アサ:運命
布団の上で寝返りを打った俺は鼻先に感じた焦げたような匂いに、がばっと体を起こした。
室内は真っ暗なのに、目覚めたばかりで闇に慣れていない瞳でも室内が見渡せることを疑問に感じる。ふっと視線を窓に向けると、窓とカーテンの隙間からオレンジ色の光が漏れていた。膝立ちのまま窓際ににじり寄り、カーテンと窓を開けて外に顔を出した瞬間、生暖かい風が吹きぬける。その中に、寝てる時も感じた焦げた匂いを感じて、慌てて立ちあがってスリッパにつま先をひっかけてベランダに出た。
下を見下ろすと、パチパチと火のはぜる音と熱をはらんだ風が一階から吹き上げてくる。
一階の角部屋から炎と煙が上がっていた。
俺は瞬時に身をひるがえし、隣の部屋に駆け込む。
「母さん、火事だ! 起きて!」
「――っ!?」
布団から顔を出した母さんが驚いた顔で見上げた。
「一階の熊倉さんの部屋から火が出てる」
母さんはぱさっと布団をめくって立ち上がると、隅に畳んで置いてあったカーディガンを寝巻の上に羽織る。それを見て、俺も一度自分の部屋に戻りパーカーを羽織ってから外に飛び出した。
玄関を出ると、全身に熱風が吹きつける。薄闇の中、外には人影がない。まだ誰も火事に気付いていないのだろう。
風が強いな……
火がどんどん広がりそうだ。
「母さんは、学校に行って公衆電話から百十九番に電話して。たぶん宿直の先生がいるはずだから開けてもらえると思う。俺はアパートの住人に声をかけて回るから」
アパートの裏手、徒歩一分のところに小学校がある。母さんは頷き階段を駆け下り、それに続いて俺も階段を駆け下りて火元の熊倉さんの部屋のドアを勢いよく叩いた。
「熊倉さんっ、いる? 部屋から火が出てるよっ、ねえ、熊倉さん、いるなら、返事してっ」
ドンドンと勢いよく扉を叩きながら、大声で扉の向こうに叫ぶ。
ガタンっという物音が室内からして、熊倉さんの隣の部屋の扉が開く。
「どうしたんだい?」
隣の大木さんが眠そうに顔をしかめながら扉を開けて顔を出した。
「熊倉さんの部屋から火が出てるんです」
「そりゃ、大変だっ!」
大木さんは目を大きく見開き、すぐに外に飛び出してくる。
「おい、熊倉さん、いるんだろう、開けてくれっ! やばいぞ、火事だ!!」
ガチャッと鍵の開く音がすると、大木さんが勢いよくドアノブをひっぱって扉を開けた。
「無事か、熊倉さん!?」
「あっ、ああ……」
開いた扉から室内を覗き込むと、奥の部屋から天井に届きそうな勢いで火が燃えているのが見えて、ゾクリと背筋が震える。パリンッと音を立てて窓ガラスが割れた。
「世良の倅は他の住人に知らせてきなっ」
大木さんに言われ、俺は頷いて二階に駆け上がる。ちらっと視線を階段の下に向ければ、大木さんは一階の通路の中央に取り付けられている消火器を取りに走っている。
アパートは一階、二階それぞれ四部屋あるが、一階の二部屋はいまは空室になっている。知らせるのは二階の残り三部屋だ。
俺はすべての扉を叩いて回り、声をかける。
「火事だ、起きてっ!」
住人が外に避難し、大木さんや熊倉さんが消火栓で初期消火にあたり、消防車が駆けつけてきて火は二階に広がる前におさまった。
サイレンの音に近所の住人が駆けつけ、アパートを遠巻きに眺めていた。
怪我人も出なかったが、火の元の熊倉さんの部屋はほぼ半焼、壁が黒ずみ、アパートの半分が水浸しになっていた。
やじ馬で集まっていた近所の住人が一人二人と引き返していく中、俺と母さんは呆然とアパートを見つめていた。
「穂ちゃん」
母さんの肩をたたいて声をかけてきたのは、璃子のお母さんだった。
「京香ちゃん……」
母さんはなんとも言えない表情で苦笑し、おばさんの方を向く。
二人は年は違うが、俺と璃子が十二年間同じクラスだったから仲がいい。
「大丈夫?」
心配そうに尋ねるおばさんに、母さんが頷いてみせる。
「私達の部屋は平気なんだけど……」
そう言った母さんの言葉尻が弱々しい。
俺が生まれる時から十八年間住んできたアパートだし、ボロアパートってこともあって住人もそんなに入れ替えがなくて、長い近所付き合いをしていた。きっと熊倉さんの心配をしているのだろう。自分達の部屋が無事だったからといっても素直に喜ぶことはできない。
それに築六十年の木造二階建てのアパートだ。大家さんがこまめに手入れしてくれているとはいえ、一階の一部が焼けてしまっては、このまま住むのも難しいかもしれない。
「今日はうちに来て」
「でも……」
「被害はなかったといっても火事のあったアパートで寝るのは不安でしょ? うちは璃子もお兄ちゃんも家を出てて主人と二人だけだから気兼ねしないで、ね?」
母さんは俺を振り仰ぎ、迷うように視線を向ける。俺は安心させるように頷き返す。
「そうしよう、母さん」
「京香ちゃん、本当に甘えてしまっていいのかしら……」
「なに言ってんのよっ!」
勢いよく母さんの背中をたたいたおばさんは、にかりと快活な笑みを浮かべる。
「困った時はお互い様。うちは穂ちゃんと拓斗君か来てくれてもぜんぜん困らないんだから」




