モウセンゴケ:あなたに捧げる恋の歌
『母さんとお父さん――、拓也さんは大学で知り合ったの。学科は違ったけど同じ社会学部で二つ年上の拓也さんとは、高校の先輩の紹介で入ったサークルで知り合って、好きになるまでそんなに時間がかからなかった。
ちょっと癖のついたふわふわの髪の下はいつもにこにこ笑顔で、冗談言ってみんなをいつも笑わせてた。困っている人はほっとけない優しい人で、拓也さんの側はあったかくて居心地がよくて。
母さんの両親は高校入ってすぐの時に交通事故でなくなってね、それからは親戚の家をあちこち行ったわ。大学進学と同時に上京してきて、見知らぬ土地で慣れない一人暮らしして無理しすぎて倒れてしまって、助けてくれたのが拓也さんだった。きっと倒れたのが母さんじゃなくても拓也さんは助けたんだろうなって分かってたけど惹かれてしまった。
拓也さんは大手食品会社の一人息子だし、容姿もかっこよくて性格も優しくて女の子にもてていたから、母さんの片思い、振り向いてもらえないと分かってたし、振り向いてもほしとも思ってなかったの。でも拓也さんも母さんのことを好きでいてくれて付き合い始めて、大学二年の時、妊娠していることが分かった。
拓也さんはすごく喜んでくれて、結婚しようって言ってくれて、嬉しくて泣いてしまった。この人となら、温かい家庭を築いていけるって思った。でもね、拓也さんは橘食品の跡取り息子、ご両親が反対されて……
私は身寄りもない身で、拓也さんには立派な肩書のご令嬢の婚約者がいるから別れるように言われた。
拓也さんは家柄なんて関係なく愛している人と結婚するって言ってくれた。
ご両親が反対するなら、家を出てもいいとまで言ってくれて。
それがどれほどの決意なのか伝わってきたから――
母さんはもう、それでいいと思ったの。
本気で家を捨てて、母さんとお腹の赤ちゃんと三人で貧しくても幸せに暮らそうって言ってくれたのが分かったから、この人の未来を守りたいって思った。
母さんは貧乏に慣れているからいいわ。雨風がしのげて、その日の食費をやっと稼ぐ生活。でも、拓也さんは違う。ずっと恵まれた環境で育ってきた人が、それを手放すのはどれほどの勇気が必要か、苦労を伴うか……
ウサギは草を食べて生きていけるけど、肉食のライオンは草だけでは生きていけないでしょ。
それと一緒で裕福な家庭で育ってきた人に貧乏な生活は辛いだけ。豊かな生活には慣れるけど、貧困な生活に慣れることはないでしょ。
だから、母さんは自分から拓也さんに別れを告げた。拓也さんには橘食品の後を次いで立派な経営者になってほしかった。それが彼の幸せだと思ってた。
母さんは通っていた大学を辞め、住んでいたアパートも引き払ってこのアパートに引っ越してきた。大学の知人にも引っ越し先を内緒にして、拓也さんの前から姿を消した。
会わなければ、母さんのことなんてすぐに忘れると思った。拓也さんには婚約者がいる、その人と幸せになることを願った。でも。
拓也さんは母さんが姿を消した日からずっと探してくれていたの。
そんなことも知らずに、大学の友人とも連絡を絶っていたから、拓也さんが私の居場所を突き止めたのは、お腹に痛みが走って陣痛が始まった時。
真夜中でね、隣の増山さんが身寄りのない母さんのことを気にかけてくれてて、タクシー呼んで病院まで付き添ってくれたの。
拓也さんは母さんがいる病院に向かっている途中で、酒気帯び運転の車が信号を無視して拓也さんの運転する車に突っ込んできて――……』
母さんは泣きながら喋る。
『遠く離れててもどこかで拓也さんは幸せに暮らしてるって思ってたのに、こんな別れ方をするなら拓斗さんの手を自分から離さなければよかったって何度も後悔して。でもね、母さんの手元には拓也さんとの大事な宝物が残った。たった一つだけど、確かな絆。それが拓斗よ。
あなたにお父さんのことを話せなかったのは、拓也さんの死をまだ受け入れられない気持ちがどこかにあったから。でもまさか、そのせいで誤解させていたなんて……
母さんとお父さんは愛し合っていたの。決して捨てられたわけじゃないの。拓也さんはずっと最後まで、母さんと拓斗のこと思っていてくれたのよ――』
※
俺はごろんと布団の上で寝返りを打って、薄暗い天井を見上げた。
母さんが初めて語った父親のこと。
自分が思っていたのとはかけ離れていた事実に、胸の奥がやるせない。
捨てられたんじゃなかったという安堵感と、父親がすでに亡くなっていることへの喪失感。
複雑な気持ちが胸に渦巻いて、眠れそうもなかった。
それに――
どうするか、考えなければならないこともある。
橘家に行くか、どうか――
『拓斗の決めたことに母さんは従うわ。次期後継者として橘家に行くことがどういうことなのか、よく考えてみなさい。橘家に行くということは、いまよりも裕福な暮らしができる、でもその分、重責を担う。それにこのアパートを出るということよ。一度橘家の敷居を跨げば、簡単にはこの場所には戻ってこれない。そうすれば、璃子ちゃんとも会えなくなるかも――』
最後に母さんが言った言葉が小さな棘となってちくちく胸を突く。
母さんはなんで璃子の名前なんか出したのだろうか。
璃子に会えなくなるもなにも、璃子は五月から一人暮らししてこの土地にはもういない。まあ、大学が同じだから時々は顔を会せるけど。
ああ、橘家に行くことになったら、今の薬学部から経営学部とかに編入することになるのかな? そうしたら、学校でも璃子に会えなくなるのか――
それは嫌だな――
そんな思いが生まれて、俺を支配していく。
璃子のこと考えてたら、無性に璃子に会いたくなってしまった。
璃子の顔が見たい。璃子の声が聞きたい。
この前、璃子に会ったのはいつだったか――
瞼を閉じれば、微笑む璃子の姿がはっきりと浮かぶ。
時々しか会えなくても、璃子とのつながりがある。それが完全になくなるのは嫌だな。
そんなことを考えて、俺は自分自身に突っ込みを入れる。
って、どっちにしろ俺の答えはもう出ているけど。
橘家には――……




