ジャーマンアイリス:使者
大学に通い始めて二ヵ月が過ぎた六月のある日、講義とバイトを終えて、電灯のあかりの薄闇の中を家に向かって歩いていたら視界の先に、この辺りの住宅街には明らかに不釣り合いな黒塗りの重厚な車が止まっているのが見えた。
こんなところに停めてどこに用事なのだろうか。
この辺は区画整理もまだすすんでいない入り組んだ住宅街で、通りも車がやっと一台通れるほどの幅しかない狭い通りなのに、あんなとこに停めてたら邪魔だろうな。
そんな他人事のように考えて、電灯の光を受けて反射する車と壁の間を横歩きで通り過ぎて、錆びてあちこち塗装がはがれているアパートの階段を登って、自分の家のドアを開けた。
「ただいま、母さん。遅くなってごめん、夕食まだだったら手伝うよ……」
俺の声はだんだん小さくなっていく。
今日は早番だから母さんはもう帰っているはずで、いつもなら笑顔で出迎えてくれる。その母さんが台所と続き間の和室の入り口に突っ立っていて、俺の声に気づいて振り返った母さんはなんとも言えない緊張した表情をしているから、胸の奥がドクンを嫌な音を立てる。
俺と母さんが住んでいるのは、築六十年の木造二階建てのアパートの一室。玄関入ってすぐ右手、共用通路に面したところに小さな流し台と二口コンロのある三畳の台所、左手にはトイレ、台所の奥には四畳半と六畳の和室の続き間の二Kの間取りの小さな部屋だ。
いちおう、奥のベランダに面した六畳が俺の部屋、四畳半が居間兼母さんの部屋になっている。
その居間に、誰かがいるのが母さん越しに見えて、俺は急く気持ちのまま乱雑に靴を脱ぎ部屋にあがって、居間へと近づく。
俺の部屋へと続く襖が閉じられた狭い空間には、小さな座卓が中央に置かれ、右手の壁側には本棚とテレビ台が置かれ、左側には押入れがある。その狭い空間に、スーツ姿の一人の男が座卓の前に畏まって座っている。
「だれ……?」
俺は視線を男に止めたまま母さんに小声で尋ねる。
母さんが俺を困ったような表情で見上げて口を動かす前に、スーツの男が俺に気づいてわずかに表情を動かし、片膝を立てて立ち上がると俺に近づいてきた。
「あなたが、拓斗様ですね?」
様……!?
俺は様付けで呼ばれたことに内心驚きながらも、表情は動かさずにじぃーっとスーツの男を見据える。
「私はこういうものです。少々込み入った話になりますので、どうぞ、お座りください」
男はほとんど無表情のままスーツの内ポケットから名刺ケースを取り出すと、俺に一枚の名刺を差し出した。
そこには柏原というこの男のものだろう名前と社長秘書という肩書、そして誰もが知っている大手食品会社の名前が書かれていた。
俺は視線だけを母さんに向けるが、母さんは強張った表情のまま、柏原と名乗るスーツの男の向かい側、座卓を挟んだ場所に静かに腰を下ろす。いろいろと聞きたいことはあったけど、とにかく俺も母さんのよこに座ることにする。
「穂様にお会いするのは、あの日以来ですね」
母さんの名を呼んだ柏原は、いままでずっと無表情だったその表情にわずかに愁いを帯びさせて母さんを見、母さんは辛そうな表情で視線を落とす。
母さんとこの男は知り合いみたいだけど、一体どういう知り合いだっていうのだろうか?
一つ分かっても、一つ疑問が増える。
四畳半という狭い空間に漂う、異様な緊張感のようなものに、俺はただ、柏原が話すのを待つしかできない。
「もう、お会いするつもりはありませんと、あの日、申し上げたはずですが……」
今にも泣きそうな、消え入りそうな弱弱しい声で、でも、母さんはしっかりと顔を上げて柏原を見据えて言った。
柏原は正面から母さんの視線を受け、表情は動かない。
「ええ、私どももそのつもりでしたが、あの頃とは少々事情が変わりまして。単刀直入に申し上げます、慎太郎様が拓斗様を次期後継者として橘家にお迎えしたいと申しております。拓斗様が橘家に入り、次期後継者として責務を果たすのであれば、橘家の子として認知し、穂様も橘のお屋敷で暮らすことを許すそうです」
淡々とした口調で話す柏原の言葉が、ゆっくりと俺の脳内に浸透していく。
俺が次期後継者――……?




