛いとか思ってしまうのと同時に、その言葉にやっぱりねってどこかで思ってて肩を落とす。
だって絶対にありえないって思ったもの、拓斗が私を好きになってくれたとか。
そう思うのに傷ついてる自分がいて嫌になる……
「璃子には彼氏がいるって知ってるけど、こんなこと頼めるの璃子しかいなくて」
吐息と共に言葉を吐き出した拓斗はきまり悪そうに前髪をかきあげる。
癖のついた黒髪がさらさらと揺れて、窓から差し込む日差しに透けて輝いてみえる。
彼氏なんていないけど……
心の中で愚痴っぽくこぼしながら、拓斗が勘違いしている原因を思い出す。
あー、もしかして蕨先輩の事かな? ずっと勘違いしたままなんだ。
自分が拓斗には関係ないとか言ってあやふやなままにしていたからいけないんだけど、彼氏がいるって拓斗に誤解されているのはやっぱり悲しい。
でもきっと、ここで彼氏がいないっていっても信じてもらえないだろうことは容易に想像できて、言っても誤解が解けなかった時の切なさはいまの非ではないだろうな。
そう思ったら違うとも言えなくて、否定したい気持ちを飲み込んで、別の言葉を紡ぐ。
「えっと、とにかく事情がわからないと協力もできないし。はじめっから説明してくれる?」
なんだかよく分からないけど、頼りにされているのだけははっきりしていて、拓斗を放っておくことなんてできない。私で力になれるなら助けてあげたい。そう思ってしまう。
拓斗は一度深く息を吐きだすと、ゆっくりと事情を話し出した。
「アパートで火事があった日、家に祖父の代理人という人が来たんだ」
「おじいちゃん……?」
確か、拓斗のお母さんは早くにご両親を亡くされて、拓斗にはおじちゃんもおばあちゃんもいないって聞いてたけど……
私の困惑した表情に気づいて、拓斗は何とも言えない苦笑いで付け加えた。
「父方の祖父がいたんだ……」
その言葉に私は息を飲む。だって、拓斗のお母さんはシングルマザーで結婚せずに拓斗を生んだからお父さんはいない。生まれてから十八年間、会ったことも写真を見たこともないって言っていた父親。その親族のおじいちゃんがいきなり会いに来たっていうことに驚かずにはいられない。まあ、おじいちゃん本人じゃなくて代理人ってことだけど。一体なんの用事で来たのか不思議に思う。
「――それで数人後継者候補がいた中から俺が正式な後継者に選ばれたんだ」
拓斗の住むアパートで火事騒ぎがあった日、拓斗のところに来たおじいちゃんの代理人が言った話、お母さんから聞いたお父さんの話、この一ヵ月あったに出来事をゆっくりと話してくれた。それを私は黙って聞いていた。
最近、拓斗が疲れているようにみえたのは、学校に会社にバイトに追われて忙しかったからなんだって分かったのだけど、ふっと疑問に首を傾げる。
「で、どこで彼女のふりとつながるの?」
肝心な話が見えてこない。
それまでしっかりとした口調で話していた拓斗の頬がかぁーっと赤く染まっていき、視線を伏せたその仕草がなんだか可愛くてドキドキしてしまう。
「だから、その……」
照れて歯切れ悪く言う拓斗は俯いてくしゃくしゃっと前髪をかきあげると、そのままの姿勢で上目づかいに見上げてくる。
「今度、内々に後継者のお披露目パーティーがあるんだ。それがパートナー同伴じゃないといけなくて、祖父が勝手に俺の婚約者を連れてくるとか言いだして……」
もう一度くしゃくしゃっと前髪をかきあげた拓斗は、すっと姿勢を正してまっすぐに見つめてくる。
「冗談じゃないって思った、後継者とか婚約者とか、俺の意志に関係なく話を進めようとして。あの人は全然母さんや父さんの気持ちを分かってないんだ、どうして父さんが母さんを選んだのかも、母さんが橘家と関わろうとしなかったかも」
いつも涼しげな表情で感情を露わにすることのない拓斗の瞳に激情が燃えていて、息が詰まる。
「だから俺はあの人の思い通りにはならないって分からせたくて、つい彼女がいるって言っちゃったんだ。そうしたら、「それは当日が楽しみだ」って笑ったんだ。この上もなく憎たらしい笑みで。当然、私が納得できる人物なんだろうなっていう含みを持った嫌味なんだ」
拓斗はその時のことを思い出したのか、苛立たしげに視線を窓の外に向けた。
事情は分かったけど、分かったからこと私には荷が重いっていうか。
だって、自分が業界大手の橘食品の現社長のお眼鏡にかなうとはとても思えない。買いかぶりすぎだよ。でも。
「ほんと、こんなこと頼めるのは璃子しかいないんだ。璃子は成績もいいし性格もいいし、優しくていい子だし、可愛いし。絶対あの人も文句のつけようがない」
必死に言いつくろってくる拓斗。
そんなふうに褒められたら、悪い気はしない。
でも、私にそんな大役が務まるかっていう不安がぬぐえない。
「彼氏に言いづらかったら俺からもちゃんと説明するしパーティーの日だけでいいんだ、それ以外は璃子には迷惑かけないから、お願い」
そう言って、顔の前で両手を合わせて懇願する拓斗を見て、じくっと胸が痛んだ。目の奥がつんっとして、涙が出そうになる。
やっぱり、蕨先輩とのこと誤解されてるのは嫌だな。
それ以上に、一日だけの彼女なんて私には出来ない。
仮初だとしても、たった一日でも拓斗の彼女になってしまったら、その幸福感に溺れそうになる。
溢れだしてしまった拓斗への想いを拓斗にぶつけてしまいたくなる。
そんなの拓斗が困るだけだって分かってるのに。受けいられらなくて傷つくのは自分だって分かってるのに、そうしたくなってしまう。だから。私は拓斗のお願いを聞けない――




